都忘れ
12
一方、監獄へ下りたトゥーリは、獄吏に引き渡されて、入獄の手続きだ。
「光物の類、お預かりします。」
「持っていけ。」
佩刀、帯に差していた牛刀を渡した。
「何か紐の類もあったら、お預かりします。」
「何故?」
「お答えする義務はありません。」
「何も持っておらん。」
「帯の類もお渡し願います。」
「着ているものが、はだけるではないか?」
「ご命令ですので。髪を結えている紐もね。」
彼は怪訝な顔をしたが、言われた通り髪を解いた。
「念入りですなあ。何故だね? 教えてくれても、罰は当たらんだろう?」
「ああ……ご乱心と伺っていますから。ご自害のおそれがあるとか。」
乱心・自害という言葉に、彼は激昂した。
「何だと! そんな風に見えるか? そんなマネはせぬ。返せ!」
「ご命令を受けています。返せません。お出になるときにお返しします。」
慌ても怯みもせず淡々と答える獄吏に、彼は更に吼えたてた。
「……したいようにせえ! 俺の牢屋はどこかね? 早く連れて行け。下の方か? 何なら一番下まで下りてやるぞ。特別室か? 備え付けの玩具で遊んでくれるのか?」
「上の方ですよ。ご不満? 特別室行ったところで、あなたに尋ねることはないです。」
「……どんなのかと思ったのに。あのおっさんはどうなった。お前、聞いているか?」
「おっさん? 誰です?」
「宮宰だよ。」
「伺っておりません。」
「嗚呼……何故、あのおっさんにはお咎めが行かないのだろう。あいつも監獄へぶちこんで、舐めくさった態度を叩きのめしてやればいいのに!」
彼は足を踏み鳴らして、大声を出した。獄吏は
「私が決められることではありません。」
と言って、一歩下がった。
「頭に来るな! ん? 何で、あんた引いているの?」
「……ご乱心の発作かと……」
「俺は狂ってなどいない。何度言ったらわかるの?」
「失礼いたしました。」
獄吏は疑わしそうな目で見つめていた。
牢屋に入れられた。着ているものがはだけた。寒くなってくる季節だが、火を入れるところなどない。石の床はすっかり冷えていた。
意気は上がっていたものの、下着姿にざんばら髪の姿では、やはり寒かった。トゥーリは置いてあった麻布に包まり
「寒いんだよ! 何とかせんか!」
と、牢屋の扉を蹴って暴れた。獄吏は冷淡だった。
「監獄なんです。我慢なさって。」
今度は腹が減って
「おら! 獄吏! 腹減ったんだよ! 何か食わせろ。飢え死にさせる気か!」
などと再び暴れた。
勿論聞き届けられるわけがない。
「監獄なんで、食事時間は決まっています。」
と諌められただけだった。
やっと出てきた食事は、冷えていて貧しかった。彼はまた腹を立て怒鳴った。
「獄吏! 飯がまずい! 豚の餌か。犬もまたぐわ! おまけに冷えている。余計寒くなったぞ。」
「ああ、くどいようですけれど、監獄なんです。温かくて手の込んだものは差し上げられません。」
食事が済めば、何もすることが無くなった。彼のような高位の貴族に、懲役が科せられることはない。
入れられたところは、地下牢のようなおどろおどろしさに満ち溢れたところではない。 もちろん拷問室でもない。意外にもこざっぱりした独房だった。ただし、寒くて殺風景で退屈である。
寒いのは堪えられたが、何もしていないと嫌なことばかりが思い浮かんだ。話し相手が欲しかった。
彼は獄吏に懐き始めた。
「獄吏! 暇なんだよ! 何かしゃべれ。」
「え? あなた禁固でしょうに。一人静かに反省なさって。」
「反省などする理由がない。何か面白い話はないのか?」
「何もないです。」
「獄吏、待つのだ。歌でも歌え。」
獄吏は溜息をついて、踵を返した。
「私、音痴なんです。用がないなら行きます。」
「待つのだ。」
「囚人はあなただけではないのです。構っておられません。」
「無礼者! 囚人の中で、俺が一番高位だろう? しっかり応対せんか!」
「あなたね、お客さまではないんです。囚人なんです。あまり呼びつけないようにね。」
呆れて獄吏も去った。
呼んでも来ないつもりだろうと、彼は諦めて寝床に横になった。
途端に、先刻の宮宰とのやり取りが思い浮かび、血の気が上がった。違うことを考えようとしたら、今度はリースルの最期が思い出され、頭に来るやら哀しいやら。
その寝床もじっとり冷たく湿っていて、黴臭い。更に怒りが湧いて来た。
「こらあ! 獄吏! 早く来んか!」
「はあい、何の御用?」
獄吏は側まで来ずに、大声だけ返した。
「ここまで来い! 重要な用件なのだ。」
獄吏が何かぼやきながら現れ、面倒くさそうに問いかけた。
「何ですか? 重要な用件? 小用ですか? 大きい方? 冷えるから腹壊しました? 早いですな。下痢症?」
「俺は下り腹ではない。そんなことではないのだ。さっき牢屋の中は見分した。手水擬きを確認した。」
「そうそう。あなたみたいな高位の貴族には、一応整った牢を用意しますので。納得されたでしょう? で、何ですか?」
「寝床!」
「寝床ありますでしょう? 不満? ちゃんと布団もあるのに?」
「不満だよ。」
「何故?」
「湿っているんだよ! 冷たいし黴臭いし。前の住人の後、干したのか?」
「干すわけがないでしょう? 監獄なんですよ? 忙しいのに。それでいいでしょう?」
当然のことながら、取り合ってもくれない。
「前の住人は、どんな奴だった? 何か臭うんだよ。」
「ああ、やっぱり。長いこといたし。夏場ずっとおったから。汗だくでね。肥えて汗っかきで、体臭もきつかった。」
トゥーリは青くなり、声も力が無くなった。
「嘘……」
「本当ですよ。」
「私、今その上に横になっていたのですが? まずかったでしょうか?」
不安のあまり、知らず知らずのうちに彼の言葉使いは丁寧になっていた。
「別にまずくはないでしょう。中藁に黴が生えている可能性はありますが。」
彼は絶句した。
「虱と蚤も住んでいる可能性があります。しばらく同居ですから、仲良くしてござれ。」
彼は寝床を厭わしげに眺めた。
淡々と答えていた獄吏が、ふと気づいたというように尋ねた。
「つかぬことをお尋ねしますが、あなたは寝るときはどういう格好?」
「今日はこのまま寝る。」
「裸では寝ないように。」
「寒いし、このまま寝る。」
「素肌に直に寝具が触れるとね……前の人、例の皮膚病をお持ちのようだったので、うつるかと……」
彼は唖然と獄吏を見つめた。
「誰だよ、その男! どうにも耐えられん。部屋を替えろ!」
「できません。」
「大事なところに黴が生えたら、お前は責任をとれるのか? 替えろ!」
「早く出所して、大事なところを念入りに洗って、乾かすことですね。」
怒鳴り散らしても、相変わらず淡々と答えるのに、彼は返す言葉も見つからなかった。
「髪の毛の虱はともかく、大事なところにつく虱はしつこいですよ? 剃らねばならん。」
「ええっ! そんな物騒なものまで生息しているのか?」
「前の人がよく股を掻いていました。」
「ひゃあ……どうしよう。」
彼は慌て出した。獄吏は笑いを噛み殺した。
「大丈夫、毛をそって、医者にかかれば治ります。」
「剃ってって……あんた! どうするのさ?」
「また生えてきます。」
「生えてくる間はどうする?」
「待っていらしたらよろしいんです。」
「生えそろうまで、遊びに行けないとかは?」
獄吏は苦笑した。この見目麗しい若い公達が、内面は全くそれにそぐわないことがわかったのだ。
「ああ、それをご心配なさる? 若いですなあ。禁欲ですね。中には“ちくちくして何かいい”というご婦人もいるかも。」
「いるかな?」
「さあ……」
「新しい刺激ってやつか。」
「そうそう……って、あなた、お生まれのわりには品がないですな。行儀のいい貴公子と聞いていたのに……見た目はその通りなのに……」
「それは世を忍ぶ仮の姿。」
真面目くさった顔で言う彼に、獄吏は呆れた。
「仮の姿? あなた、本物のシークですか? 影武者?」
「本物ですわ。影武者が自分から影武者というかね? 残念ながら本物。いや、ご期待通り本物。忠実なるラザックと勇敢なるラディーンのシーク。ラザックシュタールの侯爵でもある。」
「その荒んだお姿で胸を張られてもねえ。」
獄吏はとうとう笑い出した。
「信じられんとでも?」
「今のご様子では、どう見ても、騒々しくて女好きの、品のない兄ちゃんです。」
「何を言う! 俺は大人しいではないか。女好きだと悪いのか? 男好きの方がいいか? そんで何? 品? 何それ? 美味しいの? 兄ちゃん? お姉ちゃんじゃねえよ!」
言うことが外見と乖離しすぎていて、獄吏は笑いが止まらなかった。
「……もう用がないなら去ります。呼んでも来ませんから。」
「待て! 俺はどこで寝ればいい?」
不安そうな顔をするのを見て、本気でそれを心配しているのかと、獄吏はまた大笑いした。
「ご自分でお考えになって。」
「待てって! 獄吏、待て!」
獄吏に愛想をつかされたが、彼は根がしぶとい。一人で騒ぎ続けた。
「獄吏! 変な虫がいる!」
「獄吏! 喉が渇いた! 渇き死にする!」
しかし、獄吏は相手にしない。時々笑い声が聞こえたが、姿を現すどころか返答すらなかった。
トゥーリは寂しさを噛みしめた。
(俺はこの様だと言うのに、宮宰は……)
心の中が、宮宰に対する怒りで一色になった。
すると、獄吏がやってきた。
「侯爵さま、面会の方がお見えです。」
トゥーリは獄吏を横目で睨んだ。
「面会? 誰?」
獄吏は答えず、彼を連れ出した。
トゥーリが小部屋に入るなり、ラザックの老ヤールが獄吏を押しのけ駆け寄った。
「トゥーリさま! なんというお姿……」
そう言ったきり、彼は言葉を失った。
「ああ、お前か。嘆くな。脱がされただけだよ。」
「何故?」
「あなたのご主君、ご乱心だそうです。ご自害のおそれがあると聞いています。」
獄吏が横から口をはさんだ。苦笑いしていた。
老ヤールは目を丸くした。
「乱心! 自害!」
「さっきからすごいですわ。あなたのご主君、騒がしいんですよ。」
獄吏は実に迷惑そうに言った。老ヤールは深い溜息をつき、頭を下げた。
「申し訳ない。お詫びいたす。」
トゥーリは老ヤールの襟首を掴み、怒鳴った。
「謝る必要などない! それに、俺は乱心などしておらん!」
「それはわかっています。」
「自害などせん!」
「でしょうな。」
獄吏は薄ら笑いを浮かべている。
「でしょうな、だと? 自害すると怪しんだくせに。とっとと去らんか。呼んでも来ないくせに、呼ばねば来るんだな!」
彼はつけつけと憎々しげに言った。獄吏は肩を竦めた。
「これですよ、あなたのご主君。お帰りの際にはひと声ください。では失礼。」
老ヤールは出て行く獄吏にお辞儀をした。
「お世話になります。」
「何も世話になどなっておらん!」
老ヤールは吼えたてるトゥーリを宥め、座らせた。
二人は卓を挟んで向かい合った。
「トゥーリさま。今度のことですがね。草原では道理でも、大公さまに話を通していなかったのは、まずかったですよ。」
「帰る際に、草原で変事ありと申し上げたではないか。」
トゥーリはそっぽを向いたまま、面倒くさそうに答えた。
「お許しの宣下が出る前に都を発たれた。そして、その後の騒ぎ……」
「草原の変事は足が速いのだ。まどろっこしいことならん。そして、草原の変事は即衝突に発展するもの。お前はもとより、大公さまも宮廷もわかっているはず。それをああでもない、こうでもないと……。特に宮宰は勘弁ならん。」
トゥーリは苛立ち、卓の底を蹴り上げた。慣れたもので、老ヤールは動じもしない。
「まあまあ……それにしても、十五旗の兵を動かすには、宮廷の方々に申し上げてからにしないと……シークは大公さまの臣下ですから。」
そう言うものの、老ヤールには責めている風はさほどなかった。
「ちょっと大きく動かし過ぎたな。しかし、ラディーンの戦ぶりはすごかった。」
「うちの倅のところは?」
「しっかり働いてくれたよ。満足である。」
老ヤールの顔に微かに嬉しさが滲んだ。
「シークのお喜び、倅ともども恐悦にございます。」
「ついでに、もうひと働き。」
「何ですと?」
「宮宰には我慢がならん。」
老ヤールは慌て出した。目が座っており、冗談とも取れなかったからだ。
「トゥーリさま! 宮宰さまのなさりようには我々とて……」
「それに、宮宰は俺を監視しておった。」
「思いもよらんことをしよります。一体、何処に草を入れていたのやら……。しかし、ここはひとつ。国を混乱させてはなりませんゆえ。」
「じいよ。俺は宮宰を焼き討ちしてやりたいのだ。」
「なりませんぞ。」
「何がならんのか?」
「辛抱なさりませ。」
「父上とて宮宰とやり合ったそうではないか。」
瞳がぎらぎらと光っていた。老ヤールは、ますます冗談ではなさそうだと焦った。
「そんな大きな声で! 内乱の計画と疑われますぞ! 一生監獄暮らしですぞ! それどころか、生きて出られなくなる。人知れず葬り去られるかもしれんのが、わからんのですか?」
「その前に脱獄する。そして、草原へ帰る。」
「何たることを仰る!」
「お前、手引きせよ。」
「情けなや。この老い先短い身に……どんな顔をして、あの世のお父上の前に出ろと仰るのです? トゥーリさまは、監獄で人知れず不名誉なご最期を、あたら若い命を散らしたとはご報告できんわい。トゥーリさま、あの世でご自身でお父上に申し上げてください。」
老ヤールは嘆いて見せたが、トゥーリは
「あの世で父上にお目もじする前に、宮宰に一太刀くれてやる!」
とふてぶてしい顔で言い放った。
老ヤールはトゥーリの顔をじっと見つめた。すると、トゥーリは僅かにすっと視線を逸らした。老ヤールは、瞳の奥に奇妙な色があるのに気づいた。
彼は、トゥーリがまるで本気であるかのような冗談を言うことがあるのを知っていた。そういう時に、こういう目をするのだ。
「まだそんなことを!」
厳しく窘めたが、ずっと気は軽い。
「年寄りの泣き落としか? 引っかからんぞ! 俺は、あの野郎の首を父上の霊前に供えたいのだ。」
老ヤールは、大袈裟に嘆いてみせた。
「だから! 監獄中に響き渡るような大声で、危ないことを仰るのはやめなされ! ……やはり“左利きのアナトゥール”のお名前を頂いたのが、ようなかったのであろうか? 何故、ローラントさまはこんな物騒な名前をおつけになったのだろう……」
「ぶつぶつ言うな! 死にたいのではない! 俺は脱獄して、宮宰を襲うのだ。しみったれた因縁話は聞き飽きた。俺は“左利きのアナトゥール”の生まれ変わりでも何でもないぞ。不名誉な最期をとげるつもりもない!」
老ヤールは眉根を寄せ、困った顔を作ってみせた。こういう彼一流の悪い冗談につきあってやると、いつも喜ぶのだ。そして、言うだけ言ったら気が済んで、大人しくなる。
「内乱を起こして処刑された方の“左利きのアナトゥール”と呼ばれたい?」
「うるさい!」
「いつまでも物騒なことを考えていないで。外見だけでも大人しくして、早く出ることを考えなされ。」
「俺はいつも大人しいぞ。」
トゥーリはまたそっぽを向いて、それ以上は何も言わなかった。
老ヤールは、満足したようだと判断し、安堵した。
「……なら、よろしいです。では、ごめん。」
気が晴れたトゥーリは、獄吏の指示に大人しく従い監房に戻った。あまりの変わりように、獄吏は何が話し合われたのか訝しんだ。
「年寄りを泣かせてはいかんな。」
その応えに獄吏は首を捻ったが、問い質しはしなかった。
トゥーリは老ヤールが持ってきた毛皮を巻いて、壁際の床の上に座り込んだ。
朝方からの気の疲れと、ここしばらくの心身の疲れがどっと押し寄せて、すぐに眠気を感じ始めた。
いくらか眠った後、トゥーリは人の気配を感じて目覚めた。ドアの向こうから
「侯爵さま……」
と女の声が聞こえる。
それは、テュールセンの愉快な若さまの妹、ヴィクトアールだった。
彼女は、父親が息子たちと同じように育てたためか、姫君とは思えない奔放な娘だった。
関係があった。だが、恋愛という性質ではなかった。突然やって来ては喰いついて、すっきりしたと言って帰る娘である。お互いを気楽な友達と見なしていた。
しかし、今の彼は、彼女には関わりたくない気分だった。うんざりして
「都の監獄、いつから夜食を始めた?」
と言うと、ヴィクトアールはいかにも楽しそうに、くすくす笑った。
「あら、お元気ね。ちっとも懲りていないみたい。」
「何も反省することはない。」
彼はむっつりと答えた。
彼女はきゅっと見つめた。
「こんなところで、何の夜食よ? 怪しいわね。」
そして、彼が石床の上に座っているのに気づいて、不思議そうな顔をした。
「……あんた、そんなところで寝るの?」
「寝床に、毛虱などという物騒なものが生息しているらしいんだよ。」
「毛虱! 寝床でやれないじゃない?」
すぐこれだと、彼は溜息をついた。
「あんた、本当に晩の慰安に来たわけ?」
「何なら、その床の上でもいいわよ?」
「膝が擦り剥ける。」
「なら、毛虱もらって、二人で剃りっこする?」
「嫌です。」
「あら、新しい刺激かもよ? ちくちくして何かいい、とかね。」
彼は嫌そうな顔で彼女を眺め、突如浮かんだ疑いについて少し考えた。
(獄吏の言っていた変なご婦人って、この女のことか?)
そんなわけはないのだが、そうかとすら思わせるものが、この娘にはあった。
「俺はそんな特殊な趣味はない。大体寒くて仕方ないのに、脱ぎたくない。」
「毛皮の下は下着姿? そそるわ……その荒んだ姿……。脱がなくていいわよ?」
彼女は、彼を上から下まで舌なめずりするような顔で見ていた。
「そそるかどうか知らんが、寒いんだよ。風邪をひきそう。」
「大丈夫よ。あんたは見かけのわりに体力がある。私、よく知っているわ。」
「どういう体力? ちっとは控えんかね。兄妹揃って色好みだな。」
「あんただって、嫌いじゃないくせに。」
「あんたの足許にも及びません。親父が泣くわ。あんたの行状。」
「父さまは何も言わないわよ?」
彼女は涼しい顔で応える。
「よかったな。ご理解あるお父上で。で、何の用? 牢屋でいかがわしいことはしないよ? もうお帰り。」
皮肉を言っても、彼女はちっとも応える様子もなく
「いかがわしいことって? 知りたいわ。すごく知りたい。……そんな嫌な顔しないで。出たら、いろいろしましょう? そのいかがわしいこと。」
と笑っている。帰ろうとしない。
「もう少し品のあることを仰い、姫君。こんな夜更けに、忍んで与太話をしに来たの? 獄吏はどうした?」
「獄吏には、しばらく休憩してもらっているのよ。あんたに面会人を連れてきたの。」
「さっき、じいが来たよ。まだ面会せねばならんのか。もうたくさんだよ。帰ってもらって。」
「それはだめよ。」
「何で? 誰?」
「アデレードさま。」
彼は言葉が出なかった。驚いたのは勿論、まずいことになった、会いたくないという気持ちが大きい。
ヴィクトアールがにやにやしながら見つめている。彼は感情を抑えて尋ねた。
「何故いらっしゃった?」
「何故って……そりゃ、あんたのことを心配なさったのよ。草原で凄いことをしてきたんだってね。罪人を犬に?」
「だったら?」
「私もちょっと驚いたけれど……そういう危ないところも魅力的……」
彼女は含み笑いをしている。彼は心底うんざりした。
「あんたも犬に喰われてみる?」
「嫌よ。いいことができなくなる。」
付き合いきれないと、彼は抱えた膝に顔を伏せた。
「もういい。公女さまが何? 話すことなど何もない。帰ってもらってくれ。」
「あんたになくても、公女さまにはあるんでしょうね。熱心に頼まれたのよ。初恋の彼の投獄というのは、やはりご心痛よね。劇的よね。」
彼女は実に嬉しそうである。
彼は顔を伏せたまま嫌そうに
「初恋の彼? 何、言っているんだよ。馬鹿馬鹿しい。」
と言った。
「そうじゃない? ままごとの婿さんと嫁さんをしていた。」
「していた?」
「していたわよ。婿さんがあんたで、嫁さんがアデレードさま。赤ん坊役の人形を抱えて、何やらやっていたわよ。」
彼女は、何でも覚えているといった様子で答えた。
彼も忘れたわけではないが、幼いころの仲睦まじい思い出話を聞かされるのは照れくさい。
「くだらんことを覚えているものだな。」
「そのままごとの婿さんの様子を案じて、嫁さんがお出ましよ。その格好はどうかと思うわ。何か羽織って。」
“会わない。”
そう言うのが正解なのだろうが、彼にはその選択ができなかった。
「わかったよ。」
彼が立ち上がると、彼女は上から下まで眺めては
「その姿、いいわ。あんたが出獄したら行くから、その格好で監獄ごっこをしようね。」
と楽しそうに笑った。
「監獄ごっこ?」
彼が厭わしそうに尋ねると、彼女は大口を開けて笑った。
「あんたが囚人で、私が看守。言うことは何でも聞くの。逆でもいいわよ。何なら残酷なる拷問官? まあ、楽しそう! 新しい刺激よ。」
愉快な姫君すぎて、彼は呆れ果て
「くどいようですが、私はそういう趣味はありませんので、お断りします。」
と冷たく淡々と応えた。もちろん通用しないのはわかっている。
「冗談よ。でも、期待しているわ、トゥーリ。」
「別なところへどうぞ。今から公女さまに会うというのに、あんたとおかしな約束をしている場合ではないよ。」
「そうよね。初恋の彼女と会うには、それなりの心の準備が要るわよね。」
次から次へ痛いところを突いてくる娘だと、彼は舌打ちした。
「どうでもいいけど。調子が狂う。あんたは黙って。」
「その格好ではねえ。といっても、おめかしできないし。まあ、男前だから気にしなくても見られるわよ。」
「黙れというのが、わからんのか。」
睨みつけると、彼女は苦笑しながら肩を竦めた。
(兄妹揃って自由だな! 真面目に相手するのも疲れる……)
彼は眉間に皺を寄せ、溜息をついたが
(地下牢に下ろされても、わくわくしているんじゃないか……?)
とすら思え、小さく笑った。
ヴィクトアールも、笑い声を挙げた。
先程の部屋に、アデレードが所在なく座って待っていた。
ヴィクトアールは扉を静かに開けて、覗き込んだ。
「公女さま、侯爵さまをお連れしました。ちょっと見苦しい姿ですけれど。」
「見苦しい?」
「囚人なので、着ているものがちょっと……姫君の前にお出しできるような姿ではないわけです。」
「裸ん坊ではないのでしょう? 構わないわ。」
ヴィクトアールは少しだけ躊躇った。裸ではないが、下着姿を見せるのはどうかと思ったのだ。しかし、止めても来たのだから案じても仕方ないと、背後で待たせていたトゥーリに入るように促した。
「そうですか。侯爵さま、どうぞ。」
入るに当たって、トゥーリは羽織った毛皮の前をぎっちり合わせた。ヴィクトアールはその様子を見て失笑した。
アデレードは、入って来る彼をまじまじと見た。
彼は目を合わせられなかった。挨拶をしようにも、“こんばんは”でもない。
「こんな時間に、こんな珍しいところでお目にかかるとは……」
口ごもると、彼女も視線を外して
「いえ、お座りになって。」
と言って、黙り込んだ。
「姫さま、私は外で待っていますから。」
ヴィクトアールが踵を返した。
「済んだら、呼ぶわ。」
二人は無言で、卓をはさんで座り込むばかりだ。
アデレードは下を向いて爪を弾き、トゥーリはあらぬ方を向いて髪をかき上げてばかりいた。
彼はただただ、早く話を済ませてくれという気持ちだった。
彼女は、会話を拒むような様子の彼に、どう話しかけていいのか迷った。
「あの……」
「何?」
図らずも挑むような口調になり、彼は内心焦った。彼女はびくりと震え俯いた。
「……長い髪……」
「草原の者なんでね。」
「いつも編んでいるから。」
「結えていた紐を取り上げられたんだよ。自害のおそれがあるって。」
彼女は目を丸くした。
「自害!」
「笑ってしまうよ。俺は乱心しているらしい。」
と彼は薄く笑った。
彼女は口許に手を当てて、出しかけた大声を抑えた。
「乱心……」
「そういう風に見える?」
「いいえ。」
「広間で話した内容が、皆の疑惑を招いたみたい。お前だってそう思っただろう? 卒倒したな。」
「気持ち悪かっただけ。想像してしまったの。」
彼女は恥じたように俯いた。
彼は努めて明るく尋ねた。
「想像力が逞しいな。気が狂ったと思った?」
「いいえ……でも、何かがあったと思った。皆は残酷なことをするって、そればかり言うけれど……」
彼女は眉根を寄せ、心配そうな目を向けた。
「俺は残酷なんだろうよ。」
「哀しそうな目をしていたよ? 話していることさえ辛そうだった。」
「面倒だっただけさ。宮宰さまはいろいろ言うし……疲れていた。」
「嘘。哀しそうだった。今だってそう。灰色にくすんで寂しそうな目の色。」
彼女が瞳の奥を覗き込んでいた。彼は慌てて目を逸らし
「暗いから、そう見えるだけだよ。」
と軽く言った。
「何故、目を逸らすの?」
彼女は見つめ続けた。
「別に。そんなに目の奥を覗きこむからだよ……」
その言葉も終わらないうちに、彼女は鋭く
「嘘つき。」
と言った。
「何が嘘つきなの?」
「トゥーリは、前はそうではなかった。何でも話してくれた。それなのに、隠し事をするようになった。今だって、哀しいことがあったのに話してくれない。」
そう言われても、彼女に話せることはない。
「哀しいことなんかないよ? 辱めを受けて腹が立って、戦っただけのこと。」
「嘘つき!」
「本当です。」
「嘘、嘘。私に話せないようなことがあるの? 何でも私には話すと言っていたのに!」
子供のころのつもりでいるのか、別な意味で聞きたいのか、彼には判らなかったが、何とか誤魔化さなくてはならないと思った。
「……この歳になれば、いろいろとあるんだよ。言いにくいようなことも、恥ずかしいことも。」
「何よ? あんた、お母さまに会いたいと、赤ちゃんが生まれたから自分のことは忘れたのかなって、しくしく泣いていたじゃないの。それ以上に恥ずかしいことって何よ?」
あまり言われたくない思い出だった。彼は恍けた。
「随分小さい頃のことを……よく覚えているなあ。俺は忘れていたよ。」
彼女は、その後のもっと言われたくない思い出も持ち出した。
「男の子が泣くから、印象深かったのよ。それで、私に慰められて、“母さまがいなくても、アデルがいるから寂しくない”って言ったの。」
「くそ恥ずかしいことを……」
「ねえ、私には本当のことを話して。恥ずかしいことなんて、私たちの間にはないのよ?」
「話すことなど何もない。」
「嘘つき! 早く言いなさいよ!」
「だから、何もないって!」
「ある。」
「あんた、俺でもないのに、何であるとか判るのさ?」
「判る。それだけは判るもの。」
「あったとしても言わん。」
彼女は勝ち誇ったように責め立てた。
「ほうら、あるんじゃない? 言いなさいよ!」
そんなことを言われても、男としては、弱みをおいそれと開帳できない。
女がらみの話だ。とてもできない。その女と関わることになったわけもまた、絶対に話すわけにはいかない。
しかし、彼女は彼の事情など知らない。察することもできなかった。責めたてる一方である。
トゥーリはますます黙りこくった。
「聞くまで帰らないから!」
「じゃあ、監獄に泊まれよ。」
「あんたの牢に一緒に入って、言うまでいるから!」
「無茶なことを……」
「言いなさいよ。」
「絶対、嫌。」
「……哀しい。トゥーリは変わった。」
「泣き落としか? 通用せんぞ。」
「泣かないもん。」
そう言う端から、彼女の目に涙が溢れてきた。
通用しないと言ったのに、彼は涙を見て慌て出した。
「泣かないって言ったくせに……」
アデレードは黙って、すすり泣いた。彼はヴィクトアールを呼ぼうと腰を浮かせた。
すかさず、彼女は彼の腕を掴み
「早く言わないと。言うまで泣くから。」
と、しゃくりあげながら言った。
彼は小さく笑った。
「自由自在に出したり、引っ込められたりするんだね。」
彼女は涙目で睨み
「あんたが隠し事するなんて、これ以上に哀しいことある?」
と言っては、また泣いた。
勝手にしろと立ち上がれなかった。こんな我がままを言うのが、可愛くて仕方なかった。
彼は苦笑したが、ぽろぽろ流れる涙を見ていると、そんなことが彼女には、本当に哀しいのかと胸が痛んだ。だが、言えない。
「秘密を共有するなど……大人になったら、できないことなんだよ。」
静かに宥めたが、彼女は
「トゥーリとは共有できる。したい。」
と言った。
深い想いがあるわけではないだろうと思ったが、その言葉はトゥーリの心にじくりと刺さった。
「お前には……お前には理解できない話ゆえ……」
「話してみなければ、わからないでしょ?」
「まだ、大人になっていないお前には、できん話だよ。」
「もう大人だもの。」
「大人って……。お前には話せないんだ。」
「丸っきり子供ではないでしょ?」
アデレードは真剣そのものだ。彼は苦笑した。
「どうでも聞くのか?」
「ええ。そうやって勿体ぶると、余計聞かねば帰られないわよ。」
「……聞いたら、おそらく俺を軽蔑するぞ?」
「いいって。軽蔑なんかしない。大丈夫。」
彼は彼女を見つめ、しばらく惑った後、視線を外して話し始めた。
「女がね……いたよ。小さくて、元気がよくて、鈴みたいによく笑って……」
「うん。」
「殺された。」
彼女は驚き、大声を挙げた。
「ええっ! どうして?」
(ほら、やっぱり想像を超える話なんじゃないか。)
彼は早速後悔したが、話し始めたからには全部話すしかない。そこで止めても、白状させられるだけである。どうしても、彼女に泣かれると弱いのだ。
「どうって……理由などない。なぶり殺しにされた。」
「なぶり殺し……」
「ひどかった……顔かたちが変わっていた。足の筋を切られて、耳も片方つぶれて、左腕は肘から下を切り落とされていた。……俺の見ている前で、血まみれで苦悶のうちにこときれた。」
「なんてこと……酷い!」
「それで敵討ちを……」
すると、彼女はぽけっとした質問をした。
「ん? トゥーリが何故敵討ちを?」
「ん? ああ、そこから既にお解りでない?」
「ええ……」
「俺の女だったからだよ……」
「“俺の女”って?」
「つまり……側に置いていたってことだよ。」
「身の回りの世話をするの?」
「身の回りというか……そうだな。」
彼女には解らない表現だっただろうかと彼は危ぶんだが、本当に解っていなかった。
「ん? さっぱり解らない。トゥーリが侍女のために敵討ち?」
彼女は、男女の間にあることにうすうす気づいていたが、彼も生身の男であるとは、思いついていないのだ。
トゥーリは頭を抱えた。
「お前……物分りが悪いな! 察しろよ。」
「トゥーリが悪いんじゃない! 解るように言いなさいよ。」
気を使ってぼかせばぼかすほど、彼女は向きになる。
「あのな、側女ってわかるか? 側室ってわかるか? 宮宰の言葉で言えば、妾だよ。」
「えっ!」
「やっとお解りか……」
「なんで?」
彼女には、彼が側女を置いた理由が解らなかった。
「なんでって……可愛かったんだよ。すっぽり腕の中におさまって、俺のことを好きだと言ってくれて……。お腹に……赤ん坊もいた。」
「赤ちゃん?」
「来年の今頃には、俺は父さまになるはずだったんだよ。女と一緒に死んだけれど。」
「そんなことって……」
次から次に出てくる予想外の話に、アデレードは混乱した。事実に混乱しているだけなのか、裏切られたと混乱しているのか、彼女自身にも判らなかった。
「解っただろう? それをやった奴らを捕まえてみたら、これがまたどうしようもない奴らで。堪忍袋の尾が切れた。そんなわけで、今度の焼き討ちだよ。表向きは、あの居間で話したようになっているけど。真相はそう。私怨だよ、私怨。己の権力を利用して……俺は、ひとりでは、何もできないということだ。」
「シークの奥方をそんな目に遭わせたのなら、仕方ないじゃない。」
彼女には“シークの奥方”という単語が言い難かった。自分がなる約束を子供のころにしていたからだ。
それを言ってやっと、彼に裏切られたように感じて、混乱しているのだと覚った。
「奥方ではない。」
「ああ、トゥーリは結婚していないもんね。」
彼女は少し安堵した。
「側女ってさっき言っただろう? 何度も言わすな。この単語、嫌いなんだよ。」
「どうして結婚しなかったの?」
彼女は彼に、その女は結婚するほど好きではなかったと言って欲しかったが、それは彼の絶対言わないようなことだと知ってもいた。
「ラザックのヤールがうんとは言わん。」
「何故?」
「その女には身分がなかった。夫人の一人とすることさえ無理だった。」
彼女は戸惑った。都では、貴族階級の者は同じ階級の者としか交流しないのだ。
「身分って?」
彼は、察しの悪い彼女に苛立った。
「婢だったからさ。ヤールのところの婢だったんだ。」
彼女は、すぐには言葉を返せず、黙り込んだ。
「婢などに狂ったと思うかもしれん。あんなことをしたと軽蔑されるかもしれん。でも、その娘が愛しかった。妻とは呼べなくとも、側に置いて暮らしたいと思った。」
「哀しいの?」
「いや。もう済んだことだから……」
「でも……涙。」
彼は頬を指で撫でて驚いた。知らず知らずのうちに、涙が零れていた。
「え……何故、今頃……」
彼女は、袖から手巾を取り出して渡した。
「はい……」
「済まんな。こんな姿見せられん。あっち向け。誰にも言うなよ?」
「うん。」
彼は後ろを向き、手巾を目元に当てていた。やがて、小さく語り出した。
「今更涙を流すなんて! どうして止まらないんだろう……。今となっては、まるで夢を見ていたようだ。本当にあの女がいたのかさえも……。遠いことのように思える。」
ひどく苦しげだった。彼女は相槌を打つことさえ忘れ、彼を見つめた。
「薄情なのかな? その女が死んでから、いくらも経っていないというのに、そんな風に思うなんて……」
彼は手巾を握り締めた。その手は震えていた。
彼女は掛ける言葉を探したが見つからず、辛うじて
「でも……泣いているじゃない?」
と応えた。
その言葉はほとんど彼の耳に入らなかった。独白のような言葉が続いた。
「後悔を……あんなことをしても、その女は喜ばないだろう。むしろ哀しんで、俺を責めるだろう。その女が生き返るわけでもない。すべきではなかった。」
彼女は、彼がその女をどれだけ想っていたのかを知らされた気がした。胸が張り裂けそうだった。
「あんなに跡形もなく、何の痕跡もなくなって。あいつらがいたことさえ、信じられないよ。だからかな……まるで悪い夢を見ていたようで……」
彼女は、彼の様子をこっそり探った。見知った彼とは全く違う遠い目をしていた。彼女は目を逸らした。
「あれもこれも、今こうしているのも夢のようだよ。足許がふわふわして……。目覚めたらラザックシュタールの屋敷で、或いは草原の幕屋で何の憂いもなく、いつも通り朝陽を拝みに出かけようとしているのかな? ……何故、何故、あの時、屋敷に置かなかったのだろう? 引きずってでも屋敷に連れていっていれば、こんなことには!」
「そんなに自分を責めないで……」
「くだらないことばかりに皆は拘る。いつもそうだ。いつも皆、くだらないことばかり気にする! 解ったふりをしなければよかった。くだらないことの頂点が俺なら、俺が無くそうとすればよかったのに!」
階級を無くすことなど無理だと彼も知っている。だが、それは彼のつくづく嫌だったことだった。
「それは……」
彼女は言い淀み、泣き出した。
「全部話したぞ。満足か? ……何故、お前まで泣く?」
照れ隠しなのか余裕がなかったのか、彼の口調はぶっきらぼうになっていた。
「だって……」
「俺の情けなさに涙が出るとかか?」
「違う。」
彼は何を言っていいのか迷い、視線を彷徨わせた。そして、握っていた手巾に気づいて、卓の上で皺を伸ばした。
「これ。くしゃくしゃになってしまったが……涙拭け。」
「いい……それトゥーリのだから。」
「俺のものを何故お前が持っている?」
「ずっと前、泣いていたらそれをくれて、“涙拭け”と言った。私が鼻までかんだら、トゥーリは“やる”と言った。」
「お前の鼻水つきか。気持ち悪いな。そんな物、渡すなよ!」
彼はいかにも嫌そうな顔をして、手巾を放り投げた。
それは、彼女のよく知っている意地悪を言う彼だった。彼女は、安堵と喜びを感じている自分が不思議だった。
アデレードは手巾を取り上げ涙を拭いた。
「洗ったわよ。」
「なら大丈夫か。……また、ぼろぼろと。お前は相変わらず、よう泣くな。」
トゥーリは怒ったような顔をして、彼女を眺めている。それも、彼女のよく知った彼だった。
「だって……その女の人が可哀想で。それにも増して、トゥーリも可哀想で。」
「もう済んだことだって言っただろ。死んでしまったんだよ!」
「でも、その人のことを想って、トゥーリは心を痛めて泣いている。」
「今は、その時のことを思い出したからだよ。そのうち思い出すことも間遠になって、やがて何も感じなくなるだろう。」
「あんたはそれを惜しんでいるのね。いつか、何も感じなくなることが哀しいのでしょう?」
彼は言葉に詰まった。図星だった。察しの悪いと思っていた彼女が言うとは、思ってもいなかった。
彼は小さく本音を呟いた。
「……そうなのかな? でも、もうそうなりかけている。思い出して胸が苦しい一方で、もう死んでしまった、生き返ったりはしないと思っている。」
「これからもトゥーリは生きていくんだもの。それが正しいのだと思うわ。」
「生きていくって、辛くて哀しいことだなあ。何でも忘れていく。……陽に透ける金色の髪も、矢車菊みたいな青い瞳も、小さくて白い手も、細い身体も、小さな涼やかな声も、今は思い浮かぶのに……」
彼はまた遠い目をして、溜息をついた。彼女の心もまた疼いた。
「いつか、それも思い出しにくくなるんだろう。このことをずいぶん辛かったと思いながら、日常に流されていくわけだ。」
「トゥーリはいつまでも、今と同じように覚えているはず。」
「そうか?」
「あんたは情が深いから。」
彼は驚いた顔をした。そして、笑い出し
「情が深いか……それって、執念深く、根が暗いの丁寧な表現?」
と言った。
すっかり話は終わったようだと、彼女は思った。
「茶化すわね! 根が暗いの?」
「すごく暗いぞ? 碌なことしか考えつかない。監獄だからかなあ?」
「それはよくないわ。早く出ないと。」
二人は笑い声を挙げた。
しかし、彼はふと表情を曇らせて
「宮宰さまがいろいろ企んでいそうだな。」
と言った。
「宮宰さまね……」
「何かあるのか? どうしている?」
「自宅謹慎中。」
「仕置きが甘いんじゃないか?」
「私に言われてもねえ……。トゥーリも大人しくして、早く出なさいよ。」
「うん。」
「私、そろそろ帰らなくては。こっそり来たから。」
「そりゃあ大冒険。」
アデレードが帰ろうと立ち上がった。小柄な姿が、トゥーリに思い出を呼び起こした。
“お前は本当に小さいね。俺の胸までしかない……”
リースルにそう言っては、アデレードのことを思い出していた。最初だけではなく、事あるごとにそうだった。
今日はアデレードを見て、リースルのことを恋しく思っている。彼は己が薄汚く罪深く思えた。
「少し……似ているから……」
言い訳のように呟いたのが、アデレードに聞こえていた。
「え?」
トゥーリは慌てて否定した。
「いや。何でもない。」
「誰が似ている?」
「何でもないって言っているだろ!」
「何よ? 言いなさいよ!」
「さっきの娘の話だよ!」
きつい調子で言ったが、彼女は怯む様子もなく
「で?」
と睨んだ。
彼は目を伏せ
「似ていたから、側に呼んだ。お前に似ていた……。お前は彼女に似ている……」
とぽつりと呟いたが、すぐに言ったことをひどく後悔した。
「え……?」
「ヴィクトアールが待っている。早く行けよ。」
彼は立ち上がると、彼女の為に扉を開けさせた。
もう何も言うな、出て行けという風だった。
トゥーリは、ヴィクトアールと去るアデレードの後ろ姿を見つめ、溜息をひとつついた。
アデレードは帰り道で、トゥーリのことを思い出していた。
よく知っていたはずの彼が、見知らぬ彼になっていた。信じられないと思った。それ以上に、最後の言葉の意味がどんなに考えても解らなかった。
先を行くヴィクトアールが、男たちと自由に楽しみを分かち合っていることは、彼女も知っていた。トゥーリとも、親しいことは知っている。
質問をする相手として、これ以上の適任者はいないだろうと思った。
「ヴィクトアール、殿方は……」
「え?」
「何と言うか……例えば好きな女の人がいたとして。」
「ええ。」
「それでいて、違う女の人も好きになれるの?」
「男によりますわ。まあ、たいていの男は好きな女がいても、他の女とできる。」
「できるって?」
「失言でしたわ。まあ、有体に言えば、男の欲望とはそういうものだということ。」
彼女は嫌なことだと思ったが、ヴィクトアールが淡々というからには、本当なのだろうと思った。
「似ている女の人を好きになるのは?」
「好みがそれだということでしょうね。」
「一番好きな女の人と似た女の人がいたら?」
「そりゃあ、一番好きな方に行くでしょうね。」
ヴィクトアールの答えは、いつも通り明快だった。
「それが出来ないときは? 似た女の人を愛するの?」
「そういう男もいるでしょうね。でも、そういう男は危ない男ですよ。」
「どうして?」
「いつまで経っても、誰といても満足しないでしょう? 似ているだけなのだから。もっと似ている誰かが現れたらどうです? 次から次へ渡り歩きかねませんわ。この世に同じ人間なんかいないんだから。……叶わぬものを求め続けるその男も辛いんじゃないかしら。」
「そう……」
「女なら誰でもいい男の方がマシかも。」
「そういう人もいるの?」
「多くの男はそれに近いわ。余程嫌でなければ、平気という男たちね。うちの兄たちはそういう男です。普通の男。」
「そうなの……」
ヴィクトアールは、アデレードがしゅんとする様を見て、言い過ぎたかと少し悔やんだ。
「さっき言ったことは訂正します。一途な男の求めている女が自分なら、それは最高に幸せ。でも、確率的にその理想の女にはなる可能性は少ないですわ。だから危険な男と言ったの。」
「ええ……」
「そういう男はいつも遠い目をしている。その時に自分の目の前にいる女など見ていませんわ。目の前の女が自分の想う女でない限りはね。」
ヴィクトアールは謎めいた微笑みを浮かべていた。アデレードは怪訝な顔で
「そういうもの……?」
と尋ねた。ヴィクトアールは頷いた。
「そういうもの。……さあ、お部屋につきましたわ。」
「ヴィクトアールのお兄さまたちは普通の殿方と言ったけれど、トゥーリは?」
ヴィクトアールは、先ほどからの自分の予感が当たっていたと思ったが、それは顔に出さずに
「ラザックシュタールさまか……彼は……どちらかと言うと、危険な男の方かもね。」
と、本当に思っていることを答えた。
「どちらかと言うと?」
「あの人は、誰でも平気な男というわけではないわ。ただ女の方から誘われたら断らない人。女に恥をかかせてはいけないとか、変わったことを思う男ですわ。」
すらすらと答えたが、内心は苦笑しきりであった。
「そうなの?」
アデレードが眉を顰めるのを見て、ヴィクトアールは少しだけトゥーリを弁護しておいた。
「彼は若いから。これからずっとそうなのかはわからない。……もう遅いですわ。お休みなさいませ。」
「お休みなさい、ヴィクトアール。大好き。何でも教えてくれるから。」
アデレードはヴィクトアールに抱きついた。ヴィクトアールは背中を軽く叩くと
「まあ、嬉しい。あまりお教えするわけにはいかないけれど。」
と言って、アデレードを部屋に入れた。
アデレードは、ヴィクトアールの話したこと、トゥーリの話したことを考えた。
誘われたら断らないという話には幻滅した。しかも、どうでもいい女の体面まで考えるのが信じられない。だが、彼らしいとも思った。
少しだけ、ヴィクトアールとも関係があるのではないかと思ったが、彼女の行動形態を思い浮かべると、さほど気にはならなかった。
そうして、草原の自分に似ていたという娘のことを思うと、ちりちりとした苦しさを感じた。
(どんな様子で、トゥーリはその娘と語っていたのだろう……?)
考えても仕方のないことばかりが思い浮かんだ。
“似ていたから側に呼んだ。お前に似ていた。”
“彼はどちらかと言うと、危険な男の方。”
“叶わぬものを求め続けるその男も辛い。”
「トゥーリは、私のことを愛しているということ?」
はっきり文章で呟けば、確実なことのように思えた。
アデレードは、別れ際の、きらきらと深い緑色に輝いていた彼の瞳を思い出した。鼓動が速くなった。
だが、ヴィクトアールが待っていると言った時の彼の様子も思い出した。目を逸らし、ふっと笑った。
揶揄っただけとも思えなかった。しかし、もう諦めきっている印象も受けた。
(諦めた? それとも……?)
答えの出ない問いを繰り返した。