都忘れ
9
やがて、リースルが眠り始めた。苦しそうな浅い息遣いだった。
トゥーリは、このまま死んでしまうのではないかと心配になり、頻りと寝台の上を窺った。
彼は、いつかこんな様子の病人を見たと思った。それが父親の臨終の様子だと思い至ると、身震いが出た。
彼の覚えでは、父親は話もままならぬほどの重傷だった。だが、目の前の小さい女はそうではない。彼はそう自分を宥めた。
しかし、すぐにその考えは揺らいだ。父とリースルでは格段に体力の差がある。その上、彼女の身体は通常の状態ではないのだ。
そっと扉が開いた。ソラヤだった。トゥーリに外へ出てくるように目配せしている。
彼女は暮れ方の庭に誘った。
「眠っているのだな。大丈夫だったか?」
「……あまり近づくと、身を固くしていたよ。怖がっているみたいだった。」
「気の小さい娘だから……。今は落ち着いているようだね。」
彼女は彼の顔をじっと見つめていた。それだけを言いに来たわけではなさそうだ。
「……何か?」
「贖いが……届いたのだ。」
「どこから?」
「南の街道沿いのキリルという部族だそうな。」
「キリルか。」
「意味はわかるね?」
「はい。逃げも隠れもせんとは、いい度胸ですな。」
瞳の奥に峻烈な怒りが燃えている。彼女は初めて見る息子の様子に、宥められるのかと疑ったが、静かに諭した。
「ならんぞ。ヤールは赦した。リースルも生きている。」
彼は、母を睨みつけた。
「生きているだって? 死にかけているの間違いでしょう!」
「予断を許さない状態ではあるが、何とか命は取り留めるように計らっている。」
彼は憎々しげに睨みつけたまま黙っている。彼女は宥め続けた。
「ここはひとつ、度量を見せるのだ。私とて……私とて赦せん。しかし、草原のやり方はそうだと言うのだから……」
彼は静かに
「寛大にね……」
と言った。
彼女は、彼が納得したようだと胸を撫で下ろした。
「腸が煮えくりかえるが……」
「寛大ついでに、贖いを半分返せ。」
彼女は耳を疑い
「何?」
と訊き返した。
すると、厳しい命令が飛んできた。
「金品をもらったところで、女の左腕は繋がらんわ! 返せ! 代わりに、南の方角に向けて、盛大な贖いの火を三日三晩燃やし続ける。早速準備させよ。」
彼女にも、拒否する気持ちも、拒否する理由もない。
「わかった。」
「他に何か?」
「いや。」
「なら、行って。」
母が立ち去るのを見やり、トゥーリは再び部屋へ入った。
贖いが届いたという知らせに、つまりは免赦を求められていることに、突き上げるような怒りを感じた。
夜の帳がおりた。この部屋の窓辺からも、南の夜空が赤々と燃える様子が望めた。女の屈辱を清める贖いの火が、燃えているのだ。
トゥーリは窓辺に立って、赤い夜空を眺めた。怒りは宥められるどころか、贖いの火と同じように燃え上がっていた。
背後の寝台に、もぞもぞと動く気配がした。彼は、リースルが目覚めたのだと思って、寝台の側に寄った。
彼女は忙しなく何度も寝返りを打ち、身を縮めて脂汗を浮かべていた。先程とは明らかに様子が違う。苦しそうだ。
彼は動転し
「どうした?」
と手を伸ばした。
「触らないで!」
彼女は荒々しく彼の手を振り払った。
そして、身を震わせながら向こうに身を返して縮こまった。小さく苦しそうな呻き声が挙がった。みるみるうちに、血の気が失せていく。
彼が医者を呼びに出ようとした時、彼女が叫び声を挙げた。絞り出すような、この小さな娘からは想像もつかないような壮絶な声だった。
彼は言い知れぬ恐怖を感じて立ち止まり、振り返って寝台の上を窺った。
彼女は苦悶の末、上半身を寝台から落としていた。逆さまの視線は何も見ていない。焦点が合わず、正気がついていなかった。乱れた寝衣の裾が膝まで捲れ上がっていた。
その寝衣の腰のあたりから、ゆっくりと鮮血が広がってきた。
「……リースル……」
彼は掠れた小さな声で呼んだ。
彼女はゆっくりと瞬きをして、虚ろな目を彼に向けた。その眼の輝きは弱々しかった。
彼は見ていられないと思ったがが、どうしたわけか目が離せない。彼女のゆっくりとした呼吸音が、やけに大きく聞こえた。
彼は、立ち尽くしたまま、外に緊急を告げた。
「誰か! 医者をここへ……」
すると、リースルが大きな溜息をつくのが聞こえた。
彼はゆっくりと踵を返して、彼女の側に立ち戻り、見下した。
彼女は半眼を開いたまま、大の字になって、顎でごく浅い息をしている。
そぐわない思いが浮かんだ。
(草原で見つかった時も、こんな風だったのだろうか?)
息遣いが、微かなものになってくるのがわかった。
彼はかつて戦場で、死にゆく戦士を同輩がかき抱いて、正気をつけようとしているのを見たことを思い出した。
(俺はなんと情がないのだろう? 愛しんだ女の命が流れ出てしまおうとしているのに、かき抱くこともなく、涙ひとつ流すこともなく見下して……)
医師が、トゥーリを突き飛ばすようにしてリースルの側に寄り、首筋を探った。そして、口元に耳を寄せた。頬を叩きながら
「リースルさま!」
と呼びかけている。
トゥーリは
(愚かなことを……もう虹の橋を渡ったのに……)
などと考えながら見つめた。
「いったい……」
手の施しようのなくなった医師が身を起こし、血まみれの寝衣をそっと捲り上げた。彼は、容体が急変した理由を知った。
医師は片方の眉を吊り上げて、トゥーリの顔を見た。
トゥーリは、リースルが誰にも話さなかった秘密を、今更暴き立てるのかと不愉快だった。
しばらく見つめあった後、医師は目を逸らした。
「ご臨終……お分かりですね?」
彼は無感情に
「わかった。」
と答えた。
「ご寵愛が深かったと伺いました。お察しいたします。」
トゥーリは、医師の言外の思いを察した。言えば手の施しようがあったとでも言いたいのかと思ったが、いつもの毒舌が出てこない。
「大儀。」
ありきたりの文句が精一杯だった。事実は理解したが、実感がどうしても湧かなかった。
やがて、ばたばたと人が入ってきた。ヤールの奥方が壮大な悲鳴をあげて、リースルの骸に縋りついた。その側には、辛そうな顔のヤールがいる。
(何だか……芝居の愁嘆場のようだ。)
立ち尽くしたままのトゥーリに、ソラヤが歩み寄った。
「母さま、リースルの着替えをせねば……」
「ああ……」
「お寝間が汚れているんだ。」
「そうだな……」
「私が近くによると怖がるから。リースルを起こして、手伝ってやって。」
ソラヤは訝しく思い、彼の顔を覗きこんだ。
「もう死んでいる。」
「死んでいる……か。」
「今、医師に告げられたのだろう?」
「ああ、そうだった。何だか、皆で私を謀っているような気になったものだから……」
彼女はますます怪訝な顔になった。
「では、どうしよう? リースルが起きないと、ちょっと着替えは難儀……」
「何を申して……リースルは死んだのだ。わかっているのか?」
「はい。もう動かないし、息もしていない。父さまのときと同じですね。思い出しました。父さまのご葬儀のとき、こっそり父さまの髪を引っ張ってみたのです。ぴくりともしなかった。……リースルもぴくりともしないね。」
彼の言葉は淡々として、無感情だった。
「だから……死んだのだよ?」
「はい。そう何度も繰り返して仰らんでも、わかります。」
「大丈夫か?」
「どうして? おかしいですか?」
「少し……」
「そう……奥方が一番おかしいと思うけど? あんなに揺すったり摩ったりして……。もう戻って来ないのに。」
「奥方は、リースルのことを娘のように思っていたのだ。自然な行いではないか。」
「はあ……おかしいのは私かもしれません。この上なく大事に思っていたのに……取り縋る気にもならないのです。というより……遠いことのような。」
ソラヤは恐ろしげに、トゥーリを黙って見つめた。
「俺、本当にリースルを愛したのだろうか? リースルは俺のことが好きだったのかな……?」
「今さら何を……睦まじかったではないか?」
「どうなんだろう? そう思い込んでいただけかもしれない。」
彼の言葉は淡々として、哀しみの色がなかった。気味が悪く、彼女は背が冷えた。
「動揺しているぞ。ちょっと、そこへ座って……」
「はい……」
彼女は彼の腕を掴み、椅子に座らせた。
立ち尽くしていたヤールが振り返った。憔悴して、一気に老けこんで見えた。
トゥーリはようやく、ヤールとリースルの血縁を実感した。br>
(ヤールは、この娘の父親だった……)
「シーク、娘を引き取りたいのですが……」
「引き取ってどうする?」
「葬儀を営みたいと存じます。」
「お前がか?」
「私共の持ち物ですので……」
予想通りの応えだった。
「俺の外室でもある。」
「確かにお側に差し上げましたが、正式な夫人ではありません。シークが葬儀を営まれる理由はございません。」
そうまで形に拘るのかと苛立たしかったが、これについてはヤールが意を曲げないのも知っていた。
「……好きにしたらいい。」
ヤールは奥方を連れて
「葬儀の次第を……」
などと、もごもご言って出て行った。
医師が沈痛な面持ちのまま、リースルの着衣を整えて退出しようとした。
ソラヤは医師を呼び止めた。
「医師よ。いったい何が起こったのだ? 少し落ち着いていたようであったのに。」
「はあ……宿しておられたお子さまが流れたのです。」
彼女は絶句した。医師は気の毒そうな顔で続けた。
「弱っていらしたから、身体がもたなかった。」
「聞いておらんぞ!」
「ですから、流産というのは普通の女人にとっても……」
「流産って……」
「はあ……ちょっと失礼……」
医師は寝台に戻り、布団をそっとはいで屈みこんだ。そして、振り向くと掌を差し出した。
「ご覧ください。もう形になっている。ご存じなかったので?」
医師の掌に載ったものを見て、ソラヤは顔を背けた。
「知らん。」
彼女らしくもなく、声が震えていた。
その時、部屋の隅からトゥーリが声を掛けた。
「知っていたよ。」
ソラヤは眦を上げ、振り返った。
「お前……何故、それを言わんのか!」
「リースルが黙っていてと……」
「お前らは……」
彼女は何か更に怒鳴ろうとしたが、言葉を飲んで俯いた。
トゥーリは立ち上がり、医師に近寄った。
「……見せて。どれくらいだったのだろう? 小さいね……男かな? 女かな?」
「そこまでは……」
「リースルが女の子と言っていた。そういうの、女は判るのかな? ……だったら、女かも知れんな。どう思う?」
さすがに、医師も気味が悪そうな顔をした。
「答えよ。大食の医術では、どのように考えるのだ?」
「……女が胎の子の性別を認識できるかどうかを記した例は存じません。」
「そうか。興味深いと思わんか? お前……」
ソラヤは我慢できずに、彼を叱りあげた。
「アナトゥール! しっかりせんか! 何を悠長な話をしているのだ!」
「悠長……ですか? 逃げも隠れもせぬようゆえ、少しゆっくりしたところで構わんでしょう?」
「逃げる? 隠れる?」
ソラヤも医師も怪訝な顔をして、彼を見つめた。彼はにっと笑った。
「血の贖いをもらう。」
瞳がらんらんと光っている。二人は慄いた。
「出かけて行って、捕まえるか……? まずは、族長に召喚状を出すか。……素直に差し出すか……?」
「……アナトゥール……本当に大丈夫か?」
ソラヤは、ようやくそれだけ言えた。トゥーリは不思議そうな顔をして
「え? 私、頭の中いたって清明ですよ? 書状を作るので、失礼します。」
と言った。
ソラヤは呆然と後姿を見送った。
紙に向かっているうちに、トゥーリはどんどん激昂した。激しくも一撃で撃ち殺すような文句を並べたくなったが、我慢した。
“キリルの族長には、恙なきことと存ずる。
さて先ごろ、汝の甥他二名が、我が草原で我が縁の女人に狼藉を働いた。今晩、女人は死去した。女人が胎の赤子も母親と共に死去した。
金品が届いたが、贖いにはならない。まずは、神妙に狼藉者三人の召喚に応じよ。拒むことも、僅かに遅延することも赦さぬ。拒むもしくは遅滞あらば、相応の処置を下す。”
書いた後も治まりが付かず、彼は書状を握り潰しかけた、書状など送らず、自らで鬼畜どもに引導を渡してやりたかった。しかし、辛うじて思い留まり、人を呼んで言付けた。
「必ず、極道者三人を連れて参れ。歯向かうようなら、血の蛇に物言わせてでも連れてこい。」
そして、贖いの火がまだ燃えているのに気づいて怒鳴った。
「いつまで燃やしている! 胸糞悪い! 消せ!」
運の悪い近習が慌てて駆け出した。彼は舌打ちし、リースルのいた部屋に向かった。
女たちが、リースルの清めた亡骸を柩に納めようとしていた。
彼女たちはトゥーリに目礼して、すすり泣きながら作業を続けた。彼は近づきがたく思い、離れたところでその様子を見つめた。
誰もが黙々と仕事を続けている。彼は所在無く部屋を見渡した。すると、隅の小卓の上に医師の残していったものがあるのに気づいた。
それは、折りたたまれた亜麻布の上にひっそりと、海老のように丸まっていた。
彼やリースルに似たところどころか、人の形にも似ているところすらない。だが、父親になろうとしていたことを実感させるには十分だった。胸が詰まり、嗚咽を漏れそうだった。
女たちに見られるのは敵わないと、彼はそっと部屋を出た。
そして、足早に自分の部屋に戻ると、櫃の中をかき回して小さな木箱を探し出した。また、衣装箱の中から新しい手巾を取り出して、丁寧に折りたたんで入れた。
再びリースルの部屋に戻ったが、納棺はすっかり終わって、女たちは柩の側で話すでもなく涙にくれていた。小卓の上の赤子に注意を向ける者は、誰もいなかった。
彼は、亜麻布ごと小箱に納めると、女たちの一人に手渡した。
「これをリースルと一緒に。」
「柩は閉じてしまいましたわ。何?」
「赤子だよ。」
「ああ……だからね。」
女たちは納得した様子で頷き合った。
「何が?」
「皆で話していたの。リースルは、どうして言うことを聞かなかったのだろうって。」
「酷い目に遭わされるのに……。ああいう時、草原の女なら抗ったりしないで、男の言うことを聞く。下手したら殺されるでしょう? それより、一時我慢した方がいい。」
彼はあまり同意できなかったが、女たちの哀しい知恵なのだろうと思い
「まあ……そうかな。」
と曖昧な答えを返した。
「そうよ。黙って寝転べば、男は酷いことはしない。」
「そうかもしれんな。」
「リースルはなんで……って。わかっていたはず。でも、そういうこと。赤ん坊がいたから……」
「リースルはシークに操立てをした。」
無用なことをしてはいけないと、窘める相手はもういない。
「わかっているよ。俺にも罪がある。」
「そうは言わない。」
女たちはそれに同意したが
「でも、こんな酷い死に方はない。」
とも言った。
「そうだね。」
彼がぼんやり相槌を返すと、一人の女が立ち上がった。
「ほら、早く行きましょう。」
彼女は皆を急きたてた。皆は黙って従ったが、まだ少女と言っていいような女が
「何故?」
と尋ねた。
「シークは今から……お泣きになるのよ。」
囁き声だったが、トゥーリにも聞こえた。
「泣くなど……まあ、出て行っていいよ。」
女が少女の腕を引き、出て行った。
女たちが出ていくのと入れ違いに、ヤールが入ってきた。
「弔いの用意が済んだようですね。」
「ああ。」
「密葬という形で執り行います。」
「そうか。」
「差し出がましいようですが、シークの服喪は不要かと存じます。」
「わかっている。」
トゥーリは疲れて、もうあれこれ言う気力もなかった。ヤールの方も見ずに、うんうん答えていると、思いもよらないことを言われた。
「棺を運び出しますので、お勝手門をお許しください。」
勝手門とは、所謂裏門である。厨芥を運び出すのもその門だ。葬儀で亡骸を運び出すのは、黒門と呼ばれる門からだった。
「勝手門? 黒門を通せ。」
「奴婢ですので、黒門は通せません。人目につきます。」
そこまで身分にこだわるのかと、彼は腹立たしかった。
「その棺には、俺の子供も納められているのだ。」
「お生まれになってはおりません……」
「それすらも、なかったことにしようと言うのか?」
ヤールは目を逸らし、それには答えずに
「……下手人共は、如何なさるおつもりですか?」
と言った。
トゥーリはじっとヤールを見つめた。ヤールも見つめ返している。二人はお互いに、同じ想いを認めた。
それは、今すぐにでも復讐に乗り出したいということだ。
だが、他部族とは言え貴種である戦士階級の者たちに、弁解の場を設けないわけにはいかない。
トゥーリは溜息をひとつついた。
「草原の法に従い、裁きを行う。」
ヤールはうっそりと頭を垂れ
「はい。それがよろしいかと存じます。」
と小さく答えた。淡々と答えたつもりだったが、彼の声には隠しきれない感情が滲んでいた。
リースルの慎ましい小さな柩が運ばれていく。二人は悄然と見送った。
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