白い結婚
9
すぐにもラザックシュタールへ帰りたい。帰らねばならない。
駿足を誇るラディーンの馬が欲しかったが、連れているのはラザックの氏族だ。彼らは駿足よりも、丈夫で大きな馬体の馬を好む。
トゥーリの乗っているのも、ラザックの馬だった。替えに連れているのもそうだ。丈夫で大きな馬体がアルティクとの闘いには役に立ったが、速く駆けるのにはラディーンの馬に劣った。
しかし、ラディーンのところへ行って、馬を調達している時間はない。
彼はそのまま二頭の軍馬で、ラザックの氏族と別れて南へ駆けた。
乗り替えて南へ南へ。アデレードのいるラザックシュタールを目指して駆けた。
夜闇が下りてきた。二頭の馬はどちらも疲れていた。戦闘に使った馬は特にそうだった。
気が急いたが、トゥーリは小休止を決めた。
広大な草原は、その民にとって庭のようなもの。自分がどの辺りにいるのか、水場がどこにあるのか、どこが夜営に適当かを知っている。
彼は少し東側に歩いた。火を起こし、簡単に食事をした。
すると、その灯りを頼ったのか、誰かの駆けてくる気配がした。
しかし、それは頼ってきたのではなかった。彼を探して寄ってきたのだ。
都からの使者だった。いつも通り三人だ。
「侯爵さま、やっと見つけましたよ。街道はお使いにならないだろうと、草原を渡って来ました。ラザックシュタールへ一直線ですか。」
一の使者がにやにや笑いながら告げた。
事情はすぐに察することができた。彼は唇を噛んだ。
(最後と信じた俺が、馬鹿だったってことね。)
彼は黙って見上げた。
「大公さまのご命令をお伝えします。」
「大公さまとは? ご病床であろう?」
「コンラートさまが代理をしておられます。便宜上、大公さまとお呼びしました。」
畏れ多いことだ。コンラートがそう呼ばせるのだろうかと思い、漠然とした不安を感じた。しかし、彼らに問い質し議論しても仕方がない。
「何?」
「次の行先でございますよ。」
「先日のが最後と聞いたが?」
「おや、前の使者が間違ったことを申したようで。申し訳ないことです。」
薄ら笑いを浮かべている。
「次は東の山の麓の……」
彼は堪らず拒否した。
「断る!」
「大公さまのご命令です。逆らうのですか?」
「充分従ったではないか。“大公さま”は私をどうしたいというのだ?」
「意に沿えないと仰るならば、謀反の疑い。逮捕です。」
「申し開きがしたい。何か書くものを持ってはいまいか?」
「ございません。書く必要もございません。」
使者が腕を取った。彼は振りほどいた。
すると、一の使者が剣を抜いた。
他の二人は驚き、留めようとした。
「それは……」
だが、一の使者は厳しい面を向けただけだった。
殺してもいいと許可されているとは思いたくなかった。脅しなのかも判然としないが、トゥーリも剣を取り上げた。
二人は睨み合った。使者が斬りかかった。交わし、一太刀浴びせた。
残りの二人は震え上がった。
「こんなこと……」
「帰らせてくれ!」
二人は骸とトゥーリを代わる代わる見て、顔を見合わせた。
「頼む! 帰りたいんだ!」
一人の目に憐れみが浮かんだ。彼は同輩を見やった。
見られた方も、苦しそうな表情をしている。
「私たちは……あまりではないかと……思ってはいたのですがね……」
思案顔に、また顔を合わせた。
「“大公さま”には、見つからなかったと言ってくれ。」
長い間があった。一人が言った。
「ラザック。シークはいずこだね?」
草原で、名も知らぬラザックの男と出会ったことにするつもりなのだ。もう一人も
「近くに宿営地があるのかな?」
と言った。
「知らないな。シークは見なかった。宿営地は遠くだ。」
トゥーリは話を合わせ、鞍袋から金貨を取り出し握らせた。
「そうか。元来た道を戻るとしよう。」
二人が戻って行った。
「ありがとう……」
彼は二人の後姿に呟き、火を消し馬に跨った。
しばらく南へ駆けた。
後ろから大声が聞こえた。先ほどの使者二人だった。
「どうした? 帰らせてくれるのだろう?」
使者は視線を彷徨わせた。
「やはり大公さまのお言いつけには背けません。厳しいお人ですからね。」
「厳しい?」
二人はそれには答えなかった。
(まあ……アルティクを呼ぶくらいだから、厳しいというよりは、愚かだな。)
「お戻りいただいて、東の……」
「先程申した。ラザックシュタールへ帰らせてくれ。」
二人はすっと剣を抜いた。
二・三合打ち合い、斬り斃した。トゥーリの顔や髪に血液が飛んだ。
彼は頬を伝う温い血潮を拭った。
(血に濡れてばかりだ……)
苦い溜息が出た。
その後は小まめに馬を乗り替え、休まず駆けた。
ようやくラザックシュタールが見えてきた。
夜だった。大門は閉じている。トゥーリは大声で叫んだ。
「ラザックシュタール! 開門!」
壁の上から慌てた様子の衛士が覗いた。
「ひゃあ、シークのお戻り!」
同輩の衛士がわらわらと現れた。
門を開けた衛兵たちは平伏して
「尊きシークのお戻りにあたり、恐悦にございます!」
と言った。
彼は下馬して、彼らの背を脚で撫でた。
「長かったですな。」
皆は涙ぐんだ。彼も胸が詰まった。
「ラザック、泣いてはならんぞ。」
それだけ言うのが精一杯だった。
屋敷も灯を落としている。開けた宿直も驚き、衛士と同じように挨拶した。
騎乗したまま広間に入った。
出会う宿直は皆嬉し泣きしている。ぞんざいな扱いもできず、トゥーリは挨拶の度に下馬した。
表のざわめきに気づいたヴィーリも現れた。彼も挨拶をしようとする。
「堅苦しい挨拶など要らん。アデレードは?」
「奥方さまは、いつもシークの寝室でお休みになっているようです。お寂しそうで……。俺がセリカの商人から買った猫を差し上げたら、喜んでいらした。」
トゥーリは頷き、馬の腹を蹴った。緞通の敷かれた廊下を駆けさせた。
控えにいた女が驚いていたが、構わずに寝室の重い樫の扉を蹴り開けた。
アデレードが寝台に座っていた。変わった猫を抱いている。身体の色は白っぽいのに、身体の先端は黒い大きな猫だった。
トゥーリの入って来たのに驚いたのか、猫は泣き声を挙げて膝から飛び降りた。
「トゥーリ……」
彼女は猫の行くのを見ていた。
「トゥーリ?」
「……猫の名前をトゥーリにしたの。ヴィーリさまがくださったのよ。寂しいだろうって。」
「そうか。ヴィーリは気遣ってくれたんだね。母上は?」
「お母さまは、私に馬に乗るようにって仰って。右足は利かないけれど馬に乗れたの! お母さまが教えてくださった。」
彼は少し心配になった。
「そうか。そうか……母上は厳しい教え方をしただろう?」
彼女は笑って首を振った。
「全然。フランクの国の婦人の乗り方を教えてくださったわ。」
「そうか。」
彼はようやく馬から下りた。
「アナトゥール!」
出しぬけにそう叫んで、彼女は不自由な足を引き彼の胸に倒れ込んだ。
そして、彼の身体をあちこち触って
「本物なのね! 夢で見たのと違うわ!」
と言い、泣き出した。
「また泣く……」
「嬉しいんだもん!」
彼は彼女をぎゅうっと抱き締めて、深々と口づけをした。
「アナトゥール。あなた、本当にお屋敷の中に馬を入れるのね。猫のトゥーリが怖がって、どこかへ行ってしまったわ。」
「草原で暮らす猫なら、馬に慣れなくっちゃね。」
彼女は泣き笑いになり、頷いた。
(帰ってきた。アデレードの側へ。)
(アナトゥールが帰って来た……)
二人は抱き合き、お互いを確かめ合った。
「あら、アナトゥール。青痣だらけよ? それに髪は……血じゃない! 房になって固まっているわ!」
「……斬ったんだ。もう最後って約束だったのに来た……。斬ってしまった。」
アデレードは眉を顰めた。宮廷のやり方に怒りを感じた。だが、それは今話し合いたいことではない。
彼女は彼の瞼が切れているのに気づき、その傷に触れた。
「痛かったでしょう……」
「いや。」
トゥーリは苦笑し
「少しだけね。その前の方が酷かった。負けると思った。……死ななくてよかった。」
と言い直した。
虚勢を張らない彼が、彼女には嬉しかった。
「お風呂にしなきゃね。このお屋敷にはいつもお風呂があるから、便利ね。」
都の城や貴族の屋敷では、風呂となると桶を寝室なりに運び、厨房からどんどん湯や水を運び込まねばならなかった。
しかし、大食の設計したこの屋敷には、風呂場があった。大食の蒸し風呂である。常時、使うことが可能だった。
蒸気の中で身体を温めると、長かった転戦の疲れも、駆けてきた疲れも取れる気がした。
風呂から出て身体を拭き、新しい寝衣を着ると、帰ってきたのだという実感が更に確かになった。
(此処こそ、アデレードと俺のいる場所。)
そう固く思った。
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