7

 脚の速い五人は、すぐに馬車に追いついた。
 老ヤールの話をすると皆俯いたが、ラディーンのヤールと同じことを言った。
 馬車へ入っても、トゥーリは無口だった。アデレードは無理もないと思い
「泣かないの? 二人だけよ?」
と言った。
 優しさに負けるのが嫌でトゥーリは虚勢を張り、顔を背けた。
「いや。」
 彼女は涙を堪えているのだと思い、それ以上は言わなかった。
 二人は黙って馬車に揺られた。
「“草原の戦士なら泣いてはいけない”と教えられた。」
 それはぽつりと、独り言のようだった。半身を向けて、外を眺めている。
「どんなに豪胆で勇敢な戦士でも、泣きたい時はあると思うわ。」
 彼はふっと笑った。
「じいが聞いたら、余計なことを諭すなと言うだろうよ。」
「そうかしら? 老ヤールはそれほど冷たい人だった?」
「……いや。」
「自分を偽らなくてもいいのよ。」
 彼女の言葉は、図らずも老ヤールの最後の言葉をなぞっていた。
 彼は黙り込んだ。長い沈黙の後、ほっと溜息をついて言った。
「じいは、これからは偽りをせずにと言った。」
「それから?」
「誇り高く生きろとか……」
 言葉が震えて消えた。彼は益々身体を背け、ぽろぽろ涙を落とした。
 彼女は、ぎゅっと握った拳を見つめた。
「そう……」
 それだけ言って、彼の背を撫でた。

 道程は順調に進み、いよいよラザックシュタールが見えてきた。
 まだ枯れた草原だったが、新芽を含んだ草は仄かに緑色で、街はその中に浮かぶ白い泡のようだった。
 アデレードは感嘆した。
「あれが……あれがアナトゥールのラザックシュタール? 本当に“白きラザックシュタール”!」
「そう。城壁が白い石で積んであるんだよ。あれが、ラザックシュタールの秦皮。……やっと見せられた。」
 彼は微笑み、彼女の肩を抱いた。
 彼女は涙を流した。
「また泣く……」
「だって、嬉しいんだもん。」
 泣き笑いする彼女に苦笑した。

 アデレードは街の威容に驚いた。
 厚く高い外壁、その内の壁も厚い。壁には沢山の塔があった。
 トゥーリは、城門を入った広場に馬車を止めた。
 彼女は窓から乗り出し、きょろきょろ見回している。彼は彼女を馬車から援け降ろした。
 その場からは、街の全容がよく見渡せた。
 彼は小高い丘を指さした。
「“塩の山”だよ。岩塩を採っている。聞いたことがあるだろう? 桃色の岩塩。都の塩はほとんどあそこから。」
 川を挟んだ南側は、坂に下って、そこに大きな街が広がっていた。藁屋根の家はほとんどなく、赤い瓦の載った家が多かった。街がそれだけ豊かなのだ。
 明るく優しい冬の陽光が降り注いで、瓦屋根が光っている。
「あの先は……もうやがてマラガだ。」
 彼の指さす南の城壁の更に南の平原に、隣国の街の姿は望めなかったが、閉塞した土地の都とは違って開けた土地だった。
 彼女は目を輝かせた。
「お屋敷は?」
「屋敷はすぐそこ。」

 しばらく走ると、踏み固められた広場の奥に、変わった屋敷が建っていた。
「あれが屋敷だ。」
 アデレードは驚いた。堀もなく、もちろん跳ね橋もない。天守(ダンジョン)もなかった。
 固い城壁は破られないという自信なのだろうが、何よりも、勇猛で忠実な草原の戦士が、最大の防御と考えられているのだと、トゥーリは彼女に説明した。
 そして、城塞から建て増していった都の城と違い、初めから館として建てられているのだと語った。
 想像したよりも、ずっと小ぶりだった。何故か平屋だった。
「この広場は千旗広場と言って、千の氏族のヤールが集まれるって触れ込みなんだけど、まあ……誇張だな。」
と彼は笑った。
 しかし、彼女が館だと思ったのは門だった。その異国風な門をくぐると、本当の屋敷が現れた。
 それも異国的な造作の屋敷だった。やはり、想像より小さかった。
「思ったより、可愛いお屋敷なのね。」 「そりゃあな。昔のシークは、屋敷より草原で暮らしたんだもの。」
 彼女は今更ながらに驚いた。これまでの旅程を天幕で泊まったというのに、人は家屋敷があれば当然そこで暮らすものだろうと考えていたのだ。

 開け放たれた扉の前に、背の高い女と若い男が立っていた。その両脇に、ヤールたちが居並んでいた。
 アデレードは、少し戸惑いながら、馬車を降りた。女の方が、彼女に手を貸した。
「私がシークの母、ソラヤ・レグリア。初めてお目にかかった。よろしく頼む。」
 男のような言葉遣いだったが、手は暖かく、眼差しは柔らかかった。
 ソラヤは側にいた金髪の若者に目配せし、近寄らせた。
「これはシークの弟、ヴィーリと申す。少し身体が不甲斐ないのだが、実直ではある。」
「アデレード・コンスタンシアと申します。これから……」
 アデレードの言葉の途中だというのに、ソラヤはヴィーリの頭を押さえて
「ヴィーリ、ちゃんとご挨拶せんか! シークの奥方なのだぞ。」
と怒鳴った。
(ああ、アナトゥールの言った通りのお母さま。)
 アデレードは笑いを堪えた。
 ヴィーリは頭を深々と下げた。
「あの……奥方さまにはご機嫌麗しく。」
 ぎこちない挨拶だったが、歓迎していない風ではない。緊張しているだけのようだった。
 彼はまた、トゥーリの前に平伏した。
「尊きシークのお帰りを、喜びと共にお迎えいたします。」
 トゥーリは顔を顰め、弟を跨いだ。
「全く堅苦しいな。……面倒くせえ家族なんだよ! ヴィーリはともかく、母上には気をつけろ。母上もね。嫁いびりはやめてくださいよ。」
 トゥーリがソラヤを睨んでいる。ソラヤも睨み返している。
 物騒な雰囲気に思えてアデレードは慌てた、
 ソラヤは溜息をついた。そして笑い声を挙げ、しかしながら、つけつけと言った。
「やっと、お前も一人前に結婚したか。というか、できたか。こんなに可愛い奥方を連れて来るとはな! また、一品の公女など……私が霞むではないか。」
(アナトゥールは……お母さまに似たのね。)
 アデレードは失笑した。
「何を笑う?」
 母子が声を揃えて言っては、はっとお互いを睨んだ。
「アデレードはすぐ泣くんだよ。母上はどうか丁重にしてくださいよ?」
 トゥーリが言うと、すかさずソラヤは
「私はいつも丁重ではないか。」
と答える。
 アデレードは笑いが止まらなかった。ソラヤの言い方は、トゥーリの物言いそのものだった。
 ソラヤは苦笑し
「こんな吹きさらしにはおられんわ。奥方殿、中へお入りなさい。」
と言って、彼女の手を取った。
 トゥーリは表情を曇らせた。母に伝えねばならないことがあるのだ。
「ラザックの……」
 ソラヤは首を振り、彼の言葉を留めた。
「聞いた。あれはお前によう仕えた。お前はあれによくよく感謝せよ。そして、あれの働きに恥じないようにせねばならん。もういい。あれも本懐を遂げたのだ。立派な最期だよ。」
 彼女はしばらく遠くを見つめた。小声で神への祈りを唱えると、アデレードを促し屋敷の中へ入って行った。ごく自然な動きで、歩みを援けていた。
 それを見送って、トゥーリはヴィーリに厳しい顔を向けた。
「後から三騎。都からだろう、ついてきている。」

 一足中に入ると、アデレードは感嘆を漏らした。
 詩にうたわれた緑の大理石のシークの屋敷。修辞ではなく本当だった。高価な緑の大理石を用いて、模様が描かれている。窓にはガラス。都のどんな貴族の屋敷よりも、内部は手の込んだものだった。
 大食の複雑な装飾のある広間の壁に、さまざまな小さい緞通が掛けられていた。
「あの小さな緞通は?」
「あれはヤールどもが集まって、話し合いをするときに座る緞通だよ。それぞれの物だ。シークのもあるぞ。皆で丸くなって相談するのだ。」
「床に座るのですか?」
「ああ。草原の者は、椅子に座るのは落ち着かないらしいな。」
「この母屋の西側には、ヤールどもや客人の為の部屋が並んでおる。我々シークの家族が暮らすのは、東側だ。母屋の南側が、奥方殿とシークのお暮しになる一角になる。」
 アデレードの歩みに合わせて、ソラヤはゆっくりと歩いて説明をした。
 母屋と言っても、広間と幾つかの小部屋しかない。東側の翼は、中庭に向けて開いた大食風のアーチ型の回廊が巡らせてあった。中庭の噴水から滾々と水が噴き出していた。
 庭園の造成技術はもとより、乾燥する土地柄でこれほどの水を用いる豪勢さに、感嘆を禁じ得なかった。
 池に何かの葉が浮いている。大きな葉だった。
「あれは睡蓮という。白や桃色の大きな花が咲く。夏に見られるぞ。美しい。……お暮しになる南の翼を見るか?」
「ええ。是非。」
 ソラヤは終始ぶっきらぼうだったが、嬉しそうだった。それもトゥーリに似ていた。

 南の翼は、更に大食風の意匠が施された美しい造りだった。
 庭には、何頭かの獅子の噴水が並んでいた。花木が配置され、盛りになればどんなに美しいだろうと思われた。その間に孔雀が歩いている。
 ここに来るまでの間、玄関からずっと床に緞通が敷かれていた。アデレードはそのわけを尋ねた。
「馬を入れられるようにだよ。」
 ソラヤは当たり前のように答えた。
 床石・床板に馬が滑らないようにとの配慮なのだ。
 アデレードには、土足で踏むのも躊躇するような品物に見えた。それ以上に、屋敷の中でも馬に乗って歩くというのが信じられない。
 蹄で踏んでいたんだ様子もない。彼女は建てられた頃の習慣で、今はしないのではないかと思った。
「今でもするのですか?」
「ヴィーリやミアイルはしないが、アナトゥールは時々乗り入れる。困ったものだよ。おまけに、裸足で歩き回る。」
 ソラヤはさも嫌そうに、鼻に皺を寄せた。
 アデレードは苦笑したが、屋敷の中でも、都とは全然違う生活習慣なのだと驚いてもいた。

 都の大きく重厚な城と、ラザックシュタールの小ぶりだが開放的な屋敷との違いをひとつひとつ観察していると、トゥーリが現れた。
「ここか。気に入ったのかな?」
「ええ。すごく美しいわ。ここで暮らすのね!」
 彼は微笑んで
「よかった。ここでしばらくお前は留守番だ。母上、くれぐれも意地悪をしないでくださいよ。」
と言った。
「え?」
 アデレードは戸惑ったが、ソラヤは解っていた。
「そうか。早かったな。私の時もあったが……。ローラント殿も、さすがに嫌そうに出られたよ。お前は更にぐずぐずするのかと思ったが、割とさばさばしておるな。」
 アデレードもその意味を思いついた。だが、着いたなり来るとは思っていなかった。
 彼は彼女の当惑を見て、説明をした。
「都から、遣いがぴったりついてきていた。今から出ろとの仰せだ。少し遠い。そっちで召集するよ。」
「そんな……」
「母上みたいな妙齢の、皆に惜しまれるような公女ではないからな、アデレードは。」
 彼は冗談めかして言ってみたが、彼女はしょんぼりして黙りこんだ。
 ソラヤは彼女の肩を抱いた。
「ああ、その通り。ローラント殿は燕のようにすぐに帰ってきた。お前も雀くらいには急いで帰ってこいよ。」
「喪に服しているというのに、人殺しなど……畏れ多いよ。」

 公女を降嫁させた対価だった。
 無償の軍役を求められたのだ。
 それも、この時である。ラザックシュタールに到着するのを、狙いすましていたとしか思えなかった。



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