白い結婚
6
陽が天頂に達しようとしている。
トゥーリと三人の供は、北の方角に騎馬の立てる砂煙を見た。彼らは馬を街道の端に止め、近づいてくるのを待った。
騎馬が近づくにつれ、四人の間に重苦しい空気が流れた。
馬を一頭引き連れ、一心不乱に駆けてくる。向こうも気づいたのだろう、速度を落とした。
その見覚えのありすぎる若いラザックの戦士、老ヤールと同じ氏族の出の近習は、人を背負っていた。
四人の心に重いものがずっしり圧し掛かった。
(やはり遅かったのか……?)
「シーク……」
そう言ったきり近習は目を伏せ、やがて落涙した。
重い気持ちに、哀しみが覆い被さった。
「それで……じいは? お前の背負っている愚かな年寄りは、まだ生きているのか?」
トゥーリは小声で尋ね、ラディーンたちに目配せして下ろすのを助けさせた。
五人は老ヤールを囲んだ。
腹に麻布が巻き付けられている。その右の脇腹辺りが、どす黒い血の色に染まっていた。白い顔に脂汗を滲ませ、大儀そうな息をしている。
ラディーンの戦士は、老ヤールの鳩尾を抑えた。彼は呻き声を上げ、浅い息を吐いた。
もう一人のラディーンがひっそりと声をかけた。
「肝をやられましたな。お辛いでしょう。」
老ヤールは目を閉じたまま、唸りとも応えともつかない声を挙げた。
「王家の青い血を流すのはならんと申した。お前は、シークの命令に背いた最初の宗族のヤールなのか?」
トゥーリが静かに尋ねると、老ヤールは目を開けた。
「さよう。そうなりました。」
「……返り討ちに遭うなど……お前、耄碌し過ぎだぞ。」
トゥーリは声が震えないように努めたが、失敗していた。
老ヤールは微かに笑った。
「年寄り同士でやり合いましたわ……。見かけに寄らず、丈夫な年寄りでした。」
「もう話すな。」
「いいえ。儂はもうすぐ死ぬ。申し上げておかねば……」
老ヤールは声を詰まらせ、唸り声を挙げた。
トゥーリが抱きかかえると、ふうっと長い息をついた。
「これからは……偽りをせず……あなたは愛憎の念が強すぎるから……矯められたと思っても、弾けると始末に負えない。奥方さまと草原の子供たちを大切に。弟の氏族には寛容に。それから……」
顔を顰め、苦しい唸りを挟みながら、長々と話を続けようとする。
「もういい! 何度も聞いた!」
「いいえ、いいえ。あなたは聞き分けが悪いから……何度も申し上げねばならなかった。……でしょう? だから……」
トゥーリは俯き、老ヤールの頬を撫でた。
「ラースロゥ……ラースロゥ、もう止めてくれ。」
小さな囁きだった。
老ヤールは驚いて目を見開いた。そして、顔を歪め
「親しげに。……シークが、乳兄弟でも義兄弟でもない男の名前など……呼んではならんと……。ほら、あなたは何も聞き分けていない……」
と呟いた。
ぽたりと老ヤールの頬にトゥーリの涙が落ちた。
「泣くなと……お教えしたでしょう?」
「ああ、草原の男なら泣いていいのは……ってね。でも、お前だって、草原の男がしてはならないことをしたではないか。」
「また言い返す。屁理屈がよう出てくる口ですな……」
老ヤールの身体からぐったりと力が抜けた。トゥーリは勿論、近習も三人のラディーンも更に近づいて覗き込んだ。
「……儂のお育てした、最も大切な、誰よりも青い血のシーク。……黒い髪の、左利きのアナトゥールさま……永の暇乞いをいたします……。誇り高くお生きなされ……」
老ヤールは握られた手をぎゅっと握り返した。苦痛に歪んでいた顔がゆっくりと緩み、静かな表情に戻った。
目を閉じた老ヤールは、いつにも増して生真面目な顔に見えた。
トゥーリは目許を拭い、老ヤールの頬に落ちた自分の涙を拭った。
「お前は、俺の子供を見るのを楽しみにしていた。男の子がいいんだろう? あと一年だ。一年くらい待てんのか。」
彼は亡骸を抱き締め、そう詰った。
背負ってきた近習が語り出した。
ラディーンの宴もたけなわの頃。老ヤールはこの近習の側にそっと座った。
老ヤールは彼の前に並んだ料理を眺め、彼の空の盃を眺めた。
「飲んだか?」
「いえ。乾杯だけ。側仕えならば、酔うほど飲まない。当然のことです。」
「良い心がけだ。」
「あなたのご薫陶のおかげです。」
老ヤールは満足そうに微笑み頷いている。
彼にはそれだけの会話をしに来たとは思えず、要件を告げられるのを待った。
老ヤールは微笑みを崩さず、じっと彼の目を見つめた。そして
「儂はこれから、シークに最後のご奉公をする。お前は解っているだろう? ……恥ずかしながら、この年寄り一人では心もとないからな。お前も同道せよ。」
と静かに命じた。
彼ははっと息を詰めた。自分が訳を解っている最後の奉公と言われれば、一つしかない。彼は比べ馬の時に従っていたのだ。
さすれば、断るどころか自ら言い出したいようなことである。
彼は厳しい顔でひとつ頷いた。
老ヤールは短く次第を告げ、空の盃に水を注いだ。
「飲み過ぎだ。もう休め。」
近習は盃に覚悟を見つめ、黙って飲み干した。しかし、老ヤールは立ち上がる彼を留めた。
老ヤールは卓の向こう側をずらりと眺めていた。近習は再び盃を取り上げ料理を突いた。
やがて、老ヤールの視線が一点に留まった。眺め、思案している様子だ。
老ヤールは近習を連れて、長い卓の終端、そこに突っ伏して居眠っている老人の側で立ち止まった。酔い潰れているのか、二人が側に来ても眠りこけたままだ。
老人は造りの良い礼装を纏い、美しい大きな玉を掛けている。左耳に大きな耳飾りを下げていた。老ヤールは満足そうに微笑んだ。
「ラディーンの!」
そう言って、老人の身体を揺する。揺すられた方は顔を上げ、ぼんやり見つめている。
「忘れたか、儂を?」
老ヤールは如何にも嬉しそうな顔をしている。近習は知人なのだろうと思い、最後になるかもしれない挨拶をするつもりなのだと傍らで待った。
「見知った仲であったか……?」
「何を言う。お主、最早それほど老いさらばえたとは嘆かわしいぞ! 儂だよ。ラザックの宗族の!」
「……ん? ラザックの宗族……?」
「共に戦場で命を張ったことを忘れたか!」
「……ローラントさまの……その前か……? ツェツィルさまの?」
「まったく! お主も儂ももっと盛んだった時だよ。初陣して間もない頃に知り合ったではないか!」
老人はしばらく考え込んでいたが、額を叩き
「おお! カデルさまの折か……儂が初陣したのはカデルさまの時だ。」
と言った。
「ようやく思い出したか。懐かしいの。儂はあの頃、まだヤールの息子に過ぎなんだ。」
「うんうん。儂もそうであった。お互い歳を取り申した。さっぱり見分けがつかぬ程にな。」
二人の老人は腕を叩き合い、笑った。
「再び会えるとは思わなんだ。長生きはするものだな。」
「さよう。トゥーリさまの婚礼を見るまで長生きできるとは、感慨無量であるよ。」
「まこと。」
老人は酒を注ごうとしたが、老ヤールは盃を手で覆った。
「これ以上は飲めぬ。この歳だ、酒を過ごしては酔いが汚くなるゆえにな。」
老人は笑い、酒壺を揺すった。
「この場で飲まねば何時飲むのだ。」
「いやいや。儂は翌朝早く先触れに出るのでな。ここから南東の街道伝いに、いちいち告げて歩かねばならん。ほれ、この生真面目な若いのが、もう休めと煩いのだよ。」
老ヤールは近習を顎で指した。老人は苦笑した。
「無粋な。」
近習は、老ヤールの意図をすっかりとは理解していなかったが、話を合わせた。
「いえ。草原の戦士ならば当然のこと。酒を過ごしては後れをとります。ご老人もそろそろ引き上げるべきです。」
「固いな!」
「まあ、これくらい周到ならば頼もしいとも言える。我々も、若い者に従う歳になったということよ。」
老ヤールが苦笑すると、老人も笑い立ち上がった。しかし、酔いの所為で足が縺れた。
近習が慌てて支えた。老ヤールの目配せに頷き
「私がお送りいたしましょう。」
と老人を抱えた。老人は天幕までの間にも居眠りをしそうで、ほとんど近習に抱えられて帰った。
「お知り合いですか?」
老ヤールはにっと笑った。
「いや。カデルさまの話をした時に思い出した。前のラディーンのヤールの弟だったとな。」
「ご存知だとばかり。」
「好都合だったな。」
「はい。」
「明日の朝、あの年寄りは、我々が明け方に発ったと皆に伝えるだろう。」
「しかし……勘づかれるのでは?」
「勘づいたとしても、翌朝だ。早く終わらせようではないか。」
二人はこっそり馬を引き街道まで出ると、そこからは全力で疾走させた。
アドラーシ家の領地の館は、その村々から離れた森の中にあった。さほど大きくない屋敷だ。
二人は歩哨のいる位置を確かめ、厨房から忍び込んだ。
戸外に比べて、内部の護衛は少なかった。忍び忍び、護衛を斬り殺した。
居室の扉をひとつひとつを細く開け、人の気配を窺う。
すると、誰かの足音が聞こえた。二人は柱に身を伏せた。向こうから執事が現れ、一室に入っていく。
老ヤールは近習に目配せした。その部屋に入ると、驚いた執事が奥の扉に向かって
「カーロイさま!」
と叫んだ。
老ヤールは執事に一太刀浴びせた。
奥の扉から
「何事か?」
と問いかけがあった。
二人は目を合わせ、呼吸を整えた。
だが、開けるまでもなく王子が顔を出した。
倒れている執事に驚く王子を、二人は寝室に押し戻した。
「カーロイさま、ラザックの前のヤールにございます。暇乞いに参りました。」
そう囁いて、老ヤールは王子の胸を突いた。
近習はしゃがみこみ、王子の死んでいるのを確認した。そして、牛刀を抜き、その耳を掴んだ。
「愚か者! 戦場でもないこんな所で、そのような下賤の者の耳など落とすな! 第一、王朝の男が耳飾りなどしておらんわ!」
老ヤールは怒鳴り、ふと振り向いた。そこへ倒れていたはずの執事が身体ごとぶつかってきた。
近習が今度こそ確かに執事を斬り殺した。
近習は話し終え
「私があの時、耳などを……」
と声を詰まらせた。
「そうか……。お前のせいではないだろうよ。」
近習は身を伏せ慟哭した。そして、居住まいを正すと、すっと牛刀を抜き、首元に刃を向けた。
「殉死します。」
「止めろ。お前までシークの命令に背くのか? ならん。“金髪のアナトゥール”の供をした三人のラディーンは、殉死などせず、ご最期を報告したぞ。お前も倣え。」
近習は手を下ろし、俯いて涙を流した。
「そうして、お前は俺の側にいてくれ。……ラースロゥの代わりに。」
「はい……」
「ご遺骸は?」
ラディーンの戦士が尋ねた。トゥーリはしばらく考えて、老ヤールの白くなった髪を切り落とした。
「髪だけになるが……」
「はい……」
「骸は……じいは、鷹が天に連れて行ってくれる。」
言い終わると、トゥーリは号泣した。
老ヤールに最後の別れを告げ、五人はラディーンの村に戻った。
ラディーンのヤールは、戦士たちに鳥葬を執り行うように命じた。
皆は老ヤールの為に犠牲をし、詠唱を唱えた。
「ご老体はいいご最期ですよ。しっかり仕事を成し遂げてから、逝かれたのです。」
ヤールはそう言って涙ぐんだ。
誰しもがそう思わねばいられなかった。
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