白い結婚
5
都を出て最初の夜は、ラディーンの村に泊まることになる。村といっても、固定住居の集まったものではない。天幕が多少の距離を取って集まった、草原ならではの集落である。季節が変われば移動し、隣に住む顔ぶれもいくらか変わる。
とは言え、ラディーンの宗族の村は大きなものであった。中に入れば、何処を見渡しても誰かの天幕が目に入る。習慣通り、シークの幕屋も設えられている。
トゥーリは、アデレードを自分の天幕に誘った。休憩は挟んで進んだが、これほど長い間を馬車に揺られたことは、彼女には無いのだ。身体を伸ばして寛がなければならない。
彼女は、天幕の白い外皮にすら関心を寄せ、ずらりと撫で、天辺まで見上げた。骨材に皮を括り付けている縄、張り綱さえも彼女には珍しく、引っ張ってみた。
「それは訪ねてきた時にすることだ。部屋の扉を小突くのと同じことだよ。」
「部屋? 館の扉ではないの? ひとつひとつが家なのでしょう?」
「都で言う家とは違うな。敷居が低いんだよ。あちらでは、勝手に入れば咎められるだろう? 特に留守なら。」
「勿論。」
「草原では、家畜を放しに出る前、飲み物とちょっとした食い物を置いておくんだ。旅人や客人の為に。」
「留守なのでしょう?」
「ああ。もてなしの一種だよ。」
彼女はその習慣の大らかさが信じられなかった。
従っていたラディーンのヤールが、更なる説明を加えた。
「そして、帰ってきて食い物が無くなっていれば、誰かが訪ねてきたと知り、まろうどをもてなしたのだと喜ぶものなのです。」
「盗みを働く人はいないの?」
「盗まれて困るものは……家畜だけですよ! 家畜が一番の財産なのです。」
「特に、馬を盗んだ奴は捕まえて即処刑だから、間違っても盗むなよ。」
トゥーリもヤールも笑っていた。彼女も笑いかけたが、苦い事柄を思い出した。
「ごめんなさい……サーディフを……」
「え?」
二人は突然出て来た馬の名前に戸惑った。盗みにあったわけでもなく、彼女が謝る理由もないと思ったのだ。
「それほど大切な馬、サーディフはその中でも別格だっただろうに、私は逃がしてしまったの。」
ヤールは苦笑した。
「ああ、あいつは風の中に帰っただけ。そして、代わりに奥方さまを送ってくれた。代わりというのは失礼ですが……むしろ、もっとかけがえの無いものです。」
彼女はそれでも申し訳ないことだと思ったが、黙って頷いた。ヤールは優しい目を向け頷き返した。
天幕の中は温められていた。中央に小さな竈が設えてあり、鍋に湯が沸いていた。竈の周りの四本の柱が天井を支えている。
内側の壁には布や織物が掛けられていた。布の刺繍や織物は、鮮やかな糸を使った幾何学文様だ。
何枚も緞通が敷かれた床の上に、薄い小さな座布団とクッションが沢山置かれている。
櫃がいくつか、大きめの長椅子に似た家具。小さな祭壇。大小の水瓶。調理の道具と食器が戸口付近の壁に掛けられていた。余計な調度は無い。
アデレードはクッションを手に取った。柔らかな絹張りで、抱き締め頬ずりしたくなる艶があった。
トゥーリは彼女を長椅子に座らせて、自分は床の上に座った。
「あなたも座ったら?」
「いや。幕屋ではこうする方が落ち着くんだ。……お前の座っているそれ、寝台なんだよ!」
彼女は驚いた。長椅子としては大きすぎると思っていたが、寝台としては狭すぎるのだ。
都で使っていた寝台は、柱で囲われ天蓋のある大きな物だった。五人でも横たわれる。天蓋から下がる緞帳を閉じれば、部屋にも似た空間になる。城でもトゥーリの屋敷でもそうだった。
しかし、身体の下の物は二人が辛うじて横たわれるくらいだ。
「ラザックシュタールに着くまでは、こういうところで寝る。」
彼は特に気にするでもない風で言う。彼女も嫌ではなかったが、身をぴったり寄せ合って寝るのだと思うと、顔が熱くなった。
彼女は視線を彷徨わせ、天井の煙穴を見上げて
「星が見えて、きっと素敵よね! 楽しみ。」
と言った。
「ああ、よく見えるよ。それに、月の満ちている時は明るいんだ。……今日はそうでもないかなあ。」
彼女の照れ隠しに彼は気づかない様子で、水差しから馬乳酒を注いでいた。
夜が近づくにつれ、冷たく乾いた風が強まった。気温が下がり始めてもいる。
夕食はヤールの幕屋に招かれていた。
アデレードは風の冷たさに震え、吹かれる髪を抑えた。
幕屋の前には緞帳が張られていた。煽られないように杭にしっかり括りつけられていたが、時折風を孕んで大きな音を立てた。
彼女は大きな音に驚いたが、トゥーリも人々も気にすることもない。
緞帳の内にも篝火が焚かれ、長い卓が設えられていた。沢山の料理が並んでいたが、女たちがもっと料理を並べようと、忙しく立ち歩いていた。
何人かの老人が既に卓について、酒を飲み始めている。
二人は歓声を浴び、席に着いた。
乾杯の為に、酒が回された。皆は立ち上がり、静かに盃を上げた。
トゥーリは盃の酒を天に弾いた。
「風の神に。」
そして、地面に一滴垂らした。
「大地の神に。」
ロングホーンにはもう失われた儀式だった。アデレードはこの後に短い演説をするのだと予想したし、都の宴ではそうだったが、何もなく乾杯し宴が始まった。
中央に、こんがり焼き色のついた大きな牛肉の塊があった。牛骨の羹。腸詰。縄飾りを載せた丸いパンと、甘い乾果。小麦の皮で巻いた挽肉。雉の串もの。根菜と香草の載せられた麺。乳酪。伝統的なものが並んでいた。
冬だというのに、苦労して手に入れたのだろう、生の青菜と果物があった。
料理は大皿に盛られ、それぞれが好きなだけ取る形式である。
彼の前にだけ小さな蓋付きの茶碗があった。だが、一向に手を付けないばかりか、蓋も開けない。彼女は不思議に思い尋ねた。
「それは食べないの?」
彼はにやりと笑った。
「これは……お前、開けない方がいいぞ。」
そう言いながらも、彼は彼女の前に茶碗を置いた。彼女は蓋を開けたが、慌てて閉じた。
皆、大笑いした。
彼女は鼻に皺を寄せ
「……牛の目じゃない!」
と怒鳴った。
大切な客をもてなす為に家畜を一頭潰したという証に、その家畜の目を主客の前に出すのだ。
皆はまだ笑っている。彼女も苦笑した。
宮廷の贅沢な食に慣れた彼女には、物足りないかと皆は心配していた。だが、それは杞憂だった。
彼女は都にはない料理を次々摘んでは驚き、時に喜んで取り、時にそっと断った。
草原の食卓では、ヤールも奴婢も隔たりが無い。それは、貧しく厳しい生活をしていた頃の名残でもある。席順こそあるものの、一緒の場で食事をし、同じ料理を分け合う習慣である。
皆が二人に酒を注ぎに近づく。戦士から牧人、奴婢もそうする。
彼女は戸惑いはあったものの、受け入れられた。
「皆でわいわいするのは楽しいわ。」
と笑っては、ラディーンを喜ばせた。
宴が進み、皆が親しんだ頃、ヤールがアデレードの脚の話を始めた。トゥーリは抑えたが、一切を皆に話した。
「そういうわけで、奥方さまの脚、シークの肩。お二人とも、狼の印をつけられたというわけだ。天空を渡る風の神の妻、大地の神のお遣いは狼ですからなあ……。実に意義深い。草原の神の思召す縁組ということですな。」
ヤールは神妙な顔でそう結んだ。聞いていた皆から嘆息が漏れた。
「なるほど……。来るべくして来られたんですなあ。」
誰かが感心したように言う。
彼女の隣にいたラディーンの娘が肩を抱いて、覗き込んだ。
日頃の寒さに晒される所為か、娘の頬は赤く荒れていた。抜けるような空色の瞳が心配そうに見つめていた。
脚の話に気を悪くしたのではないかと案じているのだ。首を小さく振り笑いかけると、娘は輝くような白い歯を見せた。
誰の顔にも嘘偽りは感じられない。受け入れられているのだと、アデレードは感じた。
草原の者の振舞いは、身の上に応じた慎みがない、距離感が近すぎると言えなくもない。実際、ロングホーンの者はそう言って嫌う。
荒々しい風土と剽悍な気性の人々。欲望を隠そうともせず、惨い出来事も都より多い。理想郷ではないことは解っている。
(草原は風の知ろし食す所……乾いた風が全ての憂いを吹き飛ばしてくれる。石造りの都の堅苦しさは少しもない。)
さほど心配もしていなかったが、早くも草原が大好きになった。
トゥーリが心配そうに窺っているのに気づいき、彼女は笑いかけた。それが取り繕いの笑みでないことを、彼は直ぐに理解した。
夜が更け、子供たちが去った。大人たちは酔いがまわり、どんどん遠慮が無くなった。二人を囃し立て、揶揄う。
最低限の礼儀はあったが、宮廷ではまず無いような言葉が飛び交った。アデレードは多少辟易し、苦笑した。
「ヤールも皆も、シークに遠慮なく色々言うのね。」
聞いていた者は笑い声を挙げた。誰かが
「そりゃそうですよ。ご命令になる前なら、言いたいことは言う。奥方さまも、親父さまに言うでしょう? 同じこと。」
と当たり前のように言った。
彼女も父の大公と話はするが、こうまであからさまに話すことはなかった。都とは違うのだと知らされた。
その言葉はまた、草原の者はシークには絶対服従なのだろうと思っていた彼女の意識をも崩した。
「トゥーリさまは、親父ってよりは……“小さき親父”と言いましょうかねえ……」
「“小さいシーク”!」
皆が笑いさざめいた。
「これだからさ! 権威もへったくれもない。特に、ラディーンはいつもこうなんだよ。」
トゥーリはそう言って困った顔を彼女に向けた。だが、彼の瞳の奥には楽しそうな色があった。
「嫌なら、どんなに小さなことでも命令することね。偉そうにふんぞり返りながらね!」
彼女の揶揄いに、皆はどっと笑った。
歌ったり踊ったりの賑わしい宴は夜中にやっと開けた。
満天にさんざめく冴えた星々。幕屋の天窓からも、想像通りに星の光が降り注いだ。
狭い寝台を言い訳に、二人はいつもより身体を寄せて横たわった。
ラディーンの戦士が歌う優しい恋の歌が聞こえた。
トゥーリは胸に抱き込んだアデレードの頭に顎をつけた。彼女も益々胸にすり寄った。
「寒い?」
「少しね。」
「天幕では……」
“温かいからと裸で寝るものだ。”
彼はそう教えかけて止めた。
「もっと寄るといい……と言っても、これ以上は無理だね。」
彼はそう言ってくすりと笑った。彼女も笑い、彼の背を抱き締めた。
しばらく二人は、お互いの身体を揺すり合って戯れた。
(もう……我慢ができない……)
彼は腰を撫でた。
彼女ははっとして見つめた。
彼は身を起こし、彼女の身体を寝台に押し付けた。繰り返す口づけが首筋から胸元に移った。
彼女は彼の身体の重みを初めて感じた。身動きができなかった。だが、動けないのは重かった所為ではなかった。
彼は襟に手を掛け、様子を窺った。
視線が絡んだ。
(青い瞳。俺だけを映して……)
(……あれをするの? でも……)
彼女は自分の身体の状態を思い惑った。僅かに表情が揺れた。
彼は思いを察した。ふっと笑って彼女の襟を整え、彼女の横へ寝転んだ。
「愛している。」
そう呟いて、彼女を抱き寄せた。
彼女は少しだけ安堵したが、少しだけ残念だった。
「私も大好き。」
いつものように素直に身体を寄せると、彼は照れくさそうに微笑んだが少しだけ腰を引いた。
翌朝、ラディーンのヤールの大声の挨拶が聞こえた。二人は苦笑し、戸口で応じた。
だが、もう一人来るべきヤールがいない。
「老ヤールはどうした?」
「ご老体はラザックの土地へ先触れに参りました。」
特段おかしなことではないが、今まで老ヤール自らがすることはなかった。
「何時出た?」
「明け方でしょうか……。私の叔父に告げて出られた。ほれ、ご老体の氏族の若いの、あの近習を連れて出たそうですよ。」
ヤールにも告げなかったのだ。こっそり出かけたような印象がある。トゥーリは胸騒ぎを覚えた。
「お前の叔父を連れて参れ。」
ヤールは怪訝な顔をしたが、問い返さなかった。
すぐに、髪の真っ白になった枯れ木のような老人が連れられてきた。老人はゆっくりと跪き
「尊きシークにご挨拶申し上げます。」
と言って平伏した。
トゥーリは気が急いていたが、ラディーンの老戦士に辱めを与えてはいけない。その挨拶を型通り受けた。
「老ヤールはいずこへ?」
老人は驚き、ヤールを叱りつけた。
「は? お伝えしなかったのか? 小倅の頃からそそっかしかったが……」
「叔父貴! 申し上げたわ!」
老人の頭はまだしっかりしているようだが、まどろっこしい応えだった。
「ん? では、何と仰る? ラザックの土地とは申し上げましたかの? そちらへ向かわれた。」
「どちらの方向に?」
「ラザックの土地ですよ。」
「叔父貴。シークにそれは申し上げたと言ったろ!」
「だから! どちらの方角?」
のんびりした老人の話は、やっと望む答えを与えた。
「南東ですな。」
不審なことではない。街道はこれから南東に回って、ラザックシュタールへ伸びている。
だが、街道は一直線ではない。途中で分かれて、北へ向かう古い道があるのだ。
トゥーリは、ヤールとアデレードの顔を代わる代わる見た。二人ともきょとんとしている。老人は何の疑問もないようで、トゥーリの天幕の戸口に座り込んで眺めている。
「アデレードはこのままラザックシュタールへ向かえ。ラディーンは馬車の護衛をせよ。俺は老ヤールを追う。」
「かしこまりました。でも、何故?」
「愚か者! 解らんのか? じいは復讐に行ったのだ! 捨ておけばいいのに……つまらんことを。止めねばならん!」
トゥーリは、さっさと鞍を置き
「三騎、来い!」
と叫ぶと、駆け去った。
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