白い結婚
4
二人の婚礼から日も置かずして、大公の位がコンラートに譲られることが決まった。
即位の儀式をする前だというのに、コンラートの名でトゥーリに宣旨が下された。文書を持った使いが来たのは、明け方と言っていい時間だった。
“ラザックシュタールの侯爵、アナトゥール・ローラントセン。国入り許す。本状落掌の翌日には発つこと。尚、参内免じる。”
草原へ出発するのは三月の春隣の祭りの日が慣例であるが、今はまだ二月の内である。
しかも、今日の朝議に登城しなくてもよいと書かれている。挨拶も何も要らないと言っているのだ。
(会いたくもないということか。)
トゥーリは溜息をついた。今のところコンラートは、こちらが歩み寄ることさえも拒むつもりなのだ。
側でアデレードが心配そうに見ている。彼が黙って書状を示すと、彼女は項垂れた。
元々あまり仲の良い姉弟ではない。彼女が都を離れれば、益々疎遠になるだろう。彼はそれを案じた。
「草原へ行ってしまえば、お前はそうそう都へ来られないかもしれん。会っておくか?」
「いいえ。」
彼女は彼の言葉に被せるように即答した。
「別れの挨拶はしたくないのか? ……大公さまにだけでもした方がいい。」
彼の言いたいことは理解できた。
(お別れを告げたら、私は泣いてしまうから……そうしたら、お父さまは……)
少し考えて、彼女は覚悟を決めた。
「いいの。コンラートは会いたくないって書いてあるじゃない。」
「言いたくはないが……ほら! 会いに行かないと、旋毛を曲げて余計に……」
「コンラートはそういう子よ。でも、これからはそんな我が儘を貫き通せるものですか!」
つんと澄まして言う彼女に、彼は失笑した。
「我が儘って点では、お前も相当なものだよ。やはり姉弟だな!」
「ええ。よかったわ。我が儘し放題の旦那さまが見つかって!」
彼女にきゅっと見つめられた途端、彼の胸の底は騒いだ。
翌日の出立と聞かされても慌てるまでもない。半年毎にしているのだ。荷造りなど慣れたものだった。アデレードの荷物が増えたくらいだが、それとて櫃が一つ程度である。
支度はその日のうちに早々に整えられた。
灰色の雲のかかる薄暗い夜明けだった。
荷馬車が数台、トゥーリの乗馬、二台の馬車の小づくりな一団が静かに動き出した。
アデレードはさすがに寂しそうだった。生まれ育った場所を去るのだから無理もない。トゥーリは彼女の肩を抱き寄せた。
(さようなら、お父さま。本当に、さようなら。)
彼女は、もう会えないだろう病床の父に別れを告げた。
街は目覚め始め、人通りも疎らだがあった。二人が宮廷の不興をかっているのは、街の皆が知っていることだ。シークの早すぎる帰郷に好奇の目が注がれた。
南の大門が見えてきた。そこには、異様な数の人だかりがあった。
草原の戦士たちに緊張が走った。
大門に至るまでの道でも、温かく見守っている風はなかったのだ。罵倒されるだけならばまだ良い。しかし、誰か一人でも昂れば興奮は容易に伝わり、大挙して馬車に押し寄せるかもしれない。
上京に連れていけるのは、たった三十騎だけだ。心許ない人数で馬車を巻いて進んだ。
近寄るにつれはっきりしたのは、くすんだ服装だった。だらしなくも見える。子供が走り回っている。大人たちは皆大路に身を乗り出して、馬車の来るのを見ていた。
大路に男が一人出て来た。手を振っている。見覚えのある中年の男だった。貧民の長だ。
群衆は、北の大門に住む貧民たちだったのだ。戦士たちは少しだけ安堵した。襲い掛かることはないだろうし、襲い掛かられても容易く収拾できる。
「北門の貧民どもです。」
並走する戦士の一人が注進した。
トゥーリが馬車を止めさせると、歓声が挙がった。戦士たちは一団の前に馬を歩ませ、皆が飛び出してこないように警戒した。
長は馬車の前方で蹲り、大声で
「尊きシークにご挨拶申し上げます。」
と言うと、平伏した。
御者はぎょっとして、長を見下ろした。戦士たちも驚き、歩みを止めて眺めた。一団からもわあわあと声が挙がった。
「ご挨拶申し上げます!」
「シークは?」
「応えてくれないのかい! ご家来衆にするようにさあ!」
不穏な空気ではない。トゥーリが姿を現すのを期待しているのだ。
乱暴な言葉で誘う者もいた。
「出て来ぉい!」
戦士たちは興奮する群衆の中に馬を進め、出来るだけ下がらせた。
後ろの馬車から下りた老ヤールが長に歩み寄った。
「お主。長ならば、皆を鎮めんか。」
「へいへい。ご無礼、すまねえことっす。礼儀ってやつを心得ねえもんばっかしで……おい! 騒ぐんじゃねえ! 騒ぐんじゃねえぞ!」
群衆はぶつぶつ文句を言いながら、やがて静まった。
老ヤールはトゥーリの馬車の扉を小突いた。
「トゥーリさま。何と言いましょうか? 応えてやらねばなりますまい。」
トゥーリは馬車から下りた。老ヤールは渋い顔で、彼の前に立った。それ以上近づくこともないと思ったのだ。何か持っていないとも限らない。
彼は老ヤールを避け、長の前に歩み寄った。
群衆は固唾を飲んで見守っている。彼はそれを見やり小さく笑った。そして、草原の者にするように、平伏し直す長を跨いだ。
歓声が轟いた。
彼は長の手を取り、立ち上がらせた。
「大儀。だが、こんなことをしなくても良い。戸惑う。」
しかし、長は神妙な顔で
「あっしらはシークの民ですから。」
と言った。
トゥーリは苦笑した。すると今度は、長は表情を曇らせた。
「迷惑でしたか……そりゃあそうだな。せっかく胸糞悪い都におさらばできるってのに、あっしらみたいなのに見送りされるんじゃあね。すんません……」
「そうではない。そうではないんだ。思いがけず、お前らに見送られて戸惑っただけなんだ。それに、お前らは草原の者ではないだろう? 俺は今跨いだが、今回だけ。」
「そんな殺生な……またしてくだせえよ。」
「お前、そういうのが好きなの? まあ……考えておく。」
「それって、断るってことでございやしょう?」
「……困ったな。」
「あっしら、本心から見送りに来た。まあ、来ねえ奴もいるけど……シークをそっくり信じられねえ寂しい奴がいるんでやすよ。でも、大勢が来たいって言った。全員連れてくるわけにゃあ行かねえが……お解りでしょう?」
改めて見渡すと女子供が多い。男たちを大勢連れるのは、不穏だとして捕り物騒ぎになると考えたのだろう。
「そうまで考えて来たなら仕方ないな。嬉しく思う。」
トゥーリが群衆に向かって手を挙げると、貧民たちはまたどよめいた。
戦士たちは再び、馬を進めねばならなかった。
「うるせえぞ!」
長は一喝し、トゥーリに目配せして馬車に近づいた。老ヤールが一歩踏み出したが、トゥーリは手を振って止めた。
長は馬車の窓を覗きこんだ。
「こりゃ、何て可愛らしい奥さまだろう!」
長の感嘆を聞いて、皆がわあわあ声を挙げた。
アデレードは馬車の窓から顔を出し、小さく手を振った。
「うわっ! 可愛い!」
「ありゃあ、シークがいきり立つのも解るよ!」
「別嬪! もっと顔を見せとくれよ!」
皆の称賛に、彼女は照れくさそうに笑った。
何かする度にいちいち騒ぎが起こり、静まるのを待たねばならないが、二人には嬉しく楽しい騒ぎだった。
しかし、何時までも騒いではいられない。トゥーリが
「静まれ!」
と大声を出すと、ぴたっと止んだ。それこそ、大勢がいるとは思えない静けさだった。
子供ですら居住まいを正している。ぐずる赤ん坊を焦った様子で、慌てて宥めている母親もいた。
比べ馬の時に、命令一下忽ち従ったラザックの近習を見たからだろう、長が命令した時とは段違いに整然としていた。
彼は可笑しくなったと共に、可愛いものだと思った。
馬車に乗ろうとする彼に、長が歩み寄った。にやにや笑いながら
「今晩も一騎打ちですなあ。」
と囁く。
この男もリュイスと同じ人種かと、トゥーリは辟易した。
アデレードはきょとんとしている。彼女は群衆から見えない程度に、再び窓に首を傾けた。
「一騎打ち? 誰と?」
「訊かなくていい。」
長は構わず答えた。
「奥さまとですよ!」
彼は益々うんざりした。
彼女は不思議そうな顔のままだ。
「え? 私は剣など使わないし、持ってもいないわ。」
「奥さまは持ってはいねえんですよ。シークですよ。シークは剣を振り上げないとね。ご自分の剣をね。」
長は含み笑いをしている。たが、彼女にはまだわけが解らない。
「要らん助言はするな。では、ごきげんよう。皆、出来る限り真っ当に暮らせよ。」
そう言って、彼は慌てて馬車に乗り込んだ。
彼の目許は赤かった。彼女はやっと、ヴィクトアールの教えてくれたことかと思いついた。彼女もすっかり顔を赤らめた。馬車の内で二人共赤い顔で俯き、言葉も無かった。
長は、肩を竦め
「こりゃあ、町方はいい加減なことを言っているよ! まだ、ままごと夫婦だ!」
と皆に向けて叫んだ。遠慮ない笑い声が挙がった。
貧民の少女がととっと駆けて来た。老ヤールは抱き留めたが、少女に耳打されると、にっこり笑って手を離した。
少女は馬車の窓に手を伸ばした。車内の二人からは、蒲公英の花が握られた手だけが見えた。
アデレードは花を受け取り、窓から顔を出した。
小さな少女が固い顔をして立っていた。アデレードが微笑みかけると、照れくさそうに笑った。
「石畳の間に咲いていたの。まだ寒いのに。すぐ綿毛になるよ。奥さまが吹いて、沢山の花を咲かせてあげて。そんで、奥さまもシークにお子さまを沢山産んであげて。」
長が少女の肩を抱き、馬車から下がった。
「お幸せにね。奥さまもきっとお幸せに。あっしらは、あなた方の為なら何でもしますよ。忘れないで。」
「……この人たちが?」
アデレードが問いかけると、トゥーリは
「“忠実なる貧民”なんだ。」
と微笑んだ。
彼は馬車に出発を告げかけて止めた。そして、窓から身を乗り出した。
「いつまでも貧民でいるつもりはないだろう? お前らに相応しい、氏族の名前を与えよう。“フォントーシュ”とこれから名乗れ。」
「フォントーシュ?」
「ああ。草原の言葉で“重要な群れ”という意味だ。お前たちはこれから、国にとって必要な人間にならねばならん。……いつか“豊かなるフォントーシュ”と呼ばれるといいな。知恵も財産も豊かに。大人は早く堅気に、子供はしっかり学べ。」
長は顔をくしゃくしゃにして、何度も頷いた。
馬車が走り出した。
フォントーシュと名付けられた、まだまだ貧しい人々が、いつまでも見送っていた。
草原の一行が去り、貧民たちが去った。
路地から三騎が現れた。彼らは南の門を出て、馬車の去った方へ駆けて行った。
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