白い結婚
2
アデレードの婚礼の衣装が届けられ、ルーグの指環も出来上がった。
トゥーリはタイースとルーグに倍の金子を払ったが、二人とも祝儀だと言って、四分の三を返してきた。
彼女は衣装を彼の前では広げなかった。タイースと部屋に籠り、念入りな微調整をした。
彼も同じように、否それ以上に指環を厳重に隠した。
その小さな内緒が婚礼の日に明かされることを、二人は楽しみにした。
未だ結婚の書類を発行してくれる神殿は見つからない。だが、これまでの困難を乗り越えられたのだ。社が見つかるまでの少しの間は何でもないと、二人はお互いを励ました。
彼は諸侯が挙式するような所は勿論、町の小さな所から下町の社にまで頼み込んだ。
破格の献金と供物を提示したが、何処も拒否する。
それこそ祠に毛の生えたような所でも、神官がいれば頼み込んだが、同じだった。
相変わらず、もう一人の証人も見つからない。彼の送った書状に対する返事は全て、拒否を伝えるものだった。
(草原で結婚しよう。)
代々のシークは、トゥーリの父を除いて、草原から娶った。都の証書などなくとも、慣習的に正式な結婚だと見なされてきたし、複数の夫人との関係も正式だと認められた。
彼はそれを根拠にしようと考えたが、先のことを思えば躊躇われた。
大公が病床にある今、宮廷を仕切るのは宮宰である。近いうちには、コンラートが即位するはずだ。草原での結婚に旋毛を曲げ、頑として結婚を認めないことは想像に難くない。神職に圧力をかけ続けるだろう。
内縁のままでは、将来二人の間に生まれる子は庶子である。
トゥーリが家督を譲ることになった場合、宮廷は庶子の相続を認めないかもしれない。草原の民は問題なくシークとするだろうが、ラザックシュタールの侯爵は空位になる。軋轢が生まれるだろう。
重苦しく圧し掛かる心配だった。
(幸せにすると宣言して、これか……)
彼は毎晩、一人の寝台で歯噛みした。
彼女は、使いが帰る度に溜息をつく彼を気遣い、明るく振舞っていたがそれも限界だった。苦労する彼を見ていられない。
(明日、一旦都での結婚は諦めようと言おう。草原で結婚すればいいわ。ほとぼりが醒めれば……)
彼女はそう自分に言い聞かせたが、それが何時になるのかと不安がる自分もいる。
二人共に眠れぬ夜が続いた。
だが、朝に顔を合わせれば、また何とか事を運ばねばと思うのだ。
彼は都だけではなく、地方にも使いを遣ることを考え始めた。だが、地方の領主は大抵が誰かと主従契約を結んでいる。主が拒否したものを受諾する可能性は極めて低い。神殿とて同じだ。
八方塞がりの中、公妃から呼び出しがあった。正式に結婚ができるから、すぐ用意をして城に来いということだった。
婚礼は、公妃の居間で行われると聞かされた。社がやはり見つからなかったのだ。
証書と足りていない証人はどうしたのかと尋ねたが、使いは答えを持っていなかった。
「公妃さまが宜しく計られるとのことです。」
トゥーリは、宮廷が何か企んでいるのではないかと疑った。
「お母さまを信じましょうよ。もし、何か悪だくみがあったなら……その時は私、舌を噛むから!」
アデレードはそう言って、彼に覚悟を決めるように急かした。
「……剣は持って行ってよいのだろうな? それから、こちらの列席者もある。」
使いは迷うでもなく、あっさり承諾した。
それからは大慌てで馬車が整えられ、荷物が載せられた。老ヤールは直ぐに礼装姿で現れたが、ラディーンのヤールは遅れた。馬の乳を搾っていたということだった。
「暢気に乳搾りなど!」
老ヤールが叱りつけたが、ラディーンのヤールは抗弁した。
「何ですと? こまめに絞らねば、乳が採れぬではありませんか。ご老体、トゥーリさまのご回復は誰のおかげだと思うのです?」
「お前の連れて来た母馬のおかげだろうよ。」
「また……功を奪われて悔しいのは解りますが……」
トゥーリは怒鳴った。
「ラディーン! 早く着替えんか! 置いていくぞ!」
礼装を着終えたラディーンのヤールは、近習二人に大きな櫃を抱えさせて現れた。
あまりにも大きな櫃だ。トゥーリは訝しんだ。
「何だ、それは?」
「トゥーリさまの婚礼の衣装。」
「は? 礼装でよいではないか?」
すると、二人のヤールは目を丸くして驚き、トゥーリの姿を上から下まで眺めて失笑した。
「は? はあ? そのみすぼらしい格好で婚礼を挙げるおつもり? 冗談でしょう。」
「そんな格好で婚礼を挙げる草原の男なんぞいません。シークなら言わずもがな。」
トゥーリは草原の新郎の格好を思い浮かべ、眉を顰めた。
「嫌だ。」
「いいえ。今日ばかりは従ってもらいましょう。」
「さよう。シークならば、伝統は守らねばなりません。」
二人共、厳しい目で彼をねめつけた。
彼は諦め、伝統を守ることに同意した。
都とは違い草原では、大昔に放浪していた頃の形の衣装が使われ続けている。
前開きの下衣の上に、左右の身頃を重ね合わせる形の長い大きめの上衣を着て、帯で結ぶ形である。
暑さ寒さに応じて、上衣の袖を片方脱いだり両方脱いだり、或いは上衣だけ脱いだり、夜営の時には毛布代わりにもする。実用に適しているのだ。上衣は羊皮で裏打ちされていることもあった。
そして、たくさんの装身具をつける。
遊牧生活の常で、財産を金銀宝石に換えて身に着ける方が、移動と富の集積には便利だからである。
トゥーリは、重く着膨れする草原の衣装を、都では式典以外にあまり好んで着なかった。婚礼の衣装はもっと気が進まない。恐ろしく大袈裟だったからである。
草原の者は結婚式に、女だけではなく男も着飾る。むしろ、女より着飾るものだった。それは、財産のあることを示す意味であったが、暗黙の意味があった。
気位の高い草原の男が、結婚式の無礼講で何かあっても暴れられないように、重い装いをするのだ。
櫃を開けると、薫衣草の香りと共に、煌びやかな一式が現れた。衣装も技を尽くして作られたものだったが、装身具はもっとそうだった。
父祖から伝えられた品だけではなかった。トゥーリの為に吟味し収集されてきたと思われる物もあった。
吉祥模様を織り出した黒い上衣。襟と袖・裾に金の見事な錦織りが縫い付けられていた。
老ヤールが慎重に後ろの箱襞を作って、帯を結んだ。華やかな刺繍をした青い帯だった。
長い裾が翻ると、青い絹布の裏地が覗いた。
ラディーンのヤールが粋だからと、上衣の右袖を脱がせて、肩に掛けた。縁を金糸で飾った立襟の白い下衣が見えるようになった。
何連も掛けられた長い首飾りは、ひとつひとつが見事な細工の部材だった。
瑠璃はペルシャ産の、金砂の散った大きな美しいものだ。真珠は大食の海のもの、ムルンタウの黄金、セリカの細工もの、吐番の天珠。
見るからに重たげな姿であったし、実際どっしり重かった。体力が完全であっても重かっただろう。
「もういいだろ?」
二人のヤールは答えもせず、腕に年齢の数だけ金の腕輪を掛けた。
「都なんだから。無礼講もないし、いいじゃないか。」
トゥーリの意見は
「伝統。」
の一言で片づけられた。
「嫌いな言葉、第一号・伝統……」
彼の呟きは黙殺された。
二人は苦労しながら、彼の長くなり過ぎた髪を青い絹糸の束で、頭の周りに巻き上げた。糸には、馬の骨から削り出した小さな飾り玉が沢山通してあった。二本足の銀と翡翠の簪ふたつが、ずり下がりそうになる重い髪を固定した。
それから、後ろに回り前から眺めして、仕上がりを確かめた。
「ご老体、どうです?」
「儂も新郎の着付けなど久方ぶりなのだ……」
「もう少し派手に……」
「もういい!」
最後に、瑠璃と真珠を嵌めこんだ金の鞘の短刀が帯に差された。
金と青に彩られた姿だった。それは、草原の風の神の在処である晴れた青い空と太陽を表していた。神の加護を願う伝統的な婚礼衣装だった。
左腕は残念ながら、まだ吊っていなければいけなかったが、その痛々しさを割り引いても非常に美しかった。
「嗚呼、夢にまで見た。ご成人を迎え用意を始め今日まで、この日を待ちわびておりました……」
「そんな前から用意していたのか?」
「勿論です。いつ何時必要になっても困らぬように。お父上亡き後……」
老ヤールは目頭を押さえた。
「“草原の戦士ならば泣いてはいけない! ”」
咄嗟にそう言って黙らせたものの、トゥーリは老ヤールの思いに感じ、胸が熱くなっていた。
列席するのは、老ヤールとラディーンのヤール。アデレードの側は公妃だけだった。
それでは寂しかろうと、証人になるテュールセンの公爵が、リュイスとヴィクトアールを連れて来るということだった。
公妃は現れたトゥーリをまじまじと見て、ほうっと息をついた。
「あなたは……なんて綺麗なんでしょうね!」
彼は苦笑いするしかない。
彼女はじっくりと装身具を眺め、彼の右手に目を留めた。
彼の右の薬指と小指には、見慣れない金細工があった。筒状の物で、指の根本から指先の三寸ほど長くまでを覆っている。
「その指は?」
「これ? 指甲套というものです。本来はセリカの女が、指を細く美しく見せるためにつけるものだそうです。草原では結婚式に男がする。」
「どうして?」
「これをしていると、剣を握りにくいし、弓も引きにくいでしょう? だから。」
公妃は意味察し、不安そうにヤールたちを見やった。
「まあ、習慣ですな。」
と、老ヤールが言った。
「今日は荒事などしませんよ。」
ラディーンのヤールが、自分の右手にも指甲套のあるのを見せて笑った。
公妃はやっと微笑んで
「頼みますよ。“狂犬のラディーン”。」
と言った。
遅れて、アデレードが現れた。
しばらく流し髪でいた彼女は、髪をきっちりと複雑な形に結い上げて、真珠を縫い付けた白いエナンを被っていた。その天辺から、白い薄絹が床まで柔らかく垂れている。
白い衣装の長く広い袖口には金糸で唐草の刺繍があり、こちらは床を擦らないように先を結んでいた。
羽織っている薄地の上着は袖なしで、新郎と揃えたように深い青色だった。それは首周りをV字に大きくくってあり、下の衣装の胸元に金糸の刺繍があるのが露わに見える。
また、脇にも開き作られ、動くたびに下に締めている広い帯が覗いた。帯には、優しい輝きの真珠が縫い留められていた。
“可憐”という言葉、そのものだった。タイースは、彼女の持ち味を最大限に演出することに成功していた。
そして、大きな真珠を中心にした金剛石の首飾りをしていた。その真珠は、トゥーリがかつて誕生日の祝いに贈ったものだった。
彼は彼女を見ておられず、視線を逸らした。切ないような嬉しいような愛しいような、ありとあらゆる思いが入り交じった複雑な感情に対処しかねていたのだ。
(色々と凄いのを見てきただろうに……何故、これしきのことで……)
彼女はトゥーリを見て驚いた。
(アナトゥールは……何て美しいのだろう。私は見劣りがする。)
彼女は今まで、彼の容姿をどうと評したことはなかった。彼に比して自分の容姿を考えたこともなかった。
アデレードはトゥーリがどう思うのか、気になって仕方がなかった。
彼は何も言わないばかりか、彼女を見ない。彼女は気に入らないのかと不安になり始めた。
すると、彼はあらぬ方向を眺めたまま
「綺麗だ。」
とぼそっと言った。
(“でも……”って続くんでしょ。)
しかし、彼はいつものように意地悪を言うこともなく、横を向いて黙っている。目許が赤かった。彼女は失笑した。
彼は怒ったような顔を向けた。
「何だよ?」
それがまた可笑しかった。
彼女と同じく、二人のヤールも公妃もくすくす笑った。
「トゥーリさま、どうなさったの? 照れくさいの? 乙女みたいですよ?」
口の悪いラディーンのヤールが言うと、爆笑が起こった。
やがて、テュールセンの公爵とその二人の子供たちが現れた。
公爵はトゥーリの右腕を取り
「おめでとう。美々しいな。シークの婚礼に立ち会うのは二度目だよ。」
と破顔した。
「終にお前も結婚するか。結婚か……。俺に先んじて結婚など……」
いつかの言葉を引用しているのかは定かではないが、リュイスはそこまでで言葉を詰まらせた。
「感極まって泣くのか? 一目見てアレな相手だったからか?」
彼は、いつもなら慌てる冗談にも苦笑しただけで
「俺は寂しくもあるが、お前の分まで楽しむことにしよう。お前はじっくり一人の女と楽しめ。」
と言った。
ヴィクトアールはアデレードの側で、婚礼の衣装についてあれこれ話し合っている。
公妃が呼んだもう一人の証人は誰なのだろうと、心配し始めた頃だった。
扉が開いた。
現れたのは、ウェンリルの公子だった。
「伯父上……」
トゥーリはそれ以上言葉がなかった。ウェンリルは鋭い目で彼を見たが、すぐに和らげた。
「そなたは美しいな。妹ソラヤの夫、ローラント殿によく似ている。今日は、我が甥の窮地を察して来た。書状は読んだ。返書は必要なかっただろう? 親しく会うのは初めてかもしれん。」
実のところ、ウェンリルは書状を受け取って、早いうちに証人になることを決めていた。それはギネウィスが何か言った為ではなく、純粋なる私意だった。
返書をしなかったのは、最後の意趣返しだった。
トゥーリは、彼の意図など知る由もない。全て了承したから、何の返書をする必要もないと言っているのだと受け取った。
我が甥と柔らかに言うウェンリルに、とても近い血縁にあることをトゥーリはやっと実感できた。父に似ていると言われたことも気にならず、嫌だとも感じなかった。
「ありがとうございます……」
と声が詰まった。
「アデレードさまも、今日はいつにも増してお可愛らしいな。」
伯父はアデレードにも声をかけて、微笑んだ。
また扉が開いた。
固い顔をしたニコールが入ってきた。アデレードも驚いたが、トゥーリはそれ以上だ。
「何をしに……」
ニコールは彼の言葉を遮った。
「あなたはそうしていると、絵のように美しいわ。でも、喋らないで。あなたのおぞましい言葉など聞きたくありません。」
いかにも不愉快そうに鼻に皺を寄せている。
彼には言う通りに黙るつもりなどない。
「で、お前は何をしに来たんだよ?」
と低く呟いた。
彼女は耳を手で塞いで見せた。
「ああ、聞かせないで! 証書を持って来て差し上げたのよ。来たくもなかったけれど、私以外に持っていく方が現れなかったのよ。」
なるほどそれ以外に、彼女が現れる理由はないのだ。だが、証書の出所が怪しいと思った。彼女が彼の為に証書を書く労をとるはずがない。
「お前が書いたわけではないな、それだけは確かだ。」
「書くわけないでしょう。書きたくもないわ! 例え、咎を受けなくてもね!」
彼は鼻を鳴らした。
「誰がお前に罰を与えられるんだよ? 宮宰の娘・カラシュの姫だと言うのに。世間知らずが!」
「カラシュの姫? 何のこと? 私はただのニコール。カラシュとは関係がありません。」
周りが彼女の出自に配慮していないわけがないのだ。彼は気づかない彼女に苛立ちを覚えた。だが、それについて議論する場ではないと、彼は指摘するのを控えた。
「書いてくれる祭司が……」
それは彼の感嘆に過ぎなかったが、彼女は鼻で嗤った。
「誤解しないで。あなたの為に書いたのではありません。申し訳ないけれど、公女さまの為でもないわ。本当に、あなたは誑かすのだけは上手いのね!」
彼は彼女を睨んだが言い返さず、骨折ってくれた三人に深々と頭を下げた。
「公妃さま、テュールセンさま、ウェンリルさま。ありがとうございます、本当に……」
「私は何もしていないわ。これ以上無い立派な方が二人もおられるのに、証書を書かせないつもりかとニコールさまに申し上げただけよ。」
「私は甥の窮地を見過ごすことができなんだだけだ。テュールセンは?」
「私とて、義を見てせざるは……ですよ。」
「正しさを尊ぶテュール。
テュールの息子
、名に恥じぬな。」
三人は愉快そうに笑った。トゥーリは再び深く頭を下げた。
「礼は一度すれば十分だよ。」
しかし、彼は頭を挙げられなかった。溢れそうな涙を堪えきるのに、しばらくそうしていなければならなかったのだ。
ニコールは白々とその様子を眺めていたが、やっと証書の用意を始めた。
「信じられないわ! 公女さまは、この悪魔のような方のどこがよろしいの?」
アデレードは笑っただけで答えなかった。
彼は憎まれ口を叩いた。
「悪魔だって? 上等だよ。神さんより、悪魔の方が美形って、相場が決まってんだよ!」
「ほら……これですもの……。言い草が恐ろしくてしょうがないわ。」
そう言いながらも、彼女は怖がっているどころか、彼を堂々と見据えていた。
「ニコールさま、慣れると楽しいのよ。」
アデレードが言うと、ニコールは皮肉な笑みを浮かべた。
「私にはさっぱり解らないわ。でも、この悪魔の被害者がこれ以上増えないのはいいことです。人身御供になられる公女さまには感謝いたしますわ。」
尼僧になる前のように、顎をそびやかしている。
「まったく、うるせえわ。尼のくせに偉そうだったらありゃしない。」
彼の独り言にもニコールは反応した。
「あなたのおかげで尼僧になれて、それは感謝していますわ。神さまのお側でどれほど幸せか、悪魔にはわからないでしょうね!」
彼は言い返したかったが、公妃の手前控えた。
彼女は証書を指差し、彼を睨みつけた。
「さっさと書きなさいよ! 私の時は躊躇したけれど、今日は喜び勇んで書くのでしょう。」
「その通りだよ! 尼さんがそんな憎々しげにしてはいかんな。」
彼女は鼻を鳴らしただけで、彼の左側から筆記用具を差し出した。左利きの彼が楽なようにしたのだ。
「……お前、呆けているかと思ったが、気が利くようになったな。」
彼は感心したが、彼女は勿論喜ぶでもない。
「悪魔に優しくする尼僧などいません。知っているからしたまでのこと。ごちゃごちゃ言われないようにね! ……あなたのあの日の所業は、忘れたくても忘れられないわ。覚えているわよ。不吉な左利き。まったく悪魔そのものね!」
アデレードは苦笑いした。
「やっぱり……苛めたのね。」
彼が弁明する間もなく、ニコールが捲し立てた。
「ええ。苛めたどころではありませんわ。酷かった。この世の中に、あんな言動をなさる方がいるとは夢にも思いませんでしたし、今でも本当にあったことかと信じられない思いです。この方は、とんでもないならず者なの。公女さま、本当によろしいの?」
ニコールの言うことが最初に戻っている。
トゥーリは相手にするのも面倒だと、素早く署名をした。
「ほら、お前も早く書け。この有難い尼さんには、風のように疾く、清らかなお社にお帰りいただかねばならん。」
アデレードは笑いながら、署名した。
ウェンリルとテュールセンの公爵も続いて署名した。
「ああ、おぞましい作業がやっと済んだわ。残念ながら、お祈りを奉げてくれる神官はいないの。図々しくも私には頼まないで。お気の毒ね!」
ニコールは証書をくるくる巻いて、すたすたと出て行った。
テュールセンの公爵が、彼女の出て行った扉を眺めながら
「あの尼さん、本当に出してくれるのでしょうな?」
と苦笑いした。
皆、どっと笑った。
しかし、公妃が
「お祈りもないのね……」
と溜息をつくと、皆の表情が曇った。
神官の祈りの後に指環を交換するが、無いままにするのは素っ気なく思われた。
突然、ラディーンのヤールが
「神さんのお祈りなら、草原の風の神にすればいい。シーク、ほれ、風の誓いってやつですよ。」
と言った。どうだとばかりに周りの人々を見渡している。
都の生まれ育ちの者はどうしたものやら迷ったが、アデレードは賛成した。
「私、何かあるたびに、風の神さまにお祈りすると決めたって言ったわ。」
トゥーリは頷いて、卓の上に指環を置いた。
「いと尊き風の思し召しにより、我は汝の許へ吹き寄せられたり。順風ある時も、逆風ある時も、我が側に寄り添うことを誓うや?」
「はい。もちろん。」
「同じことを言うんだ。まさか、聞いていなかったってことは……ないよな?」
彼女はくすくす笑い、同じ文句を繰り返した。
「当然ながら誓う。」
彼は卓の上の指環を取り、彼女の額に軽くつけた。
「この指環にて汝を娶る。」
彼は彼女の手を取り、少し内側を見せてから指に挿した。
彼女は彼に挿す前に、ちらりとの裏側を見て微笑んだ。
「この指環をもって、汝を夫となす。」
老ヤールと公妃は、目頭を押さえた。
ラディーンのヤールは
「少し文句が違いましたな。でも、概ね合ってますわ。」
と笑った。
公妃は涙を拭い、二人に微笑みかけた。
「お父さまの部屋へ行って、ご報告するといいわ。」
交わした指環の内側には、こう彫られていた。
アデレードの物には“もう離さない”。
トゥーリの物には“もう離れない”。
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