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 二人はそのまま城を出た。
 馬車を回した近習も御者もアデレードに驚いたが、何か尋ねることはしなかった。
 老ヤールだけはほっと息をつき
「公女さま、やはりあなたでしたか……」
と言った。
 彼女は困った笑顔で老ヤールを見つめた。少し申し訳なさそうな色があった。老ヤールは苦笑し、首を振った。
 トゥーリは慌てて彼女を馬車に乗せた。
 そして、老ヤールの前に立ちはだかり、厳しい目を向けた。
「いつから気づいていた?」
 老ヤールはにやりと笑い
「……昔過ぎて忘れましたよ。」
と言うと、からから笑った。
 事あるごとにトゥーリは、恋心を知られているのではないかとは疑ってきたが、案の定そうだった。悔し紛れの皮肉しか出なかった。
「お前、随分耄碌したな。年寄りは昔のことほど覚えているものだろう?」
 だが、老ヤールは彼の上を行くことを言い返した。
「あなたの色々を、詳細に公女さまにお伝えせよと仰せなら、思い出すのにやぶさかではない……よろしいのか?」
「……いや。無理しなくていい。思い出すほどのことはないから忘れたのだ。俺は年寄りに無理を強いるほど冷酷ではない。」
 トゥーリは老ヤールの肩を叩き、馬車に乗り込もうとした。扉を開けると同時に、アデレードが大声を出した。
「今の何よ!」
 彼は老ヤールを睨んだ。
“空気を読め! ”
 唇がそう動いた。老ヤールは笑いを堪え
「我が主の品行方正であった数々の例です。」
と答えた。
 彼女は鼻で笑ったが、彼は刺しそうな目で老ヤールを睨んだ。

 老ヤールは同乗を控えた。馬車の中は二人だけだった。しかし二人は寄り添って座ったまま、何も話さなかった。急変した境遇が信じられない。
 トゥーリはアデレードの様子をこっそり見た。彼女は俯きがちに座っている。膝の上の小さな手、指が所在なさそうに動いていた。
 彼はその手をそっと握った。傷一つ無い白い手は柔らかだった。思ったよりも小さく、彼の手の中にすっぽり収まった。途端に、初心な少年のように身の奥が騒ぎ、内心焦った。
 彼女は彼を見上げた。彼は素知らぬ顔で前を眺めている。だが、目許に微かな朱の色が浮かんでいた。
 彼女は自分の手を包み込む彼の手を見つめた。
 大きな手。彼女の為に梢の花を取り、彼女に舞踏を教える為に差し出され、彼女の手巾を預かって剣を握った手。
 彼女の為に痩せ馬の手綱を握り、彼女を生かす為に狼と戦った手。
 荒れて固く、小傷だらけで、温かかった。
 そして、その人差し指には彼女の瞳を映したと思える矢車菊の指環があった。この手が今後も、彼女を守り愛するのだ。そう思った途端に、彼女は赤面し俯いた。
 二人は屋敷に着くまで、握った手は離さなかった。時々、握った手に力を入れてお互いを確かめた。

 アデレードがトゥーリの屋敷を訪れたのは初めてのことだ。彼女は玄関に降り立ち、さほど大きくもない建物を眺め上げた。
 彼は、彼女と屋敷が同じ視界に入ってようやく、共に生きることになった実感を得た。

 連れ帰ったのはいいが、アデレードは身一つである。血で汚れた衣装を着替えさせるにも、男所帯のトゥーリの屋敷には適当なものがない。
 すぐさま
「タイ―スを呼べ。」
と命じた。
 だが、タイースが来るまでの間に着るものが必要だ。
 トゥーリは雇い女から下女まで呼び、何かないかと尋ねた。しかし、誰もが顔を見合わせるばかりだ。重ねて尋ねても、皆一様にとんでもないといった顔で
「公女さまに貸せる服なんかありませんよ。」
と断った。
 彼は食い下がった。
「血まみれなんだ。頼むよ。しばらくだけでいい。」
 女たちは話し合い、住み込んでいる下女の服を貸すことに決めた。
 下女とて数少ない服しか持っていないのだ。借りられたのは、継ぎだらけでくすんだ色の粗末な服だった。
 アデレードは物珍しそうにしているが、彼は申し訳なくて見ていられなかった。

 仕立師のタイースは、日を置くどころか、遣った使いと共に現れた。気を利かせて、何枚かの下着と衣装を持っていた。だが、いつもと違う固い表情をしていた。
 トゥーリがアデレードの衣装の注文をする前に、彼は
「お城からお遣いが参りまして……。シークや公女さまの注文は受けてはならんと……」
と頭を下げた。
「そうか。早いな。注文は無理か。」
 有り得ることだと思ったが、彼に遣いが行ったとなると、他の仕立屋にも通達が行っているのは想像に難くない。
(ラザックシュタールに戻れば、幾らでも……。今は仕方がない。)
 トゥーリは我慢を決めたが、タイースは
「よろしゅうございますよ。シークには私の衣装をよくお召しいただいたのですから。あなたのおかげで、私も繁盛しました。内緒にしましょう。」
と微笑んで、あっさり引き受けた。
 トゥーリは気が抜けた思いで、苦笑した。
「だったら、初めから受けろよ。」
 タイースも小さく笑ったが、直ぐに気の毒そうな顔になった。
「厳しい状況であることを申し上げたまでです。おそらく下町の商人であろうと、お買い物には応じないでしょう。職人や商人ですらそうですから、よくよく覚悟なさいませ。」
 そうならば、タイースが受けてくれるこの最後の機会に、トゥーリにはどうしても頼みたい注文があった。
「婚礼の……」
と言いかけると、タイースは辛そうな顔をした。
「それもね……。いえ、アデレードさまの婚礼衣装は、ほら……王子さまとのお話のことで、もう縫い始めていますから、お納めしましょう。」
 どうにも言い難いことがある様子だった。
「ありがとう。で、何?」
 タイースは考え込んだ。どう言ったものか躊躇したのだ。
「婚礼は、何処でお挙げになるおつもりです?」
「え?」
「……神さまは、いつも誰にでも平等ではないのです。どこのお社も拒否するでしょう。」
 苦しげな物言いだった。
 トゥーリはそこまで手を回すのかと呆れ、神よりも権力に従順な神職たちに怒りを感じたが、現実は解っている。
「念入りなんだね。そういうことだけは……」
と言って笑ってみせた。
 式自体はこの際いい。だが、結婚の証書は発行してもらわねばならないのだ。そして、証人になってくれる二人以上の、一家門を構えた貴族を探さねばならない。
 どうしたものかと思ったが、タイースの答えられることではない。
 トゥーリは、衣装を早く仕上げるように頼んで帰した。
 そして早速、結婚の証書を与えてくれる社を探し始めた。たくさんの貴族にも、要請の書状を出した。

 数日後、リュイスが訪ねて来た。
 彼はにやにやしながら
「聞いたぞ? 城での恥ずかしくも熱い振る舞いの一切。ま、おめでとう。しぶとく生き延びて、よかったな。」
と揶揄いと共に祝意を述べた。
 トゥーリは、彼らしい祝辞に笑い、彼の腕を叩いた。最も心配してくれた友に対する少々乱暴な感謝だった。
 リュイスは彼の心中を察して照れくさそうに笑い、彼の右肩を叩いた。
「お前に寿がれると、ろくでもないことが起こりそうだよ。」
 すると、リュイスは急に真面目な顔になった。しかも考え込んでいる様子だ。
「どうした?」
「そのろくでもないことがな……起こった。言っておくが、俺の所為ではないぞ? また、お前の所為でもない。」
 彼はそう言って、また考え込んだ。今度は目が泳いでいる。
 トゥーリは応えを待った。
 やがて、リュイスは彼を見据え、声を顰めた。
「大公さまがお倒れになったのだ。お前が、恥ずかしくも熱い行いをした翌々日にな。」
 トゥーリは絶句した。本当なのかと見つめると、リュイスは深く頷いた。彼の話は更に続いた。
「前々から、頭痛がすると仰っていたそうだ。何でも、卒中だとか……」
「それでご容態は?」
「動けない。特に右側が痺れるようだと、親父殿が言っておったわ。」
 絶望的なことを言って、リュイスは溜息をついた。
「アデレードに……」
「伝えるのか? まあ、伝えないといけないな。でも……」
 リュイスは言い淀んだ。
 大公の許しはないのだ。トゥーリが面会できるかは限りなく怪しい。
 トゥーリが頼る相手は一人しかいない。その人物も、彼のことをもう良くは思っていないだろうが、それしかない。
「公妃さまに……公妃さまにお会いする。」
 リュイスは困った顔をした。二人のことを知らされた公妃の怒り具合は凄まじかったのだ。しかし、事情が事情だ。娘だけには会うかもしれないと考えた。
「それは……そうだな。登城すらまかりならんと言われたらしいが、お前は、城にお袋さまの翼がある。どさくさに紛れてしまえ。行け。」
 会えるだろうとは言わない彼から、トゥーリは公妃の自分に対する思いを悟った。
 正直なことだと、トゥーリは彼の友情に感謝した。

 アデレードは身も世もなく動転した。トゥーリは励まし、彼女を伴って登城した。
 公妃に目通りを乞うと、拒否はされなかった。だが、何時になるか分らないと、城の執事は素っ気なく答えた。

 二人は焦れて待った。夕闇が下りてきた。
 二人共、こっそり会いに行こうかと考え始めたが、更に怒りをかうことはできない。待っているしかなかった。
 夜半になって、遣いが来た。面会を許されるということだった。
 二人は急いで会いに出た。
 公妃は渋い顔で彼らを迎えた。しかし、それは二人のことを非難しているのではなかった。
「大公さまは、命こそありますが、長くはおられないでしょう。あなたたちは……ふしだらなことをしたかどうかは……多分ないのでしょうね。お父さまに会われた方がいいわ。」
 彼女は大公の寝室にこっそり二人を連れた。
 トゥーリは控えていた医師に
「ご容態はどうなのだ?」
と尋ねた。
 医師は首を振り、多くは語らない。
「お気はついておられます。」
とだけ言った。

 二人が現れるのを認め、大公は目を見開いた。アデレードが布団の上の手を握ると、握り返して涙を流した。
 そして、トゥーリに目を移し、何かもごもごと言った。聞き取りにくい話し方だった。
「そなたが本当の息子になるとは思わなかった。」
 彼が手を握ると、握り返して
「頼む。」
と言った。
 公妃は溜息をついた。
「お父さまは、あれから後悔なさったの。でも、宮廷に伝える間はなかったわ。近いうちに、コンラートが位を継ぐでしょう。……難しいことになるかもしれない。」
 二人は顔を見合わせた。公子がどんな行いをするかは予想がつかない。
「まずは結婚して、身の上をはっきりさせた方がいいわ。」
 二人は声を揃えた。
「婚礼を挙げられないのです……」
「お社が見つからないのね。」
 それよりもトゥーリが困っていたのは、証人が一人しか現れないことだった。貴族たちは皆、慇懃に、或いははっきりと拒否の返書を送ってきた。
 ヘルヴィーグの伯父は、ミアイルを預かっているだけでも非難がましい目を向けられているから、とても結婚の証人まではできないと、返事を送ってきた。
 その上の伯父、ガラードははっきりと断ってきた。ウェンリルの伯父からは返書すら来ない。
 その中、テュールセンの公爵だけが引き受けてくれた。しかし、一人だけの証人では、証書が有効にならないのだ。
 公妃も考え込んだが、あてはない。渋い顔で黙り込んでいたが、ふと気付いたことがあった。
「あなたたち、指環くらい用意しなさいな。」
 二人は、取るに足らないことだと思った。
「ええ……」
 気のない返事をしたが、公妃はそれを勧める。
「形は大切ですよ。お揃いの指環をして寄り添って暮らしていたら、もう夫婦なのだからと、いつか誰かが証書を書いてくれる気になるわ。」
 トゥーリには、何とも頼りないことだと思えた。
「そんなことは……」
 しかし、アデレードは目を輝かせ
「私、指環が欲しいわ。立派な物じゃなくていいの。アナトゥールとお揃いならいい。」
と言った。
 彼は小さく笑った。
「そうか。」
 困難な状況ではあるが、寄り添い微笑む二人。公妃は認めなくてはならないのだと思った。
 彼女自身の道理では許されない縁である。腹立たしい気持ちはまだ残っている。だが、目の前の二人は何とも愛らしく、幸せを祈りたい気持ちになった。

 トゥーリは宝飾職人のルーグを屋敷に呼んだ。
 来るだろうかと心配したが、堂々と来た。あまりに堂々としているので、トゥーリの方が心配を覚えた。
「ルーグよ、そなたにも触れが来たのだろう? いいのか?」
 ルーグは陽気な笑い声を挙げた。
「何を仰るやら。ご自分が呼んだのでしょ? あたしみたいな腕のある職人はね、お上の言うことなんか聞かなくても、仕事がくるんですよ。お上もあたしの腕を惜しんで、お仕置きなどしねえんです。」
 しかし、トゥーリの依頼の所為で彼に処罰が下れば、悔いても悔い足りない。
「すまない、アデレード。ルーグの身を案じれば、立派な注文品は依頼できない。その……町人の夫婦がするような作り売りのような物でもいいか?」
「あなたとお揃いならいいって言ったじゃないの? 作り売りのでいいわ。」
 彼女の輝くような笑顔を見れば、嘘偽りのない本心だと判る。
 トゥーリも嬉しかったが、感じやすいルーグはもっと感じており、目を潤ませた。
「シークは……お幸せですなあ! 作り置きの中でよろしいなら、一番立派なのをお持ちしますよ。」
 そして、トゥーリを悪戯っぽい目で見つめた。
「それで……ですがね。裏に何て彫ります?」
 トゥーリもアデレードも意味を量りかねた。
「お互いの名前を入れるんじゃないのか?」
 ルーグは苦笑して首を振った。
「つまんねえ! お貴族さまはそうなさいますがね、町人の間では名前の他に、短い文句を入れるのが流行りなんでさあ。シーク。あなたさまは新し物好きでしょうが。」
「何て文言を入れるのだ?」
 彼は含み笑いを漏らしながら答えた。
「そりゃ、熱い愛の言葉でしょうよ!」
 二人とも恥ずかしそうに俯いた。
「また……何かお考えなせえよ。ぐっと熱い一言。」
 トゥーリは流行り廃り以前に、良いことだと思った。直ぐに文言が思い浮かんだが、面と向かっては気恥ずかしくて言えなかった。言おうか言うまいか、ちらちら視線が泳いだ。
 ルーグは大笑いした。
「こりゃあ、街の噂は嘘っぱちらしい!」
(何が嘘っぱちさ! どうせ、ふしだらだとかいう噂だろう?)
 ルーグは懐から小さな紙片を出し、差し出した。書くものと予想をつけて持っていたのだ。
「くだらん噂、一時でも信じたか? 見損なったぞ、ルーグ。」
 トゥーリは毒づきながら、文言を書き始めた。
 ルーグが覗き込んで、途中で取り上げた。
 彼は、紙とトゥーリの顔を代わる代わるまじまじと見て、にやにや笑いながら
「また意味深な……。お熱いことで。皆までお書きになる必要はありませんよ。もう一方には……決まっていますわな!」
と言った。
 アデレードは不思議そうな顔をしたが、ルーグは彼女には答えずに
「早く帰って作らねばね! お二人とも、しばらく辛抱なさってね。」
と笑いながら帰っていった。
「何て書いたの?」
「渡すまでのお楽しみ。」
 トゥーリはぷいっと横を向いた。照れくさそうにしているのが、アデレードには嬉しかった。




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