10

 意識が清明になると、トゥーリは頻りとアデレードのことを知りたがった。老ヤールも、彼女のことは聞いていない。答えに窮した。
 彼は焦れ、朝議に行くだとか、登城するだとか言い出すようになった。彼の身体はまだ本来の調子ではない。朝議の場で立ち続けるのはとても無理だ。周りの者は言葉を尽くして止めた。
 彼とても、自らの体調は解っている。傷はまだ痛みや疼きがある。薄皮が張り始めたばかりだ。可動域も狭い。立ち上がれば、一瞬目の前が暗くなり足許がふらつく。
 ひとが言う通り、立ち続けることには不安があった。だが、心は日毎に傷よりも疼いた。

 ある朝。
 療養を始めて以来、まだ暗い時間から目覚めるのは、トゥーリにはもう慣れ性になっていた。長い一日を寝台の上で過ごす。それだけが日課である。
 しかしその日は、真っ暗な天井を眺めているうちに、何か怒りにも似た熱い気持ちが沸々と湧き上がってきた。
(登城する……!)
 彼は傷を庇い、ゆっくりと寝台から下りた。
 寝台下の櫃の中に、宮廷に着ていけるような衣装が入っているか覚えがない。探ってみようと、無意識に利き手の左で蓋を開けて、唸り声が出た。
 まだこれ程動かせないのかと暗澹たる気分だったが、もう一度右手で開けた。そして、不器用な右手だけで中身を探った。
 地味な草原の上着が出てきた。草原の衣装ならば、地味だとしても宮廷に着ていける。彼はその黒い上着を寝台の上に放り投げた。
 黒い上着の下には臙脂を着るのが草原では定番だ。更に櫃の中を掻きまわしたが、白いものしか見当たらなかった。
 だが、構うことはない。彼は寝衣を脱ぎ、着替えを始めた。苦労するだろうと覚悟していたが、袖が広く身巾もゆったり作られている伝統衣装は、思ったより楽に着られた。
 閉じられた窓の隙間から薄い光が射してきた。日の出が近いのだと気づき、彼は慌てて髪を整え始めた。いいことに、昨夜洗ったばかりの髪は縺れることもなく、するりと櫛を通した。
 髪だけは、いつになくしっかりと編んだ。
 上着の襞を上手くつけられたか自信がない。帯端の長さも釣り合いが取れていない。玉を三連掛けるべきだと思ったが、重さが首にどっしり圧し掛かる。一連だけ掛けた。
 こんな見苦しい着付けは以前には耐えられなかったが、今の自分にできる精一杯なのだ。そう思うと、いかに今までが虚飾に塗れていたのか知れて、自嘲が出た。
 さすがに騎馬で単身の登城はできない。馬車が要る。
 彼は寝台に座り、老ヤールが訪れるのを待った。
 程なく現れた老ヤールは仰天し、言葉も出ない。
 トゥーリは立ち上がり、彼の目を見つめた。
“解るだろう? ”
 老ヤールはふうっと息をついた。もう止められないのだと悟り、黙って出て行こうとするトゥーリを呼び止めた。
「お待ちなさい。髪は結構ですが、今日は着付けがだらしないですな。方々の前で、それはいけない。」
 彼は主の帯を解き、しっかり襞を取ってから結び直した。
 そして、左腕を上げ気味にしているのに気づいて、医師を呼んだ。
 医師は感心しない風だったが、黙って左腕を麻布で吊った。
「お供いたします。」
 老ヤールはそれだけ言って、言葉少なに主に従った。

 朝議の広間には、既に諸侯が集まっていた。
 皆はトゥーリが来たのに驚いた。酷くやつれて左腕を吊った彼の姿を、信じられないという様子で見つめている。だが、話しかけるどころか、挨拶する者もいない。
 宮宰はじろりと見ただけで、何の異変もなかったかのように前を向いている。
 テュールセンの公爵が歩み寄った。
「シーク、お身体はもういいのですか?」
 彼らしくもない、控えめな問いだった。困った顔をしているようにも見えた。
「見ての通りです。」
「もう少し、お休みになられた方がいいのではないかな?」
「いえ……」
 彼は、テュールセンの公爵の様子を訝しみ、わけを尋ねたかったが、ちょうど大公の鳴りが告げられた。
 皆は順位通りに並び直し、大公を迎えた。
 大公はトゥーリのいるのに気づいて、不愉快そうな顔をした。
「ラザックシュタールか。身体はもういいのかね?」
 いつものように、親しくアナトゥールとは呼ばない。固い声だった。
「はい。」
 大公はもう何も言わず、彼を見ることもなかった。
 諸侯の間にも以前はなかった緊張感が流れている。奇妙だった。
 大公は見ようによっては、気の塞いだ様子にも見える。トゥーリはアデレードの具合が悪いのかと胸の底が冷えた。
 朝議はさして珍しい案件もなく、淡々と終わった。
 散会した直後、彼は大公を呼び止めた。
「大公さま、しばらく。公女さまはいかがなご様子ですか?」
「……そなたに知らせるようなことは何もない。」
 大公は素っ気ない答えを返して、立ち去ろうとする。
 トゥーリは追い縋り問いかけた。
「どうぞ、お怪我の具合だけでもお教えください。」
 大公は立ち止まり
「そなたに聞かせることなど何もないと申しておる。姿を見るのも厭わしいわ!」
といつにない怒声を挙げた。
 残っていた貴族たちも、もちろんトゥーリも驚いた。
 だが、貴族たちは少し理由がわかっているようで、大公の去るのを見ながら、小声で何かを囁き合った。
「いったい……」
 絶句する彼の側に、何人かが集まった。
「大公さまは……その……今しばらく、ラザックシュタールさまにお会いになりたくないとお思いのようですよ。」
「もうしばらく静養なさっていた方がいい。」
「公女さまのお怪我は、悪い風の入ることもなかった。心配なさらなくてもいい。」
 彼らは口々にそう言った。
「どうしてですか? 何やら……卿ら、ひどく……」
 そう言いかけて、彼はおかしな気配を感じた。見渡すと、向こう側の一塊が彼を見て笑っていた。酷く卑しい感じの笑いだった。
 彼は咄嗟に
「何が可笑しい!」
と怒鳴った。すると、きまり悪そうにそそくさと立ち去っていった。
 側にいた者は目配せし合い、気の毒そうに
「とにかく、もう少しお出ましにならないことですな。」
と言って去っていった。
(何かあるのか?)
 彼は老ヤールに、問いかける目を向けた。しかし、首を傾げるだけで何も答えない。老ヤールも知らないのだ。

 翌日もその次も、忠告に逆らって毎日登城した。
 大公の様子は一向に和まず、トゥーリの方を見ることもなく無視した。
 大公の態度を見て、貴族たちも段々と彼に近づくのを避けるようになった。
 ひそひそと交わされる会話は、彼が現れると慌てて止んだ。
 テュールセンの公爵は何度か
「疲れているように見える。身体に触るのではないか? 毎日参内せずともいいのだよ。」
とそれとなく休むように諭した。
 同じようなことをこっそり囁く公達もいた。
 それでも、彼は素知らぬ風で朝議に並び、散会の声と同時にアデレードのことを訊いた。しかし、大公の答えは一切無かった。

 ある日、アデレードのことを尋ねるトゥーリに、大公は怒声を挙げた。
「しつこわ! そんなに知りたければ、自分で見るがよい!」
 答えを拒否する意味かと思われたが、違った。大公は椅子に戻り、小姓に公女を連れてくるように命じた。
 帰りかけていた諸侯は、興味深々の様子で残った。
 重苦しい沈黙の時間が過ぎた。いやに長い。彼女の翼からの距離にしては、時間がかかり過ぎなのだ。
 扉が小さく開いた。一斉に視線が向かった。
 ヴィクトアールが覗き、扉を身体で押さえた。
 彼女に手を引かれて、アデレードが現れた。
 二人は手を取り合い俯いて、ぎこちなく歩いてきた。
 アデレードの靴の踵がかつんと響いた。その後に、ずるっとおかしな音がした。大儀そうに歩いている。右足を引きずっているのだ。
 トゥーリはぎょっとして
「それは……?」
と言ったきり、言葉に詰まった。
 ヴィクトアールは、泣き出しそうな顔をして彼を見やった。
 長い時間をかけて、アデレードが正面に立った。
 大公はトゥーリを睨んだ。
「ラザックシュタール、わかったか。アデレードの足は、右足はもう治らないのだ! 動かないんだよ!」
「そんな……」
「そなたの所為だ。そなたの所為だぞ!」
 大公も逆恨みだとは思ってはいても、言わずにいられないのだ。涙を流していた。
 トゥーリは呆然と立ち尽くした。
(嘘だ! 悪い夢だ……)
 そう思い込もうとしたが、たった今見ている彼女の姿が、事実だと残酷に告げている。

 沈黙の広間に、また扉の開く音がした。王子が執事を連れて入って来た。
 王子は諸侯の間を、悠然と正面まで歩いた。
 大公は戸惑っている。王子の来ることを知らなかったのだ。
 王子は段を上がり、大公の目の前に立った。
「私は公女との婚約を取り消すことにした。」
 いきなりの宣言だった。
「何の相談もなく……」
「相談? 相談することなど何一つない。そなたとて理解しておるはずだろう、ロングホーン。」
「しかし……」
「私が望んで、そなたは受け入れた。断るのも私だ。そなたはただ、受け入れればよい。」
 大公は眉根を寄せ、王子を見つめた。
「殿下は……我が国の現在をご存知ではあられないのですか?」
 控えめな非難だった。だが、それすらも王子には不愉快極まりないことだった。
 彼は顎をそびやかし、大公を見据えた。
「我が国は、我が父祖が築いた。大公は王家の第一の家臣である。古から現在まで何の変りもない。」
「王家の連なりは今や殿下お一人です。我々の力無くしては存続すら危ぶまれます。」
「名誉を捨てよと申すか? 私の決断の理由を、そなたは理解していると思ったが? まさか、知らぬふりを決め込むのではあるまいな?」
 大公は顔を歪め、黙り込んだ。
 王子はにっと笑った。そして、尊大な様子で
「大公もかしこまった。先にも述べた通り。公女との婚約は白紙とする。」
と再び宣言した。
 広間に溜息が漏れた。だが、誰もがやはりといった顔をしている。
 トゥーリは一歩前に出た。
「お待ちください! 何故なのです!」
 王子は、彼に冷たい目を向けた。
「こんな傷物の娘を妻と呼ぶなど、私はごめんだからね。」
 アデレードは俯いて、顔を赤らめた。
「傷物? 足が、足がそうだからといって、そのような言い草はないでしょう!」
 彼が声を荒げると、王子は薄く笑った。
「足? 足もそうだが……。イ=レーシ、そなたの手がついた娘などいらぬと申しておるのだ。」
 トゥーリには心外過ぎる誤解だった。咄嗟に言葉が出ないほど驚いた。
「そんなことはしておりません!」
 寒々しい広間にトゥーリの声が響いた。
「白々しいことを申すな。」
「いいえ、いいえ。絶対にそのようなことは無い。コンスタンシア、その名前の通り純潔でいらっしゃいます。」
「無い? 無いのなら、その証を立てて見せよ。どうだ? できないであろう?」
 王子は嘲笑い、アデレードにも蔑む目を向けた。
「そなたもできないであろう? 偽りばかりだな。そなたらは。」
 何度否定しても信じてもらえなかったのだろう、彼女は黙って唇を噛んでいるばかりだった。
「私の剣が、ジークルーンの血溝に刻まれたテュールが見ておりました。公女さまの貞潔を!」
「剣が事の次第を語るとでも?」
 王子は愉快そうですらある。
 諸侯は隣の者と、どちらが正しいと思うのかを囁き始めた。
 宮宰が鼻を鳴らし
「枕上の剣など……古臭いことを申すものだ。大体、草原の者はテュールなど崇めていないだろう?」
と吐き捨てるように言った。
 テュールセンの公爵は、宮宰の言い草が我慢に堪えなかった。
「武門にとって、剣ほど神聖なものはない。“金髪のアナトゥール”の佩刀ならば尚のこと。その前で醜行は致しますまい。万が一、不道徳なことがあったなら、正しい裁きを下すテュールは、シークの命を奪ったはずです。」
「愚かしいことを。」
 王子は一蹴した。
 宮宰も皮肉な笑みと共に、その意見を退けた。
「武門のテュールセンさまが剣を尊ばれる気持ちは解りますが、そのような話は現実味にちと欠けますな。」
 公爵はぎっと二人を睨んだが、彼らの言う通り、公女とトゥーリの間に何も無かったことは証明できていないのだ。それ以上言うことを知らなかった。
 トゥーリは声を張り上げた。
「無いものはない!」
「偽りを申すな。そなたの色事の噂は絶えないからな。シークの寝床には、毎晩違う女が寝ているとか聞いたぞ。独り寝ができん性質らしいとか……。何も無いなど、誰が信じる? 大方、その美貌でいつものように誑かしたのだろうよ。」
 そう言って、宮宰はせせら笑った。追従する笑いが起こった。
「誰がそのようなことを!」
「都の上町から下町まで、皆申しておるわ!」
 老ヤールが進み出て、トゥーリの肩に手を置いた。
「トゥーリさま、もうお止めなさい。」
 宮宰は忘れていたというように、老ヤールを見て
「ほれ、お前のじいやも否定せぬぞ。」
と嘲笑した。
 老ヤールは宮宰に厳しい目を向けた。
「否定したところで、宮宰さまは信じないでしょう。ですから言わないまでのこと。そのような流言を信じるとは、あなたこそが卑しい。」
 諸侯がざわついた。シークに次ぐ高い血筋とは言え、ラザックの一貴族にすぎない身が、宮宰をそうまで批難するなど有り得ないことなのだ。
「大公さま。本当に、誓って何もないのです。お信じください!」
 トゥーリは必死に大公に訴えた。
 しかし、大公からは冷たい言葉が返ってきた。
「そなたには底が知れぬところがある。いつぞやの草原でのこともそうだった。信じられんな。」
「そうそう。都でどうの、草原でもあるのだろう? 全く卑しいラザックめ!」
 宮宰は厭わしそうに顔を顰めた。
 トゥーリは耐えきれず
「何を! そのようなこと無いわ!」
と怒鳴った。
 そして、見下ろしている大公に詰め寄った。
「……私のことは信じずともよい。しかし、大公さまは、公女さまのことをもお信じにならないのですか? あなたのご息女は、そんなふしだらな女ではない!」
 燃えるような目で、血を吐くような激しさがあった。
「それは……」
 大公は言葉に詰まった。
 皆は大公とトゥーリを見比べた。
 出し抜けに、王子が高笑いした。
「ふしだらな女ではないとしても、男の力には敵わないだろうよ。無理強いか? そうであっても、操正しい女なら舌を噛まねばならぬ。」
 そう言うと、憎しみのこもった目をアデレードに向けた。

 それには、アデレードもさすがに上気し、王子を睨みつけた。
 トゥーリも、刺し殺しそうなぎらついた目で王子を睨んだ。
 しかし、彼は顔を歪めると、すとんと両膝を床に落とした。そして、両手をつき
「どうか……どうか、姫さまの貞操をお信じください。名誉は傷ひとつありません。婚礼を、誓った通り、姫さまをお妃になさってください。」
と言って、額を床に付けた。
 彼女を誤解しないでほしい、その一心だった。
 老ヤールは辛そうに目を逸らしたが、見届けなくてはいけないと目を向けた。
 皆は驚き、息を呑んだ。
「シークが土下座を……」
「本当に無かったのではないか?」
「どうだか……欺くおつもりかもしれん。」
 誰もが遠慮することも忘れ、口々に意見を述べ合った。
 王子はしばらく蹲るトゥーリの姿を見下ろしていたが、つかつかと歩み寄ると
「そんなまやかしには騙されんぞ!」
と叫んで、彼の左肩を蹴りつけた。
 トゥーリはよろめいたが、蹲り続けた。
 王子は黙ったまま、何度も蹴った。
 王子が息を荒げて止めると、トゥーリの袖口から鮮血が床に垂れてきた。
「どうか、どうか……」
 トゥーリは歯を食いしばり、額を床に擦り付けた。
 張りつめた広間には、もうしわぶき一つない。袖から血潮が垂れる音さえも聞こえそうな静寂だった。皆、トゥーリと王子の姿を固唾を飲んで見つめていた。

 突然、アデレードが駆け出した。しかし、不自由な右足が利かずに、どっと転んだ。彼女はそのまま彼の側ににじり寄った。
「アデレード……」
 彼は膝をついたまま、彼女の側に寄り手を貸した。彼女はそのまま彼に抱き付いた。
「愛しているわ、アナトゥール。」
 彼は天井を仰いだ。そして、彼女の背中を抱き締めた。
「ああ、俺も愛している。」
 彼の声も震えていた。
 彼女の衣装の背中が、みるみる血に染まっていく。
 ヴィクトアールは一歩踏み出したが近づけず、辛そうに二人を見つめた。誰もが黙って見つめていた。
「姦夫姦婦め。その姿が全てを語っておるわ!」
 怒声を挙げて、王子が大股に歩み寄った。
 今度はアデレードを足蹴にするのかと、トゥーリは胸に抱き込み、ぎっと王子を睨んだ。
 王子は怯むでもなく
「卑しいラザックの羊飼い! そのふしだらな娘を有り難く頂戴するがよい!」
と蔑みの言葉を吐いて、通り過ぎた。
 その言葉の後、ごく小声の呟きがあった。
「従者と不貞を働いたキアラ……。女など皆同じ。」
 ヴィクトアールが聞きとめていた。彼女は広間を去る王子に駆け寄った。
「カーロイさま……あなた、まさか……」
 王子はにっと笑い、彼女に応えた。
「死ねばよいのだ。不貞な女など。」
 彼女が唖然としている間に、王子は広間を出て行った。
 彼女は拳を握り、扉の向こうに
「あんな男……お前こそ卑しいわ!」
と怒鳴った。

 トゥーリは、アデレードの顔を覗き込んだ。
「もう一度、お前に求婚するよ。俺の奥方になってくれ。」
 すぐさま答えがあった。
「ええ。ええ。私を“シークの奥方”にして。約束通り。」
 彼女は涙を拭い、彼に笑顔を向けた。
 ヴィクトアールが静かに歩み寄り、アデレードの肩に手を置いた。
「姫さま、よかったですね。これからは、シークとずっと一緒にいられる。」
 そう言って、涙を落とした。
「ありがとう。ヴィクトアール。あなたにだけ解ってもらえたらいいわ。」
「ええ。私の次兄も、もしかしたら、私の父も解っていますよ。さあ……立って。」
 ヴィクトアールがアデレードを促し、トゥーリも手を貸して立たせた。
 大公は震え声で怒鳴った。
「そなたら……。アデレード! そなたなどもう私の娘ではない! ラザックシュタールなり地獄へなり去るがいい!」
 トゥーリは深々と頭を下げた。
「大公さま。アデレードは必ず私が幸せにいたします。ありがとうございます。」
 皆が凍りついて見守る中、トゥーリはアデレードの腰を引き寄せ
「お前は右足か。俺は左だから、少し厄介なのかな……? そうでもないか?」
と言って、上手い支え具合を探った。
「行こう、アデレード。ローランが死にかけたままなんだろう?」
「奇蹟は起こった?」
「ローランには起こらなかったよ。 ローラン ローラント の息子には起こった。」
 二人は小さく笑い合った。それは、二人以外の誰も知らない、子供の頃の会話の続きだった。
 彼女は扉の前で振り返り、父に別れを告げた。
「さようなら、お父さま。」
「……そのまま、その男の屋敷に行けばいい。そなたの部屋など、もう城にはない。二度と顔を見せるな! ラザックシュタール。そなたもだ。早々に草原へ帰れ!」
 二人は、それにはもう応えなかった。これからは、こうして支え合って生きていくのだと宣言するように、二人はお互いの身体を寄せ合って出ていった。
 老ヤールが静かにお辞儀をし、続いて出て行った。
「つまらんことに時間をかけたわ! 頭痛がする。皆、散会だ。」
 大公は憮然と告げ、すたすたと出ていった。
 ほっと広間の緊張が解けた。
 だが、誰もが無口に広間を後にした。


註   コンスタンシア:<constance 常在性。名前に用いる場合、貞潔という意味があるそうです。

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