残花
10
少年は南の大路の手前で立ち止まり、トゥーリの格好を眺めまわした。
「やっぱ、生れ育ちって凄えよな!」
と言って、トゥーリの纏っているぼろを乱し、長い髪を服の中に入れた。
また眺め、思案の末に自分の首巻代わりの布切れをトゥーリの頭に巻き付けた。
「髪を切るのは、そんなに嫌なもんかい?」
「いや……」
少年は責めているのではなかったようで、それ以上は髪のことは言わず
「その上等な靴は脱ぎな。裸足だ。」
と言った。
トゥーリは言われるままに長靴も靴下も脱ぎ捨てた。
「そんないい靴が落ちていた日にゃ騒ぎになるぜ?」
少年は投げ捨てられた靴を拾い、頭陀袋の一番下に押し込んだ。その上を、入っていた雑多な物で覆い隠した。
そして、トゥーリの足に道端の土くれを擦り付け始めた。
「暗いから誤魔化せるかな? 胸を張って歩かないでくれよ。背を丸めて惨めったらしくな。乞食なんだから。」
「ああ。」
「溝臭えな。」
「濠を泳いだからな。」
「……堂々と東側から現れるとはね。眉唾だったけど、本当にそうだった。」
「眉唾? 本当?」
少年は応えず立ち上がり、南の大路へ向かった。慌てて後についた。
乞食仲間に見えているのだろうかとトゥーリは冷や冷やしたが、仕舞い支度をしている職人や商人は見もしない。
少年は一直線に渡り切った。そのまま西の方へ進んでいく。
「おい、どこへ向かっている?」
「西。」
「何故?」
少年は先程の鍵束を見せて、ふふんと笑った。家の鍵のような小さなものだ。
「何の鍵だ?」
「俺らはね、時々これを使うんだよ。」
「だから、何の鍵?」
「俺らはたった銀貨一枚で掃除するんだ。下水をね。」
下水の通る地下道から逃がすつもりなのだ。
だが、トゥーリはふと疑問を感じた。
「その鍵。使ったら返すものではないのか?」
「本物は返すさ。……逃げなくっちゃいけねえ場合ってのがあるんだよ、下々にはさ! ま、シークも今、そうなってんだな。」
少年はくすくす笑った。
悪事を働いた場合に逃げられるように、勝手に合鍵を作っているということだ。
比べ馬の時、逃げ方を知っていると言ったのをトゥーリは聞き流していたが、そういうことなのだと知った。
「器用な奴がいるんだな。」
「ああ。怪しい奴の吹溜りだからね。際どい仕事をする奴が紛れている。代筆屋、転売屋、運び屋、それから……情報屋。」
少年は含みありげな目を向けた。
トゥーリは、少年があの場所で待ち受けられた理由を察した。
南街の西の果てまで歩いた。少年は通りを離れ、家々の合間に入った。その突き当りに小屋があった。
鍵はすんなり鍵穴に入り、当たり前のように回った。
少年は頭陀袋を開け、トゥーリに靴を返し、脂燭を点した。
小屋は一間で、隅に掃除に使うと思われる道具が一塊にしてあった。そこから多少の臭気が漂っている。
そして、床の真ん中に鉄扉があった。再び、怪しい鍵がさし込まれ、難なく回った。
少年が鉄扉を持ち上げるなり、強い臭気がたちこめた。
少年は先に入り
「梯子に気をつけてくれよ。」
と招いた。
「扉は閉めてくれ。……ちょっと汚くて臭えんだけどさ。我慢してくれよな。」
ちょっとくらいではなかった。鼻が曲がるような臭いだ。
また、降り立った下は天井が低く、大柄なトゥーリは屈まねばならなかった。
泥水なのか、もっと汚らしいものなのかがどろりと足にまとわりついた。
「下は見ねえほうがいいよ。」
「大丈夫かな?」
「なあに、躓くようなものはねえだろう。この前、掃除したんだから。」
少年は笑っている。
トゥーリは、こんな寒い時期に掃除をさせるのかと驚き、酷いと思ったが
「そうか。」
とだけ応えた。
少年はトゥーリの手を引き歩いた。脂燭の灯りは頼りない。トゥーリは不安だったが、見たくない物を見ずに済むのを有難いと思うことにした。黙って歩いた。
どれだけ歩いたのか、道は二手に分かれた。少年は立ち止まり、右の方に灯りを向けた。
「こっちは北に向かって、海に繋がっている。出口は崖なんだ。」
そして、左に向き
「こっちは西の河に出るんだ。ただ、途中に金柵がある。」
と言った。
「短刀しか持っていないぞ? 金柵は大丈夫なのか?」
「心配いらねえ。……まあ、俺らも頼りになるってことだよ。」
少年は自慢げにそう言った。
トゥーリはこの短い間に、少年の勿体ぶった物言いに慣れていた。そして、信じてもいた。確かめることはしなかった。
「もう十分頼りになっているよ。」
頭を撫でると、少年はくすぐったそうに笑った。
「名前は?」
「……ネルギ。」
「え?」
トゥーリは咄嗟に言葉が出なかった。それは古い言葉で“人ではない”という意味だった。
少年は苦笑し、語って聞かせた。
「母ちゃんがさ、俺の前にも何人も赤ん坊を産んだんだけど、皆死んだんだよ。魔物の所為かなって思ったんだってよ。だから、魔物が目をつけないように“人じゃねえ”って名前にしたんだ。で、俺は生きているってわけ。」
「そうか……」
としか言えなかった。
「母ちゃんは元気にしているのか?」
「ああ。」
「父ちゃんは?」
すると、少年は言い淀んだ。
「知らねえ。生まれる前からいねえよ。母ちゃんも知らねえって。……死んだんじゃねえかな。」
急に覇気のなくなった言葉から、トゥーリは売春婦の子なのかもしれないと思った。悪いことを訊いたとも思った。
ネルギは、それに気づいたのか
「まあ、気にしなくていいよ。」
と笑った。
しばらく歩くと、ネルギの言った通り金柵が現れた。それは折れ曲がっていた。塵芥を留める柵として意味を失っている。
来ることを見越していたとしか思えないが、準備が整い過ぎだ。トゥーリは首を傾げた。
ネルギは見透かしたように尋ねた。
「これ、何で曲がっているか、不思議がっているだろ?」
「ああ。」
ネルギは不敵とも思える笑みを浮かべ、間を取って驚くべきことを言った。
「シークのご近習をここから逃がしたんだよ!」
「何だと!」
「ずっと前、大公の奴の手下が屋敷に乗り込んで、シークのご家来衆を皆殺しにしたんだけどさ。少し街に逃げた。どうなったのか、全部は知らない。でも……ほら、比べ馬の時にいたあの人を逃がしたんだ。」
「そうか……そうなのか!」
大きな希望がさしてきた。
「ほら、もうすぐだ。」
「西の河か?」
「うん。西の河に沿って、南に行くとラディーナだろう? ……そこまで、歩かなくてもいいよ。」
トゥーリが何故か訊く前に、ネルギが誇らしげに言った。
「ご近習を逃がしたって言っただろう? その人が馬を引いて待っている。ま、馬は期待しねえでくれよ。てか、シークは“お馬のアナトゥール”だから、大丈夫だよな。」
涙が出そうだった。馬さえあれば、ずっと早くラディーンに伝えに行ける。
「ほら、出口だよ。着いた、着いた。」
ネルギはそう言って、嬉しそうにトゥーリの背中を押した。
明けの空が紫色に染まっていた。都の城壁はずっと向こうだ。少し眩しかった。
改めて自分の身体を見下ろして、トゥーリは苦笑した。
ぼろを纏い、そのぼろには何だか考えたくもない汚れが付着している。手にもべったり付いている。
彼はネルギと並んで、川の水で手を洗った。ネルギは彼に、朝陽よりも眩しい笑顔を向けた。
トゥーリは屈み続けた身体を伸ばした。
「ネルギ。お前に名前をやる。」
「シークは名前をつけるのが好きなのかい?」
ネルギは戸惑い逡巡したが、照れくさそうに
「……そんなに、つけてえってんなら……」
と小声で言った。
「ラースロゥ。俺の死んだじい、ラザックの老ヤールの名前だ。」
「ええっ? 畏れ多いや!」
だが、満更でもない様子だ。
「お前は賢いな。ラースロゥのようにもっと賢くなれ。」
少年は嬉しそうに頷いた。
河原の先に、馬を連れて座っている人影が見えた。近習だ。逃げるときに切ったのか、髪が短かった。
何日もここへ通って待っていたのかと思うと、トゥーリの目頭はまた熱くなった。
近習が二人に気づき、駆け寄った。トゥーリを信じられないといった顔で見つめ、やがて落涙した。
「シーク……よかった。こんな百姓馬で申し訳ないのですが……」
「いい。百姓馬は乗り慣れている。」
二人とも泣き笑いになった。
近習が、持っていた布袋の口を開けた。
トゥーリは目を見張った。二度と手許に戻らないと諦めていた物が示されたのだ。
「“金髪のアナトゥール”さまは、ご佩刀を奪われることをお嫌いになったのでしょう。そして、私はそのご加護で逃げ出せました。」
“ジークルーン”の柄や鞘に施された金細工が、朝陽にぎらりと光った。
「早くラディーナに行きなよ。」
ラースロゥの名をやった少年が、偉そうな口をきいた。二人は笑って騎乗し、少年に別れを告げた。
「待ってろ。解放してやる。またな! ラースロゥ。……ラースロゥ・アナトゥーリセン!」
その父親のいない少年に、トゥーリは自分の父称を与えて、駆け去った。
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