9

 ソラヤの翼の小さな部屋に、トゥーリが抱え込まれた。衛士が呼びかけ、頬を叩き
「ラザックシュタールさま! お気を確かに!」
などと言って、正気を付けようとする。
 彼はぼんやりと目を開け、衛士を眺めては苦しそうに目を閉じてみせた。
「これは相当堪えておられるようだ。」
 トゥーリは目を閉じたまま応えず、衛士の腕に抱えられ続けた。
(男臭いが悪くない。がっしりした安定感が堪らんわ……)
 拷問を受けやつれ果て、更には弟の死に打ちひしがれている彼が、そんなことを考えて笑いを堪えているなどとは、誰も気づかない。衛士たちはあたふたと出入りを繰り返した。
 やがて、簡易な寝台が設えられた。彼は衛士に支え援けられ、そこへ横たわった。
 寝台の骨組みは細く、載せられた床は藁が少なくてずっしり身体が沈んだ。寝心地は悪い部類である。だが、茣蓙ひとつない独房の石床に転がっていた身には実に有難く、心地よいとすら思えた。
(アデレードはどうしているんだろう?)
 落ち着くと、真っ先にそれを思ったが、今は自分の身を何とかせねばならない。
(彼女が殺されることはない。)
 そう信じ、少し眠った。

 食事も与えられた。ご馳走では勿論ない。百姓の食べるような黒いパンを浸した汁物だった。
 衛士はトゥーリの左手首を座っている椅子に縛った。そして、右手の汚れているのを見て、水盤の中で洗った。
 卓の上に匙はなかった。勿論、食事用の小刀などない。
 汁物は湯気を立てている。熱々であることは見れば判った。彼は汁気を吸ったパンを摘み上げた。
「熱いっ!」
 パンが皿に落ち、べちゃっと汁が飛び散った。
 彼は指を舐め、服に擦りつけた。
「匙は無いのか?」
 衛士は微かに眉を顰めた。銀器を借りるのは不作法なことなのだ。
「こんな身の上だ。持参しておらんのだから仕方ないだろう? 賄い方に借りてくれ。」
「お持ちできません。」
 彼は遠慮なく皿に口をつけて汁を飲んだ。
 口の端から汁が零れた。着ているものにも垂れ落ちた。
 彼は汚れた口許と指を服で拭った。
 衛士が溜息をついた。
「もう少し綺麗にできませんか?」
「これ以上どうしろと?」
「水盤をお使いください。」
 彼は右手を浸し、水滴を振り飛ばした。残った水気はまた服で拭った。
 衛士は何か言いたげにしたが何も言わなかった。
 食後はまた手縄を掛けられた。
 次の食事には肉が出た。さっと見たが、小刀を置くほど愚かではなかった。衛士が切り分けた。
 トゥーリは手掴みで肉を取り、端を噛んで引っ張った。
 肉汁がぼたぼたと垂れた。更に、思い切り噛みちぎり、肉汁を飛び散らかした。付いている香草も一緒に口に入れ、床に吐き捨てた。
 そして、汚れた指を着ているもので拭った。
「水盤があります。」
 衛士が咎めた。
「いちいち面倒だよ。」
と言い返し、汁物も昼と同じく皿で豪快に飲んだ。

 卓の周りも、着ているものも、食事の度に汚れる。
 衛士は辟易し始め、数日後には我慢が出来なくなった。汁気の垂れない物を出すように厨房に申し入れた。
 しかし、厨房は難色を示した。焼く・煮る・茹でるのどれも、多少なりとも汁気は垂れる。それ以外の調理法があるなら教えてくれと詰った。実現しなかった。
 トゥーリの着ているものはどろどろに汚れていった。
 獄に繋がれて以来、風呂に入っていない彼の身体は臭い始めていた。その上に、汚れた服から饐えた臭いがする。
 衛士は耐えかね、彼に着替えをさせた。
 彼はされるがままに大儀そうに従い、いかにも身体に堪えるという風に
「痛い!」
だの
「横になりたい。」
だの弱音ばかりを吐いた。
 そうして、早めに床に入り、ゆっくり眠った。三食しっかり食べた。
 食べては寝るだけの彼を見て、食事中を見張る者の数が徐々に減り、直ぐに出て行くようになった。
(いいの? 俺は、狂犬のラディーンの血を引いているんだよ?)
 そう思ったが、教えてやる義理もない。

 衛士は肉を細切れにし、汚されないように工夫したが、問題は変わらなかった。
 肉汁の付いた指は相変わらず服で拭くし、汁や羹は零す。肉の固い筋や骨の破片は平気で床に吐く。
 汚らしい食事法と、着替えをさせる煩わしさを嫌った衛士は、匙を持ってきた。
 トゥーリは匙を使って、汁物だけは汚さないように食べた。
「ああ、よかった。右手でも使えるんですね。」
 衛士はほっとしたのか、笑みを見せた。
「掬い難いけれど、右手でも使えるんだなあ……。今まで知らなかったよ。」
 衛士は毎回匙を与えるようになった。
(匙の用途は食うだけではないよ? 平和すぎて、それしか思い浮かばないの?)
 それも教えてやることではない。

 トゥーリは身体の状態を確かめた。背中の傷は塩のおかげか膿むこともなかった。触って確かめることはできないが、瘡蓋が張っているような感じがした。
 左手の爪は生えそろうどころか、芽生え始めているとも見えないが、痛みはもう無い。
 迷う気持ちはあった。しかし、長くはいられないのだ。不安ながら、決心をつけた。
(本日、決行……)
 入相の鐘が鳴り、夕食が運ばれてきた。
 トゥーリは汁物の器に触れ、温度を確かめた。熱い。
 匙でかき回しながら、見張っている衛士に
「奥方はどうしたのかな?」
と尋ねた。予想通りの答えが返ってきた。
「お答えできません。」
 表情に動揺している様子はなかった。殺されてはいない、酷い目には遭っていないと判断した。
「母は?」
 衛士は逡巡した。黙りこんでいる。彼は汁物をかき混ぜ続け
「怪我をしているから……心配だね……」
と小さく呟いた。
 衛士はやはり答えない。
 沈黙が流れた。衛士がほっと息をついた。
「医師にかかっておられます。」
「そうか。有難いな。……それにしても、思いも寄らないことをするよなあ。気を付けて見張っていないと、自死するかもしれん。気性の激しいのは知っているが、ああまでするとはね! 困ったものだよ。そなたらも大変だろうね。」
 それは彼の心からの嘆きであった。決して、衛士に同情を示しただけではない。真実味があった。
 衛士も感じたのだろう、愚痴をこぼし始めた。
「そうなんですよ! 何かしでかさないか……」
「寝台の側で寝ずの番をするしかないだろう? 夜中に突然、変な気を起こさないとも限らない。」
 衛士に尋ねかけながら、器にそっと触れてみた。
「既にそうしていますよ!」
「黙って見張られてはいないだろう? 色々煩いだろう?」
「……疲れますよ、あの方。」
 衛士は、ほとほと困り果てている様子だ。
(なるほどね。俺につけていた分を回して、交代で見張っているのかな? ……ま、母上に死なれては困るわけだ。崇拝者だったとかいう都の年寄りのおかげ?)
 トゥーリは肉に手を伸ばすふりをし、汁物の器を右の手首で払った。皿は卓を滑り、彼の膝に当たって落ちた。腿から下を汁が汚した。
「熱いっ! やっぱり右手は無理だったんだよ! 何とかしろよ!」
 怒鳴りつけ腰を浮かす彼を、衛士が押さえた。
「困ったもんですね。まったく! やっと汚さずにお食事なさると思っていたのに。」
と舌打ちしながら、彼の方へ屈んだ。
 彼は匙をさかしまに握り、衛士の目を刺して払い退けた。
 衛士は唸り声を挙げて転がった。
 刺したときの絶叫で、すぐさま二人が駆けこんで来た。
 彼は縛られた左手で椅子を掴み上げ、頭を狙って振り回した。
 一人に当たったが、もう一人は逃げ出した。大声で応援を呼んでいる。
 彼は目を損なった衛士の側に寄り、腹を踏み押さえながら腰の短刀を奪った。それで左手の縛めを切り、長剣も奪った。
「すまんな。片目になるが、命までは無くならないだろう。草原では、捕虜は杭に縛り付けて、顔を突っ込ませて食事させるんだ。匙など与えん。見倣え。」
 彼は、もう一人の昏倒から醒めつつある衛士の頭を蹴りつけて倒すと、部屋からそっと出た。

 廊下で四人斬った。ソラヤはおそらく元の自分の寝室、トゥーリが城に泊まる時に使っていた寝室に寝かされているだろうと予想をつけた。そちらには近づかず、庭園の方へ向かった。
 また二人斬り、刺した。すると、血溝の入りの甘い衛士の長剣は、骸から抜け難くなった。
(安物!)
 斬った衛士の長剣を奪い、庭園に出た。
 アデレードと遊んだ庭園、指環をやり取りした木陰。懐かしい気持ちが湧いたが、感傷に浸っている暇はない。また衛士が現れた。
 安物の長剣は、斬ればすぐ鈍る。大方を斃すと、投げ捨てて走った。
 息を切らし、何とか障壁まで走り切った。行き当たった障壁は、見上げて天辺の望めない高さではない。
 彼は障壁の矢狭間に足を掛けた。爪の剥がれた左手は心許なかったが、仕方がない。石組みの隙間に指を差し込み、身体を引きずり上げる。手を限界まで延ばすと、障壁の天辺に届いた。
(大きな身体をありがとう、父さま。)
 今度は石組みの隙間を足掛かりにし、弾みをつけて天辺に乗り上がった。
 強い風が髪を乱した。この下の狭い緑地を横切れば濠だ。
 また足掛かりを探しながら降りるしかないが気が急いて、最後は足を滑らせ地面に転がり落ちた。
 痛みは感じなかった。そのまま走り、濠に飛び降りた。そして、濠面に身を伏せた。
 左手奥の暗闇の中、更に暗い影となって橋が見えた。城の東の橋だ。その上に続々と灯りが集まり始めた。
 灯りが揺れている。あちこちに向けて探しているのだろう。
 やがて、灯りは濠端を辿り始めた。
 彼は首まで冬の冷たい水に浸かって伏せた。すぐ上で声が聞こえる気がした。彼は息も止め、更に身を沈めた。
 がやがや騒ぐ声は次第に遠ざかっていった。
(生まれて初めて、黒い髪でよかったと思った……)
 一先ず安堵したものの、向こう岸は諸侯の屋敷のある閉ざされた上町である。上町の門の外側で岸に上がらねば面倒なことになる。
 先に向こうまで泳いで一旦上がるか、上町の門を越える辺りまでこのまま濠面に縋って行くか。彼は少し迷った。
 身を切るように冷たい水である。長く縋った後の凍えた身体で泳げるとは思えない。そもそも、内陸の草原で生まれ育った彼は、泳ぐのには自信がなかった。
(凍える前に……)
と泳ぎ始めた。

 何とか向こう岸へ泳ぎ着いた。しかし、今度は濠面をよじらねばならない。
 既に、トゥーリの右の爪と指先、左の指先には血が滲んでいた。それを更に血で染めながら登った。
 身体が凍るように冷えていた。歯が鳴った。
 先に泳ぐ選択で良かったのだと思った。
(得物は短刀だけ……)
 彼ははがたがた震えながら、歩き始めた。

 極力、屋敷の篝火の届かないところを選んで忍んだが、とうとう
「シークが逃げたそうだ!」
という声が聞こえた。
(逃げられるかな? ……髪を切るか?)
 トゥーリは短刀を抜いたが、鞘に戻した。
(こんなみすぼらしい格好、上町では一遍に目につく。第一、俺は面が割れている。)
 そして、以前は切る切ると言って、老ヤールを困らせたことを思い出し苦笑した。
(武装して馬に跨った時、髪が短いのではシークとして格好悪いだろう? じい。)

 路地を歩き、南の方へ歩いた。
 上町の門が見える。いつもより番をしている者が多い。松明を手にして集まり、何か相談している風だ。勿論、脱走したトゥーリを探す算段をしているのだ。
 トゥーリは少し戻った場所から再び濠に下りた。濠面に伏せた。既に手足が冷え切っており、ともすれば掛かり損ねる。
 早く通り過ぎたい気持ちと用心する気持ちがせめぎ合う。
(水音が聞こえたら事だ……)
 ゆっくりと慎重に門を越えた。
 彼は濠の上を窺い、上町から離れて南の街まで移動した。そして、よくよく上を確かめ、出来るだけ暗い場所を探した。
 冷え切った身体を持ち上げるのは、先程とは格段に難しかった。歯を食いしばってよじた。

 南街は商人や職人の街である。何人か懇意にし優遇した人物もあるが、頼るわけにはいかない。
 街はまだ仕事をしている職人がいるのか、ところどころ灯りがあった。明るいところは歩きたくない。
 トゥーリは路地から南の大路を眺め、どうやって都から出て草原に辿り着くか考えた。しかし、いい方法が思いつかない。
 既に、都のどの門も閉じている時間である。
(明けるまで忍んで……先ずは人波にまぎれて出て……それからだな……)
 路地の奥に戻ろうとした彼は、仰天した。
 人がいたのだ。ついさっきまではいなかった。立ち止まって、彼の方を向いている。
 見渡しても、脇へ逸れる小道もない。南の大路に出ることは勿論できない。
 彼は人影に目を凝らした。みすぼらしい老婆と少年だ。
(乞食か……)
 彼は短刀を握り締めた。そして、平静を装い、二人の方へ歩き出した。
「もし……」
 すれ違う瞬間、老婆が声を掛けた。冷汗が出て、短刀を握る手に力が入った。
「やるものは何もない。」
 そう応えて、通り過ぎた。
 老婆は彼を追って
「シークでございましょう?」
と言った。
(乞食にまで知れているとは!)
 彼は短刀を抜いた。
 老婆も少年もびくりと止まったが、少年の方が
「フォントーシュ。」
と言った。
「フォントーシュ……北の門のか?」
 二人とも頷いた。
「こんなに早くお役に立てるとはね!」
と小さく笑った。
 老婆が頭陀袋から服のようなものを取り出した。服と言うのもおこがましい布の束だった。
「シークを草原へお落としいたしますよ。」
 老婆はにやりと笑い、少年の背を押した。
「この小僧っ子についていきなされ。」
「南門からどうやって出るのだ? 門は閉まっているぞ?」
 すると、少年は服の隠しから小さな鍵束を出して見せ、訝しむトゥーリの手を引き歩き出した。
「あたしらのシークに、テュールのお恵みがありますように。」
と老婆が見送った。




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