8


 下層の牢に陽が射すことはない。
 昼夜もはっきりしない以上、何日経ったのかも定かではない。
 その日現れた獄吏は小窓を開けず、独房の扉を開けた。
 トゥーリはきらりと瞳を光らせた。だが、壁際で膝を抱えて、疲れ切っている風を装った。
 実際身体は弱っていたが、気はむしろ研ぎ澄まされていた。絶対に負けないという気持ちが漲っていた。
「侯爵さま、立てますか?」
「立てるけど、歩けるかは怪しいぞ? お姫さまみたいに抱き上げて。」
 獄吏は苦笑して
「口の減らん方ですな。」
と肩を貸した。
「何? 処刑? 皆の前で派手に処刑? お別れの言葉も考えていない。名演説ができんぞ?」
「処刑ではございません。」
 彼は安堵のあまり膝が崩れそうだった。
「では……もしかして、逃がしてくれるの? 何しろ、拷問官ですら心動かされる美貌だからな、そうに違いないな。」
「楽しい殿さまですなあ。しませんわ。」
「そうだろうね。生活がかかっているんだろう?」
 獄吏は応えず、ゆっくりと階段を援け歩いた。

 破れた服では都合が悪いらしく、獄吏は麻の薄い肌着を与えた。
「大公さまにお目通りか? これでは寒い。おまけに、俺の美貌が引き立たんではないか。」
 いちいち無駄口をたたくトゥーリに、獄吏は呆れた。
「美貌、美貌って……そうですけどね。ご自分で仰ると嫌味ですよ?」
 監獄の外は、すっかり冬の空気になっている。寒さが傷んだ身体に堪えた。歩く度に身体が軋んだ。

 連れて行かれたのは、城の広間だった。
 朝議が済んだばかりだと思われたが、コンラートはいなかった。
 居残りを命じられているのか、諸侯がまだ居並んでいる。皆はトゥーリの姿を見て驚き、何かひそひそ話しては怖ろしげに眺めた。
 宮宰も信じられないといった表情で見つめている。逮捕は同意したが、拷問まで受けているとは思わなかったのだ。
 彼の計画では、シークを質に取って草原を治めるはずだったのだ。渋い顔になった。
 トゥーリは嘲笑を押し隠した。
(……私のこの姿を見ただけでも、卒倒しそうなご様子でございますね、皆さま。)
 さすがに卒倒する者はいなかった。
 また、見て判るほど身体を損なわれていたならば、諸侯は何かするだろうかと考えた。だが、自嘲と共にその考えを捨てた。
(コンラートに仕えるのを嫌って、反旗を揚げる……無いな。この腰の引けた奴らにできるわけない。)
 諸侯はやがて彼から目を逸らし、動揺を隠して殊更澄ました顔で立っていた。
 広間の扉が開いた。諸侯は一斉にそちらに注目した。どんなに取り繕おうと、その様子が動揺していることを語っている。
 入ってきたのはソラヤだった。両脇を衛士に固められている。トゥーリと違い、縄を打たれてはいない。
 軟禁されているのだろうと判った。だが、彼女が音を上げるわけがないと知っている。むしろ反抗心を燃え立たせるだけである。
 案の定、彼女は諸侯をぎらりと一人ひとり睨んだ。何も言わないのは、怒りが過ぎて言葉にならないのだろう。
 ソラヤはトゥーリの側に立たされた。
 彼女は息子が一先ず生きていることに安堵していた。だが、そういった様子は見せず、彼の姿を見て眉を顰めた。
「何だ? そのみすぼらしい格好は?」
「最新の流行です。」
 彼女は不愉快そうに、彼を上から下まで見た。
 直ぐに手首が赤剥けになっているに気づいた。そして、左手の爪が無いのにも気づいて、目を見開いた。
「拷問……か?」
「拷問というか……ゆっくりとした処刑ですね。何も隠し事はないですから。」
 彼は苦笑した。
 彼女の怒りが増幅してくるのが、誰の目にも判った。胸を大きく上下させ、ぎゅっと拳を握っている。怒鳴りたい相手がいないことが、更に彼女の怒りを募らせた。

 大公の鳴りが告げられた。
 皆は途端に怯えた様子を見せ、居住まいを正す。
 静まり返った広間に、車椅子の車輪の回る音が大きく響いて聞こえた。コンラートは上機嫌だ。
 彼は諸侯を一人ひとり観察して行った。些細なことを論われることを皆は恐れている風で、緊張感が走った。
 ゆっくりとした歩みの最後に、トゥーリとソラヤを特に観察した。通り過ぎる際に、振り向いて見さえした。そして、満足そうににっと笑った。
 トゥーリは自分の“無事な様子”に、コンラートが満足するわけはないと訝しみ、何かとんでもないことがあるのだと確信した。
 ソラヤは眉間に皺を寄せ、きつい水色の瞳を真っ直ぐコンラートに向けた。瞬きもしない視線が姿を追った。凄まじい怒りに息も上がっている。
「……シークにこのような真似をするとは……。コンラート殿! どういうおつもりか!」
 彼女は正面についたコンラートを怒鳴りつけ、足を踏み鳴らした。
 トゥーリは、彼女があまりにも普通のことしか言わないのにがっかりしたが、気の利いた嫌味を言っているような場合ではないのは解っている。黙っておいた。
 コンラートが薄ら笑いを浮かべている。
「アナトゥールは悪さが目に余りますから、お仕置きですよ。」
 ソラヤは唸り声を挙げた。側にいるトゥーリだけでなく、皆も彼女の憎しみをひしひしと感じた。
 コンラートは気づいているのかそうでないのか、落ち着いた様子だ。益々嬉しそうに、くすくす笑った。
「二人にいい知らせがあるのです。」

 二人は視線をコンラートに据えたまま、何を言うのか待った。
 楽しそうに二人を眺めているばかりで、なかなか話し出さない。
 宮宰は勝ち誇ったような表情を浮かべ、トゥーリを眺めた。そして
「大公さま。皆が待っております。」
とコンラートを促した。
「レーヴェが、新しいテュールセンの公爵が、いい知らせを寄こしてきた。さすが、レーヴェだなあ。アナトゥールの……」
 コンラートは吹き出した。
 レーヴェが関係しており、かつ“アナトゥールの”という言葉に続く単語はひとつしかない。トゥーリは最悪の事態を想定し、気構えした。
 ソラヤは小さく呟いた。
「新しいテュールセンの公爵……デジューは失脚したか……」
「母上。デジューさまは無事のはず。」
 彼女はトゥーリの囁きに頷き、コンラートに低く尋ねた。
「何かね?」
(母上も察しが悪いな。決まっているだろ。)
 トゥーリはそう思いソラヤに目配せしたが、彼女が気づくより先に、コンラートが告げた。
「アナトゥールの弟、ヴィーリと言ったかな。亡くなったよ。」
 諸侯は息を飲んだ。だが、誰も声を挙げない。
 トゥーリはほっと息をつき、目を瞑った。最悪を想定していても、敗退して捕らわれていて欲しいと一縷の望みを賭けていた。宣言されて、強い衝撃が襲って来た。
 ソラヤは言葉を失った。
「レーヴェとやり合うまでもなく、射殺された。残念だなあ……。シークの弟はどんな耳飾りをしているか、見たかったよ。」
 コンラートは高笑いした。
 トゥーリの怒りが凝り固まった。彼はぎらりと睨み
「翡翠の玉。」
と小さく答えた。
「何? 聞こえないよ。」
 繰り返し答えるつもりもない。
 彼は俯き、唇を噛みしめた。
 微かにあった気持ち、恭順を示し、今までにも増して厳しい命令にも耐え忍ぼうという気持ち。その僅かさえ失せた。揺るぎない覚悟を決めた。

「この愚か者が! ようもそのようなことを!」
 ソラヤは怒鳴りつけ、正面に駆け寄った。
 衛士が慌てて押し留める。
「ご無礼!」
 抱きかかえられた彼女は、まだ空いていた左手で衛士の短刀の柄を握った。そして抜き払いざま、自分の左耳を切り落とした。
 トゥーリが何か言う間も、衛士が止める間もなかった。
 皆はどよめいた。
「ソラヤさまが……!」
 途端に厳しい批難の目がコンラートに向かった。ヴィーリの死を告げられた時とは、雲泥の差だった。他部族の継承者の死よりも、嫁いだとはいえ同族の流血に怒りを感じたのだ。
 だが、近寄る勇気のある者はおらず立ち尽くしている。
 彼女は耳と短刀を放り投げ、顔を歪ませた。
「それを取るがよい! そして、それは草原の出陣の角笛だと思え!」
と叫んで、膝を折った。
 ぽたぽたと血液が床に垂れ落ちた。
 コンラートは色を失い、足許に投げられたものから目も身体も背けた。嘔気を覚えたのか、口許を押さえている。
 どさりと大きな音がした。皆の視線が一斉に向いた。
 ひとりの公達が倒れていた。
 皆に知れた嗜虐趣味のペシュトの伯爵だった。
(ペシュトか。いつもやっているのとはわけが違うよなあ……。母上、こんなことしても……どうなるものでもないぞ!)
 トゥーリは腰縄を握った衛士ごと駆け寄った。
「母上。お気は確かか?」
 彼女は震えながら顔を上げ、彼を睨みつけた。
「お前……この腰抜けが!」
 彼は彼女の背中を撫でた。
「こんなことをなさって……。ヴィーリの死の上に、まだ苦しみを重ねるおつもりですか!」
 そして天を仰ぎ
「嗚呼! ヴィーリが死ぬなど……」
と呟き、ふらりと倒れた。
 衛士が彼を助け起こした。彼は目を閉じたまま身体の力を抜いた。
「お気を失われたようです。」
(ええ、さようですよ。私、失神しました。さあ、快適なところへ運んでくれるかな? それとも監獄へ戻されるかな?)
 青ざめた宮宰が進言した。
「大公さま……これはその……少しお仕置きが過ぎるようです。」
 コンラートは戸惑った様子を見せた。子供っぽい素顔が露わになっていた。
 宮宰は諸侯を一瞥し、コンラートに囁いた。
「ほれ……。あの男はシークですから……」
 トゥーリがこのまま死ぬようなことがあれば、ヴィーリの死とは比べ物にならない程、草原が沸騰すると解っているのだ。
「侯爵も他と同じように……」
と言った。
 トゥーリはほくそ笑んだ。アデレードも城内に軟禁されているのだと解った。
(あんたが助け舟とはね。まあ、感謝しとくわ。)
「……そうだな。侯爵は母堂の翼の一室に……。厳重に見張れよ。」
 コンラートは慌てて尊大な態度を取ったが、失敗していた。声が震えている。
(甘いんだから。ここまで混乱しているんだ。即刻、処刑した方がいいと言いたいところだが、俺の忠告はこの間で終了だ。もう教えてやらん。)
 衛士に抱えられるのは好都合である。疲れた身体を動かすのは極力避けたい。
 連れ出される時に、同じく衛士に支えられたソラヤが
「この腰抜け息子! 失神など、教えておらんぞ!」
と叫んだ。
(母上……下手な芝居に気づかないの? ま、コンラートにばれないならよし。)



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