7


 その朝、トゥーリが朝議に出て直ぐのことだった。
 アデレードとソラヤは屋敷の表が騒がしいのに気づいた。怒号が聞こえてくる。
 ソラヤはアデレードに頷きかけ、控えへの扉を細く開けた。そこにいた近習がちょうど外への扉を開けようとしていた。
「ご後室さまと奥方さまはここにおいでください。」
 彼が開けるなり、同輩が飛び込んできた。
「襲撃!」
 彼は表を振り返ったが、そのまま部屋に入り固く扉を鎖した。
「もうそこまで来ている。お逃がしせねば……」
 彼は部屋を見回した。直ぐに庭園から逃がすことを思いついたが、脚の不自由なアデレードに走らせるのは無理である。背負うことも考えたが、追いつかれてしまえば同じだ。
 ソラヤはもう逃げる暇はないのだと察し、黙ってアデレードの手を取り、奥の寝室へ連れ入った。
「奥方殿はここへ。」
と寝台の下を指した。
「お義母さまは?」
 ソラヤは小さく笑った。
「早くお入り。」
 アデレードは言われるままに寝台の下へ伏せた。ソラヤの足が見える。それは小走りに視界から去った。

 遠慮なく走り回る音、叫び声がだんだんと激しくなり、とうとう金属のぶつかり合う音が聞こえてきた。
 彼女がいる奥に近づいてくる。
 剣戟の音が大きくなってきた。悲鳴も人の倒れる音も近い。彼女は耳を塞ぎ目を閉じ、唇を噛んで叫び声を堪えた。
(何が……?)
 そればかりが頭を駆け巡る。明るいうちの屋敷街を襲う盗賊など聞いたことがない。詰めている草原の戦士を斃し、奥まで侵入してくる者はただの無法者ではないことも解る。考えたくもないことが、最も当たっているのだ。

「奥方を探せ!」
 直ぐ表で聞こえた。彼女は寝台の下で、更に身を縮めた。近い部屋の扉が次々に開けられる音がする。そして、また剣の合わさる音。斬られた物音。
(神さま……)
 屋敷を襲われた以上、登城したトゥーリの身が穏やかであるはずがない。捕らえられているのだろうと思った。それ以上のことが行われたかもしれないとも思った。
(アナトゥールにもしものことがあれば、私は……)
 彼女は目を閉じ自問した。そして覚悟を決めた。
 彼女は寝台の下から這い出し、立ち上がった。そして、飛び込んでくる侵入者を待った。

 乱暴に扉が開けられた。駆け込んできた男は、部屋の真ん中に立っている彼女に驚き立ち止まった。彼女は静かに見つめた。
 見慣れた城の兵の姿。彼女は予想が当たっていたのだと、むしろ安堵し、腹が座った。
「奥方がいたぞ!」
 兵が振り向き叫んでいる。彼女は落ち着き払った様子で、ゆっくり歩み寄った。
 兵は気圧された。
「大公さまのお召しです。」
「随分と丁重なご招待ですね。」
「……拒否なさるのですか?」
「いいえ。あなたは、あなたの役目を果たしてください。ですが、私は歩くのに難がありますからゆっくりとしか従えません。」
「ゆっくりもしていられないのです。」
 兵は彼女の腕を取った。
「無礼者!」
 城にいた頃の彼女からは聞いたことのないような厳しい言葉だった。兵は怯んだ。
「参ります。誰も私に触れぬように。」
 彼女は時々片手で壁に縋りながら、玄関まで歩いた。その間に、草原の戦士が何人か倒れていた。彼女は彼ら一人ひとりの姿を目に焼き付け、唇を噛み締め歩いた。
 彼女を連れた兵が大声で呼ばわった。
「奥方は大公さまのお召しに応じた!」
 草原の戦士たちはどよめいた。絶対に行かせたくはなかったが、捕らわれている以上手出しもできない。
「奥方さま……」
 皆はなす術もなく、敵兵を更なる憤怒の形相で睨んだ。

 玄関に着けられた馬車の中にはソラヤはいなかった。斬られたのだろうかと咄嗟に肝が冷えたが、易々と斬ってよい身の上ではない。逃げたのだろうかと思い、そうであって欲しいと願った。
 だが、望みはあっさり絶たれた。
「ソラヤさまは先にお召しに応じられました。」
 兵は察したように応えた。
「お義母さまは、礼儀に適わぬご招待はお嫌いになると思うけれど?」
「ええ。アデレードさまの代行をお願いいたしましたところ、快諾していただけましたよ。」
「え?」
 兵はにっと笑った。
 ソラヤは、大公がアデレードをこうまでして連れ去りたい事情を知らない。彼女は代わりになれるかもしれないと、一縷の望みに賭けた。だが、その賭けは元々成立していなかったのだ。
 彼女を乗せた馬車が走り出した。門を出るのと入れ違いに、大勢の兵が屋敷へ駆け込んでいった。
「あれは何?」
 兵は聞こえないかのように涼しい顔をしている。屋敷に詰めている草原の戦士を、一人残らず始末するつもりなのだと解った。草原に事を知らせられないようにするのだろう。
(許さない……!)

 城へ入ったのは、ほとんど使われることのない北の橋からだった。屋敷街への東の橋を使わず、わざわざ遠回りしたのだ。
 最初の城を構成していた大きな(ダンジョ)()が見下ろしている。その下を通り、大公の私翼へ入った。
 既に居間にコンラートが待っていた。彼は姉を笑顔で迎えた。
「久しぶり姉さま……」
「そうでもないわ。“公子”さまが生まれた時会ったでしょ?」
 彼女は微笑みかけ、顎を上げて彼を見据えた。
 公子という単語を聞いて、彼の頬が一瞬だけ引き攣った。
 彼女は、彼がそれを暴露されるのではないかと、想像以上に恐れていると解った。
 彼は作り笑いを浮かべ
「城に帰って来てくれて嬉しいよ。」
と彼女に手を伸ばした。彼女は気づかぬふりで、握手を拒んだ。
「アナトゥールは?」
「そのことなんだよ! 言うことを聞かないから、姉さまの力が必要なんだ。」
「何を聞かせたいの?」
「いろいろだよ。彼は反抗的だね。大公であるぼくに意見するのだから、これからが思いやられるよ。」
「……で、何処に?」
「然るべきところ。」
 彼はくすくす笑った。小馬鹿にしたような態度だ。彼女は白々と弟の笑うのを眺めた。
「あんたが困るようなことはしないわよ。アナトゥールも私もね。宮宰さまと同じよ。」
 彼女は公子とはもう言わず、彼の心配を杞憂だと告げた。
 何のことを言っているのかは彼も理解したが、信じはしない。
「どうかな? 信じられないな。絶対、アナトゥールはぼくの上に立とうとする。」
「絶対? だったら、あんたはアナトゥールに言うことを聞かせるのを、最初から諦めているということじゃない。然るべきところにずっと置くの? それとも……?」
「どうしようか迷っているんだよ。でも、姉さまが城にいれば、アナトゥールはぼくに敬意を払うのではないかと思ってね。」
 彼女は激昂した。
「くだらない! 嘘を言うんじゃない! あんたが命じたことが今行われているわ。あんなことをしておいて、それは無理な相談。あんたなんか、軽蔑しか感じないわよ!」
「姉さまも言うことを聞かないの?」
「あんたと姉弟であることを、今日ほど恨めしかったことはないわ! それに……あの時、私のしたことは間違いだったと気づいた。」
「……言うつもりだね?」
「言わないつもりだったわよ。後悔はしている。でも、取り消しはしないわ。もう運命は回り始めたの。今も言わないつもり。」
「嘘だ。姉さまもアナトゥールも運命を逆回しする。姉さまが何故アナトゥールと結婚できたのか思い出すといい。自分たちの思った通りにものを運んだんだろ!」
「……それだけ信じないならば、あんたに言うことはもうないわ。アナトゥールも私も、思うようにしたらいい。臆病者! ……ただひとつだけ忠告するわ。あんたは気が付かないようだからね。」
「何?」
「母さま。」
「え?」
「あんたが息子であるように、私も母さまの娘なのよ? 解っている? あんたは母さまをすっかり信じている。それはそうよね。母さまはあんたの思う通りでいるのでしょうね、子供の頃のように。今のところは。」
「母さまはずっとそうさ!」
「そう思っていればいいわ。私に何かあってもそうだといいわね。母さまがあんたの思うようでなくなったら、アナトゥールや私とは格段に違うことは考えておくといいわ。」
 彼の顔色が変わった。彼女の言わんとするところが解り始めたのだ。
「何を……」
「こうまで言えば気づいたでしょう? 母さまは何処から嫁いだの? ……馬鹿なあんたでも解るはずよ。」
 太后は他国の出身である。彼女の家は、その国の王家と縁が深い。どうしても彼を廃したい、国を一時混乱させても構わないと思えば、故国の介入を要請できる立場である。
「そんなことにはならない!」
「だといいわね。」
 彼女はにっと笑った。
 彼は俯き、ぶるぶると震えた。国を混乱させることも怖かったが、廃され何らかの刑を受けることが恐ろしい。
 しばらくそうしていたが、控えの兵たちを呼んだ。
「この女を捕らえよ!」
「え? 公女さまを? あなたの姉君ですが……?」
「早くしろよ! 公女などではない! 草原の馬追と通じた卑しい女に過ぎん! 捕らえるのだ。」
 彼女は躊躇している兵たちに命じた。
「言う通りにしなさい。そうでなくては、あなたたち皆の身が危ういわよ?」
 兵たちは顔を見合わせた。やがて、渋々に無抵抗の彼女を囲んだ。彼女は両手を揃えて出した。
「手首を縛るのでしょう? 見たことはないけれど、そうだと聞いているわ。自分がそうされる日がくるとは思わなかった。」
 コンラートは兵たちに頷きかけた。
 兵たちは申し訳なさそうに手縄をかけた。それは随分と緩かった。
「それで? 何処へ案内してくれるの? アナトゥールと同じところなら有難いけれど?」
「姉さまは……アナトゥールにそっくりになったね!」
「彼ほど毒舌でもないわよ。しぶとくもない。」
「……塔へ連れていけ!」
 彼が指さす先には、来るときに見えた大きな塔がある。だが、ここからは庭園の木々に遮られて、その陰気な姿は見えなかった。
 兵に囲われ手縄を掛けられていたが、彼女は胸を張り背を伸ばした。まるで、兵に守られて行幸する公女のようだった。
 彼女はコンラートに振り向き
「ソラヤさまは?」
と尋ねた。
「教えてやらない。」
 コンラートは薄ら笑いを浮かべている。彼女が懊悩すればいいと思っているのだろうと解ったが、素振りにも見せるつもりはない。
「そう。残念ね。」

 アデレードはそびえる塔を見上げた。三層の大きな塔だ。
「上がっていただきます。」
 兵は気の毒そうに言った。
「ゆっくりとしか上がれないけれど、付き合ってくれるのよね?」
「はい……」
 彼女は長い時間をかけて三階部まで上がった。古くて頑丈な扉の奥、かつて高貴な人質を監禁していた部屋が彼女の牢である。そこへ入ると、兵は慌てて手縄を解いた。
 部屋を見渡した。暗い。窓に入り板戸に手を掛けた。兵は留めない。
 板戸を開けると冷たい海風が吹き込んだ。灰色に曇った空は大して明るさをくれなかったが、ずっとましになった。彼女は窓辺の腰掛に座り、しばらく海風に吹かれた。
「ソラヤさまもこうした所にいるのかしらねえ……」
 もしかの期待を込めた彼女の呟きは無視された。
「退屈だから、刺繍の道具を入れてくれないかしら?」
「……大公さまがお許しになれば……」
「嫌味なあいつは許可しないだろうから、あなたの裁量で入れてくれない?」
 兵は惑った。短気で気まぐれな大公が罰を与えるのではないかと恐れているのだ。
「それは……」
「大丈夫よ。あいつは見に来たりはしないから。」
 兵は何も答えずに出て行った。

 アデレードはそのまま外を眺め続けた。眼下は石畳の広場だ。見下ろすだけで背がぞくぞくした。
 遠くに目を向けると、暗い海が見えた。
「退屈な景色……」
 彼女はトゥーリのことを想った。コンラートが彼にする仕打ちを想像しても、ぞっとすることしか思いつかない。
 だが、その不安を振り払った。そして、雪嵐をものともせず援けに来た彼を思い浮かべた。
「……必ず私を迎えにくる……!」
 彼が生き延びるのに何の根拠もないが、そう呟くと気持ちがしっかりした。

 階段を駆け上がる足音が聞こえた。先程の兵が扉を細く開け、黙って裁縫道具の入った籠を置いて、また階段を下りて行った。



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