5

※ 残虐な表現あり。苦手な方は、読み流すか、次の章へどうぞ。

 相変わらずの鞭打ちだった。肌が裂けた上に、また裂けた。
 トゥーリはふらりと気が遠くなることが増えた。何も考えられない。気を抜くと、悲鳴を挙げそうだった。
(アデレードはどうなったのか? 母上は? ミアイルは?)
 そう考える時だけ、少し思考ができる。気を確かに持とうと、それを考えた。
(実の姉や大叔母に手を掛けることはないだろうか……? ミアイルは……ヘルヴィーグさまはどうなさるのだろう……?)
 だが、安心できるようなことは、思い浮かばない。心配は身体の痛みよりも、彼を傷めつけた。

「侯爵さま。途中ではございますが、お目にかかりたいと仰る方がおいでになります。」
“そうか。ちょっと着ているものを直してくれないか? ”
と言いたいところだが、トゥーリには口をきく余裕もない。
 鍵から下ろされ、石床に手をついた。途端に肩が痛んで蹲った。
 彼は目線だけを上げて窺い、直ぐにまだ目を伏せた。
 現れたのは、思った通りコンラートだった。獄吏に背負われて、わざわざここまで来たのだ。車椅子が運び込まれ、それに座る気配がした。
「何だ、鞭で打っただけじゃないか。」
「さようです。高位の方には……」
「もうすぐ侯爵ではなくなるよ。」
「しかし……シークですから。事が漏れれば、草原が困ったことに……」
「その心配もなくなるかもね。」
 コンラートは、楽しそうに笑っていた。
(……狂っているわ。こうなると、手遅れですなあ……。俺が言うのもなんだが、人として終了。……草原にはどういう接待?)
 そう思ったものの、トゥーリは言葉を発することも億劫だった。
「アナトゥール、どう? ごめんね。こんなことしかしてあげていないなんて、思ってもみなかった。」
「アデレードは?」
 蹲る様子を嬉しそうに眺めていたコンラートの頬が、ぴくりと引き攣った。
「顔を上げさせろ!」
 拷問官が髪をぐいっと引っ張った。
 車椅子が、すぐ前まで進められた。
「顔も無傷か。アナトゥールは、戦場に何度も行ったんだろう? 顔は綺麗なままで帰ってきたんだね。」
「よく見ろ。左瞼だ。」
 コンラートは手を伸ばし、トゥーリの顔に触れた。
「ああ、左瞼に切り傷があるね。でも、小さい。本当に微かだ。少しも気にならないよ。……アナトゥールは美しいね。本当に綺麗だ。文句のつけようもない顔をしている。この顔で、何人くらいの姫君を籠絡したの? ……答えて。」
「そこそこだな。」
 コンラートの表情が一瞬歪んだ。だが、直ぐにまた薄ら笑いを浮かべた。
「そう。で、最後に姉さまか。」
「そうだね。」
「この目。“ベリルの瞳で見つめられたい”か……」
「お前の青い瞳も悪くない。」
 答える度に、トゥーリの気力ははっきりしてきた。
「それは、下手くそな命乞いの枕言葉?」
「思ったまでを言っただけ。女の恨み? そうでもないだろう?」
 コンラートは、憎々しげに頬を抓り上げた。
「目を抉って、鼻を削いで、右耳からかな? 左耳は耳飾りがあるから、最後にしようか?」
「今後のご予定ですか?」
「うるさい口だね。」
「舌を切れば、否応なく黙るぞ?」
「それは一番最後だよ。アナトゥールの悲鳴も、見苦しい命乞いも聞けなくなるじゃないか?」
「するかな? あまり期待するな。」
「それから、その指。リュートの上でよく動いたね。いいなって。羨ましかった。……みすぼらしい結婚指輪の入った薬指から切ろうか。それとも……“どんな馬でも風の脚”だったよね。馬手を斬り落とされたら、手綱が取れなくなるね。」
 コンラートはそう言って、少し考える様子を見せた。思いついたことがあったのだろう、忍び笑いを漏らした。
 トゥーリはうんざりした。
(これでは老若男女、皆避けるわ。性格は悪いわ。拷問が趣味だわ……。その趣味持つなら、せめて外面は繕え……)
 コンラートは、笑い咽いでいる。
「ひとつ、アナトゥールの無様な様子を思い出した。ひとつだけ。……左利き。頑固な左利き。アナトゥールは、右手で食事が全然できなかった。覚えている? 一度ぼくが強いたら、ぽろぽろこぼした。あの時だけは“もういいだろう? ”って降参した。馬手じゃなく左にしよう! 食事ができなくなる。」
 コンラートは己に無いものをひとつひとつ記憶しては妬み、憎しみに換えているのだ。
 その執拗さに、トゥーリは呆れ果てた。いちいち答えるのも面倒に思えた。しかし彼は、黙っているのは負けた気になる困った性質だった。
「犬みたいに、顔を突っ込んで食うことにするか。」
 コンラートは、手を叩いて喜んだ。
「それはいい考えだよ! アナトゥールが、ぼくよりずっと無様なところを見たいんだよ!」
「さようでございますか。」
「何? 不満なの? ……そうだ! ぼくと同じように、子供を作れない身体になるといい。ちょうどいい。シークの家系が跡絶える。」
「弟が二人いるのをお忘れ?」
 コンラートは楽しそうに笑って、答えない。
 何か、弟たちや草原について考えてあるのだと確信した。
「さっきの予定を終わらせる前に、死にそうだ。それは考えてあるのか?」
「それはね、わざわざ医者を用意したんだよ。アナトゥールが連れているのと同じ、大食の医師をね。その二目と見られない姿を、皆に披露しなくてはならない。国中の貴紳淑女を招いた宮廷に呼び出してあげるよ。それとも、都の街角に座る? ……生き恥ってやつだ!」
 コンラートは高笑いした。
 トゥーリは情けなさに溜息が出た。
(その恥とやらが、どちらに向かうのか。解っていないらしいね……)
「それは止めた方がいいぞ。お前の為にね。前も言っただろう? 皆がどう思うか考えた方がいい。俺の忠告終了。」
 そんなことは考慮になかったのだろう。コンラートは悔しそうにした。

「姉さまはどう思うかな?」
「アデレードは、俺の姿だけを愛したわけじゃないよ。」
 コンラートは激昂した。
「……その舌! 姉さまに愛を囁いて、口づけした舌! 切り取って姉さまに食わせてやる。後から教えたら、どんな顔をするか楽しみだね。それをしてから、ぼくが知っている一番下賤な醜い男に与えてやる!」
 トゥーリは、顔を撫でている手に喰いついた。
 拷問官が慌てて取り押さえた。
「痛いだろ! アナトゥールと姉さまの結婚に関わったやつらは皆、苦しめるんだ! ウェンリルさま、テュールセンの三人。皆、皆だよ!」
 トゥーリには、彼らが損なわれると想像するだけで苦痛だった。だが、縋り付いて止めてくれと頼む気はない。
 彼は静かに尋ねた。
「……ニコールは?」
「……ニコールさまはいい。アナトゥールの名前を聞くだけで、身震いするほど嫌っている。マティルドの姉さまだし、尼僧だし……」
 コンラートは急におどおどと、言い連ねた。
(なるほどね。説明までしてくれるんだね。解りやすくてならんわ。)
 トゥーリは憐みすら感じた。
「俺のお袋は?」
「あれは……」
 コンラートは言い淀んだ。
「ウェンリルさまにはどんな接待?」
 今度は黙った。
「リュイスとヴィクトアールはどうする?」
 すると、急に強気に戻った。
「どうもしないさ。あいつらは、黙らせる方法がある。」
とにやりと笑った。
「そうか。テュールセンの公爵をどうにかしているってことだな。禁足か? それとも、この上の部屋にお泊めしているのかな?」
 コンラートの目が泳いだ。

 テュールセンの公爵家は、実際の血縁は薄くなっているが、最後のロングホーンのシークにして、最初の大公の従兄弟、勇猛なゆえに“ 軍神・テュールの息子 テュールセン”と渾名された男の子孫は、最も大公家に近い家門とされていた。
 コンラートは引きつった笑顔で
「アナトゥールの言っているテュールセンの公爵とは、デジューさまのことかな?」
と言った。
 気づかないと思っているのが、トゥーリには可笑しかった。
「そうだね。今は、レーヴェがテュールセンの公爵だと言うんだろう? そして、レーヴェは草原に出たって言うんだろうね。」
 コンラートは唇を噛んだ。
「……アナトゥールは学もないくせに!」
「そうだな。でも、当たりってことがよく判った。」
「……草原なんか、レーヴェが滅茶苦茶にしてくれるよ! 喜び勇んで出陣したんだ。今頃ラディーンを破って、ラザックシュタールに向かっているさ!」
「“六本指のアルティク”にやるよりは、レーヴェにやる方がいいと気づいたか。」
「……誰、それ?」
 コンラートの声は震えていた。
(嘘をつかないってのは美点なんだろうが、嘘をつけないってのは……美点とばかりも言えないんだな。)
「知らないのか? 右手の指が六本ある有名な男だよ。傭兵たちを率いていたのが、勇猛だからとキャメロンの王さまに気に入られて、キャメロンの軍隊の一部を任されていた。キャメロンを出たという話だ。どうしてだか知らんが……お前、知らないか?」
「そんな男は知らない……」
「俺はよく知っているよ。ムルンタウの黄金みたいな見事な金髪の、琥珀色の瞳をした、三十過ぎの素敵な男前だったよ。難を言えば、性格が下品だった。」
「だから、何?」
「俺が斬った。」
「そう……」
「知らないの? ……まあ、いいや。接待がいい感じ過ぎて、少し酔っているんだ。休ませてほしいな。」
 トゥーリは小さく笑った。
 コンラートは真っ赤になって怒鳴った。
「よくも……よくも嘲ったな!」
「それから、言い忘れたが、公妃さまのことはいいのか? 太后さま。お前のお袋さま。俺の結婚に関わったぞ?」
「母さまは……」
 また視線が揺らいだ。
 トゥーリは、答えない彼を睨んだ。沸々と怒りが湧き上がった。
 それまで、残った体力を全部使って話を続けてきたと思っていたが、大声が出た。
「お前は身内には手を出さないんだな。アデレードは別として。おかしな奴だ。国の半分の草原には手を出すのに……。国を傷つけるなど、我と我が身を損なうのと同じだと解らんのか!」
 叱り飛ばされたコンラートはびくりと震えたが
「医者におできを切ってもらうのと同じことだ! ラザックもラディーンもおできと同じ。レーヴェが優秀な外科医の役割ってことさ!」
と負け惜しみを言った。
「ラザックもラディーンも傷ついても、絶対に負けない。俺の軍勢は勝つまで引かない。最後の一兵まで戦う。自分の目と耳で見聞するがいい!」
 コンラートは憎しみを露わに睨みつけた。
「……おい! その錐を貸せ!」
「え……?」
 拷問官は聞き入っていたのか、急に話しかけられて戸惑った。
「錐だよ、そこに掛けてある錐!」
「どうなさるんです?」
「この口の減らない無礼な男の顔に突き立てる。それから、さっき言った通りのことを全部してやる!」
 道具を取り上げた拷問官に、トゥーリは笑いかけた。
「気の毒な稼業だね。この主の言うことに従わねばならないとは! ……辞職しろよ。また出る予定はたっていないが、俺が雇うぞ?」
 コンラートは手渡された錐を逆手に握った。そして、震える切っ先をトゥーリの頬に当てた。
 ほんの先が頬に刺さった。
 トゥーリは静かにコンラートを見つめた。
「ざっくり行けよ。」
 コンラートは震えながら、一度錐を引き抜いた。頬についた小さな傷から、ぽつりと血液が浮かんだ。
 彼はぎゅっと目を瞑った。血液の流れるところなど見たことがない。怖くなったのだ。
 幾らでも残酷なことは考えられるのに、自分自身で人の肉に刃物を突き立てることなどできはしない。
 放心して、錐の先ばかりを見つめていた。

 トゥーリは、凍り付いたままのコンラートに
「“息子”は元気か?」
と静かに尋ねた。
 コンラートは慌てて取り繕い
「ああ……」
と小さな声で答えた。
「そうか。瞳の色が変わると聞いた。何色になった?」
「青……」
「髪の色は?」
「薄い茶色……」
「笑ったりするのかな?」
「時々……」
「いいな。」
 赤ん坊の成長を毎日目にしているコンラートが、本当に羨ましかった。
「え?」
「……トゥルスナの祀りをしたいんだよ。」
「トゥルスナ?」
「“娘”さ。そう名前をつけて葬った。古い古い習慣で、生まれてすぐ死んだ女の赤ん坊には、その名前をつけるんだ。昔はロングホーンもそうしていたよ。……“残る”という意味だ。親の心に残る。……月こそ違え、もうすぐトゥルスナの生まれて死んだ日付になる。」
 長々と話し過ぎて、ただでさえ痛めつけられたトゥーリの身体は、より一層に疲れていた。それとは別な想いもあった。
「堪える。」
 彼は溜息をついた。
 コンラートは不思議そうに彼を見つめた。
 死んでから押し付けられた赤ん坊をそうして語る気持ちが、彼には解らなかった。彼はその赤ん坊のことを、無かったと思うことに必死だったのだ。
「“息子”の名前を聞いていなかった。何とつけたのかな?」
「ラグナル。」
「そうか。ラグナル。北の国の英雄の名前だね。ラグナル。ラグナル……」
 トゥーリはうっとりと、転がすように何度も呟いた。
 コンラートは気味が悪くなり、黙り込んだ。
「よかった。もうお帰り、コンラート。」
 コンラートは何も言わず、車椅子から獄吏に手を伸ばした。
「侯爵さまのご接待はどうなさいます?」
「……左手の爪を剥がせ。」
 拷問官が掴んでいた髪を放した。ばらりと落ちた乱れた髪が視界を遮った。
 気が抜けて、くらくらしていた。
 首を支えているのすら大儀なのに、トゥーリは背負われていくコンラートの姿から、目が離せなかった。



  Copyright(C)  2015 緒方しょうこ. All rights reserved.