4

 翌朝まで、二人はまんじりともせず起きていた。
 時間が過ぎるにつれ、トゥーリは勿論アデレードにも、正しかったのかと迷いが増してきた。己の気持ちが定かにならない。感情に遮られ、思考がまとまらなかった。
 問いかけ話し合って、自分の考えを見つめ、お互いの考えを確かにしたいと思えど、口を開く気になれなかった。
 二人が唯一確かに思っていたのは、誰にも事実を明かしてはいけないということだけだった。
 翌朝早くに、ソラヤが駆け付けた。
「此度は残念だった。お気持ち、お察しする。シークにも奥方殿にも……。充分お休みあれ。」
 母に敬称で呼ばれるのも、敬語を使われるのもトゥーリには慣れなかった。それだけ気を使われているのが申し訳なかった。
 事実を告げたい気持ちが、溢れそうだった。
「死んだ“娘”の弔いをしよう。」
 彼はただ、それだけを告げた。言葉に出すと、言わないと決めたことが再び確認できた。
 彼らが重苦しい気持ちを抱えているのと、城の表の様子は対照的だ。
 コンラートの最初で最後の子が無事に生まれ、皆が喜んでいる。しかも、都合のいいことに男の子である。
 女の子の世継ぎならば、将来伴侶を選ぶ時に困難を伴う。
 子供は父系に属すると考えられているからだ。
 女の大公の夫となった男の家門は、その次の大公の父の家として隠然とした権力を持つことになるのだ。幸いにして何例もなかったが、それを案じていた皆は安堵していた。
 ただし、産褥のマティルドの具合が悪いこともあり、彼女の様子がはっきりするまで、大袈裟な祝いは行われないということだった。

 死んだ赤ん坊は草原に運ぶことは適わなかった。夏場の気候がそれを阻んだ。
 シークの縁のある墓所は都にはないが、葬る場所は直ぐに見つかった。
 小さすぎる柩は、トゥーリにとっていつか見た光景だった。だが、今回は全く違う感情がある。
(これこそ偽りごとではないのか……)
 参列者は少ないが、沈痛な面持ちで柩が埋められるのを眺めている。側のアデレードも唇を噛みしめ涙を堪えている。気の強いソラヤでさえも時々、目頭をそっと押さえている。
 だが、ここに赤ん坊の父母はいないのだ。
(皆、偽りばかりをして……伯父伯母だけに見送られるなど……)
 親の事情を受け入れさせられている赤ん坊が不憫だった。それに加担している自分たちにも怒りと悔しさがある。
 彼は空を見上げた。
「泣いてもいいぞ。」
 ソラヤはそう囁いた。アデレードが手巾を手渡した。
 彼はアデレードを睨んだ。
 ぎらりと緑色の瞳が光り、彼女を見据えている。
“お前はこんなことに、本当に耐えられるのか! ”
 彼の目はそう語っていた。彼女はびくりと震えたが、彼を静かに見つめ返した。
 彼は手巾に悔し涙を拭った。
 周りの皆は、アデレードを除いては彼の涙の意味を知らなかった。
「トゥルスン……いや、女だからトゥルスナか。安らかに。人の世の醜さなど知らずに済んだのは、幸いかもしれん。」
 それは必ずしも、裏の含みを持たせた言葉ではなかった。アデレードは悄然と俯き、涙をぽろぽろ流した。
「トゥルスン……。忘れはしないという意味だよ。」
 彼はそう言って彼女の頭を撫で、馬車に乗るように促した。
 城には戻らず、そのまま屋敷に戻った。

 その夜中、トゥーリはぼんやり目を覚ました。隣に寝ていたアデレードの姿がない。寝ていたところは既に冷えていた。
 彼は慌てふためき、控えに出た。夜番の近習は落ち着いたもので、彼女のいる場所を告げた。
 生まれる子供の為に用意されていた部屋、そこに彼女はいた。揺り籠の側に置かれた大きな椅子に座っている。
 彼女は、扉を大きく開けた彼に驚き、慌てて寝衣の胸元をかき合わせた。
「何をしている?」
「何も……」
「見たよ。何故、胸を開けていたの?」
 彼女の側に歩み寄ると、足許に何枚かの麻布が落ちていた。芳香が漂っている。
 彼は一枚取り上げた。ぐっしょり濡れている。
「……お乳が張るのよ。赤ちゃんは取り上げられたのに……」
 それは彼のみならず、男には考えの及ばない現実だ。驚き、辛うじての相槌しか返せなかった。
「……うん……」
「お義母さまが少し絞ると楽になるって。痛いのよ。」
「うん……」
「どうしてなのかしらね? 赤ちゃんはいないんだから、止まってもいいと思わない?」
 彼は返答できなかった。
「あの子……お乳はちゃんともらっているのかしらね。」
「それは……間違いなく……」
 彼女はくすりと笑った。
「そうよね。絶対に育てなくてはならない子ですもの。」

 沈黙が流れた。
 トゥーリは視線を彷徨わせ、やがてアデレードの背に向けて語り始めた。
「……国の為にと納得させた。」
「ええ。」
「コンラートとマティルドが憐れだった。」
「そうね。」
 彼は彼女の肩を撫でた。
 寝衣の胸元はもう既に、滲み出す乳で濡れていた。
「……偽りごとだと思う。だが、黙っていれば、それが真実になる。」
「あなたは怒っているのでしょうね。」
「いや。」
「嘘。」
「……墓場で思った。お前は我慢できるのかと。取り上げられた時も思った。」
 彼は静かに、過去形で話した。
 彼女は正直な気持ちが聞きたかった。
「……今は?」
「心が痛い。……だが、お前は身体も痛いんだな。」
 彼はそう言って、顔を歪めた。そして、感情を整理した。
「何が承服しがたいか……よく解らなくなったよ。コンラートは長く位にいないかもしれない。すると、次の大公に仕えるのは、実の父や弟なんだな。ま、息子を援けるのも、兄を援けるのも当然の道義だ。形がどうであろうとすることは、何ら変わらん。」
 彼は揺り籠に積まれている麻布を一枚渡した。彼女はそれを胸元に入れ、黙り込んだ。
 しばらくして、彼女が小さく呟いた。
「“アナトゥール”。この名前の人は、弟の氏族の未曾有の窮地を援けるのが宿命なのかもしれない……」
 彼は苦笑した。
「まさにな。お前はあの時、俺のさっき言ったことを瞬時に思いついたんだろう。俺は……愚かだな。」
「そういうわけでは……」
「女の直感って凄いよな!」
 彼は彼女に笑いかけた。
(ごめんなさい。アナトゥール。)
 それは口に出してはいけないことだと知っている。彼女は苦笑し
「隠し事はすぐばれるからね!」
と睨んだ。
 彼は肩を竦めた。
「お前に何の隠し事だよ。……それ、乳、まだ痛むのか? もっと絞らなくてはならない?」
「いいえ。楽になったわ。」
「そう。奥さん、お手をどうぞ。」
 彼は大袈裟な仕草で手を出した。彼女は笑いながら手を載せた。
「ここまで壁伝いは大変だったのよ。帰りは、気の利く旦那さまと一緒でよかったわ。」
 二人ともすっきりと心が晴れたわけではなかった。だが、前を向くことができる、いつか二人で乗り越えられるのだと思った。

 二人の気持ちは日を経て、ゆっくりと鎮まっていった。
 喪が明ければ、朝議に出なければいけない。
 トゥーリが登城すると、城の執事が大公の託けを伝えた。
 朝議の前に居間に来いということだった。彼は、“公子”について念押ししたいのかと予想をつけた。
(無用なことを……)
 そう思ったが、彼の確約を得ねば、コンラートは不安を払拭できないのだろうと考えた。
 居間ではしばらく待たされた。
 宮宰に車椅子を押させて、コンラートが現れた。すぐ後から五人の衛士が入ってくる。物々しい。
 トゥーリが何か言う間もなかった。
「ラザックシュタールを逮捕せよ。」
 忽ち五人の衛士が、トゥーリに飛びかかかった。暴れるも五人には敵わず、両腕を捻り上げられ、床の上に頭を押し付けられた。
 彼は唸り声を挙げてコンラートを睨んだ。
「アナトゥール。監獄だよ。ちゃんともてなしてあげるね。」
 コンラートはそう言って、高笑いした。

 監獄では獄吏ではなく、黒い覆面の男に引き渡された。
(拷問官ね……。こりゃあ、念願の一番下か。)
 トゥーリは暗澹たる思いで、覚悟を決めた。
 入ったことのある独房を通り過ぎ、奥の重そうな扉の中へ連れられて入った。
「いきなりするの?」
 前を行く男が振り返った。
「そういうご命令です。」
 静かで感情のない声だった。
「結構念入りな接待なのかな?」
「まあ、そこそこ。」
「嫌だなあ。怖いなあ。」
「ちっとも怖そうではありませんね。」
「そう? 失禁しそうだけど?」
「我慢なさらずともよろしいですよ。どうぞ。」
 男は立ち止り、彼を眺めている。
「……ここではしないよ。」
「さようですか。」
 それ以上何か言うでもなく、歩き始めた。
 廊下の一方に、監房が並んでいる。
「ここって?」
 尋ねるまでもないが、彼は顎で指した。
「ご接待の後に休んでいただく部屋ですよ。」
 無感情なままだ。
「俺に隠し事なんか、ほぼないけどね。」
「そうでしょうな。訊くつもりもありません。」
 その言葉の意味を悟って、トゥーリは肝を冷やした。

 奥の階段を五段ほど下りたところの部屋が、目的地だった。
 中には、やはり顔を隠した男がいた。
「一番地下のおどろおどろしい所ではないんだね。」
「ご接待の続いた方がお部屋に戻られる際、楽なようにですよ。」
「そう。長い階段を上り下りする方がいいのではないか? それも接待の一部になる。」
「なるほどね。貴重なご意見、ありがとうございます。」
 拷問官は、うっそり頭を下げた。
「でも、大抵の方は直ぐに階段を使えなくなられますから。そうすると、私たちが苦労するんですよ。」
「そうかもしれないね。」
 後ろ腕に縛られたトゥーリの腕を、三人がかりで前に結び直した。
「何故、前に縛り直すの?」
「鍵に腕を掛けていただくのでね。後ろ手でもいいのですが、肩が外れるでしょう? それは、もう少し後にしましょう。」
 拷問官はぞっとするようなことを慇懃に答えた。そして、彼を壁の前に立たせ、腕を縛った縄を壁から出た頑丈な鍵に掛けた。
(鞭打ちってやつから始めるんだね……。ばばあで慣れているけど。それとは次元が違うか……)
 彼は苦笑した。
 拷問官にも聞こえたのだろうが、素知らぬふりで後ろで作業をしていた。
 それが終わると、彼の背後に立ち
「これ、タイースってやつですかね?」
と服の背中を撫でた。
「いや。ラザックシュタールの仕立て屋のやつ。タイースだと困るの?」
「いやいや。いいものをお召しになっているなと。では、失礼します。」
 拷問官は背中の生地を裂いて、裸の背中を出させた。
「あれ? あなた、経験者?」
 古い傷を冷たい指が辿った。
「いや。これは家庭的な問題。」
「これを使います。お検めください。」
 彼の前に道具が示された。丈夫そうな鞭だ。
 物を尋ねるのなら、これを見て洗いざらい話す者もいるのだろう。だが、今回は傷めつけることが目的なのだ。検める必要もないだろうと、彼は訝しく思った。
「嫌だなあ。痛そうじゃないか。女の子みたいな悲鳴を挙げてしまうよ。」
「どうぞ。存分に叫んでいただいて結構です。」
 終始、無感情な声だった。
「では、いきます。」
(そうまで丁寧なのかよ……)
と思いかけたところに、最初の一閃が打ち下された。彼は歯を喰いしばって堪えた。
 馬の鞭の比ではなかった。そして、ソラヤが加減していたことを知った。
 この鞭の皮は皮膚を引き裂いていた。
(一発目でこれか……)
 構える間もなく、二度目。三度目。
 鋭い音が響いた。

 拷問官の息が上がっていた。手を止め
「あなた、お若いだけあって、割と頑張りますなあ。」
と言った。言葉とは裏腹に、大して驚いている風でもない。
 トゥーリは脂汗をかき、荒い息を吐いていた。膝が震え出していたが
「そうか……? 結構いい感じに来ているけどな……」
と虚勢を張った。自分でも驚いたが、拷問官も驚いたかどうかは判らなかった。
 ただ
「まだお話ができるんですね。」
と言った。
 もう一人の拷問官に代わって、また始まった。
 足許に二・三滴の血液が垂れた。膝ががくがくと震え、力が入らない。気が遠くなった。
「お気を失われた。」
 拷問官の声が遠くで聞こえた。桶を下げたもう一人が、中身を遠慮なく背中に掛けた。
 怖ろしい痛みが走り、瞬く間に気がはっきりした。
 濃い塩水だった。彼は唇を噛んで声を殺したが、唸り声が漏れた。
(叫んでは負けということにしておく。)
 すると、どうしたわけか、状況にそぐわないことが思い浮かんだ。
(その塩……ラザックシュタール産?)
 唇に微かな笑みが出た。
 拷問官はそれに気づいた。
「おや? あなた、こういうの好きなの?」
「あんたは……? 楽しんでる?」
「まだお話ができるんですね。楽しくはないですよ。仕事なだけ。もう少し続けますかね。」
 困った風でもなく、憎々しそうでもない。勿論、彼の皮肉な冗談に笑うでもない。淡々とした物言いだった。
 気が遠くなるたびに、塩水で気付けされた。
 話す気力はなくなり、トゥーリは叫び声を堪えることに集中した。
 膝に力が入らなくなると、重みのかかった肩が軋んだ。
 おそろしく長い時間に感じられた。

 拷問官は一旦、トゥーリを“休んでいただく部屋”に連れて行った。
 彼は途端に膝から崩れ落ちた。床に手をつくと肩が痛んだが、まだ拷問官が戸口にいる。彼は指先に力を入れて、姿勢を維持した。
「また後で、お起こしに参ります。」
 彼らの気配が遠くなってから、うつ伏せに床に倒れ込んだ。
 荒い息は治まることがない。背中が焼けるようだ。
 その姿勢のまま、彼は監房を見渡した。石床の狭い部屋だ。隅に汚れた桶があった。
(あそこまで辿り着けるわけないだろう? ……ま、今回は俺の勝ち。悲鳴なんか挙げなかったんだからな! 次は……自信がないな……)
 塩がぴりぴり沁みて、休むどころではない。目をぎゅっと瞑って、歯を喰いしばって堪えた。

「侯爵さま。ご接待のお時間ですよ。」
 答える間もなく、また連れ出された。



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