残花
3
宮廷のトゥーリに対する様子は、先代の大公の頃とさほど変わらなくなった。朝議が遅れることはあったが、それはコンラートの体調に寄るところであり、中身はしっかり行われた。
八月の中頃、アデレードが産気づいた。
トゥーリが右往左往しているのを、ソラヤは面白がり
「お前もそんな心配ができる身の上になったか。」
と言った。
彼は母を睨み
「ええ! 母上もご安心でしょう!」
と吼えた。
彼女は肩を竦め、苦笑した。
彼は構っておられず、頭を抱えた。
「嗚呼、いつまでかかるんだろう? 辛そうだった……どうしよう……」
「初めての出産というのはな、結構かかるんだよ。」
「どれくらい? ……ああ、母上は俺の時、一日苦しんだとか……そうなのか? どうしよう。可哀想に。大丈夫なのだろうか……?」
彼は落ち着きなく、うろうろと立ち歩いている。
「落ち着け。いつまでもそうしているつもりか? お前が先に倒れそうだぞ。」
彼は笑っている母をじろりと睨んだが、言い返す余裕もなく、立ち歩き続けた。
産婆が入ってから随分経った。ソラヤは休むと言って自分の翼へ帰った。
(初孫が生まれるってのにさ。落ち着いたもんだよ! ゆっくり眠るって……その神経がさっぱりわからんわ。)
悪態をつく相手もいない。気になって仕方がないが、覗くわけにもいかない。助けたいが、それもできない。
トゥーリは苛立たしい思いで一人待ち続けた。
夜中になって、やっと産婆が現れた。
「お生まれですわ。若君でしたよ。」
産婆はにこにこして告げた。
彼はへなへなと膝を崩し、床に座り込んだ。
「よかった。会えるの?」
「ええ、もちろん。二人ともお元気ですもの。」
赤ん坊は既に産湯をつかった後で、布に包まれてアデレードの側に寝かされていた。
愛おしそうに子を眺めていた彼女は、トゥーリに気づいて輝くような笑顔を見せた。
「アナトゥール! 私、約束通り男の子を生んだわ! “最初は男の子、お父さんの跡を継いでシークになります”の男の子。」
「そうだね。ありがとう。本当にありがとう……」
彼はそう言ったきり、もう言葉に詰まった。鼻の奥がつんとし、瞼が熱くなった。
「あら、あなたの方が泣き虫になったわね。」
「泣いてなんかおらんわ!」
彼は溢れかけた涙を押さえた。
二人は赤ん坊を覗き込んだ。
赤ん坊は真っ赤で皺くちゃだ。それでも、妙に可愛らしい。
彼は目を細めた。
「起きているんだね。真っ赤な顔して……」
「だから、赤ちゃんと言うのよ。」
明るくもないのに、赤ん坊は眩しそうに盛んに瞬きをしている。真っ青な瞳だった。
「あ、青い目だ! お前に似たのかな?」
「産婆さんが、生まれたばかりの赤ちゃんの青い目は色が変わるんだって、教えてくれたわ。青のままのこともあるし、緑になったり、茶色になることもあるんですって! ……私、アナトゥールみたいな緑色がいい。ベリルの瞳がいい。」
「そうかなあ……。髪の毛は薄茶色なんだね。金髪になるの? それとも薄茶のままなのかな?」
「それはわかんない。」
「まあ、黒い髪じゃないみたいだね。黒い髪は、俺はどうかと思うよ。」
「いいじゃない、黒い髪でも。そうだ! 名前、考えてきた?」
「いや、お前と考えようと思って。」
いくらでも楽しいことが浮かんだ。
再び産婆が現れ、二人の様子を見て微笑んだ。
「仲がよろしいのね。この分だと、来年も奥方さまはご出産かもしれないわ。……布巻だけではいけないから。帽子を被せて、長衣を着せ掛けましょうね。」
産婆が赤ん坊を抱き上げた。
「夏なのに。それでいいだろう?」
トゥーリは留めたが、産婆は
「それはいけませんわ。尊い家門のお世継ぎなのですから。」
と言って、赤ん坊を連れて行ってしまった。
「あらら……裸ん坊でも育つよ。」
渋い顔をする彼を笑って、アデレードは先ほどの話を継いだ。
「名前よ、名前。何か考えなさいよ!」
「お前、急にきつくなったね。頼むよ。尻に敷かないでくれよ。一応、シークなんだから。」
「ラザックとラディーンの前では、大人しくしていてあげるわ。……で、名前。アナトゥールの父さまの名前にする?」
「嫌だ。早死にしそう。それに、大人になったら、変な嫁さんをもらうかもしれん。」
彼が嫌そうな顔をしてみせると、彼女はけらけら笑った。
「お前の父さまの名前は?」
「ええっ! 嫌よ。息子を呼ぶたびに、父さまのことを思い出すもの。」
彼女はまだ父の死の哀しみが新たなのだ。彼は気遣いのない発言を悔いた。
「そうだね……。ごめん。」
二人とも、少しだけしんみりと黙り込んだ。
「そうだ! アナトゥールのお祖父さまの名前は? 何て言うの?」
「それはお勧めできないな。都の者には発音しにくい。」
「教えて。」
「ツェツィル。」
「セシル?」
「ほら、できない。ツェツィルだって。」
草原独特の弾くCの音は、彼女にはまだ上手く発音できなかった。
一生懸命に口の中で繰り返しているの彼女に、彼は失笑した。
その時、扉が開いた。
先程とは違う産婆が赤ん坊を抱いて現れた。
「さっきの産婆は?」
二人が声を揃えて訊いたが、その産婆は答えずに、トゥーリに赤ん坊を差し出した。異臭が漂った。
長衣を着せられ、帽子を被された腕の中の赤ん坊は身動きもしない。
産婆は淡々と驚くことを告げた。
「亡くなられました。」
二人は目を丸くした。
「さっきまで元気だったじゃないか!」
「嘘……ちょっとどういうことよ!」
口々に尋ねたが、産婆はしれっと
「生まれたばかりの赤ちゃんには、こういうこともあるのです。」
と答えた。
二人はまだ信じられない思いで、赤ん坊を食い入るように見つめた。
二人の驚愕は、別な種類のものに変わった。
アデレードは言葉もない。トゥーリは赤ん坊の長衣を剥ぎ、その下の産着を引きちぎった。
「これはどういうことだ! この赤ん坊は、アデレードと俺のではない! ……女の子ではないか!」
産婆は俯いて答えない。
「俺の息子をどうした? さっきの産婆はどこだ!」
彼は産婆に詰め寄った。怖気づいた産婆は身震いばかりして、何も答えなかった。
「もうよい! 自分で探す!」
トゥーリは産屋を飛び出そうとした。
開けた扉のすぐ向こうに、太后と宮宰が立っていた。
二人は思い詰めた様子で頷き合い、部屋に入ってきた。
「トゥーリ……」
太后はわっと泣き出し、床に手をついた。
「ごめんなさい! どうしても聞いて欲しいの!」
アデレードは、不思議そうに母を見つめた。
彼はゆっくりと呟いた。
「……何を?」
その口調は低く静かだったが、緑色の瞳が爛々と光っていた。
太后は目を逸らした。
「あの赤ちゃんを……あの男の子を、私たちに頂戴! お願い!」
「断る。」
当然に即座の答えである。彼は、寝台の上の死んだ赤ん坊を指さした。
「あの赤ん坊、女の子、察しはついているぞ。コンラートの子なのだろう? こんなことをして……恥を知れ!」
「どうしても、どうしても、あの男の子が必要なの。お願いよ、トゥーリ。そうでなくては、大公家は終わってしまうの。コンラートはもう、夫婦のことができないわ。知っているでしょう?」
「侯爵、儂からも頼む。」
宮宰がいたことなど忘れていたとばかりに目をやると、彼も手をついて涙を流していた。
「マティルドは……あの幼い身体では無理だったのだ。そればかりか、月足らずで……」
「だから、どうなのだ。お前らの決めた早すぎる結婚の結果だろうが!」
太后と宮宰は苦しげに顔を見合わせた。
「そうなのだが……」
「コンラートが早く結婚したがったんだろう? 太后さまは反対もせずに、聞き届けたのだろうね! 甘いんだから! 宮宰さまも、ほいほい賛成したんだろうが!」
宮宰は悔しそうに俯いた。
太后も唇を噛んだが、後悔している場合ではないと言い連ねた。
「ええ、ええ。そう。私が愚かだったわ……。でも……でも、これだけは聞き届けて。あの赤ちゃんを頂戴。」
「断ると申した。そんなに赤ん坊が欲しければ、街に幾らでも赤ん坊をくれる貧しい女がいる。その大公家とやらが見捨てて、省みもしない人間がたくさんいる。そこへ行って、罪滅ぼしにたった一人でも、赤ん坊とその母親を救ってやれ!」
「侯爵、どうか……。儂はそなたに辛く当たったから、聞き届ける気にもならないだろうが……」
「ああ、その通りだよ!」
「トゥーリ。お願い、トゥーリ! あなたたちは健康なのですもの。これからも、沢山の子供に恵まれるわ。たった一人だけでいいの。あの赤ちゃんを私たちに与えて!」
「嫌だ!」
「お母さま、止めて! 無理よ!」
「アデレード……あなたもわかるでしょう? 大公家がなくなるのよ? そんなことはできないのよ?」
「こんな家など無くなればいい!」
「侯爵、それは聞き捨てならんぞ! そなたも大公家に奉仕する身だろう!」
「やかましいわ! とにかく絶対に渡さん。俺の息子を連れて参れ。今すぐに! できんのか!」
扉を蹴り開け、飛び出そうとする彼に、二人が飛びついた。
「トゥーリ! ……“私の小さなトゥーリ”……私はあなたを息子のように可愛がったわ。覚えているでしょう? そして、あなたは私の娘の夫になった。あなたとアデレードとコンラート、私の三人の子供たちよ? 一人だけ、本当に一人だけ……あなたの弟に、あの赤ちゃんを譲ってあげて!」
もう我慢ができなかった。彼は太后を平手打ちにした。
「泣き落としか! この狂った女が! 何も難しいことなど申しておらんわ! 俺の息子をここへ連れて来いと申しているまでのこと。疾くせよ!」
それにも怯まず、二人は彼に取りすがっては
「どうか、どうか……」
と哀願した。
彼は振り払い、剣に手を掛けた。
「斬る!」
アデレードは慌てて寝台から降りたが、右脚が利かずにどっと倒れた。
彼が助け起こすと、彼女は震えながら指を上げ、自分の見ている方を見るように促した。
開け放たれた扉の向こう、廊下の隅に車椅子に乗った姿が見えた。
トゥーリとアデレードに目が合うと、コンラートは身体を向こうに向けた。拗ねたとか、バツが悪いとかいう風ではなかった。肩が哀しそうに震えていた。
凍り付く二人の横を宮宰が通り過ぎた。彼は車椅子を押し、コンラートと角に消えて行った。
二人の感情が微かに揺れた。太后はそれを察し、静かに問いかけた。
「見たでしょう……?」
だが、そう言ったきり彼女は言葉が継げず、嗚咽した。
トゥーリはぎりぎりと唇を噛んだ。彼は低く唸り、言葉を絞り出した。
「あの子は、俺の息子は……次のシークになる……。お前らなどに……」
“お前らなどにやれるか! ”と言う間に、アデレードが小さく言った。
「……アナトゥール、あれは、あれでも私の弟なの……。ごめんなさい。」
彼は驚き、彼女の顔をまじまじと見つめた。そんなことを言える彼女が理解できない。彼女の瞳の奥に狂気を探った。
「何を言っている? お前まで……おかしいんじゃないか?」
「……おかしいのかもしれない……。でも! コンラートのことも考えるの。憐れだと……。私、来年も、その翌年もその翌年だって、あなたの子を産むわ。あなたに、また男の子をあげられる。でも、コンラートとマティルドは……そうはできないの。一生ね……」
「嫌だ。お前、ようもそんなことが言えたな!」
「……お願い、アナトゥール。」
「お前、誰の女房なんだよ!」
「あなたの奥さんよ。あなただけ、愛しているわ。」
「……あの子は次のシークになる……。大公になど……」
そう絞り出したきり、彼は彼女の肩に顔を埋めた。
アデレードは、ゆっくりとトゥーリの髪を撫で
「あの子は……大公にしましょう? 次に生まれる男の子をシークに……」
と囁いた。
「泣いているの、アナトゥール? ……あなたったら、泣き虫になったのね。」
そう言う彼女も泣いていた。
太后が悄然と出て行った。
「父称はおろか、名前すらつけられないのか……」
アデレードは答えることもできず、静かに涙を流した。
トゥーリの内にも、コンラートを憐れだと思う気持ちがある。一方的に彼女を詰る気にはなれない。
彼女の涙を指で拭い、助け起こした。
その時、寝台が視界に入った。
死んだ女の赤ん坊が、誰にも顧みられずに、裸で投げ捨てられている。
彼は赤ん坊の産着を合わせ、抱き上げた。目を閉じた顔は静かで、あどけない。
「この子。“娘”……の弔いをせねば……」
赤黒い赤ん坊の顔に、涙がぽたりぽたりと落ちた。
“弟の氏族には寛容に。”
“誇り高くお生きなされ。”
「じい……ラースロゥ……これでいいのか? でも、これでは土台が偽りごとではないか。」
問いかけるも、言葉は返ってくるはずもない。
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