残花
2
トゥーリが草原に発って数か月の後、アデレードの父がとうとう亡くなった。
ソラヤはそれを聞いて落涙した。
トゥーリは母の涙を初めて見た。驚き、内心慌ててもいた。
「母上がお泣きになるとはね。大公さまが好きだったの? ……甥としてですよ?」
細心の注意を持って発した言葉だったが、母には余計に誤解を与えていた。
「解っておるわ! 肝の据わらん甥ゆえ、かえって可愛かったのだ。」
ソラヤはそう言って、さめざめ泣いた。
泣いていても怒鳴る母に呆れる気持ちはあったが、気落ちし過ぎていないのに安堵した。向こうっ気の強さは健在過ぎるほどだ。
(俺のことも肝が据わらぬゆえ可愛かったの? ばばあの愛情表現は、歪みすぎてわかりにくいわ……)
と思えてきて、彼はわざわざ後ろを向いて苦笑した。
その努力も虚しく、彼女は聞き留めては
「何が可笑しい! この訃報に際して笑うなど不謹慎だぞ!」
と涙目で睨んだ。
二人は葬儀に列席したいと思ったが、間に合わない。それでも、来てはならんという知らせではなかった。
彼女は当然行くつもりだ。早速荷造りを済ませ、皆を急かして都へ出発した。
ソラヤは直ぐに登城したがった。トゥーリも早くアデレードに会いたかった。だが、彼女の気質を鑑みて、宮廷が以前と違うことを予め理解させなくてはならないと思った。
気の急く彼女を宥め、アデレードとの結婚の経緯から話し始めた。
「そんなこと、もう知っておるわ! それがどうした?」
確かに知らせてはあるのだ。敢えてそこから始める息子の意図など、彼女は考慮しない。彼は溜息をついた。
「話には順序というものがあります。」
「うん。だが、まどろっこしい部分は省け。知っている部分をもう一度話すことなどないぞ。そこをまどろっこしいと申しているのだ。」
「……解りました。」
彼は、コンラートとの仲が夫婦共にしっくりしていないことを話した。そして、個人的な感情を抑えて政をできる年齢では、まだないようだと語った。
彼女は眉根を寄せ唸った。
「そうか。周りの皆で支えねばならんということだな。お前もそのつもりで努めよ。」
それは正しいことだ。潔い彼女ならではの意見だが、それがコンラートに通用するのか彼には疑問だった。
「はい。ですが、今のところ、我々にはあまり居心地の良い場所ではありません。そのこと、念頭に置いてください。くれぐれも。」
ソラヤは不愉快だったが、文句は言わず頷いた。
翌日の朝議に、ソラヤを伴って出た。貴族たちはソラヤには笑顔で挨拶したが、トゥーリにはいつも通りの素っ気ない態度を取る。
彼は母を窺った。案の定、面白くない顔をし始めている。
やがて、朝議の時間になった。皆は順位通りに整列したが、だれきった様子で立っている。大公の現れる気配はない。
ソラヤは怪訝な顔で息子に囁いた。
「朝議の時間だが、これはどうなのだ?」
トゥーリは周りを見渡した。貴族たちの様子を見るに、それが当たり前になっている諦めが見て取れた。
「まあ……昨秋から、こういう傾向はあったんですが……」
彼女は鼻に皺を寄せた。足をとんとん踏み鳴らし始めた。
彼は焦り出した。
(これはまずい……近々怒鳴り出す。)
どうにか宥める方法を彼が思いつく前に、彼女は怒鳴り出した。
「お前ら! 何だ、その態度は? 私の前でそのような態度、許さんぞ!」
彼は頭を抱えた。
だが、彼女にとっては皆の態度こそ改めるべきことで、自らが正してやらねばならないと思っているのだ。
(ああ、遅かったか。前より血の上り具合が早うなったわ……)
今日ばかりは、母の正義感が恨めしかった。
こうなると彼女は留まることがない。
「改めんか!」
全員が俯いて、黙り込んでいる。
「だから、母上……申し上げたでしょう。」
彼が宥めたが、勿論聞かない。そればかりか、彼を責め立てた。
「お前もだ、腰の引けたやつめ! 腹が立たんのか? シークに対してこんな態度を取り続けるなど、聞いたことがないぞ! また、こんなだらけた朝議などない! コンラート殿はどうした? ひとつ、私から意見してやる。連れて参れ!」
皆は困り切っている。ちらちら二人を見ては、ソラヤと目が合うと慌てて目を逸らした。
誰も動かず応えず。彼女は怒りに震え、広間をねめつけた。
どこかで聞いたことのある音が、遠くから聞こえてきた。
かたんかたんと、何かの回転する音に似ていた。
「車輪?」
トゥーリが呟くと、側にいた公達が慌てて袖を引き、首を横に振ってみせた。
広間の扉が開いた。
執事が扉を支えている。かたんかたんと音を立て、車輪のついた椅子が入ってきた。コンラートがそれに乗り、宮宰が介助していた。
母子はぎょっとして見つめた。患ったとも怪我をしたとも、聞いたことすらなかったのだ。
コンラートは通り過ぎる瞬間、憎々しそうにトゥーリを睨みつけた。正面の段上の椅子に座ることはなく、車椅子のまま段下に落ち着いた。
「ソラヤさま。初めてお目にかかったでしょうか? 父の弔問に、わざわざ遠くからありがとう。」
「……その姿はどうした?」
ソラヤのあからさまな質問に、広間が凍り付いた。
コンラートは俯き、黙り込んだ。
長い間があった。溜息のような小さな笑い声が聞こえた。
彼は顔を挙げ
「馬ですよ! 馬から落ちたんだよ!」
と叫んだ。
そして、トゥーリに火を噴くような憎しみを向けた。
「アナトゥールが父さまに贈った馬。ラザックの駿馬だって? とんでもない馬だよ! あいつが暴れたんだ!」
「それは……」
「だから、馬なんか嫌いなんだ! アナトゥールは二回も無様に落馬したくせに、そうやって涼しい顔して立っている。ぼくは腰から下が動かない。どうして……」
「大公さま、大公さま、お鎮まりあれ。」
宮宰が覗きこみ、何か言って宥めた。だが、彼は手で払い除けた。一度噴出した憎しみは治まらない。
「アナトゥールはいつもそうだ。いつも……。涼しい顔をして何でも熟す。望み通り姉さまも得て。命じた戦は全部こなして……。子供も順調に生まれるんだろ? これからだって姉さまと仲睦まじく、いくらだって子供を持てる。ぼくはそういうわけにはいかない! 憎らしいったら、ありゃしない!」
まるで、子供の癇癪である。それなのに、広間は静まり返ったままだ。
トゥーリは絶句した。
同情するような視線がトゥーリにちらちらと注がれた。
「コンラート殿! 境遇には同情を禁じ得ないが、言いすぎだ。口を慎め。」
ソラヤが厳しく諌めた。
「ソラヤさま、ソラヤさま……」
テュールセンの公爵が小声で呼び、ソラヤに小さく首を振ってみせた。
トゥーリは、彼の行動にも目を見張った。
コンラートの怒りは更に増した。
「母親も偉そうだな! 一臣下の、それも死んだ男の妻の分際で! 一臣下なんて上等なものじゃない。たかが草原の馬追いの頭じゃないか!」
ソラヤがとんでもないことを言い出しては敵わない。トゥーリはテュールセンの公爵に目配せした。公爵は理解し、心持ち彼女を後ろに下げ、阻むように立った。
「馬追い? ま、当たらずと言えど、遠からずではありますね。」
トゥーリは出来るだけ軽く言い、苦笑してみせた。
そして、懐から小箱を出し蓋を開けた。見事なエメラルドの首飾りが入っていた。
側の者は覗きこみ感嘆した。離れた者にも示すと、彼らも溜息を漏らした。
「公妃さまに。良い物が手に入りましたので。……大食の細工ものです。エメラルドがお好みなら良いのですが……お検めください。」
コンラートは手渡された小箱を見て、目を丸くした。
「マティルドに……」
と呟いて、思案している。先程とは違った類の子供っぽさがあった。妙に初々しかった。
トゥーリは屈みこんで、コンラートと共に小箱を覗きこんでいるふりをした。そして、出来るだけ穏やかに優しく囁いた。
「コンラート。俺を罵るのはいい。お前は俺のことが嫌いだったもの。今もそうなんだろうな。でも、ここは朝議の広間なんだから、言葉は選ばなくてはならないよ。諸侯があれを聞いてどう思うか? 考えてごらん。」
賭けだと思った。子供のころのように宥めて黙るか。そうではないか。
コンラートはトゥーリを睨んだが、表情に嘲る色のないのに気づいたのか
「もういい。」
と呟いて、目を逸らした。
「ラザックシュタールの侯爵とその母堂に、父の墓前に参るのを許す。」
広間の緊張が解れた。
後に続いた議題については、誰も彼も耳に入らずであった。
ソラヤは、自分の首回りを指してみせ
「あれ。用意がいいな。」
と言った。
トゥーリは苦笑した。わざわざ用意していた物ではなかったのだ。
「いや。そのつもりではなかったのですが……奥方への土産だったのです。」
「貢物としては、やり過ぎであるぞ。」
「大公さまもお喜びのようでしたよ?」
「女に阿れば、その夫も和らぐ……か? 女に弱いお前らしいな。」
彼女は納得し頷いてはいたが、一言多かった。
言い返すほどのことではないと思うのだが、彼は言い返した。
「セリカから大食から、フランクの国々まで。世界中、そういうものですよ!」
「全く男という生き物は愚かであるな!」
絶対に“そうか”とは言わない母に溜息が出た。
「今のところ、上手く運んだではありませんか。」
「今のところはな。……奥方には何と申すつもりか?」
「ありのままを。」
「怒るぞ。」
「母上が横から口出ししなければ、事は複雑になりません。どうぞ、悪意のある言動はお慎みください。」
「悪意? そんなものは持ち合わせておらん。」
彼は反論を控えた。
「もういいです。」
アデレードは二人の訪問を小躍りして喜んだ。腹は随分と大きくなっていた。
首飾りの話は、あっさり“いい”で済まされた。彼女にはそれよりも大切なこと、話したいことが沢山あるのだ。
「尖ってお腹が出るのは、男の子なんですって! 産婆さんが教えてくれたの。」
と言って嬉しそうにしている。
ソラヤは目を細め頷いた。
「それは本当かもしれん。アナトゥールの時がそうであった。」
「なら、間違いないのかしら?」
「ヴィーリとミアイルの時は……そうではなかったな。すると、話が合わぬか……?」
ソラヤはアデレードの側に座り、腹を撫でた。
「どちらなのか、私だけには教えろ。」
などと腹に向かって語り掛けている。
夫婦は苦笑した。
その後、コンラートのトゥーリに対する態度はすっかり和らいだ。罵ることもなく、あからさまな憎しみを向けることもなくなった。
トゥーリに、出産まで都に滞在することも許した。
貴族たちの応対も、少し気楽そうになった。
だが、トゥーリは気味が悪かった。
(昔から、コンラートは気分屋なところがあったが……俺には次々突っかかった。和らぐってことを覚えたのか……? だが、“六本指のアルティク”のこともあるし……)
重い塊が胸に落ちてきた。
そして、コンラートを振り落した馬のことを考えた。
(あいつは、冬星の一件があって以来、馬には近寄らなくなった。何故、馬に乗ったのか……? 速駆けさせたわけでもあるまいに……引き馬で落馬?)
トゥーリは後日城で、テュールセンの公爵を捕まえて、いくつか尋ねた。
コンラートの怪我について、彼は馬の耳に虻が入り込んで暴れた結果だったと語った。馬に乗ったわけは、彼も知らなかった。
「先日の様子。大公さまをお諫めする者がおらぬように感じました。そこは?」
公爵は顔を歪めた。
「先日は随分と興奮なさっていた。ご勘気を被るのを恐れたのだろうよ。」
確かに個人的な怒りを爆発しただけではある。だが、あれを見聞きした諸侯の思いが、じわじわと政を歪める結果になりかねないと思えた。
「しかし……」
「シークには屈辱的な出来事であったね……私からお詫びしよう。」
公爵はすっかり察した応えを返し、無用な謝罪をした。トゥーリはもう何も言えなかった。
「……お気になさらずに。」
「私も出来るだけのことをするだけだよ。シークもそのように。」
公爵は苦い表情で溜息をついた。
二つとない高貴な身の上の彼に、こう言わせることがトゥーリは訝しく、また不安だった。
彼はじっと見つめた。何か話してくれるかもしれないと期待したが、公爵はそれ以上語ることはなかった。
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