残花
1
二人が草原にいた間に、コンラートが位についた。宮廷から使者が遣わされたが、遠方を理由に即位の式典への参列には及ばないということだった。
その直後に彼は、年齢の満ちていない婚約者のマティルドと例外的な結婚をした。内々の挙式だというが、使者が遣わされることもなかった。人伝に知らされたのみだ。
九月。トゥーリはアデレードを伴って上京した。
朝議に出でも、貴族たちはあからさまに避けることはなかった。だが、慇懃な態度でやんわりと逃げる。
トゥーリにもアデレードにも、宮廷はおろか、貴族たちの集まりの誘いは何もなくなっていた。
それでも、二人でいればさほど寂しいとも思わなかった。
彼女は時折
「コンラートには、ずい分と疎まれているみたいね……」
と託った。“降嫁の対価”と称して、必要以上の働きを要求した弟と宮廷に対して不満があった。心配でもあった。
彼にも漠とした不安があったが、今のところ空気が厳しいだけで難題を吹っ掛けられているわけでもない。勤めを果たすのに専念するだけだ。
彼は
「そうだな。」
と応えるだけに留めた。
冬の兆しが見え隠れし始めた。
ある夜、アデレードは誘いを含み笑いで拒んだ。
そして、トゥーリの耳に貴重な秘密を囁いた。
「赤ちゃんができたみたいなの。」
彼は目を丸くし、大声を出した。
「本当か!」
彼の驚き具合に彼女は満足し、微笑んだ。
「しっ! 誰にもまだ教えていないんだから。まだアナトゥールと私だけの秘密ね。」
彼はいかにも嬉しそうだったが、急に表情を曇らせた。
「秘密か……」
彼女は彼の考えていることを察した。
「大丈夫よ。」
彼の瞳の奥を覗き込んで微笑んだ。
「そうだね。都だからな。」
そう応えたものの、彼の憂いは晴れなかった。
彼は、思い浮かべたことを彼女が察したのを解っていた。それをそのまま語るのは憚られるが、心配で仕方がない。言わずにおられなかった。
彼は躊躇いがちに
「秘密にするのは……嫌なんだ。」
と告げた。
リースルのことを思い出しているのに、彼女の心はざわついた。だが、気持ちは解る。
「十日の内に、お産婆さんに相談するね。」
それを聞いて、彼はひとまず安堵した。
子供の頃にしたままごとの約束を持ち出し
「“最初は男の子。お父さんの跡を継いでシークになります”だね。」
と笑いかけた。
「“花のようなお姫さま”かもしれないわよ?」
彼女はきゅっと睨んだ。
「それじゃあ、約束の順番と違うじゃないか。」
彼はまだ何の気配もない腹を撫で、問いかけた。
「どっちなんだよ?」
彼女は苦笑した。
誰も相手にしてくれなくても、こんな幸せはないと思った。
アデレードの身体がはっきりすると、トゥーリは真っ先に彼女の父母を訪ねた。
父親は眠っていた。声を掛けても目覚めない。
何度も揺するとぼんやり目を開けた。告げてもよく解らないようだった。諦めずに繰り返し伝えると、意味が解ったのか微かに頷いた。
「よかったわ。大公さまは……いえ、お父さまは最近、お休みになっていらっしゃることが多いの。医師がそろそろと申していたものだから……。あなたたちのところとコンラートのところとが励みになって、少しお元気が出るのかもしれない。」
太后になった公妃はそう言って、目頭を押さえた。
「コンラートのところ?」
彼女は気まずい顔をした。
「ご存じなかったのね。ごめんなさい。ご存じだとばかり……。皆ひどいわね。」
「いえ。お気になさらずに。」
彼女は溜息をつき、話を続けた。
「コンラートの妃、マティルドさまもご懐妊なの。おめでたいことだけれど、お若過ぎるから……。コンラートの我が儘など聞かずに、然るべき年齢になるまで待った方がよかったわ。」
当然起こるだろう可能性について考えなかったのかと、彼は内心呆れた。
しかし、既にそうなっているのなら責めても仕方がない。
先日見かけたマティルドの様子を思い浮かべた。少女のような細く頼りない身体つき。出産に耐えられるのか疑問に思えた。安心できるような材料は思い浮かばなかった。
「まあ……ご懐妊なら、年齢に関わらず身体は大人ということかもしれません。草原では、あれくらいの歳で母親になる女もいる。」
言っても慰めになっているのかは判らない。
「そうね……」
案の定、太后の愁眉が開く様子はなかった。
アデレードの懐妊が皆に知れた。
テュールセンの公爵とその陽気な二人の子供たちが訪ねきて、我がことのように喜んでくれた。
伯父たちはそれとなく城にやって来てトゥーリを捕まえ、物陰でこっそり祝意を伝えた。
だが、他の者は誰もが話題にすることも、祝意を告げることもなかった。
宮廷は益々居心地が悪かった。
朝議の場はぴりぴりしており、宮宰は以前よりも更に尊大な態度を取るようになった。
三月。アデレードは共に草原に戻るつもりでいた。しかし、医師も産婆も反対した。
「ソラヤさまはご懐妊中に旅したそうよ?」
そう訴えたが、トゥーリも難色を示す。彼女は諦めて、都に滞在することを承諾した。
生まれるのは八月だ。彼が草原にいる時期である。彼にはそれも気がかりだ。
対照的に、彼女は肝の据わったものだった。
「大丈夫よ。アナトゥールは、いつも通り九月に来ればいいわよ。」
と笑っては、大きくなり始めた腹を摩って、甘いものばかり欲しがった。
それでも、少しでも長く彼女の側にいたい。
都に長くいるのは許される慣習だ。それは、大昔の大公たちが草原の謀反を案じて、シークを都に長く置こうとしたことに由来していた。
彼は、早めに上京することも願い出ようと考えた。
まずは個人的な面会を願ったが、コンラートは拒んだ。それならばとトゥーリは、朝議の終わりに願い出た。
「この度の国入りは四月に……」
言葉も終わらぬうちに、コンラートは拒否した。
「侯爵はいつも通り、春隣の祭りの日に発たねばならない。」
トゥーリはコンラートが受け入れやすいように、正直に理由を述べた。
「私の奥方の様子をご存知でしょう。」
コンラートは薄笑いを浮かべている。
「それが何だ?」
「あなたの姉君でもあります。」
「だから?」
トゥーリは自分の滞在は諦め、彼女の為にしてやりたいことを申し出た。
「では、都の屋敷に護衛を半数残し、女を数人入れたいのですが……?」
その望みにも冷淡な応えが返ってきた。
「姉上は城で過ごしてもらうゆえ、必要ないな。」
「私の妻と子なのだから、私の屋敷で出産させたいのです。」
コンラートの頬がぴくりと強張った。
宮宰が前に出て
「ならん。侯爵は大公さまの仰せに背くのか!」
と怒鳴った。
空気が一気に固くなった。
トゥーリは控え
「かしこまりました。」
と静かに頭を垂れた。
コンラートは立ち上がり、怒声を浴びせた。
「何だよ! アナトゥール! その恨みがましい目は何だ!」
そんな目を向けたつもりはなかった。見守っていた貴族たちも、顔を見合わせて騒めいた。
「皆、うるさい! アナトゥールは、さっさとラザックシュタールへ帰れよ!」
コンラートは席を蹴って、退出して行った。
トゥーリは舌打ちを堪えた。
コンラートを諫め諭す者がいないのが、残念極まりなかった。だが、今回の申し出は彼の個人的な事情に発している。外様で、その上爪弾きにされている彼の為に、事なかれ主義の諸侯が公の場で口出しするはずもないと考え直した。
それでも、一抹の不安は消えない。今日の調子で、今後も大公が個人的な反感を優先したり、臣下の申し出を受け入れることを屈したと考えるのならば、国にとって危うい。
トゥーリは言われた通りの日に都を発った。名残が惜しく、南の大門を出たのは閉まる直前だった。
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