9

 トゥーリの待ち望んだ秋がきた。いつになく長く感じられた半年だった。
 上京し、大公に目通りした。大公は、公妃とアデレードにも挨拶に行くように勧めた。
 だが、その訪問は今までとは全く違った様子でなされた。案内されて挨拶をし、少しだけの雑談をする。それ以上のことは許されず、公妃はアデレードを伴って退出した。
 トゥーリは黙って、奥へ入っていく彼女を見送った。扉が閉ざされる瞬間、彼女が肩越しに振り向いた。彼女の目は
“もう一緒に来ないのね。“
と言っていた。彼は目を逸らし、頭を下げた。
 行けないことは、彼女もわかっているはずだ。
(同じ長椅子に座って、ローランの写本を読むことは、もうない……)
 寂しかったが、しっかり努めて、恥ずかしくない公達にならねばと思い直した。

 ギネウィスには、待っていたという素振りはほどんどなかった。早晩現れると思っていたようだった。
 彼女は微笑み、いつものように落ち着いた態度で
「半年しかお別れしていないのに、また大きくなられたみたい。育ち盛りですのね。」
と言った。
 トゥーリは苦笑した。彼女にだけは、子供扱いをされるのが気にならなかった。
「またそんな子供扱いをなさるのですね。」
「お気に障ったかしら? 今日は、ごはんは?」
「食べてきたよ。あなたのところで強請ろうなんて思っていないから。」
「ご一緒でもよろしかったのに。では、何かお飲みになる?」
「いらない。ね、もっとよく顔を見せて。」
「隠れもしませんわ。そこからご覧になったら?」
「側に寄って。」
「こう?」
 彼女は座っていた長椅子から立ち上がり、特別な関係の者しか取らない距離に近づいた。
「そう。いい匂い。口づけして。」
 関係が再開された。

 その夜半、ギネウィスは寝入っているトゥーリを起こした。
「何だか、お天気が怪しいわ。すごい風。」
 心配そうな顔で言う。彼は起き出して、窓の外を窺った。
 外は真っ暗で、風が唸りをあげている。雷の轟きが遠くに聞こえた。
「本当だ。さっきまで何の気配もなかったのに。」
「嵐でも来そう……。あなた、お帰りになれなくなるかもしれない。もうお出になって。」
 彼女に勧められて、彼は急いで身支度をした。
 玄関に出るころには、近い雷が鳴って、かなり荒れていた。
 叩きつけるような雨も降り始めた。
 帰らないわけにはいかない。彼は覚悟を決めて、土砂降りの中へ馬を出した。

 激しい風と雨の音だけがする真っ暗な往来には、人気もない。トゥーリは、既に役目を果たさなくなった外套の襟元を押さえて、大通りに出てた。
 その時、向こうから馬車が一台現れた。
 こんな夜更けに、それもこんな天気の中を誰なのかと思わないでもなかったが、彼はそのまま駆けさせた。
 すれ違おうとした時、今までにも増して激しい稲光が夜空を青く切り裂いた。そして、つんざくような轟きとともに雷が落ちた。
 怯えた馬車馬が足を竦ませた。トゥーリの乗馬も驚いて立ち上がった。彼は危うく落馬しかけたが、どうにか馬を鎮めて、また帰路を急いだ。
 馬車はトゥーリの来た方に走り去った。
 
 馬車の主は、ギネウィスの父親、ウェンリルの公子だった。荒天に、女所帯の娘を心配して、彼女の屋敷に向かっていたのだ。
 彼は焦れ、頻りに馬車の行き先を窺った。すると、行く手から猛烈な勢いで一騎が駆けて来るのに気づいた。だが、そんなことよりも娘が怖がっていると馬車の中で慌てていた。
 しかし、すぐ横で相手の乗馬が暴れかけたのに驚き、注意を引かれた。彼は、稲光に照らされたトゥーリの顔をはっきり見た。
(ありゃ! シークではないか。こんな所で会うとは……)
 父親のローラントにそっくりなトゥーリ。知らなければ、幽霊かと思うほど似ている。
 すぐに苦い思い出が浮かんだ。
(あの男がもっと柔らかな別れ方をしてくれていたら、ギネウィスは……)
 知らず知らずのうちに、眉根が寄り、舌打ちが出た。
(いや、じゃじゃ馬のソラヤの夫になってくれたのだから……。年寄りの繰言というもの。)
 それは、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。言い聞かせても、少しも納得できなかったことでもあった。
 彼は渋い顔のまま馬車に揺られた。ふと思い浮かんだことがあった。
(どこから駆けてきたのだろう……?)
 彼は一抹の不安を抱いた。向かっている先には、娘の館がある。その方向からトゥーリは駆けてきた。
(よく似てるから……。いくら何でも、歳が若すぎるではないか! 娘とは、それこそ親子ほど違う。)
 彼は自分の思い付きを一旦は嗤ったが、胸騒ぎがした。

 ウェンリルは到着するなり、侍女に尋ねた。
「娘はどうしておる?」
「ひどく雷が鳴るので、頭が痛いとおっしゃって、早々にお寝間に入られました。」
「そうだろう。可哀想に。今晩は、雷神がずいぶんお怒りのようだ。外はひどかったよ。真っ暗で滝のような雨。」
「ええ、お庭の立ち木があんなに揺れていますわ。ひどい風ですこと。」
「そうだね。まるで死霊の悲鳴のような風の音。ここまで聞こえるよ。」
「まあ、恐ろしい。」
 彼は声を低め
「……死霊といえば、来るとき幽霊に会ったよ。」
と言った。
「ええっ! 何ですの。驚かせないで……」
「悪かったね。でも、一瞬そうかと驚いた。ローラント殿にそっくりだったから。」
 彼は冗談だと軽く笑った。
 侍女が眉を顰めた。それが都合が悪い話だと思った所為か、単に悪い冗談だと気分を害したのかは、彼には判らなかった。
「若いシーク、こちらの方から駆けてきたよ。ずぶ濡れになって。」
 彼は侍女の顔色を窺った。
「あら、お気の毒。」
 彼女の応えはあっさりとして、相槌の域を超えていなかった。
 彼は、更に迫った問いかけをした。
「彼の屋敷の方へ駆け去ったけれど、何処からの帰りかな?」
 しかし、彼女は肩を竦め
「さあ……」
と言って、首を傾げただけだった。
「……どれ、娘の様子を見るかな。」
 侍女の応えには、何ら不自然な点はなかった。どう思っているかも判然としなかった。

 ギネウィスは父の現れるのを見て、寝台から半身を起こした。
「ああ、お父さま。見苦しいところを。申し訳ありません。」
「いや、いいのだよ。頭痛がするそうだね。大丈夫か?」
「ええ……雷が怖くて……」
「そうだろう。……大儀そうだね。顔が赤いぞ?」
「そう……?」
「横におなり。ゆっくりお休み。」
 娘はいかにも調子が悪そうだ。彼は、横になる娘を眺めた。
 その時、枕の上に黒い髪の毛が一本落ちてるのに気づいた。
 疑心が確信に変わった。少なくとも、黒い髪の人間がここに寝ていたことがあるのだ。
 彼は寝室を出ると、侍女を詰問した。
「今晩、ギネウィスのところに来ていた男は誰かね?」
「何ですの? いきなり。」
「恋人のいることを責めているのではない。素性が重要なのだ。」
「素性って何ですの?」
「早く、答えよ。」
「誰もお越しになっておりません。」
「なら、昨日か、一昨日か? 恋人がおるだろう?」
 侍女は戸惑った様子で
「何故そんなことを……? 何か、しっかりした証拠でもおありなのですか?」
と尋ね返した。
 あくまでも侍女は否定する。ウェンリルは激昂した。
「慮外者! 枕の上に髪の毛が落ちていたわ! 黒い髪の毛。いつから娘の髪、黒くなった!」
 侍女は大声にびくりとはしたが、動揺している風は微塵もない。舌打ちし、渋い顔で
「……まあ、またあの下仕え! いえね、下仕えの女が横着者でね。お寝間の支度した後、ちゃんとしていかないのです。今度も自分の髪の毛を落として、そのままにして出たのですわ。何度も申し付けたのに。お父君にあらぬ疑いを抱かせるとは……もう勘弁なりません。五人の子を抱えた寡婦であっても。そうだから哀れに思って、だんなさまも私も大目に見ていたけれど、暇を取らせますわ。」
と言った。
「……その下仕え、黒い髪か?」
「ええ。黒い長い髪です。下々のことゆえ、結い上げたりしませんから。」
「落ちたのか……。まあ、我が娘がそんな人でなしではないと思うし。」
 彼は苦笑してみせた。
「人でなしですって! 何ですの、今度は?」
 呆れた様子の侍女に、彼は声をひそめて尋ねた。
「昔の想い人の息子を引きずり込む、なんてこと……しておらんだろうね?」
「昔の……って、ローラントさまのことですか?」
「そう。」
 侍女は失笑した。
「そんな大昔のこと、もう忘れていらっしゃる。それに息子さん、まだ子供でしょう?」
「子供とは言えないが、大人とも言い切れない歳だ……まあ、初陣は済んだから、一応大人だよ。」
「そりゃあ、公にはそうでしょうけど、実際は年相応でしょうに。」
「だろうな。」
「あまりおかしな想像はなさらん方が……」
 彼は額を叩き
「いやあ、あまりに似ているから、まさかと思ってね。悪かったね。今日は帰れないから、寝所の用意をしてくれ。」
と笑って、話を終わらせた。
 疑問が消えたわけではなかったが、彼は娘のことを信じたかった。

 その後も、二人は逢瀬を重ねた。
 ギネウィスは、あの夜の父のことが気になっていた。
「この前の嵐の晩、帰りに誰かと鉢合わせしましたか?」
「誰とも会わなかったよ。あんな晩に誰も歩いていないよ。」
「そう……それならいいけれど……」
(お父さまの見間違い……)
 彼女が安堵しかけたところに、トゥーリが
「でも、通りに出たところで、馬車とすれ違った。」
と言った。
 彼女は気持ちを落ち着けて、尋ねた。
「……お顔を見られましたか?」
「さあ……ちょうどすれ違ったとき、俺の馬が雷に驚いて止まったんだよね。見られたかな? どうかなあ……? あの天気で、真っ暗だったし、はっきり誰とは判らなかったと思うよ。」
 彼の口調は、だからどうなのだというようだった。
 彼女は不安なままだったが、それ以上に話を続けることは拙いと思った。
「そうですわよね。でも、これからは気をつけねば。」
「……何故? 誰に知られても構わない。あなただって、ご夫君がいないのだし、お父君も堅物でないから、大丈夫っておっしゃっていたんじゃなかったの?」
 そんなことが問題なのではなかったが、ローラントとの関わりを話すことは絶対にできない。
「だって、あなたとわたくしとでは、親子ほど歳が離れているんですもの。他人に知られたら、恥ずかしい思いをするわ。」
 彼女は軽い気持ちで言った。大人には当たり前の感覚だ。
「俺が若すぎるから、恥ずかしいの? 俺は、あなたがずっと年上だからって、恥ずかしいなどと思ったことはない!」
 思いもよらない激しさだった。彼女は一瞬言い淀んだ。
「でも、ほら……他人は面白おかしく噂するものよ? 特に、歳の離れた男女については。そんなのは嫌でしょう?」
「噂すればいい! 誰の耳に入っても構わない。あなたのお父君にでも、大公さまにでも。そうしたら、堂々とあなたのことを連れて歩ける。」
 彼は熱っぽい目で見つめている。彼女は、現実を見据えるように諭した。
「そんなことになったら、草原のお母さまも黙っていないわよ。わたくしたちのことをどうお思いになるか……? 良くはお思いにならないかもしれないわ。きついお叱り受けるのでは?」
 彼が母親に複雑な感情を持っていることも、母親に弱いことも、彼女は知っている。これだけ強調すれば黙るだろうと思った。
「母上か……」
 彼の声色が下がった。
「そう。またお仕置きをされるわ。」
 だが、彼女の思惑は外れた。彼はふてぶてしい笑みを浮かべた。
「打ち落としてやる。母上もくたびれてきているから大丈夫。」
「……ヤールたちも、いい顔はしないでしょう?」
「ヤールはこんなことに文句を言わない。現にじいや、ラザックの老ヤール、俺に恋人のいることを知っているけど、何も言わない。」
 彼女は、困ったことになったと思った。老ヤールが、ローラントとのことを知っているのかわからない。知っていたらもっての外だが、知らないとしてもよくは思わないだろう。
「わたくしだってご存知なの?」
「それは知らんだろうよ。名前まで訊かないし、言ってもいないし。まあ、子供ができんように注意せよと言われたけれど。……注意といっても、そればかりはどうにもね。」
 彼の言い様から、老ヤールが主の情事をさして問題視していないのがわかった。また、上手く話を逸らせそうだとも思った。
「……そうでもないのよ。」
「枕事せねば、できんと言うのではないでしょうね?」
「それは、勿論そうですが……女はできる時とできない時があるの。」
「それ、判るの? 馬ならフケが来たら、手を突っ込んで確かめることもできるけど。人は無理だよ。」
 彼女は苦笑した。
「あなたって……やはり草原の方なのね。……人もね、一月に一度、まあ……そのフケが来るの。」
「見ていても判らん。馬ならよく判るけど。」
「人は理性というものがありますから、“わたくし、発情しましたの”という顔はしませんわ。おかしな方ね。」
 彼女が苦笑してそう言うと、彼はけらけら笑った。
「まあ、そうでしょうな。で?」
「殿方にはお判りにならないでしょうけど、女は自分で判ります。」
「そう。何やらさっぱり納得がいかないけど……で、今日のあなたはどうなの?」
「今日は大丈夫。」
「大丈夫って、どっち?」
「できない方。」
「なあんだ、残念。……いっそ、あなたに子供ができたらいいのに。そうしたら、有無を言わさず草原に連れて帰って、奥方にできる。」
 彼はまた夢見がちなことを言った。だが、彼女には嘲る気持ちが湧かなかった。
「おなかの大きい年増女を連れ帰ったら、お母さまがお嘆きになるわ。」
「母上はどうでもいいって。」
「お母さまも、あなたの結婚にはお考えがあるでしょう?」
「そんなこと、まだ考えてもいないだろうよ。考えたとしても、母上だって父上と恋愛して結婚したらしいし、息子のことをとやかく言えないよ。」
 彼女の最も触れられたくない話題だった。彼女は、胸がじくりと疼くのを感じた。
「恋して……」
「そう。あなたのことが恋しいの。いつもいつも……あなたのことばかり考えている。毎日一緒にいられたら、どんなに素晴らしいだろうって。」
 彼女は図らずも涙を流した。ローラントとソラヤの恋愛と聞いたからか、トゥーリが自分に恋をしていると言ったからか、彼女自身にも判らなかった。
「泣いているの?」
「ええ……」
「泣かないで、ギネウィス。あなたのこと、愛しているよ。」
 それはかつて、ローラントに言われたかった台詞だった。そして今では、トゥーリに最も言って欲しい台詞だった。
「……止まらないの……」
「哀しいの? どうして?」
 心配そうに覗き込んでいる彼の瞳に、邪心はない。それを見ているうちに、ギネウィスは正直な気持ちを口にしていた。
「嬉しいの……」
「……来年の春に、一緒に来て。」
「それは……」
「何も気にすることない。結婚して。」
 彼女は、自分の気持ちが解らなくなっていた。涙が止まらない。
 トゥーリは、すすり泣く彼女を抱き締めた。
 はっきり返事をしてくれないのは残念だったが、関係を維持できれば今のところは満足だ。大人しく帰った。

 一人になったギネウィスは、物思いに耽った。
 ローラントをソラヤに奪われたと思い込んでいたが、果たしてそうなのか。今まで考えたくもなかった疑問が浮かんだ。
 かつてのローラントの言動をよくよく思い出して、全て楽観的な勘違いだったのではないかと思い始めた。
 彼女の知っているローラントは、無口で、冷たいくらいに落ち着き払っていたが、誰にでもそうだったとは限らないと、今更ながらに思いついた。
(叔母さまにはどうだったのかしら?)
“あなたのことを愛しているよ。”
“何も気にすることはない。結婚して。”
 彼が熱っぽい瞳でそう言う姿など、彼女には想像すらできなかった。
 だが、彼がどういう振る舞いをしていたか、もうそれ以上の興味をそそられなかった。
 逆に、度を超えたトゥーリの言動を思い出し、知らず知らずのうちに、微笑みが浮かんだ。
(アナトゥールさまは、お若いから……)
 子供っぽいと苛立ちを感じていたトゥーリの振る舞いは、気にならなくなっていた。

 かつて戦場から届いた、たった一言のトゥーリの手紙。
 “恋しい。”
 届いたときは、拍子抜けする思いしかなかったが、今は違った。
 一言しか書けなかった切ない心と、一言に込められた万感の想いに、胸が一杯になるのだ。
 一途に想い、離れたくない、結婚したい、子供が欲しいと言う彼の想いに、溜息が出た。
 若い愛人を弄ぶほど、悪女に成りきれない。
 彼女は自問した。
(でも……そんなに、わたくしのことが好きなの? 幼馴染の公女さまよりも、わたくしのこと好きなの? なら……わたくしは……?)
 その答えはすぐに出た。しかし、重い塊が胸に落ちてきた。
 父親の代わりにしたと知ったら、間違いなく怒り、哀しみ、傷つき、憎むだろう。
 トゥーリがそんな思いをするのは、苦しくて耐えられないと思った。
(同じ黒い髪、碧い瞳、そっくりな顔が欲しかっただけ……。それだけ。)
 そう言い聞かせてみたが、感情がひどく高ぶって、涙が止まらなかった。
 父親と同じ容姿であることは、全く意味がなくなっていた。
(あっさりとお帰りになったけれど……。まさか、もう醒めた……? そんなことはないかしら?)
 気がつくと、去り際のトゥーリの言葉の調子や振る舞い方を、じっくりと思い浮かべては、彼の心中を推量していた。
(今度は何時おいでになる……?)
 次の逢瀬が待ちきれなかった。



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