10

 嵐の夜にずぶ濡れになった翌日から、トゥーリは熱を出して寝込んだ。
 会えない日が続いた。

 トゥーリは体調が良くなると、すぐにギネウィスに会いに行かなければならないと思った。一週間も音沙汰していないのだ。
 彼の訪問を、いつもは居間で待っていた彼女が、玄関で迎えた。
 彼女は手を取って
「ああ、わたくしのシーク。ずっとお待ちしていたのです。」
などと歓迎ぶりを見せた。
「あれ? あなた、この前までと様子が違うみたい。」
 嬉しそうに戸惑う彼の様子に、彼女は喜びを感じた。

 トゥーリには、いつにも増してきつい情事だった。疲れた彼とは対照的に、ギネウィスは深い悦びに浸っていた。
「……やはり、いつもと様子が違うよ。何かあったの?」
「そうかしら? ……あなたのことが恋しかっただけ。」
「それだけ?」
「お越しならないから……。もう、わたくしのことは厭きたのかと思って……哀しかったの。」
 彼女の声には、以前はなかった甘えた響きがあった。
「愚かなことを……。熱を出して、唸っていたんだよ。厭きたなんて……」
 彼女は起き上がって、心配そうに彼の顔色を探った。
「まあ……そうでしたの。そういえば、お声に張りがないわ。大丈夫?」
「大丈夫も何も、今のでわかったでしょう? でも、今日はこれ以上無理。」
 彼が苦笑すると、彼女も安心して笑った。
「ゆっくりしていって。ちゃんとお布団をかぶっていて。」
「はあい。……またそんな扱いをするんだもの。様子が違うって言ったけど、やっぱり一緒だね。」
「だって、旦那さまのお世話するのは、奥さんの役目でしょう?」
「そんなこと言って……。あなた、ちっとも色よい返事くれないのに。」
 彼女は鼓動が弾けるのを感じた。彼の口調は、責めるようでは勿論ない。
「何か温かいものでも用意させますわ。」
 はぐらかす応えだったと彼女は思ったが、彼は気にもしていない様子で
「うん。」
と言っただけだった。彼女は安堵した。
「あなた、そんな格好してないで、何か着て。またお熱が出るわよ。」
 彼は言う通り素直に服を着て、枕を背にかち、布団を引きずり上げた。
 ほどなく湯気の立つ温かいものが運ばれてきた。彼はぎょっと驚いた。

 トゥーリの実母は
「風邪? お前、たるんでおるぞ!」
と怒鳴るような女である。そのような心遣いには慣れていないのだ。
 驚きが覚めても、“ありがとう”という当たり前の言葉も出なかった。

「どうなさったの? 黙り込んで。」
 ギネウィスが心配そうに覗きこんでいる。トゥーリは慌てて
「別に……」
と応えた。
「お加減が悪いの?」
「いや。……あなたが奥方なら、こんな風にいつも心遣いをしてくれるのかと思って。」
 彼が食器に目を落としたまま呟くと、彼女は軽く笑った。いつもの張り付いたような微笑みではなく、照れくさそうな色があった。
「またそんなことを。若いのに、もう奥さんがほしいの?」
 彼は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「そう。あなたを奥方にほしいの。」
 彼女は内心の動揺を悟られぬように微笑んだ。
「あなたは、まだ結婚できる歳ではないでしょう? 。」
「もうすぐそうなる。」
「変わりませんわ。今はまだ結婚できない歳なの。」
「草原ではできる。」
「ここは草原ではありません。」
 彼女は諭すのが辛くなっていた。
 彼は俯いて考え込んでいたが、顔を上げ、明るい調子で
「そう。悔しいね。もうちょっと早く生まれていたら、すぐにでも。」
と言って、彼女に笑いかけた。
「……そんなにわたくしのことを?」
「うん。愛しいと思う。こうしていると、ますますそう思う。」
 彼女から笑みが消えた。
「あなたは?」
「……愛していますわ。」
 嘘ではない本心を言うのも辛いのだと、彼女は知った。
「それ聞いて、治めておくよ。……じゃあ、そろそろ帰る。」
「ええっ? もう? ……いえ、そうね。では……」
 舌先だけで嘘を言うことは、もうできなかった。どうしても、言葉に心が滲んでしまう。
 彼は、そんな彼女に怪訝な目を向けた。
 彼女はどうにか気持ちを落ち着けて
「あの……次はいつ?」
と尋ねた。
「また近いうちにね。どうしたの? やっぱり変だよ。」
「何でもありませんわ。気にしないで。」
 彼女は立ち上がり、彼の使った食器を片した。
 彼は、訝しい思いが消えないままだったが、それ以上訊いても何も言わないのだろうと、帰り支度をした。

 トゥーリはいつも通り、私室の扉口で別れを告げた。
「じゃあ、いずれまた。」
 それだけ言って、踵を返した。

 ギネウィスは、トゥーリの後姿を戸口で見送った。歩き去る彼に、彼女は言い知れぬ不安を感じた。かつて同じように振り向きもせずに、しかし、永遠に去った男のことを思い出したのだ。
 あの時は呼び止めて縋ったところで、どうにもならなかったが、今日の相手は違う。
 でも、いつ何時、誰か若くて魅力的な娘が、奪い去るかも知れない相手である。そうなったとき、彼女には取り戻すだけの自信がなかった。
(誰にも渡したくない……!)
 彼女は堪らず呼び止めた。
「アナトゥールさま! お待ちになって。」
 彼が立ち止まり、肩越しに振り返った。彼女は駆け寄り、胸に顔を埋めて咽び泣いた。
 彼は戸惑った。彼女はいつも落ち着いた大人の女だった。取り乱すことなどなかったのだ。
「ど、どうしたの?」
 彼女は、泣きながら胸にしがみ付いている。何も言わない。
「俺……何か酷いことをしたかな……?」
「……近いうちなどとおっしゃらないで! ずっと一緒にいたいのです……」
「えっ……」
 彼の顔に、あからさまな動揺が見て取れた。彼女は泣き笑いになり
「わたくしをシークの奥方にして。」
と言った。
 彼は彼女の変化が俄かには信じられなかった。
「嘘……さっき……。本当に?」
「本当です。でも、わたくし……」
「何?」
「……あなたが盛りを迎えるころには、わたくしはもうおばあちゃん。それでも、お厭いにならないと約束して。」
 そんなことを考える余裕は、彼にはない。
 彼は彼女を抱き締め、今思っていることをそのまま言った。
「おばあちゃんになっても、死ぬ瞬間まで、あなたのことを見ているよ。」
 しかし、妻を迎えられる年齢ではないことを、辛うじて思い出した。
「でも……あと少し待って。いや、婚約だけでも。せめて次の誕生日になったらすぐ、あなたのお父君のところへお願いに行くから……」
 彼女は涙を拭い、照れくさそうな笑顔で何度も頷いた。
 二人は再び愛の言葉を囁き合って、延々と別れを惜しんだ。

 ギネウィスは、何度も振り返り手を挙げるトゥーリの姿を見送り、溜息をついた。
 そして、寝室に戻り、ほんの先まで彼が使っていた枕を抱き締めた。
 彼は、約束通りのことをするだろう。婚約を取り付け、年齢が満ちたその日に結婚すると言うはずだ。
(わたくしは、あの方の奥方になる。春になったら、一緒に草原に下る……)
 彼女は、草原とはどんな場所なのだろうかと考えた。
 風強き草原。白きラザックシュタール。緑大理石の床の屋敷。詩文の中の文句でしか知らなかった。
 だが、トゥーリと暮らせるのならば、そんな美しい場所でなくてもいい。狼の吼える草原の天幕でもいいと思った。
 そして、若い、若すぎる夫との結婚生活を想像した。
 まだまだ子供っぽさの残る彼にしてやりたいことは、いくらでも思い浮かんだ。。
(まだまだ育ち盛りですもの。美味しい食事を用意して……そうそう、日に日に大きくなられるから、新しい服を作って差し上げねば……。わたくし、お裁縫には自信がある。裁縫、刺繍、編み物一通りなんでもできるのですもの。草原ならきっといい羊毛が手に入る。すばらしい壁掛けを作って……)
 彼女の楽しい想像は、そこで止まった。壁掛けという言葉が、かつての結婚生活を思い出させたのだ。

 彼女は亡夫の屋敷で、“金髪のアナトゥール”の最期の物語を写した壁掛けを作ったことがあった。夫は素晴らしい出来だと褒めたが、それを広間に飾らせることはなかった。
 その草原の英雄は、ローラントの遠い先祖だからだ。彼女の夫が、情念らしきものを現したのは、その時だけだった。
 従者も召使も、彼女に丁重な態度を取っていた。
 しかし、一度の流産の後、懐妊の兆しもない彼女に対する目は、どこか冷たかった。夫が責めるようだったなら、もっと居心地が悪くなっていただろうが、幸いそれはなかった。
(年老いていたあの人は、わたくしから子を得ることを諦めていたのかもしれない……)
 苦い思い出だった。
 すると、それを上回る苦い心配が浮かんできた。
 トゥーリと何度も関係を持っているのに、妊娠しない。彼女は、流産し生死を彷徨った経験を思い出し、子を宿せない身体になったのではないかと思いついた。
 愛する男の子供を産めないかもしれない。肌が粟立った。
 おまけに、彼の一族は特別な家柄だ。後妻だった前回とは比べ物にならないくらい、子供のことは重大な問題になる。即、離縁の可能性もあるように思われた。
(……いいえ! ちゃんと結婚して、落ち着いて生活していれば授かるわ。健康な若い夫の種ならきっと宿る……)
 希望的で楽観的なことを自分に言い聞かせると、少し気が楽になった。難しくて不安なことを、長く考えられなくなっていた。
 先刻の若く性急で情熱的な睦み事、帰る時に交わした言葉を思い出しては、うっとりとした。

 その時、出し抜けに名を呼ばれた。
「ギネウィス……」
「えっ! お父さま……」
「楽しそうだね。」
 ぎくりとして言葉が出ない。父の表情も声も硬かった。
「気づかなかったか?」
「……ええ。ぼうっとしていました。」
「そうだろう……そうだろうよ!」
 ギネウィスが応えるよりも早く、父が怒鳴った。
「ギネウィスよ。お前の恋人はやはり、あの若いシークでないか!」
 露見したという覚悟はすぐにできたが、はっきり宣言されると、うまい言い返し方ができなかった。
「見ていたよ。廊下での二人……」
「……やはりって?」
「会ったのだ。嵐の晩に往来で。こっちの方から駆けてくる彼と。」
「見間違いでは?」
「確かだよ。見間違えるはずがない。」
 下手なごまかしは、できそうになかった。
「そう……」
 父はひどく辛そうな表情になり、諭すように続けた。
「何故、そんな真似を? いや、お前に恋人がいることを責めているのではない。出戻りだし……ああ、悪いね。まあ、そういう身の上で恋の一つもしたら、お前も気が晴れるだろうと、私も黙認するつもりだった。だが、素性が問題なのだよ。」
「素性は確かですわ。」
「何を……とぼけたことを。あんな年端もいかん若い子を連れ込んで……。何故? ……そんなに昔のこと、忘れられないのか!」
「いえ……」
「偽るな。お前は父親の代わりに息子を誘ったのだ。本当に双子のようによく似ている。惑う気持ちもわからんではないが……何も知らずにお前のこと見ているあの子に、心が痛まんのかね? 恥知らずな真似をして。早々に別れるのだ。」
 自分のしてきたことを、はっきりと言われると辛かった。心が痛んだが、別れるなど考えただけで身震いがする。
「出来ません。」
「まだ、そんなこと言うのかね。目を醒ませ。」
「愛しているのです……」
「しっかりしなさい。お前が愛していたのは父親の方だ。今のは息子! 混乱しているようだね。今ここから帰ったのは誰か、わかっているか? 名前を言ってごらん。」
「アナトゥール・ローラントセン……」
「そうだよ。ローラント殿ではない。ローラント殿の息子のアナトゥール殿だよ。で、お前の懸想しているのは……」
「アナトゥールさま。」
 娘の言うことが、父には理解できない。
「何を言う! この愚か者が!」
 怒鳴り声にギネウィスは竦んだが、引き下がるつもりはない。
「だって……最初は、お父さまの言うように、わたくしは恥知らずな真似をしました。でも、今は……あの方自身が好きなのです。あの方もわたくしのことを想ってくださって……奥方になる約束をしました。」
 夢見心地なことを言う娘に、父はまた怒鳴り声になった。
「ならんぞ! お前、どの面下げて、ソラヤのことを義母と呼ぶつもりか!」
「ごく普通に……お義母さまと……」
「戯言を……。第一、お前のその気持ちは確かかね? 若い子の情熱に絆されて、そう思うだけだよ。」
「違います。」
「そうだよ。……とにかく、あの男はならん。別れるように。」
「いやです。結婚するのです。」
「同じようなやりとりを、同じような顔した相手についてしたことがあるね。」
「……だから、何?」
 父には、娘が呆けているとしか思えない。彼は長い溜息をつき、更に説得を続けた。
「冷静に考えてみなさい。歳の離れた組み合わせというだけでも人の口に上るのに。まあ、世の中にはない話でないし、それでもよいと言ったところで、お前とローラント殿の一件を知っている者も少なくないのだ。もし、その話がアナトゥール殿の耳に入ったら? いくらお前が抗弁したところで、お前の愛情を疑うぞ。」
 最も気にしなければいけないことが、彼女に突きつけられた。
「疑いを……」
「当然だろうに。お前、あの子を傷つけたいのかね? 可哀想に。お前は何ということをしたんだろうね! ……罪深いと思うなら、早急にあの子を自由にしてやりなさい。多少傷ついても、何も知らん今ならやがて癒える。」
「……ローラントさまとわたくしのこと、お知りになったら、許せないとお思いかしら? 今はそうではないのに……」
「まともな神経なら、父親とお前のことを悩む。おまけにあの若さでは……。若いってことは清らかなんだよ。少しの穢れも許せんと思うものだ。そうだろう? 真直ぐお前のこと見て、お前だけを愛して……今はどうあれ、最初の動機を知ったら許せるはずがない。裏切られたと思うに決まっている。」
 他人から言われてやっと、彼女は封じ込めていた不安が正しいのだと思い知らされた。
 鸚鵡返しの言葉しか出なかった。
「……裏切られたと……」
「そうだよ。お前が愛してはならん男がいるとしたら、まさにあの子しかおらんな。」
 視線を落とし考え込む娘に、父が追い打ちをかけた。
「わかったね? 別れなさい。お前の為だけに言うのではないのだ。私の若い甥の為にも言うのだ。」
 ギネウィスは黙り込んだ。
「苦しませたいのかね?」
 しばらく間があった。ひっそりと彼女が答えた。
「いいえ……」
「別れなさい。」
「……はい。」
「……また違う恋を探したらよろしい。若いのがよければ、もっと気楽な公達がいっぱいいるではないか。黒っぽい髪の男もおらんではないしな。」
「少しでも似たところのある方は、側に寄せません。」
「その方がいいだろうよ。」
 そう言ったものの、もともと甘い父親である。娘が哀しげに俯くのに憐れさを感じた。
「慰めに、何でも好きなことをすればよい。夜会でも開くか? 最高のセリカで衣装をつくってやる。色違いで何枚でも好きなだけ。それにあわせて宝石も。」
「いえ……」
「旅行でもするかね? それとも……話をする南国の鳥でも飼ってみるか?」
「いえ、何も……」
「何か、言ってみなさい。」
「……ベリルの指環を作ってください。深くて濃い緑色の、大きなベリルの付いた指輪がほしいの。」
 父はその意図を悟ったが、気づかないふりをした。
「そんなものでいいのか。他には?」
「他には何も。指環ができたら、シークとお別れします。」
「なら、早く発注せねば。」

 父親が出ていくのと入れ替わりに、侍女が入ってきた。
 ギネウィスは長椅子にひっそりと座り、ぼんやり一点を見つめていた。
 その様子を見れば、父と娘の間にあった会話は容易く想像できた。
「お父君に露見しましたのね……」
「ええ。……別れろと。」
「はい……」
 ギネウィスはほっと息をつき、自嘲した。
「……奥さまになる約束をしたのよ。今日……」
 侍女は驚愕した。
「ええっ! 何ということを……」
「だって、あの方のことが好きになったの。もういいと思って……」
「お父君がお許しになりませんわ。」
「ええ。今はどうあれ、父親との一件ある以上、叶わんと。」
「当然ですわ。ご本人の耳に入ったら……」
「許さないかしら? ……そうよね。」
「ええ……」
 ギネウィスがわっと泣き出した。侍女は隣に座り、肩を抱いた。
 しばらく慟哭すると、ギネウィスは咽びながら
「……こんな辛い思いをするとは思わなかった。あの方があんなにわたくしを愛するとは思わなかったし、わたくしもあの方自身を愛するつもりはなかった。……人の心を玩んだ罰なのね……」
と言った。
 侍女は主の背中を撫でた。
「愚かで可哀想なだんなさま……お気の済むようになさったのですも。最後は、はっきりとけじめをお付けになって。」
「最初から恥知らずに誘ったのですもの。終わり方もそれに相応しくするわ。」
 ギネウィスのしようとしていることを侍女は察し、眉を顰めた。何も、トゥーリを傷つける必要はないのではないか、考え直してほしいと思った。
「憎まれてもよろしいのですか?」
「……もう、もう二度とわたくしに近づきたいなどとは、お思いにならないように。わたくしの為に。何よりあの方の為に。」
 侍女は何も言わず、ただ頷くと退出した。

 ギネウィスはすすり泣いた。
 抱きしめていた枕に、トゥーリの匂いはもう残っていなかった。



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