8

 春。草原に帰る日が近づいた。
 トゥーリは今まで、草原に帰りたくないなどと思ったことはなかった。それなのに、今回は帰りたくない。日に日にその気持ちは募っていった。ギネウィスがいるからだ。
 彼は、毎晩のように彼女の許に通っては託ち、慰められて屋敷へ帰った。気が治まったと思っても、夕方になるとまた切なくなる。
 ギネウィスは、トゥーリの熱っぽさを危ういと感じたが、相手をせずにいられなかった。

 その様子を見ているギネウィスの侍女が忠告をした。
「この頃、だんなさまは様子がお変わりになったと申す者があります。」
「そう。どのように?」
 ギネウィスは、内心の測れない微笑を浮かべている。
「華やかになられたとか。生き生きと、まるで恋でもしているようだなどと。」
「そうですか。お前もそのように思う?」
「ええ。」
「お若い方とお付き合いしているせいでしょう。」
「……だんなさまが気が晴れるとお思いならよろしいのですが、私は少し恐ろしいのです。」
「恐ろしいって?」
 侍女は最近になって、トゥーリのことをいたわしいと思うようになっていた。
「シークがお若いから。とても思いつめていらっしゃるから。それは仕方のないことですが……」
「そうね。昨日も、一緒に草原に下って欲しいとおっしゃって。何と言ったらいいのかしら……そう、駄々っ子みたい。甘えていらっしゃったわ。」
 ギネウィスは微笑んだままだ。昔からの侍女にも、主の心は見て取れなかった。
「お断りしたのでしょう?」
「もちろん。やんわりとね。母親のような歳の女を伴って草原へお帰りになったら、ソラヤさまが何とお思いになるか……。ソラヤさまがね……」
 ソラヤの名前を口にしたときだけ、ギネウィスの瞳が冷たく光った。
「そのこと、お忘れなく。」
「ソラヤさまのこと? それとも歳のこと?」
「……まだお若くて、美しくていらっしゃいます。」
「あの若い方が夢中になるほど、わたくしはまだ美しいですか?」
「だんなさまは……あの方を愛しておいでなのですか?」
「あの方って? ローラントさまのこと? アナトゥールさまのこと?」
「息子さんの方です。」
「いいえ。アナトゥールさまとして見たことはありません。あの方はローラントさま。」
 ギネウィスは歌うように言う。思いが測れない微笑を湛えたままだった。
 侍女はほっと溜息をついた。
「残酷なことを……。でも、責めはしませんわ。お気の済むように。」
「心配しないで。やがて、しばらくお別れ。草原へお戻りになるのだから。昨夜にお別れのご挨拶をしたの。今日は来ないわ。」
「それは残念ですね。」
「そうね。」
 しかし、若さが内包する情熱は、時として想定を超えるのだ。

「この次は、秋に上京した時ね。」
 そう言われていたのに、トゥーリはどうしても我慢ができなかった。
 彼は夜闇の中、屋敷を出た。
 だが、来てはいけないと言われた以上、正面きって行けない。
 彼はギネウィスの屋敷を見上げ、塀沿いにぐずぐずと馬を歩ませ続けた。
 すると、裏通りの小さな通用門に、衛士がいないのに気づいた。屋敷の者に見咎められるのではないかと惑ったが、彼は鍵を壊して入った。
 彼は庭の植栽に身を忍ばせながら、慎重に進んだ。そして、建物の側の立木の影で、ギネウィスの部屋の窓の灯りを探した。
 既に厨房などの灯は落ちていた。灯のある部屋は少なく、すぐに見つけられた。
(灯りが点いている。そこにいるんだ……)
 胸の底がじんと潤んだ。嫌いな都にでも、ギネウィスといられるならいたいと思った。
 彼は、窓の灯りを見上げ続けた。
 三月の名残雪が、ちらちらと舞い降りて来た。
 彼の外套の肩が雪でうっすら白んだ。雪で濡れた髪から滴が垂れた。
 その時、幸運が訪れた。

 雪に気づいたギネウィスが、窓辺に近寄ってきたのだ。
 トゥーリは、思わず身を曝し、彼女の姿を食い入るように見つめた。そうしていると、彼女も気づいた。目が合った。
(側に行きたい……)
 しかし、彼は言われたことを思い出し、身を翻して駆け去った。
 彼女は、彼の去るのを黙って眺めた。
(肩にも髪にも雪を載せて……長い間、見上げていたのかしら?)
 心が少し痛んだ。

 ラザックの老ヤールは、主に何が起こっているのか、薄々勘づいていた。
 毎晩、毎晩、何処かに一人で出かけて、深夜に帰ってくる。普段通りしらっとした風でいるのが、かえって怪しいのだ。
 その日のトゥーリは早い帰りだったが、雪にぐっしょり濡れている。
 老ヤールは、体調を悪くするだろうと心配した。他意はなかった。
「お控えあれ。」
 短く柔らかな、一言だけの諌めだった。
 しかし、トゥーリは上気した。ギネウィスのことばかりを考えながら帰った彼は、女に夢中になりすぎるなと言われたと勘違いをしたのだ。
「何もしていない!」
 老ヤールは怪訝な顔をした。トゥーリは勘違いを悟って、顔を赤らめた。
(やはり女か……。恋をなさったか……)
 老ヤールはそう確信した。彼が知る限り、トゥーリには姫君との交流がほとんどない。何処で知り合ったのか不思議だった。誰だろうとは思ったが、街の商売女などでなければ、誰でも同じだ。
 ただ、若いだけに、少し心配になった。
「トゥーリさま。一応、ご後室さまからお預かりしている身ゆえ、敢えてお尋ねします。寵を与えている女人がおるでしょう?」
 老ヤールの表情は固かった。トゥーリは咎められるのだと思い、黙り込んだ。
「責めているのではありません。その歳なら、恋の一つや二つ……」
 老ヤールは、恋愛に寛容な草原の者らしいことを言った。
 責められないのはいいが、バツが悪い。トゥーリは大声になった。
「だったら、何も言うことないだろ!」
「相手の方、どういった方ですかな?」
 老ヤールの口調はあくまで落ち着いている。
「どうって?」
「ありていに申し上げます。人様の奥方であるとか、やんごとない姫君だとか……難しい女人ですか?」
「そうではない。……ああ、身分高き姫君といえば、そうかもしれん。」
「その方の家人に知られると、困ったことになるのでは?」
「そういう心配はないらしいな。父親が放任しておる。」
(若後家か……)
 この時代は女余りだ。老ヤールは、主の相手を若い未亡人だろうと考えた。最悪の事態は避けられそうだと、彼は少しだけ安堵した。
「父親がね。なら、くどくど申しません。ただ一つ。……女人は子供を産みますのでな。お解りでしょう? その歳で父親になられるのでは、ご後室さまが黙っておりません。」
「子供……」
 当然ありうることだが、トゥーリは恋に夢中で、そこまで考えがなかった。
「そのこと、ご念頭におかれて……。何です? そういう気配があるのですか?」
「いや、ない。心配せずとも、程なく草原へ帰るのだから。」
「はい。」
「今日は、お別れを言いに行っただけだよ。」
 老ヤールは納得したが、寂しそうな様子に同情し
「……草原にも可愛らしい娘がいます。お寂しいなら、伽にお召しになったらよろしい。」
と言った。
 途端に、トゥーリは瞳をぎらりと光らせた。
「つまらんことを申すな!」
 そう言い捨てると、ぷいっと立ち去った。
 彼は、伽という言葉を聞くのも嫌だった。そういう関係は、愛情の上に成り立たなければいけないと思っていたのだ。

 老ヤールはトゥーリの後姿を見送り、溜息をついた。
(思いつめて……。草原で、他の女をお側に寄せれば多少……いや、あのご気性ではなあ……)
 未亡人と恋愛するのは、問題ではない。子が生まれるのは好ましくはないが、重大とまではいえない。ロングホーンの貴族の女との間に庶子を儲けられるのが困るのだ。それは、ソラヤを慮っただけではない。
 老ヤールは一抹の心配を抱え、トゥーリは寂しさを噛みしめ草原へ帰った。

 初陣を成功裏に終えたトゥーリを、ソラヤは今までになく機嫌よく迎えた。
 しかし、彼は母の顔を真正面から見られなかった。
(都で恋人ができたと知ったら……母さまはきっと……)
 彼は母の激しい折檻を思い出し、身震いした。絶対に知られてはならないと思った。
 またひとつ、母が遠くなった。



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