5

 その後しばらくして、行き先の宣旨が来た。反抗的な土豪を討伐せよというものだった。
 あまり華々しい仕事とは言えないが、トゥーリは身の引き締まる思いがした。
 彼は、アデレードの翼へ最後の挨拶に行った。

 トゥーリが現れると、アデレードが嬉しそうに駆け寄って来た。
 いつものことだったが、最後だと知る彼には切なかった。
 親しげに握られた手、向けられた笑顔。彼は心にしっかり刻みつけた。
 彼女は何も知らされていなかった。
「ああ、久しぶり! ちっとも来ないんだもん。この前の“ローラン”の話、してあげるね。」
 “ローラン”が象徴する日常は、もう無くなるのだ。
「“ローラン”はいいわ。今日でここに来るのは最後だから、もっと違うことを……」
「え? どうして?」
「俺は今度、戦に行くんだ。初陣が済んだら、もう大人だからさ、姫さまの側近く、親しげに寄ってはならんって言われた。」
「そんな……急に大人になったりしないわ。何で? ちょっと来ないだけでも寂しいのに、ずっと来ないなんて……」
 戦に行くことよりも、会えないことが心配なのだ。彼は、彼女が自分と同じように感じているのが嬉しかった。
「あんたも同じように思うんだね。そう。急に大人になったりしないけれど、何って言ったらいいのかな……ある種のケジメみたいなもんなんだわ。だからさ……」
 みるみるうちに、彼女の目に涙が溢れ出した。彼女は彼に抱きついて、しくしく泣き出した。
 彼は、ずっとそうしてきたように、彼女の背を撫で慰めた。
「また泣く。泣かなくても……別にこれっきり会えないわけでは……宮廷の行事があったら会えるよ。今までと同じわけにはいかないかもしれないけれど……」
「トゥーリは、私と今まで通り遊べなくなっても寂しくないの?」
「そりゃあ……寂しい。そして心配。そうやってすぐ泣くから。」
 彼女は彼をきつく抱きしめて、胸元に顔をこすりつけた。
「ああ、そんなに抱きつかないで。また、俺の服に鼻水を擦り付けるんだろう? 泣きべそかくと、いつもそうなんだもん。」
「だって、止まんないんだもん……」
「一応、最も高貴な姫君なんだし、そんなに鼻を真っ赤にしてはならん。鼻かめ。貸してやる。」  彼が手巾を渡すと、彼女は迷うことなく鼻をかんだ。彼は眉根を寄せた。
「……そんなに思いっきり……。それ、もういらない。あげる。」
「返す。」
「あんたの鼻水、記念にもらったところで、始末に困る。」
「じゃあ、遠慮なくかませてもらうわ。」
 彼は、鼻をかむ彼女を眺め
(やっぱり、ギネウィスとは違うわ。鼻水流しながら泣くんだもん。まあ、この様子が放っておけなくて心配といおうか……)
と苦笑した。
「なんで、笑うの?」
「だって、鼻が真っ赤っかだよ。すごく不細工。」
「失礼ね。みんな、母さまみたいなすっごい美女になるって、言ってくれるのに。」
「鼻の赤い、すっごい美女になるの?」
 彼はついついからかった。からかって、彼女がふくれるのを見たくなるのだ。
「意地悪。」
「そうしたら……また俺の胸で鼻水を拭くのか?」
 その言葉は独り言のようだった。彼女はよく聞こえなかったらしく
「何だって?」
と訊いた。
「いや、なんでもない……」
「トゥーリ、小さいとき言ったよね。大きくなったら、大公さまの為に戦に出て、手柄を立てて……」
 彼は慌てて彼女の言葉を遮った。
「何それ! 言ったっけ?」
「言ったよ。そうして……」
 子供っぽい、彼にとっては恥ずかしい告白を念押しされるのは敵わない。
「なら! 大きくなったからそうするんですわ。」
「約束を守ってね。」
「わからん。……いや、一応、“忠実なるラザック”のシークなんで、守るって言っとくわ。」
「何? その言い様……」
「じゃあ、さようなら。」
「さようならって……永の別れみたい……」
「他に言い様を知らん。……また泣く……」
 彼女はまた抱き付いて、泣き続けた。立ち去るわけにもいかず、彼は宥め続けた。

“草原は春になると、野いちごの白い花がいっぱい咲くんだ。”
“大きくなったら、大公さまの為に戦に出て、手柄をたてるよ。そうして、お願いして、アデルをシークの奥方にするね。美しい野いちごの草原を見せてあげるよ。”
 約束というには、あまりにも幼い言い交しだった。


 当初の予定を大幅に超えて長居してしまった後、トゥーリはギネウィスにも一言挨拶をしに出かけた。
 告げられたギネウィスは
「あら、そう。」
と微笑んだだけだった。
 しかし、彼女の中に不道徳な考えが浮かんだ。
 トゥーリが父親と決定的に違うのは、感じやすい心だった。ローラントは、何事にも全く動じない気性だった。
 トゥーリは気持ちがすぐに表情に出て、ころころ変わる。そして、優しい。
 彼女はそれが少々不満だった。彼女にとって、優しさは弱さと子供っぽさだった。
(戦から戻ったら、変わっているかしら? ローラントさまに似てくる……?)
 頻繁に出陣していたローラントのことを思い出し、戦場の経験がトゥーリを“成長”させるのではないかと思いついたのだ。
 彼女とは逆に、トゥーリは若く、何事も裏がない。
(戦場に行ったら、その間はこの人に会えない。しばらくでも辛い……)
 切なくなって帰りがたく、ぐずぐずしているトゥーリに、ギネウィスが促して身支度させた。
 それでもまだ、彼は寝台に腰掛けて、何か言いたげにしていた。
「あまり長居なさると、お屋敷の方たちが心配なさるわ。」
「そんなこと……」
「早めに帰って、お休みにならないと……。初陣の前に体調を崩されたら大変。」
「そうだね。」
 彼は視線を落としている。言いたいことがあるのに、言えないようだった。
「なら……ね。今度ここにいらっしゃるのは、初陣を飾られた後ですのね。どんなに大人びて戻っていらっしゃるかしら。」
「急に大人になったりしない。」
「そんなことありませんわ。人の生き死にを見て、変わらない者などいませんことよ。殊に、あなたのように心の柔らかい方は。」
「……そう。この手で人を殺すのかと思うと、怖いんだ。」
 そんな埒もないことが言いたかったのかと、ローラントならば、そういうことは一切言わなかっただろうと彼女は思い、少し苛立った。
「怖いだなんて。……あなたのお父さま、とても剛胆でいらっしゃったわ。普段はとても静かな人でしたけど……」
「父さまのこと、よく知っているの?」
 彼女は内心の震えを抑えて、当たり障りのないことを言った。
「……いいえ。そういうご評判を申し上げたまでのこと。」
 彼は全く疑いもせず、彼女に自分のことを問いかけた。
「俺がよく似ているという父さま。父さまのように泰然と振舞えるんだろうか?」
「最初はヤールたちの助言をよく聞いて。初めからうまくできるわけありませんもの。習うつもりでいらっしゃったらよろしいのよ。しっかりね。」
「うん。でも……あなたに会えないのが辛い。しばらくでも辛いのに、離れて長い間、辛いだろう……」
「そうね。……わたくし、ご武運お祈りしてお待ちしていますわ。」
 途端に彼の目が輝いた。子供っぽいと、彼女はまた苛立った。
「待っていてくれるの?」
「ええ。わたくし、あなたのものですわ。」
「愛してるよ、ギネウィス。陣中から手紙を書くね。」
 彼女はどきりとした。見つめている彼の目には少しの戸惑いもなく、純粋な愛情が見て取れた。
「ええ。でも、お返事は差し上げられませんわ。戦場に女から手紙が届くなんて、不謹慎ですもの。」
「返事はいらない。里心ついちゃうから。」
 彼女は軽く笑った。
「里心だなんて、あなたのお里、ここですの?」
「そう。愛しいあなたのところへ帰ってくるんだもの。」
 父親は決して言わなかった台詞を、息子の方は、同じ顔で、同じ声で当たり前のように言う。ギネウィスは、悦びとソラヤに対する優越を感じた。
 ただ、少し罪悪感があった。



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