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 ギネウィスの若すぎる愛人は、一方では未だ、アデレードの無邪気な遊び友達だった。
 その日、トゥーリとアデレードは肩を寄せ合って座り、絵物語の写本を見ていた。
 書見台には、“ローランの歌”が載っていた。“トリスタンとイズー”のような恋物語は巧妙に遠ざけられており、二人に与えられるのはいつも叙事詩や戦記だった。
「“嗚呼、デュランダルよ。哀れ、汝。我が亡き後はいかならん。我、あまたの国を攻め伏せて、シャルルマーニュに捧げしも、すべては汝の手柄なり。汝、弱卒の手に渡るまじ。嗚呼、デュランダル。汝をば、異教徒の手に渡すまじ。”だってさ。死んじゃうみたいだね。」
「ええっ? 奇蹟は起こらないの?」
「毎度毎度、奇蹟かよ?」
 二人は笑いさざめいた。
 外は木枯らしだったが、室内は温かい。
 彼らを眺めている大公と公妃は
(仲が良くて結構。)
と微笑んでいた。

 そこへ宮宰が現れた。彼は寄り添っている少年少女を見て、眉をひそめた。
「まだ一緒に遊んでいるのですか。もう別々にと申し上げたのに……」
「仲がいいから、離すのは可哀想。」
 公妃が応えると、大公も
「まだ子供だから、そなたの心配するようなことはないよ。」
と言って笑った。
「甘いですなあ。公女さまはともかく……あいつ、いや、侯爵をご覧あれ。成長が早いですな。にょきにょきと背が高くなって。声だってもう大人ですわ。」
 宮宰は、憎々しげにトゥーリを眺めていた。
「なりは大きいですけれど、子供は子供ですわ。」
「その油断がならんのです。あの様子なら、すぐ女を恋しがるようになる。」
 公妃は不愉快そうに鼻に皺を寄せた。
 宮宰は皮肉な笑みを浮かべ謝罪した。
「……ああ、失礼。公妃さまの御前でしたな。」
「卑しいことを……失礼しますわ!」
 気分を害した公妃が出て行った。大公は後姿を見送って、溜息をついた。
「控えんかね。まったく……」
「重ねてお詫びいたしましょう。……しかし、ご覧なさい。あんなに側近く寄って。恥ずかしげもなく。……あのまま、手が重なって、唇が重なって、身体まで重ねたらどうするのです?」
「恐ろしいことを申すな。杞憂だよ。」
 大公は笑ったが、宮宰はますます真剣である。
「杞憂なもんですか! 侯爵、いくつになったのかな? 草原ではもう大人扱いでしょう。あっちは早いんだから……」
 宮宰は顔をしかめた。そして
「おい、侯爵! ここへ参れ。」
と、ぞんざいな調子でトゥーリを呼んだ。

 トゥーリは、宮宰がまた嫌味を言うのだろうと思った。憂鬱だった。しかし、宮廷で上席の宮宰には従わねばならない。
「何でしょうか?」
「そなた、その歳になったら、公女さまとはもっと相応しい距離を取らんか!」
「はい……」
「ぴったり身体を寄せて……。慮外者が!」
「申し訳ございません。」
「草原の者は嗜みを心得んからな。今でも、気分次第でひっついたり離れたりしているらしいな。まったく野合だな! 獣と変わらん。草原は、何を拠り所に父称を付けるのかね?」
「……結婚した女は貞淑です。」
「なら、それまでは自由恋愛か。卑しい。ときに、そなたもその歳になったら、私がこんなこと言うのが何故かわかるだろう?」
 トゥーリは俯いて、唇を噛んだ。意味がわかったのは勿論、卑しい勘ぐりをされているのが悔しかったのだ。
 いつも以上に厳しい宮宰の言い様に、大公が口を挟んだ。
「もう、やめんかね。侯爵が困惑しておる。」
「大事なことですからね。公女さまのこと、ご心配ではないのですか?」
「心配も何も……。あの二人の歳で何をするのかね?」
 大公は苦笑している。宮宰は舌打ちした。
「そんなもの……。侯爵よ。草原では、ヤールどもがそなたに伽を付けるだろう?」
「伽……」
 彼にとっては嫌な言葉だ。先の春のことを思い出されて、思わず顔が赤らんだ。それを宮宰は見過ごさなかった。
「ほうら、上気した。もうわかっているんですよ。」
「……伽はまだいらぬと申し付けているので……」
 トゥーリはそう言うしかなかった。
「そうだろう。そうだろう。」
 大公が合わせてくれたが、宮宰は余計に憎々しげな口調で言った。
「どうだか。まあ、要らんことは考えずに、都と草原を行ったり来たりしておれ。他に何もできんのだから!」
「それは言いすぎだぞ!」
 大公が咎めるのにも、宮宰は怯まない。
「事実です。子供のシークはそれしかしていらっしゃらん。」
 宮宰は、いつものように、見下した表情でいる。
 卑しまれることも子供扱いされることも、もうたくさんだとトゥーリは思った。我慢しなければという気持ちは湧かなかった。
「……私が年若いことが、それ程に責められることですか?」
「おお! おお! 本職も務めておらんのに、生意気だな。そなたを見ていると父親を思い出すが、その生意気ぶりも父親そっくりだわ。まあ、ローラント殿は戦という使いどころあった分、そなたよりマシか。こんな陣にも出られぬような歳の息子を残して早々に鬼籍に入るとは、それだけでも不忠だが。」
「なら、私のことも、父と同じようにお使いあれ。」
 トゥーリは宮宰を睨みつけた。低く呟く声に、いつにない怒りが籠っていた。
 宮宰は言葉に詰まった。
「アナトゥール、そなた何を申すのだ。まだ早い。」
 大公が慌てて宥めたが、さっきは一瞬怯んだ宮宰が
「それはいい。それだけ生意気申すなら、早速武装の用意をしておけ。テュールセン殿と計って、人殺しをさせてやるわ!」
と怒鳴った。
 トゥーリは宮宰を睨んだ。宮宰がすかさず
「……何かね、その目は!」
と叱りつけた。
「……失礼いたしました。」
 頭を下げられた宮宰は鼻を鳴らして、また罵った。
「素直でよろしい。くそ生意気なところは、あの父にこの子ってことで許してやる。」
「……父共々、ご容赦あれ。」
「ん。……何をしに参じたのであったか……?」
 宮宰はそう呟いてしばらく虚を見つめた。
 大公は眉根を寄せ、宮宰が来訪の意味を述べるのを待っている。
 宮宰は作り笑いを浮かべ
「急ぎのことではありませんから、改めて。」
と大公に言い、トゥーリに向かって
「気が削がれたわ!」
と吐き捨てて出て行った。
 宮宰はいつもトゥーリには厳しい。それは、男女関係に厳しいからだけではない。

 大公は渋い顔で、宮宰の出て行った扉を見つめている。トゥーリは
「大公さま、私も帰りますので。」
と退出を請うた。
「ちょっと待て。そなた……あんなことを口走って……」
「だから、帰って武装の用意をせねば。宮宰さまとテュールセンさまが早々に行き先をお決めになられても、恥かかぬようにしっかり。」
「売り言葉に買い言葉というやつだよ。本当にその気ではないよ。」
「いいえ。私、この中途半端な立場が、そろそろ心苦しいのです。」
 驚いた大公が言葉を尽くして止めた。
「何も半端なことなどない。ラザックシュタールの侯爵。ラザックとラディーンのシーク。これ以上はっきりした立場はない。」
「いいえ。宮宰さまのおっしゃる通り、私は参勤を務めているだけです。」
「そなた、軍役に就くという意味、わかっているのかね? まだ幼すぎる。」
「ラザックもラディーンも、男の子は剣が持てて、弓が絞れれば、もう戦に出ます。さっき話していらした通り、私は草原では大人扱いです。酒も出れば、女も……望めば侍るでしょう。」
「そこらの男の子と違うよ。そなたに、もしものことがあったら……」
「大丈夫。みっちり修行を積まされています。大公さまと立ち合っても、勝つ自信があります。大公さまは私の母に勝てなかったのでしょう? 私は母を打ち落とせます。二つ年上の乳兄弟にも勝てる。その上の乳兄弟にも、三つに二回は勝てる。」
「私は武芸がからっきし下手だからね。でも、立ち合いと本当の戦闘とは違うんだよ?」
「二・三年前から、草原で小競り合いがあるたびに、部の民に連れられて、その本当の戦闘というのを見せられました。ラディーンが焼き働きを……まあ、それをするのにも同行したし。」
 大公は、どうしたら止められるのだろうと考え込んだ。
 トゥーリは深々と頭を下げて
「もう、女の子みたいな顔をしたトゥーリではないんです……。どうか、私の初陣、お許しあれ。」
と言った。
 宮宰への当てつけで言っているのではないことが、大公にも伝わったのか
「初陣が済んだら、宮廷でも大人扱いだよ? アデレードのところへ、今までのように遊びに来られなくなる。」
と説得に諦めの色が滲んだ。
「いずれ、遅かれ早かれそうなりますから。あまり長く一緒にいると、余計寂しくなるかも……」

 二人ともが黙り込んだところに、アデレードが奥から現れた。
「ねえ、何を話しているの? ローランが死にかけたままなんですけど。……早く続きを読んで。」
 トゥーリは苦笑し
「俺、今日は帰らねばならんから、続きは大公さまに読んでもらって。」
と勧めた。
「ええっ? 嫌だ。父さまは講釈が長くて、ちっとも先に進まないんだもの。トゥーリの方がいい。」
「いいじゃない。しっかり講釈してもらいなよ。勉強になるってもんだよ。」
「気が進まない。」
 トゥーリは大公に視線を向けた。
 大公は、取り繕った笑みを浮かべ
「どれ、ローランか。これはね。本当にあった話を下敷きにしてだね……」
と、合わせてくれた。
 アデレードはけらけら笑い
「始まった……もう! トゥーリにも、今日の講釈の内容を教えてあげるね。」
と言って、トゥーリに手を振った。
「うん。いつかね……。……大公さま、先程の話よしなに。」
「……考えておく。」

 トゥーリが扉を開けると、戻ってきた公妃と鉢合わせた。
 公妃は、宮宰がいないことを確かめると嘆息し、彼に微笑みかけた。
「宮宰、やっと退出しましたのね。まったく耳の穢れというものです。トゥーリはお帰りなの?」
「はい。」
「ゆっくりしていらっしゃいな。お夕餉一緒に……」
「いえ。私は、人と食事するのが苦手です。それに、屋敷で仕度しているでしょうから。」
「よく気遣いしますのね。仕方がないわね。また今度にしましょうね。」
 彼を見送って、公妃は眉を寄せた。
「何だか様子が違いましたわ。また宮宰が意地悪を?」
「いつもの調子でね……」
 大公は言いかけて、アデレードに
「姫よ、少し向こうへ行って、待っておいで。母さまと話があるから。」
と言った。
「はあい。」
 アデレードが隣室に消えると、公妃は大公を詰った。
「あなた、宮宰に遠慮しすぎよ? あなたのご気性ならば、仕方ないけれど……もう少し何とかならないの?」
「それはそうなのだが……。でも、アナトゥールは言い返した。」
 彼女は驚いた。トゥーリはずっと、宮宰の嫌味を受け流していた。今日もそうするのだろうと思い込んでいたのだ。
「何ですって!」
「父と同じように私をお使いあれ、とね。」
 彼女は言葉を失った。沈黙の後
「父と同じように? ……軍役に就きますのか? まだ早すぎます。私の故国では、あんな歳では初陣しませんのよ。トゥーリはまだ免役ですわ。」
と声をひそめた。
「草原では、剣と弓ができれば戦に行くんだよ。自分は剣も弓もそれなりに修めていると言うのだ。」
 彼女は顔色を変えた。
「何故、止めないのよ? 私の小さなトゥーリが戦に行くなど……。もしものことがあったら、どうするの? 止めて!」
 彼女の大声にも、大公は首を振っただけだった。

「止めたよ。でも、もう“私の小さなトゥーリ”ではないんだよ。」
「それは……私より背も伸びたし、声も低くなったし……。でも、あの子はまだ、ちっちゃなトゥーリです。公女さまと遊んでいる様子をご覧なさいな。まだ子供よ!」
「いや。宮宰に食ってかかった、というと語弊あるな。……反論したとき、静かな声ではあったが、燃えるような目をして睨みつけた。」
「酷い事を言われたから、悔しかったのよ。」
「そうかもしれんが……覚悟を決めたんだよ。今も武装の用意をしに帰った。二言ないって感じでね。」
「武装って……」
「私らの思っているほど、子供ではないんだよ。その点、宮宰の言う通り、一人前なのかもね。」
「お願いだから、あんまり危ないことはさせないで。」
「危なくないっていっても、やはりそこそこ……まあ、戦時下ではないから、どこか適当なところへ駐屯に行くだけだよ。」
 彼は長い溜息をついた。辛そうな顔で、眉間を押さえている。
 彼女は更に言い縋って止めたかったが、それ以上は言えなかった。

 宮宰はその日のうちに、テュールセンの公爵に話をした。
 テュールセンの公爵は、少し早いのではないかと逡巡した。しかし、草原では早いわけではないのかとも思った。
 腕前を確かめて、危うければ止めればいいと考えた。
 彼は二人の息子を呼び出した。どちらかと闘わせて、様子を見ようというわけだ。謂わば、試験である。
 まず、トゥーリと歳の近い弟息子にさせることにした。
「リュイス。お前、シークと立ち合ってみなさい。」
「トゥーリ? なんで?」
「腕前の確認だよ。お前は歳も同じころだし、比較対象に最適だからな。」
「いやだ。」
 リュイスはあっさりと拒否した。
「何故だ?」
「あいつ、怖いもん。」
「不甲斐ないことを申すな。」
「父上の二番目の息子は分別があるのです。」
 彼は薄笑いを浮かべた。丸きりやる気がない風だ。
 テュールセンの公爵は訝しく思ったが
「何だ、それ? ……なら、レーヴェ、お前がせよ。」
と、兄息子に話を振った。少し歳は離れるが、仕方ない。
 レーヴェはにっと笑い
「……リュイス。ガキ相手に怖気づいてるのか? ……親父殿。膾に刻んでもいいのなら、いくらでもするぞ?」
と、物騒なことを言った。
 リュイスは鼻を鳴らした。
「兄者よ。トゥーリはな、宮廷的に打ち合うなんてできんのよ。」
「田舎者だから、そんなものだろうよ。」
「知らんよ? タマ取るつもりで、急所狙ってくるからな。」
「なら、斬り殺しても文句言わんだろう。」
 レーヴェは高笑いした。
 父は呆れた。次男はやる気が無いが、長男はやる気満々過ぎる。
「もういい。二人とも用はない。」
「きれいなシークが膾になるところ、見たくないの?」
 レーヴェはそう言って笑った。リュイスは面白そうに
「兄者が膾かも知らん。」
と言った。
「何だと! 兄貴に向かって。揉まれたいのか?」
 気性の荒いレーヴェが、リュイスの襟をつかんだ。リュイスは手で払って笑った。
「疲れるから嫌。」
「止めんか! もういい。」
 テュールセンの公爵は、自分ですることに決めた。

 その数日後、テュールセンの公爵はトゥーリを馬場に呼んだ。
 背ばかり高い痩せっぽちのトゥーリを見て、彼は苦笑した。
(私と打ち合ったら、怪我の二・三個はするかもしれん。)
 当のトゥーリは、そんなことを思われているとは知らず、落ち着き払っている。
 テュールセンの公爵は
(落ち着いてはいるが……硝子玉みたいな目をして……。本心探れんな。無表情ぶりはローラントを思い出す。まあ、手加減して……)
と、旧知の友の息子に、思いやりを掛けた。
 彼は、草原の訛りを入れて、和やかに話しかけた。
「凛々しい出で立ちだな。」
「今日は、お忙しいところをかたじけなく存じます。よろしくお手合わせください。」
「堅苦しいことを言うね。」
「テュールセンさまは、私より上席ですから。」
「礼儀正しいな。息子どもに、爪の垢でも煎じて飲ませたいわ。いやいや……上席といっても、我が家は、シークのお血筋には一方ならぬ恩顧があるゆえ、そのような気遣いは不要だよ。」
「はい……」
 どうも反応が悪い。テュールセンの公爵は話題を変えた。トゥーリの引いている漆黒の軍馬に目を留めて
「いい馬だな。ラザックかね? ラディーンかね?」
と微笑むと、無表情だった目が輝いた。
「ラザックの馬です。」
「立派な体格だ。」
「ええ。ご覧になって。この尻節の良さ。胸の肉付きも厚いでしょう? 腰が高くて、脛は長くて。腱が真っすぐで、弓の弦のように弾力があって固い。」
 うって変わって、トゥーリが多弁になった。
「おお、詳しいな! 馬は好きか?」
「ええ! 馬の嫌いな草原の男はいない。皆、いい馬群を持ちたいと望むし、駿馬に乗りたいと思う。こんな駿馬の主になれて誇らしい。」
 トゥーリは嬉しそうに微笑んで、馬の首を撫でた。
「ラザックの駿馬は、気性激しく強いと聞く。戦場の風を嗅いで昂り、血溜りを踏みしめて、さらに前に出ようとする激しい気性だとか。」
「こいつは丈夫だし勇敢だけど、素直だよ。」
「名前は?」
「冬星。この額の白い星が鮮やかで、冴えた冬の夜空の星のようだからって、ラザックのヤールがつけた。」
「詩情のある名前だね。」
 トゥーリの口調もくだけてきた。誇らしげで嬉しそうな様子に、テュールセンの公爵は微笑んだ。
「テュールセンさま、我々は馬の話をしにきたのではなかったはず。早く立ち合いをしましょう。」
「そうだな。ラザックの駿馬の話は、また今度聞かせてくれ。」

 ようやく二人は試合した。
 テュールセンの公爵の方が、体格的にも経験的にも、技術的熟練度においても比べるまでもなく上だ。しかし、トゥーリは敵わないまでも、結構な闘志を見せた。
 テュールセンの公爵は、トゥーリの巧みな馬の扱いに舌を巻いた。
 打ち抜けて馬を返すと、彼はもう既に馬の腹を蹴ってこちらに向かってくる最中なのだ。脚の細かな動きと複雑な舌鼓で操っているようだとわかったが、いかな名馬といえど、乗り手の的確な指示と信頼関係がなくては、そうはいかない。人馬一体という表現がぴったりな扱い方だった。幾人も知っている草原の戦士の誰よりも才があるのではないかとさえ思えた。
 しかし、少し心配なところもあった。
 鉾を握っているときでさえ、相手の側に寄って、隙あらば、手綱を離して左手で短刀を抜こうとする。或いは、腕を取って、馬から落とそうとする。ひどく泥臭いことをするのだ。
「シーク。私の次男坊が、そなたは急所狙ってくるから怖いと申していたが、本当だな。懐へ飛び込んでくる勇気は認めるが、下手すると自分がやられてしまうよ。」
「私の師匠は、そんなこと言わなかったよ。得物失くして組み敷かれたとしても、喉へ食いついて相手を殺せって。」
 そんな無茶なことは、都の武術の教師は教えない。
「何という師匠かね……。草原の戦士か?」
「まあ……部の民のところでも似たようなこと言われたけど、それを言ったのは母です。」
「ああ、そなたの師匠、ソラヤさまか!」
 テュールセンの公爵は、自らの永遠の女神の名前を叫んで、目を輝かせた。トゥーリは少し笑って
「そう。そして、最後に二本足で立っている方が勝ちだって。どんな見苦しいことをしても。」
と答えた。
 テュールセンの公爵は納得がいった様子で何度も頷いた。
「筋が似ているとは思った。……力の劣る女の使い方だが、今のそなたには合っているかもな……」
 途端に、トゥーリは舌打ちし、睨みつけた。
 テュールセンの公爵は、目まぐるしく変わる表情が可愛らしく思え
「そんな目で見るなって。悔しかったら、しっかり食って身体を作りなさいね。痩せっぽちだから。」
と宥め、微笑みかけた。
 トゥーリはそっぽを向き、低く吐き捨てるように
「ちゃんと食べている。」
と言った。
 子供扱いされるのが、嫌で嫌で仕方ないらしいと、テュールセンの公爵は失笑した。
「背丈ばかりに栄養がいっているのだな。まあ、親父もでかい男だったし、そなたもそうなるのだろうなあ。」
「そんなことより、私の初陣どうなるの?」
「近いうちに行き先を決めるから待て。」
「本当に行っていいんですね?」
 また、嬉しそうな顔になった。テュールセンの公爵は苦笑した。
「……腕もそこそこだし、そう後れはとらんだろう。」
「はい。」

 トゥーリは、素直に喜び感じ帰途に着いたが、興奮が冷めて考えることは、あまり勇ましいとはいえないことだった。
(戦に行くって事は、人を殺すのか……。殺されるよりは、殺すほうがいいけれど……)
 血を見るのは怖かった。殺す相手にも、家族があるだろうと思うと、ますます嫌な気持ちになった。
 戦場では、そんなことを考えている余裕はないのだろうとは思ったが、憂鬱だった。
 それ以上に、憂鬱なことも思いついた。
 戦場から帰って来たら、大人であると見なされる。男が親しげに、未婚の公女に近づくことはしてはならない。もうアデレードのところに、気安く行けなくなるのだ。
(戦に行った行かないで、大人だ子供だと、はっきり変わるのかな? ……何故、大人になったら、側近く居てはならないのだろう?)
 彼は、宮宰の卑しい邪推を思い出した。
(アデルなんか、子供じゃないか。)
 一旦は苦笑したが
(もっと大きくなって、恋人が出来たら……ギネウィスみたいに……するのかな?)
などと思いついて、もやもやし出した。

 気が付くと、馬が勝手に屋敷まで連れ帰っていた。老ヤールがいつものように出迎えた。
 トゥーリは厳しい顔を作り
「私の初陣について、テュールセンさまから内定いただいた。」
と伝えた。
 老ヤールは目を細めていた。草原の男は、戦場に出て一人前だと言われるからだろう。
「おめでとうございます。で、どちらへ?」
「追って沙汰あるそうだ。しっかり用意を整えてくれ。」

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