6

 やがて出陣の沙汰があった。大公から剣の帯皮、伯父からは黄金の拍車が初陣の祝いに贈られた。
 大きめの帷子の中で、トゥーリの痩せぎすの身体が泳いだ。
 彼が、子供のする二つに結った髪をひとつに編み直すと、老ヤールは渋い顔をした。
「長いですな……。戦に行くときは、編んだ髪の間を二箇所ほど縛るのですが……三箇所縛りなされ。」
 トゥーリは言う通りに直した。しかし、老ヤールは苦い顔のままだった。
「その髪、お帰りになったら、もう少し切った方がいい。」
 鎧は、札を連ねた草原のものだった。軽くて楽だった。馬は冬星に乗ることにした。
 例によって、苦虫を噛み潰したような顔の宮宰は
「おのれの馬印、自分の血で汚すな。」
とつまらない餞の言葉を吐いた。

 相手は城を構えるような豪族ではない。徒党を組んだ盗賊が、土豪化したような者たちであった。さほど大所帯でもない。宮廷で聞かされた印象とは全く違う、鼻白むほど貧相な相手だった。
 荒事の好きな草原の戦士たちは、一気に決着をつけようと言った。ヤールもそう勧めた。
 しかし、トゥーリは少し不安だった。乱戦状態になれば、他の者も我が身で手一杯だ。自分の身を守れる技量があるのか考え込んだ。
 それを見越したか、一緒に来た年上のラザックの乳兄弟が
「シークよ。怖気づいておられるのかな? 大丈夫。血をどばあっと見ると、肝が座る。」
と野蛮な励まし方をした。
 そして、誰もが
「側にいてあげるよ。」
と笑いかけた。

 戦闘が始まった。  トゥーリの予想通りの乱戦状態だ。
 馬回りの乳兄弟たちが、恐ろしい形相で相手を斬り伏せる。トゥーリの顔にまで血潮が振りかかった。
(ああ、もう吐きそう……)
 だが、そう思ったのは最初だけだった。次第に血の臭いに酔い、知らず知らずのうちに、何も感じなくなっていた。
 目の前が真っ赤だった。剣を振り下ろし一人、返す刀でもう一人。生まれて初めて人を殺した。
 彼は相手が斃れるの見て我に返り、立ち止まった。
(俺が? 何だかわけがわからない……)
 屍を見下ろしていると、乳兄弟が
「シーク! あんた、どうしたの! ほけっとしてると斬られる。」
と怒鳴って、横から冬星の手綱を引っ張った。
 彼が慌てて
「ああ、兄弟。あの人の耳は切らんのか?」
と訊くと、乳兄弟はまた怒鳴りつけた。
「あんな下っ端の耳切ってどうする? 耳を切るのはお頭だけですよ!」
「不公平でないの?」
「何をおっしゃるやら。相手はあんたの耳を狙っているというのに!」
 乳兄弟は相当怒っているようだ。そうまで昂ってはいない彼は
(そんなにつけつけ怒らなくても……訊いただけなのにさ。)
と思うも、刺激しないように黙っておいた。

 すると、相手の群れが分かれた。そこから、老人と言って差し支えない歳の男が現れた。
 彼は割れ鐘のような声で怒鳴った。
「こらあ、羊飼いども! 勘弁ならん。我と立ち合え!」
「ほうら、お頭ですよ。大年寄りですな。一騎打ちで耳を落とす。山場の余興ですわ。」
 耳打ちした乳兄弟の口調は、実に楽しそうだ。
 頭の要望に応えて、一騎が前に出た。しかし、相手は駒を進めることもなく、剣の先でトゥーリのいる方を指した。
「お前ら、ふざけるな! シークの馬印があるでないか。シークを出せ。シークを!」
「ご指名が掛かりましたよ。人気者ですな。初戦には、おあつらえ向き。」
 乳兄弟は笑っていた。

 年端もいかないトゥーリを見た頭は、目を見張った。やがて、笑い出した。
「ラザックシュタールの狂犬、くたばったとは聞いていたが、こんな小倅が跡継ぎとはな! 背中にまだ産毛を生やしておるんと違うか。」
 子供扱いだ。トゥーリは早速気分を害した。
(あんたなんか、歳いきすぎて毛もないくせに! )
 そう思ったが、すぐに
(今から殺し合いだというのに、おかしな感慨だなあ。)
と思えて苦笑した。
 ヤールが横から助言をした。
「あの人と一騎打ちですよ。相手の動きをしっかり見てね。」
 トゥーリは黙って頷き、抜き身の剣を肩に背負った。
 後姿を見守りながら、ヤールは息子たちに訊いた。
「大丈夫かな? いつもながら、しらっとしているが?」
「大丈夫。大丈夫。しっかり仕込んだだけあって、今日も先から予想以上の戦ぶりだもの。」
「もしものことがあってはならん。お前ら、一応構えていろ。」
「親父殿、そんなのいらん。見てご覧なさい。お頭、半分棺桶に足を突っ込んだような年寄り。おまけに、白そこひ患いの痛風持ちと見える。あれに負かされるようなら、俺らは何をシークにお教えしたかわからんわ。」
 息子たちは誰も、あっけらかんとしている。
「それにシークは上背ある分、同年輩の子とは、振り下ろす勢いがずっと重いの。痩せっぽちだけど。」
 ヤールは怪しい気持ちが抜けなかったが、もう出してしまった後だ。
「それだけ言うなら、黙って見ているかな……」

 頭との立ち合いが始まった。頭も昔取った杵柄で、ものすごい力で打ち付ける。受けたトゥーリの身体が鞍からずれる。その度に、どよめきが双方から起こった。
 ヤールは肝が冷え
(見ておられん。俺が構えておらねば……)
と剣の柄を握り締めた。
 ところが、若い衆はだらりと姿勢を崩して、見物を決め込んでいる。
「シーク! そんなじじい、早よう殺せ!」
 囃したて、笑っていた。
 闘っているトゥーリは、その声に
(簡単に言うなよ。この人、すごい力なんだって! )
と思っていた。
 周りの声に耳を向けられるくらいの余裕があり、目下の戦闘は全ての神経を向けるほどではなかったのだ。
 何度目かの打ち合いだった。トゥーリは相手の剣をかわし、身を沈めながら剣を薙いだ。その切っ先が、思惑通り相手の首筋に入った。
 頭が落馬した。動かない。
 歓声と怒号が挙がった。
「親父殿、見たかね? 言っただろう? 大丈夫って。」
 ヤールの息子の一人が誇らしげに言った。。
「はあ……何たる手錬かな。馬の返しなど、おそろしく見事だな。」
「我らの仕込みの成果ですな。」
 ヤールは胸を撫で下ろして、トゥーリに視線を戻した。
 トゥーリは骸を見下ろしたままでいる。一騎打ちの勝者がしなくてはならないことを一向に始めないのだ。
「……あれ、どうしたのかな? ほけっとしていらっしゃる。止めをさして、耳を切らねば……。お作法がお分かりでないのかな?」
 皆は顔を見合わせ、首を横に振っている。誰もそこまでは教えていなかったのだ。
 ヤールは皆の詰めの甘さを叱り、駒を進めると
「斃したら、首根っこを切って、引導を渡してやるんですよ。」
と耳打ちした。
「もう死んでいるけど……せねばならんのか?」
 しらっとした言い様だった。
「お作法ですよ。」
 トゥーリは黙って下馬し、馬上刀で刺そうとした。
「そんな長いもので……。やりにくいでしょうに。牛刀をお使いあれ。」
 トゥーリは骸の側にしゃがみ込んだ。彼のつけた切り口から、血液が流れ続けている。思ったより大きな傷だった。
 彼は首を傾げ、あちこち眺めまわしたが、改めて切る場所が見当たらなかった。適当な場所を指さして
「この辺?」
と尋ねた。
「そうそう。」
 ヤールも判っているだろうにと思うと、形だけでいいのだと解った。気が楽になった。
「それから、耳飾りをもらって、その後耳を切る。」
「どうして、後から耳を切るの?」
「切り落とした耳から耳飾りを外すおつもり?」
 彼はその様子を想像し、慌てて首を何度も振った。
「でしょ? だから、そういうお作法なのです。」
 彼は耳を摘んだ。まだ温かかった。途端に気味が悪くなった。
 耳飾りを素早く外し、ヤールに手渡した。
 そして、急に震え始めた左手に右手を重ね、耳の付け根に牛刀を当てた。さくりと刃が入った。肉の切れる感触が耐えがたく、一気に刃を進めた。
 動揺を映して、加減のできなかった刃が左に曲がった。耳を半ばまで切り、頬で止まった。
 彼は焦り、ヤールを見上げた。ヤールも慌てた表情でいる。唇が、やり直してと動いた。
 トゥーリは溜息をつき、牛刀を引き抜いた。右手でしっかりと耳を掴み、左手に握りしめた牛刀をゆっくり慎重に進めた。
 片耳が無くなっただけなのに、骸はすっかり物体と化していた。

 他人を殺すのが怖いと言っていた気持ちはもうないばかりか、どうしてそんなに怖れていたのかとさえ思えた。

 残党は命と引き換えに、奴隷に身分を落とす。だが、頭の血筋の男の子はそうはいかない。全員が処刑される。
 ラザックの戦士たちが次々引き出して、男たちの首を刎ねるのを眺めながら、ヤールがトゥーリに説教した。
「よう見ておきなされ。戦に負けると、ああなるんです。シークの小さい弟君たちも、ああして首を刎ねられる。」
「……わかったよ。」
(さんざん人殺しをしておいて、まだするのか……)
 そんな腹の膨れる思いがあったが、頭に一太刀くれた時の、血がさっと下がるような感覚を思い出すと、背がぞくりとした。
 彼は、その像を頭の中から振り払った。代わりに、自分が戦死した場合に備えて弟たちをしっかり教育せねばならないと、家長らしいこと考え始めた。
 しかし、上の弟も下の弟も幼すぎる。どうやって反撃するのかと、暗澹たる気分になった。己の死と共にラザックシュタールが落城し、まだあどけない弟たちの首級が、城壁に晒されている様しか想像できなかった。
 彼は側にいた乳兄弟に尋ねた。
「兄弟、俺が下手うって斬られたら、弟たちはどうなるの?」
 乳兄弟は、まじまじと彼の顔を見て
「何の心配をしているの? 戦に負けたりしませんよ。ラザックもラディーンも勝つまで退かん。」
と言い、失笑を漏らた。
「あんたたちが退かんでも、俺が斬られることはあるかも知れんぞ?」
「ないですわ。これからも我々がしっかり仕込みますので。」
「“もし”だよ。早よう答えよ。」
 乳兄弟は失笑を通り越して、呆れた顔をした。
「ご命令なら答えますけど、しょうもない質問ですな。あんたが斬られたら、そりゃあもう……草原中大騒ぎ。二百四十三旗が全て武装して、復讐にのりだします。」
「弟だって! どうなるのかね?」
「ああ、そうでしたな。……中の君をシークにして、先に言ったとおり、二百四十三旗の騎兵が怒涛のごとく……」
「もういいわ。あんた、話くどい。」
 トゥーリはうんざりした。それに気づいた乳兄弟は、納得のいくように話をしようと考え直した。
「親父が、弟君も首をとられるなんて言うから……信じちゃったのね。考えてもごらん。ラザックシュタールまで攻め込まれるような体たらくはしません。万が一そうなったとしても……万が一ですよ? ローラントさまのご子息全員、揃って籠城なんて愚策がありますか?」
 トゥーリは溜息をついた。彼の言う通り、容易くラザックシュタールまで侵攻することなどできないのだ。少し安堵した。
「初めから、そう言ってよ。」
「弟君のことになると、丸っきり頭が働かんのですな。心配なの? 親馬鹿の父親みたい。」
 乳兄弟はそう言ってからかった。
「三つのときと、五つのときの子なんでね。」
 彼が言い返すと、今度は大笑いした。
「そりゃあ、すさまじく早熟で! まだ、女も知らんくせに。」
 トゥーリは、強く立ち込める血の臭いに我慢ができなくなった。
「胸悪い。吐きそう。」

 トゥーリは乳兄弟と別れて、離れたところに座り込んだ。休む間もなく、ヤールがやって来た。
「シークよ、この幼子はどうします?」
 後の一騎が、幼い男の子を抱えていた。顔は涙で汚れ、ぶるぶる震えている。敵方の者だとわかったが、その子供だけ処分を尋ねる理由はよくわからない。
「お前の話、ようわからん。息子は話がくどいけど、父は話を省きすぎ。」
 ヤールは淡々とした口ぶりで、話を続けた。
「お頭の孫息子。七歳以上は引導を渡しても掟に背きませんが、三つだというので。」
「しかるべき氏族に預けたらいいのではないか?」
「草原ではそうしますが、宮廷が何と言うか……? 今回はあっちの命令で戦をしましたから……」
「なら、俺から大公さまに申し上げる。見張っておいて。」
「かしこまりました。」
 ヤールは、息子のような歳のシークの命令に従った。疑問に感じている風はちらともない。草原の者らしい振舞いだった。
「連れて行け。しっかり見張れと仰せだ。」
 脚を竦ませる子供を、戦士が引きずった。子供は悲鳴を挙げ、振り向いて、トゥーリを食い入るように見た。
 トゥーリは憐れになり、戦士を止めた。
「おい! 怖がっているではないか。もうちょっと優しくしてやれよ。……置いていけ。俺が見ている。」
「はあ……。私らは、もう少し始末してから陣に戻りますので、先にお戻りあれ。」


 子供は最初こそ怯えていたが、都に入るころにはトゥーリに懐いていた。
 しっかり戦果を挙げた。大公は満足したと言った。
 テュールセンの公爵も胸を撫で下ろしていた。
 宮宰は文句はつけなかったが、褒めるつもりも労うつもりもさらさらないようで、手厳しかった。
「父親譲りの才能ですな。これからも命を惜しまず、しっかり励め。シークの代わりは二人もおる。」
 トゥーリはいつものことだと堪え、頭の孫息子の話をした。
「頭領の孫息子のことですが……」
 テュールセンの公爵の表情が揺れた。
「孫息子がおるのかね? 生きているのだね?」
 トゥーリは訝しく思い、尋ねようとした。しかし、問う前に宮宰が
「連れて参れ。」
と命じた。

 トゥーリの近習に連れられた子供は不安そうだったが、トゥーリを見ると安堵した様子で
「シーク!」
と叫んで抱きついた。
 トゥーリは子供の髪を撫で、抱いたまま
「まだ三歳と幼いので、しかるべき氏族の許に預けて……」
と話し始めた。
 皆まで言う間もなく、宮宰が怒鳴った。
「ならん!」
「しかし、我々のしきたりでは……」
「草原のしきたりなんぞ聞いておらん。殺せ。」
「お待ちあれ。まだ何もわかっていないほんの子供です。」
 宮宰は冷笑を浮かべた。
「敵の子供の命乞いをするのか? あのローラント殿の息子とは思えんな。そなた、橋の下から拾われて来たのではないか? そなたの父親なら、こんな所にまで連れてきたりもせぬわ。即、引導を渡して帰京している。面倒な荷物を持って帰ったもんだ。」
 トゥーリは、子供が不憫でしかたがない。
「……どうあっても?」
「くどい。殺せ。首を刎ねよ。」
「シーク、戦の常だよ。」
「テュールセンさままで。……どうか今回の勲しに免じて、子供の命はお許しあれ。」
 テュールセンの公爵は困った顔で、小さく首を振った。
 宮宰がまた厳しい言葉を投げつけた。
「この程度の武勲で片腹痛いわ。その子供、今は三つでも十年たったら十三歳。残党の拠りどころとなって、再び叛逆にたったら、そなたは責任がとれるのか?」
「ですから、しかるべき氏族にと。ラザックの宗族でもよい。何なら、私の側へ置いてもよい。」
 トゥーリの必死に抗弁に広間がざわついたが、大公が手を上げると静まった。
「アナトゥール、もうお止め。宮宰の言う通りなのだよ。憐れに思うのは、ここにいる誰もが同じこと。でも、そなたの連れている子は、普通の子とは違うのだから。」
 優しい気性の大公に期待していたが、その言い様を聞いて、トゥーリは唇を噛んだ。
「その子の祖父は、草原の小競り合いの果てに死んだのではないのだよ。大公家に叛いて、そなたに討たれたのだろう?」
「……はい。」
 宮宰は苛々と彼を急かした。
「世迷い事を申しよって! 早よう殺せ。今すぐ殺せ! 侯爵、できんのか!」
「……では、お庭先、お許しください。」
 トゥーリは、既に情の移っている男の子を抱えあげて、庭先へ出た。子供の何も疑っていない綺麗な目を見ると、とてもではないが無理だと思った。
 背後の広間で、皆が窺っている。無理の何の言ってはいられない。
(これは子羊さん。今晩のおかず。柔らかくて美味しそう。早よう、首を切って……)
 馬鹿馬鹿しい誤魔化しだと思ったが、軽いことだと思わねばやれない。
 首筋の急所を探ると、子供が小さく笑った。思わず子供と目が合っては、慌てる。
(こういうのは目を見てはならんのよ。目を……。もう出来ない……。だから! これは子羊さん。みな腹を減らして待っているから、早よう首を切ってだな……)
 彼は、必死にそう思い込もうとした。
 しかし、そんな葛藤を知らない子供は
「シーク、なあに?」
と舌足らずに話しかけた。
(あ……可愛い……いやいや。どうしよう……? できない……。いや、殺さねばならないんだ……。でも……)
 もう堂々巡りだ。彼は馬鹿な小業を使うの諦めた。
「父ちゃんやらじいちゃんに会いたかろう?」
 彼は囁き終わるや、子供の身体を地面に押し付け、首を一気に横一文字に掻き切った。
 子供が信じられないという目をして、彼を見つめながらこと切れた。
 彼は子供の瞼を閉じ、姿を整えた。そして、静まり返った広間の様子を見渡した。宮宰が青ざめて視線を逸らすのが見えた。奇妙な優越感を感じた。
「これでご満足いただけましたか?」
 静かに尋ねると、宮宰はいかにも厭わしいという表情で
「初めからそうせよと申しておるのだ。手間をかけよって。」
と低く言った。
「お許しあれ。」
 テュールセンの公爵が、妙に明るい様子で割って入った。
「まあ、いいではないかね。衛士、亡骸の始末をせよ。」
 トゥーリは頬の血飛沫を拭った。
「もうご用がないなら、退出のお許しいただきたいのですが? 汚れてしまったので……」
「早よう、下がれ。見苦しい姿、これ以上さらすな。」
 宮宰が憎々しげに言った。
「宮宰、控えよ。そなた、言葉が過ぎるぞ。」
 窘める大公の顔も青ざめていた。
「アナトゥールはご苦労だったね。下がって、休みなさい。」
「はい。」
 テュールセンの公爵が宥めるように声をかけた。
「シーク、今宵は戦勝の宴を張るゆえ……」
「いらん!」
 トゥーリは、思わず出た大声に慌て
「……失礼。少々疲れましたので、皆様でお楽しみください。では……」
と取り繕った。
 彼は唇を噛んで涙を堪えた。怒り、哀しみ、受け止めきれない衝撃。悔し涙が流れ落ちる前に、早足で退出した。

 散会した後、宮宰がテュールセンの公爵に小声で話しかけた。
「眉一つ動かさずに子供の首を切った。恐ろしいわ、若年の身で……。やはり、あの父にしてあの息子だな。」
「切る前に逡巡していましたよ。可哀想に。連れ帰ったばかりにね……」
「まあ、いとけない子供の首を切れるほど冷酷なら、これからの働きに期待ができるというもの。そりゃあ、念入りな戦をしてくるでしょうよ。」
 テュールセンの公爵は眉をひそめた。
「宮宰さま、ちょっと言いたい放題しすぎじゃないですか?」
「あなたと私の間で、良いではないですか。」
 宮宰はにやりと笑った。
「大公さまの前でも……」
「私は言いたいことは、呑まずに言っておく主義なのでね。」
 自慢気に言う宮宰にテュールセンの公爵は呆れ、話を変えた。
「……まあ、今回は首尾よくいったという事で重畳。今晩の宴会の手配はどうなっているのかな? 主役がおらねば……」
「皆でどうぞと申していたでありませんか。放っておいたらよろしい。」
「宴会好きですな。まあ、いいけど。一応お祝いだけでも言いに行かねば……しっかり初陣を飾ったのだから。」
「ついでに、私の分も言っておいていただけますかな。もうこれからは大人扱いするからなと。おめでとうってね。」
「“おめでとう”とね……」
 テュールセンの公爵は、白々しいと不愉快な気持ちで、立ち去る宮宰の後姿を睨んだ。

 ラザックの老ヤールは、血染みの着衣のトゥーリに、さすがに驚いた。
「どうしたんですか? その格好。」
 トゥーリは思い出したくもなかったが、事の次第を話した。
「なるほどね。甘かったのです。」
「そう。俺が甘かったばかりに、子供に可哀想なことをした。」
「不用意な情けが仇になるのです。しかし、倅も気のつかんことで。トゥーリさまに心苦しいことさせて……どうしてやろうかの……」
 ラザックのヤールは、トゥーリの命令に従っただけである。そんなことで、父親に叱られるのは気の毒だと思った。彼は
「いいよ。ヤールの所為ではない。」
と老ヤールを止めた。
「お許しあれ。宮宰さまもまた……」
「宮宰さまは厳しいお方。殊に俺にはね。」
「口の悪い方です。いろいろありますからな。ひとつ、ここは我慢のしどころと心得て、“弟の氏族”の我侭には寛大にね。」
 老ヤールは、彼が子供のころから繰り返し言い聞かせてきたことを、また繰り返した。
 彼は小さく溜息をついた。
「わかっているよ。」
「宮廷から恩賞の目録が届いております。シークの初陣ということで、色が付いたようです。結構なもので……」
「じゃあ、多目に皆に分けて。俺の乳兄弟たちには、馬を一頭ずつ付ける。世話になったからね。俺の牧から血筋のいいのを、好きなのを取らせる。」
「過分なる恩賞をいただき、孫共々お礼申し上げます。」
 老ヤールは深々と頭を下げた。
「ん。風呂に入って寝る。」
「お食事は?」
「……食べられんわ。」
「ごもっともで……」
 トゥーリは擦り剝けるほど手を洗った。その後は午睡した。
 眠れば、悪い夢のように思えるのではないかという気がした。

 トゥーリは夕方に目が覚めた。外は雪模様だった。ぼんやり雪を眺めていると、時間に気づいた。
 アデレードのところに行く時間がとうに過ぎている。
 彼は慌てて服を着こんだが、新しい身の上を思い出した。
(……ああ、行かなくてもいいのだった……行ってはいけないのだった……)
 そして、永遠に中断した“ローランの歌”の文句を呟いた。
「我がなき後はいかならん……」
 大人になりたかったことと、アデレードの側近くにいたかったことは、上手く両立しないのだ。
 片方の望みを失くしたら、もう片方が叶っても、何の満足もできなくなることがあるのだと知った。
 アデレードのこと思うと、対子のようにギネウィスのことも思い出された。会いに行かなければならないと思った。

 トゥーリが出かける様子で現れても、近習は
「行ってらっしゃいませ。」
と言っただけだった。今までは当たり前のように供についたのにと、彼は訝しく思った。
「お前は……?」
 彼が尋ねると、近習は
「え? ……随行をお望みですか?」
と尋ね返した。
 宵の出歩きであっても、求められねば、敢えて供を言い出さないということらしい。好都合だった。
「いや……いい。」
「さようですか。お気をつけて。」
 近習に見送られると、今度は老ヤールにも鉢合わせた。
「あれ、トゥーリさま。お出かけですか? 雪が降っていますよ?」
「今晩は遅くなるゆえ、待たずに寝ろ。」
「はい。お気をつけて。」
 老ヤールもあっさりと外出を許した。

 トゥーリの出るのに遅れて、テュールセンの公爵が着いた。ラザックの老ヤールが相手をした。
「シークは、先程お出かけになりました。申し訳ない。」
「ありゃ、宴会に行かれたのかね?」
 テュールセンの公爵は、意外そうな顔をしていた。
「宴会……? そんな格好でもなかったですな。」
「そうだろう。行かんとおっしゃって、お怒りだったもの。どこへ行かれたのかな?」
「さあ、何も仰せにならんと、お一人で走り去られたのでね……」
「行き先、訊かんのかね?」
「聞きませんな。一人前ですから。シークのなさることに逐一質問申すのも……それに、たかだか遊びに行く先を尋ねずともよろしいでしょう?」
 テュールセンの公爵は、含みのある視線を向け、続けて尋ねた。
「そうだな。でも、近習の一人も伴わんとか?」
「ええ。」
「……女だな。」
 テュールセンの公爵は、陽気な笑い声を挙げた。
 老ヤールは、淡々と応えた。
「そうですかな?」
「そなたらのシーク、あっちもこっちも一人前のようでよかったな。寿ぎ申す。」
「ご丁寧に。いたみいります。」
「雪も降っているし、宮廷に戻るよ。宴会があるんでね。主役のおらん宴会だが……」
「申し訳ありません。」
「申し訳ないことなど何もないよ。皆は名目が欲しいだけで、宴会ができれば納得する。主役は……大歓迎してくれる何処かの方が楽しいだろうよ。」
 そう言うと、テュールセンの公爵は満足そうに笑って、帰って行った。



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