3

 トゥーリは生まれて初めて母の言いつけを破って、夜遊びをした。
 ギネウィスの言うとおり気安い夜会だった。うるさ方はおらず、皆にちやほやされて、予定外の長居してしまった。しかし、さすがに後ろめたかったので、そろそろ帰ろうと思い始めた。もう場も開けていた。
 すると、ギネウィスが引きとめた。
「まだ早いですわ。もう、お帰りになるの?」
「朝議に差しさわりのでるような夜更かしはならぬ……ご存知のとおり、後室にきつく言いつけられているのでね。」
 ばれている気安さと酒のせいで、彼の態度は柔らかになっていた。
「後室?」
「母です。」
 他人行儀な言い方をすると思ったが、彼女にはそれが嬉しかった。
「ああ。……そんな言い訳なさってはいけませんわ。」
「言い訳って? 本当のことを申し上げたのに。」
「嘘。まだいらして。」
「遅くまで供ないを待たせるのは、気が咎めます。」
「お馬車は帰されて、うちのをお使いになったらよろしいわ。ね。そうなさって。」
「ご面倒はおかけしたくありません。」
 態度は柔らかくなったが、固いところは抜けない。
「面倒ではありませんわ。ね。」
「困ったな。どう言ったら、納得して帰していただけるのです?」
「なら……いらっしゃい。」
 ふいに親しげに耳打ちされ、どきりとした。
「……どこへ……?」
「教えて差し上げるわ。そういう時の振舞い方を。」
 彼は、帰る決心が少し揺らいできた。

 まさかと思って入って来た部屋は、やはり寝室だった。奥に大きな寝台が見える。
(あ、まずい!)
 トゥーリは意味を確信した。逃げたいと思ったが、どうにも脚が動かない。
 勧められるままに、長椅子に座った。
「何か、お飲みになる?」
 ギネウィスは落ち着いた様子だ。
「はあ……」
 生返事を返した。
「お酒がよい?」
「何? ああ、要りません。」
 居心地が悪かった。気まずかった。
 ちんと行儀良く座った彼の隣に、彼女が座った。彼は気づかれぬように身体を離した。
「侯爵さま、おいくつになられたの?」
「年齢に関係あるのですか?」
「どういうことかおわかりでしょう?」
 彼女に詰め寄られて、彼は上体を引いたが、間近に見えた彼女の胸元に視線が留まった。
(あ、いかん、いかん。落ち着け……)
 彼は慌てて目を逸らし、平静を装って聞き返した。
「どういうことです?」
「こういうこと。」
 彼女は彼の手を取って、胸元を触らせた。
 彼は驚いて手を引っ込めようとしたが、強く押さえつけられ抜けない。見るも露わに上気した。
「ギネウィスさま! 手を放して。そんなことならん。私は帰りたいのです。」
「嘘。さっき、ここをご覧になっていた。触れたいって、顔に書いてありましたわ。」
 彼女は甘えるような声で囁く。
 彼はどんどんおかしな気分になってきたが、それを悟られるのは嫌だった。
「触ったから、もう満足です。さあ、放して。」
「嫌。また嘘をついた。……あなたの本心、教えて差し上げるわ。」
「嘘など……」
「柔らかい女の肌に触れてみたい。朱い唇に口づけしてみたい。でしょう?」
「何を言う!」
 彼女は、立ち上がろうとする彼を抑え、口づけをした。
 彼は、彼女の肩を押しやった。
「俺はそんなことは……思っちゃいない……」
 動揺を映して、言葉使いすら宮廷向きではなくなっていた。
「しいっ! そうして抱きしめてみたい……でしょう?」
 彼女は彼に半身を預け、そう囁いた。
「俺は、そんなことは……」
 彼は必死に自分に言い聞かせたが、どうにもこうにも身の奥が騒いで仕方がない。それが自分を喰いつくしていく錯覚を覚えた。

 心細げに睫毛を伏せたトゥーリを見て、ギネウィスはぞくぞくした。
(ご存知ないのね。好都合……)
と、ほくそ笑んだ。
 そうして、黙っている彼に追い討ちをかけた。
「まだ、お帰りになると?」
「……いや。」
「わたくし、あなたが欲しいのです。」
 彼は目を閉じた。やがて、猛る気持ちを受け入れると、すっと構えが取れ、素直になれた。
「……もう帰らない。俺もあなたが欲しいから。」
 すらりと言葉が出た。
 彼女は小さく笑った。
「正直になられた……」
「正直……まあ、ね。でも、問題がある。」
「問題? ……おかしな方ね。なあに?」
「変かな? まあ……問題はどうしたらいいのか、わからないってことだな。」
「申し上げたでしょう? 教えて差し上げるって。」
 彼女はくすくす笑った。
 笑われるのがあれ程我慢できなかったのに、もうその気持ちはない。それどころか、快くさえあった。
「そういうこと……。じゃあ、訊くけど。ここでするの? この長椅子の上で?」
「本当、おかしな方。ここがよければ、それでもよろしいわ。でも、ちょっと窮屈。寝台の方が広いわ。」
「……あなたもおかしいよ。ギネウィスさま。」
「ギネウィスとお呼びになって。」
「じゃあ、あっちでね。教えて。ギネウィス。」

 寝台に行ったものの、トゥーリはまた罪悪を感じ始めた。寝台の端に腰を下ろして、往生際悪く
(どうしよう……?)
と考えた。
 やはり帰ろうと決心がついたが、ギネウィスが膝の前に立ちはだかる格好に立ち、脱ぎ始めた。
 みるみるうちに下着姿になった。薄物を通して身体の線が見えた。彼は慌てて目を逸らした。見てしまったら、絶対に帰れないと思った。
(見てはならん、見ては……)
 呪文のように繰り返した。
 一方、ギネウィスとて、愛人を抱えるほどすれっからしではない。死んだ夫しか知らない。内心動揺していた。
 おまけに、目の前の男より二周り近く年上だ。若くはない肉体を晒すのに抵抗を感じていた。
(わたくしはお産も子育てもしていないし、身体の線はそう崩れていないはず……)
 勇気を振り絞った。
(そう。衣装の寸法だって、娘のころと変わっていないし……)
 もう一人の自分が励ます。
(この子だって、女の裸なんて見たことがないはず……)
と動揺を振り払った。
 目の前の男の方を見れば、目許を赤くして顔を背けている。自分以上にわかっていない。
「見て……」
 彼女は下着を解いた。
 トゥーリはその言葉に顔を挙げた。一部始終が見えた。衣擦れの音を密かに立てて足許に落ちた薄物、露わになった裸。美しいと思った。
 血の気が上るのを感じて、彼は横を向いた。
 ひどく渇いていた。こくりと唾液を嚥下するのだが、喉の奥が詰まったようだった。浅い息をするばかりで、声一つ立てられない。手も足も出ない。
 彼女は微笑んで、彼の顔を両手で持ち上げ、口づけをした。
 驚いて半ば開いた彼の唇の間から、舌がするりと入った。彼は更に驚愕した。
 誘うように舌が唇の形をゆっくりとなぞって、柔らかく歯を立てる。
 堪らなくなり、夢中で同じことをして彼女を抱き締めたが、我に返って、慌てて腕と顔を離した。
「あの……」
「脱いで。」
「……はい。」
「“はい”だなんて……そういう時は黙って脱ぐの。」
 彼女が軽く笑った。彼も照れくさそうに
「そうなの?」
と笑った。

 ギネウィスが、寝台の上掛けの中に身を入れた。
 トゥーリはそれを待って、寝台に背を向けて脱ぎ始めた。彼女の視線を背中に感じた。彼は手を止め、燭台の灯りを消した。

 トゥーリが上掛けの中に身を滑り込ませると、ギネウィスが擦り寄ってきた。
(柔らかい……)
 抱き寄せると、首筋に吐息が触れた。その熱さに身震いが出た。
 そっと様子を窺い、彼女の顔を半ば覆った金色の髪の毛を掻き除けると、小さな桜色の耳朶が現れた。指を這わせると、彼女はくぐもった声を漏らした。
 身体が硬くなり、胸が早鐘を打ったように高鳴っていた。
「あの……気持ちいいの……?」
 照れ隠しにきいた自分の声が遠くに聞こえた。
「ええ……。ねえ、もっと触れて。ここに口づけして。」
 彼女は掠れた声で囁き、彼の手を身体の上に導いた。
 触れたい気持ちが抑えられなくなっていた。
 ぎこちなく触れると、彼女は甘えるような声を出す。それが刺激になり、夢中で掻き抱いた。
 彼女は擦り上げるように、腰を寄せた。
 彼は目を見張った。
 彼女は
「そのまま、続けて。」
と言って、片足を上げて、彼の腿の辺りを引き寄せた。
「どう……?」
「こう。」
 湿って暖かい初めての感触に、身の奥からとてつもない悦びが湧き上がった。彼は浅い息を吐き、呑まれそうになるのを堪えた。
「……動いて、ゆっくり……ああ、そう。」
 彼女が促す通り、彼はゆっくり身体を揺らしていたが、すぐに我慢ができなくなった。
 彼女は荒々しさに驚いて、彼の表情を窺った。きつく眉根を寄せ、切ない吐息を漏らしている。その様子に、彼女はくらくらするような興奮を覚えた。
「シーク、何かおっしゃって……」
 彼は突然の言葉に驚いて
「ええっ、何?」
と訊いた。
「どう……?」
 彼女は潤んだ目で見上げている。それも激しく情欲をかきたてた。
「……すばらしいよ。……こんなだとは思わなかった……」
「ああ、わたくしも。」
 もう辛抱が利かなかった。覆いかぶさり耳元に口づけを繰り返した。
「いいよ……とても素敵だよ。」
 父親によく似た声が彼女を混乱させた。彼の頭を抱きしめ、黒い髪に指を絡めた。
(ローラントさま……)
 父親の名前を心の中に思うと、ひどく興奮した。それでいて
(あの女のことも、こんな風に情熱的に抱きしめたの?)
と、嫉妬の気持ちも湧いてきた。
 彼女は殊更大胆に、足を絡めて大声挙げた。
 その振る舞いに、彼は唸り声を挙げるのが精一杯だった。
 想像を超える快楽だった。彼は、そのまま寝入った。

 ギネウィスは静かに灯りを引き寄せて、トゥーリの寝顔を見つめた。妙に冷静な観察ができた。
 大人のローラントとは違う、少年のトゥーリの痩せた肩。まだ幼いのだと思ったが、これからの成長を自分が見届けるのだと思うと、むしろ楽しみだと思えた。
 声は、まだ変声期の内なのだろう、少し掠れることがあった。それは少し不満な点だったが、同じ声になるまで待てなかったのだからと、思い直した。
 改めて見ても、顔はそっくりだ。ローラントは見せてくれなかった寝顔、情事のときの顔を見たと思うと、身体の奥が熱くなった。
 不道徳は百も承知だ。満足感に笑みがこぼれた。
 更に身体を細かく観察した。
 左耳に、ローラントの下げていた“天狼”が光っている。
 投げ出された手の拇指と示指の間に、固くまめが出来ていた。武具を握るからだ。そっと掌を返して見ると、指の付け根にもあり、荒れていた。ローラントの手と同じような状態だ。
 申し分のない人形だと思った。

 手を眺めていると、ふと暗い思い出が浮かんだ。
 死んだ夫のことだった。
 庭仕事が好きだった彼女の夫も、荒れた大きな手をしていた。
 豊かな荘園をいくつも持っていた彼女の夫は、何不自由のない生活を与え、彼女を大切にした。彼女も夫が好きだったが、それは父親を愛するような気持ちだった。男として見ることは、どうしてもできなかった。
 夫が身体に触れるたびに身震いしたが、彼の荒れた手を、同じように荒れていたローラントの手だと思うと、嫌悪感が消えた。彼女はずっと、寝所ではそう思って耐え、虚しさを直視しないできたのだ。
(わたくしは結婚当初から、心の内で不貞を働いていたということ……)
 結婚など無意味だったと思った。
 そして、最も思い出したくない過去が思い浮かんだ。

 ローラントがソラヤを妻にしたいと言い出した時、皆は耳を疑い、止めた。
 ギネウィスを勧める声は多かったが、彼の決心は固かった。話はすぐにまとまった。
 その話を聞いたギネウィスは、ローラントを城のひっそりとした中庭に呼び出した。
「あの恐ろしい話、本当なのですか?」
「何?」
「叔母と結婚なさるって……」
「本当。」
「何故? いつの間にそんなことになったの? なぜ、わたくしではなく、叔母なのです?」
「答えに困る。」
「答えて! わたくしのことお嫌いですの? わたくしより叔母のことがお好きなの?」
「いや。」
「なら……」
「あなたでは……」
「わたくしでは……何?」
「無理。」
「何が無理なの? 叔母みたいに武芸の心得がないから? 叔母みたいに馬に乗れないから? 今から習います。それに叔母にはできないこと、わたくしいっぱいできます。男勝りのあの人にはできないような女らしいこと……」
「習わんでもよろしい。」
「それに、叔母より美しいとは思わないけれど、醜いとも思わない。わたくしは叔母よりずっと若いもの。あの……子供だって、この先いっぱい産んでさしあげられる……」
「そういうことではない。」
「そういうのも、こういうのも、どうだっていい! あなたのことを愛しているのです。」
 彼女は彼に抱きつき、さめざめと泣いて胸に縋った。
 男が女の涙に弱いことも、泣いている女に同調するのも、彼女は知っていた。
「泣いているのか?」
 彼は彼女の顔を上げさせて、覗き込んだ。
 その時の心配そうな、切なげな緑色の瞳を見て、彼女は
(これは……お考え直しになったかしら?)
と一瞬思った。
 しかし、痛烈な一言が返ってきたのだ。
「……泣かないで、ギネウィス。ソラヤを愛しているんだ。」
 口の挟みようもない口調だった。それでも
「……わたくしは?」
と言い縋ると、意外にも
「好き。」
と言う。
「なら……」
「でも、妻と呼びたくはない。以上。」
 彼はそっと離れて立ち去った。振り返りもしなかった。彼女は呆然と後姿を見送ることしかできなかった。

 その後、ギネウィスは当てつけのように、父のところに出入りしていた外国人の郷士の後添えになった。
 その男は根気よく彼女を慰めた。優しい人だと思ったが、それは恋でも愛でもなかった。

 一頻り思い出に浸った後、ギネウィスはトゥーリを起こした。
「シーク。お起きになって。」
「ん……」
「アナトゥールさま、そろそろお屋敷へお帰りにならねば……」
「眠いの。泊まっていったらならん?」
 寝起きは子供っぽさがあった。欠伸をして、髪を掻き上げている。
「わたくしはいいけれど。あなた、明日お困りになるのでは?」
「そうだね……帰るわ。あいたたた……」
 彼は起き上がろうとして、顔をしかめて声を挙げた。彼女が驚いて
「どうなさったの?」
と訊くと、ひどく辛そうに背中を摩りながら
「時々、背中が痛むんだ……」
と答えた。
「見せて。」
「いいよ。すぐ、治まるから。」
「心配です。見せて。」
「いいって!」
 激しい拒否だったが無理に見て、彼女は言葉を失った。
 彼の背中側の肩口に、おびただしい細い傷跡があったのだ。
「だから! 見せたくないんだって……」
「これ……鞭の痕では……」
「後室がさ、俺が下手うつと、鞭をくれるんだよ。」
「下手って?」
「武芸の稽古だよ。女のくせにやたら強いの。俺が無様なことをすると、怒って振り下ろすんだよ。まあ……最近はそういうこともないけれど、小さい頃は毎日のように打たれていたから、傷になって残ったんだな。でも、それが今痛むんじゃないよ。心配しないで。」
 彼女は身震いした。ローラントの忘れ形見に、そんなことをできるのが信じられなかった。
「何ということを……」
「人目に付くところでもないからいいって。さすがに、顔は殴られたことがない。」
「どうしてこんな真似を?」
「気性のキツイ人だからねえ。それに、俺は肝の据わらぬ方らしいから、我慢できなかったんじゃないかな? ここまでするんだから、俺のことが厭わしいのだろうね。後室の期待に適わないんだよ。馬はともかく、剣とか弓とか嫌いだったし。今でも弓だけは散々な腕前でね。いつも左に逸れる。そのうち戦へ行かねばならんとは、気が重いよ。これは皆には内緒だよ。」
「ええ……」
 大したことではないと思っているのだろうかと感じるほど、淡々とした話しぶりだった。だが、母親のことを“後室”と他人行儀に呼ぶ理由がわかった気がした。

 服を着終えたトゥーリが、髪を編み始めた。
 ギネウィスはまたローラントを思い出した。黒い長い髪。こうして彼も髪を結ったのだろうかと思った。トゥーリのすることなすこと全てが、ローラントを思い出させる強い刺激だった。
「ねえ、わたくしのことお嫌い?」
 忌まわしい思い出に直結する台詞が口をついて出た。トゥーリは髪を結わえながら、暢気に父親と同じ答えを返した。
「好き。」
 じくりとしながら、更に訊いた。
「どこが?」
「美しくて、優しくて、高貴で。あなたは、何で俺なんか誘ったの?」
「あなたのこと、好きだから。」
「おかしいよ。今日とその前、少し話しただけなのに。……この前は、印象を悪くしたと思ったけど……?」
 彼は窺うような目を向けていた。
 彼女が
「ご機嫌が悪かったわね。邪魔をされたと思ったのでしょう? 印象は悪くないわ。」
と微笑むと、彼は素直に頷いたが、納得はしていないようだった。
「そういうこともあるのです。少しだけでも愛情は芽生えるの。」
「そうなのかなあ……?」
「お解りにならない? なら、これからゆっくりお解りになったらよろしいわ。……また、いらして。」
「これっきりかと思った……また来ていいの?」
「いつでも、好きなときにおいでなさい。」
「じゃあ、いずれまた。」
 彼が軽い足取りで出て行くのを、彼女はため息と共に見送った。

 トゥーリの帰宅は遅かったが、ラザックの老ヤールが出迎えた。
「遅かったですな。」
 責めている風ではなかった。
「楽しかったよ。」
「どちらへお越しだったか、聞いておりませんが……」
「伯父のところ。」
「どの伯父さまで……?」
 彼は、それには答えないでおいた。
「たまには、夜遊びもいいかもしれぬ。」
「さようですな。」
「また、出かけるかもしれん。」
「ええ……」
「まずいか?」
「いえ。お気に召したのならば。親しくお付き合いなさる方がお出来になったのは、喜ばしいことかと。」
「自ら世の中を狭めていたようだよ。」
「まあ……あまり夜遅くまで、遊び呆けても困りますがね。それ、ご後室さまのご意向が……」
「大概にしておくよ。」
「はい。」
 老ヤールは、主が母親の言いつけを忠実に守って、単調な生活を繰り返していることが、少々気がかりだった。これといった友達も作らないで、遊びもせずに、若いのに楽しいのかと首をひねっていた。
 だから、夜会に出かけると言い出したのにも文句をつけなかったのだ。少々帰りが遅いのが、初めてのことでもあり、心配だった。
 しかし、主が楽しそうな様子で帰ってきたのを見て、安堵した。
(都の友達が一人でもできたのならよかった。)
 他に言うこともない。
「もう遅いですから、早くお休みあれ。儂も休みます。」
「ああ、すまなかったね。待たせて。」
「いえ……おやすみなさいませ。」


 翌日、ギネウィスは父の訪問を受けた。
「不自由ないかね?」
「ええ。」
「……私の屋敷で、また一緒に暮らせると思っていたのだが。」
「わたくしここが気に入りましたの。」
「寂しくないかね?」
「いいえ。人の多いのは好みませんから。気心の知れたものばかりで落ち着きますわ。」
「いつでも戻ってきていいのだよ?」
「出戻った娘がおっては、お父さまも世間体が……」
「私に後ろ指さす者などおらぬ。」
「わたくし、楽しみたいのですわ。お父さまがおいででは邪魔。」
 ギネウィスは微笑み、いたずらっぽく父を見つめた。父は可愛くて仕方がないといった顔をした。
「年寄り扱いするのだね。まだ、目も耳も達者だよ。」
「そうですの?」
 彼女が軽い笑い声を立てると、彼は
「姫がそう申すのなら、片目と片耳は塞いでおくけれどね。」
と片目を瞑ってみせた。
「お口も噤んでいて。」
「おやおや。……ときに、昨日はずいぶんと楽しかったようだね。」
「ええ。」
「せっかくだから、私の屋敷で盛大に、貴紳淑女を招いて催したらよかったのに。」
 彼は少し残念そうだった。
「そういうのは嫌ですわ。わたくしが出戻りましたって、大袈裟に宣言しているようで。」
「そうかね? 何も羞じることはない。」
「いいのです。気安い集まりのほうが……」
「若い公達や姫君が多かったそうだね?」
「ええ。お若い方と話をするのが好きですの。」
「面白いことを言う若いの、おったかね?」
「ええ。」
 彼はやっと満足そうに頷いた。
「よかったな。沈んでいたから、心配だったのだ。気が紛れてなにより。」
「沈んでいましたか?」
「うん。まだ若いのだから、これからも縁があるかもしれん。あまり塞ぎこまぬようにな。」
 三十を過ぎた女にはそうそう縁談などないのだが、甘い父親にはいつまでも若い娘に思えるのだろう。ギネウィスは苦々しかったが、おくびにも出さずに
「縁だなんて。わたくしはもう、結婚はいたしませんわ。」
と笑った。
「そう。だったら、恋人でも作ったらよい。気が晴れる。」
「気晴らしに恋人を作ってもよろしいの?」
「構わんよ。そなたの父は話が分かるからな。辛い目を見た分、華々しく楽しんだらいい。」
 風流な父は、娘の男関係を放任するつもりだった。

 数日経った。面倒は何も起こらなかった。
 トゥーリはまたギネウィスに会いたくなった。しかし、何と言い訳して出かけたらいいかわからない。
 悶々としているところへ、ギネウィスの侍女が訪ねてきた。
「この前、お話しした写本が手に入りましたので、お越しください。」
 彼女も会いたいと思っているのだ。嬉しかった。
 老ヤールが不思議そうに
「写本って何ですか?」
と尋ねたが
「ああ、この前、稀覯本のすごいのがあるって話をしていてね。その本のことなんだよ。早速行ってくる。」
と答えると
「物好きですなあ。お馬車を用意しますので。」
とあっさり納得した。
 だが、馬車は困る。誰にも秘密で出かけたい。
「構わん。一人で行ける。」
 老ヤールは少し考え込んだが
「……屋敷街の内ですからな……」
と一人歩きを認めた。

 出かけたのは、真っ昼間だ。さすがに、寝室には招かれない。
 二人は将棋を指しながら夜を待った。
 ギネウィスは典型的な姫君で、こういう遊びは上手い。定石をよく知っているわけだ。
「あなた下手くそね。」
と笑われ、もう一度したが負けた。
「あなた、駒の動かし方しか知らないの?」
 更に笑われると、彼は悔し紛れに
「あなたが、強すぎるんだって! ……じいより上手いわ。今度教えて。」
と言って降参した。
「もう一度する? 教えてあげるわ。」
 彼女はそう言ったが、必ずしも将棋を指したいわけではなさそうだった。
「……次は、別なことを教えて。 写本 ( ・・ )を見せて。」
 彼がそう言うと、彼女は微笑んで寝間に招き入れた。



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