2

 秋になり、トゥーリはまた上京した。
 都の屋敷に落ち着いて、大公に挨拶が終わると、いつものように公妃とアデレードにも挨拶に行った。
 無邪気なアデレードが、喜んで寄ってきた。
「今日は、トゥーリが帰ってきたから、嬉しい日だわ。」
「公妃さまにご挨拶せねば……」
「後、後。お母さま、お客様のお相手をしていらっしゃるから。それより、お庭にね、カメリアの花が一輪咲いたの。髪にさしてお昼の集まりに出たいわ。手が届かないのよ。とって。」
 彼女に急かされ、手を取られて庭に連れ出された。柔らかい彼女の手の感触に、またじくりと身体の奥底が疼いた。

「どこ?」
 樹の下で、アデレードが梢の先を指差して
「あれ。」
と言う。ずいぶん高い枝に、なるほど一輪、早咲きの薄紅の花が咲いていた。
「ちょっと無理じゃないかな?」
「大丈夫。トゥーリ、背が高いから、手を伸ばせば届くって。」
 トゥーリは伸び上がって手を伸ばしたが、あと少しが高すぎて届かない。
「やっぱり無理。諦めなって。カメリアでなくてもいいだろう? あっちに黄色い薔薇が咲いているよ。あれにしたら?」
「嫌。」
「なんで?」
「桃色の衣装着るの。黄色い花では変だもの。」
「そう? 変だと思わないよ?」
「どうでもいいって言いたいのでしょう? もういいわ。お二階から手を伸ばして取るから。」
「危ないって。やめろよ。」
「トゥーリのチビ!」
 彼女は、捨て台詞を吐いて走り去った。すぐに、二階に姿を現した。窓から身を乗り出している。
 彼は見ておられず
「そんなに乗り出すな!」
と大声を出した。
 その瞬間、彼女は均衡を崩して落ちた。
 彼は慌てて抱きかかえようとした。運良く、彼女は彼の胸の上に落ちた。しかし、衝撃に耐えかねてひっくり返った。
 彼は息が詰まり、咳き込んだ。
 彼女の身体が自分の上にあるのに、彼は胸を撫で下ろし、ぎゅうっと抱きしめた。すると、もやもやした気持ちが湧いてきた。
(温かくて柔らかい。……このまま、撫でていたい。)
 彼女がもぞりと動くのに我に返ると、憎まれ口が出た。照れ隠しに、いつもよりきつい調子になった。
「のかんか。重い! 息が止まるかと思った。アデルのおデブ!」
「トゥーリのやせっぽち。チビ。」
 彼女はぷっとふくれて立ち上がり、走り去った。彼は後姿の元気さに安堵し、立ち上がって砂を払った。
(あの感触が……。いや……困ったな。ひどく女が気になる……。アデルなど、まだ子供だというのに……)
 彼は自分に呆れ、取れなかった高みの花を見つめた。

 そこにもう一人、同じように思っている者がいた。

 公妃の客は、大公の従妹だった。彼女の父は、先代の大公のすぐ下の弟で、この一族の長老格だった。ソラヤの兄でもある。
 彼女は、高貴な身分に必ずしもそぐわない外国人の郷士と結婚したが、先ごろ未亡人になって実家へ帰ってきた身だった。挨拶がてら、公妃のところを訪問したのだ。
「ご夫君のこと、お悔やみ申し上げますわ。」
「いたみいります。でも、ずいぶん長く患っていましたから、主人もやっと楽になったのではないかと思っています。」
「まあ、そうでしたの。よく存じ上げなかったから……ご供養がわりに思い出話など。」
「思い出といっても……静かな人でした。庭仕事が唯一の趣味で。庭いっぱいに花を作って、とても見事でしたわ。老人めいた趣味でしょう?」
「いいえ。」
「実際、わたくしとは二周り程離れていたし……。無骨な農夫のような冴えない小男でしたけれど、わたくしのことは天からの贈り物のように大切にしてくれました。」
「お幸せでしたのね。」
「幸せ……どうかしら……」
 客が哀しそうならば、公妃も話がしやすかっただろう。しかし、この客にはそんな素振りもない。微笑して淡々と答える。哀しみが癒えているのかないのか、判り辛い表情だった。
「お子様は?」
「できませんでしたの。一度できたけれど流れてしまって、それっきりね。」
 それすらも淡々と答える。
「ごめんなさい。立ち入ったことを……」
「いいのです。済んだことですもの。」
 どうしても会話が途切れがちになっていった。

 そこに、トゥーリが
「危ないって。やめろよ。」
と言うのが、耳に入った。
 大きな声だったので、二人は驚いた。
「あら、どうしたのかしら。」
「殿方がおいでですの?」
 客がひっそりと尋ねた。
「ええ……殿方といっても、まだ少年です。ずいぶん大人びた声をお出しだけれど。公女さまの遊び友達ですわ。」
 公妃は席を立ち、窓辺に立った。
「……あらら、公女さま、どちらへおいでなのかしら。……ちょっと、失礼いたしますわ。」
 公妃が小走りに出て行った。
 客は立ち上がって、窓から様子を窺った。
 二階の窓から、アデレードが手を伸ばしている。落ちると思って何か叫ぼうとしたところ、案の定落ちた。それを抱えた男の子のいるのも見えた。
 客は息を呑んだ。
 都の物とは全く違う、左右の身頃を合わせる形の黒っぽい衣装を身に着けている。襟には鮮やかな色合いの、遠目にも判る見事な錦織が貼られている。濃紺のセリカの帯端の房が、ひらりと風に翻った。
 三連ほど、瑠璃の玉の長い首飾りを掛けている。
 草原の高貴な一族の一員であると、すぐに判る身なりである。
 そして、長い髪を二つに分けて編んでいた。初陣前の年齢であるのだ。
(あれは……違いないわ!)
 胸が、抑えねばならないくらい高鳴っていた。
 少女の後姿を少年が切なげに見送り、ため息をつきながら立ち上がるのを見て、客は目を逸らした。心の中に黒い思いが広がった。

 客は、控えていた自分の侍女に話しかけた。気持ちは概ね決まっていた。
「侍女や。見ましたか?」
「はい……驚きましたわ!」
 長く仕えてきた侍女には、多くを語らなくてもわかっていた。
「……お名前きかずとも、どなたかわかります。」
「本当に!」
 二人の女は、顔を見合わせて感嘆した。客は少し躊躇したが、きっぱりと侍女に告げた。
「わたくしのしようとしていることを知ったら、お前はわたくしを愚かだと思いますか?」
「いえ……私はだんなさまが、この十数年、必ずしもお幸せではなかったことを存じ上げています。」
「お前はよくわたくしのことを案じていたのですね。」
「これからもそうです。」
 侍女は、主の思い付きをすっかり理解していた。
「ありがとう。では、協力しなさい。」
「はい。」

 公妃が戻って来た。
「ごめんなさい。うちの子、元気がよすぎてね。見ていられないの。」
「可愛らしい方。きっと美人になりますわ。」
「どうかしら……あら、トゥーリは?」
 トゥーリが、二階から一生懸命に手を伸ばして花をとり、嬉しそうな顔をしているのが見えた。客はずっとトゥーリを見つめていたが、たった今気づいたような顔をした。
「男の子の方は……ほら! カメリアの花をとりに行かれたのよ。可愛らしいわ。まるで、お伽話の姫君と忠実な騎士のようですね。」
「姫君の方が、もっと手弱女ならばそうでしょうけれど。あの調子ではねえ。でも、本当に仲が良くて。ほんの小さいときから、いつも一緒。兄妹みたいなの。男の子はもうそろそろ一人前だから、宮宰などから“もう一緒に遊ばせるな”とうるさく言われているのですけど。仲が良くて微笑ましいから……」
「そうですね。」
 カメリアの花を手にしたトゥーリが、庭でアデレードの着がえを待っている。それを眺めながら、客が静かに言った。
「ラザックシュタールさま。でしょう?」
「ええ……」
「よく似た父子もあったものだこと。お姿もお声もよく似ていらっしゃる。」
 客のひそやかな口調に、遅ればせながら公妃は気づいた。彼女には、トゥーリの父親と浅からぬ縁があった。つまり、ひと悶着があったのだ。
 公妃は、まずいことになったと思った。
「あの……お目障りなら、下がるよう申し付けましょうか?」
「お気遣いをなさらなくても……可笑しいわ。もう十何年も前のことを。」
「でも……」
 彼女が死ぬの生きるのと騒いだことを、公妃は覚えていた。それなのに、微笑んで静かに話をするのが、不気味だった。
「もう忘れましたわ。亡き夫との思い出の方が、今のわたくしには重いのですもの。あの方のことは懐かしいだけ。ほろ苦い思い出ですわ。」
 公妃は、客の表情の下を探った。本心かどうかはわからない。しかし、昔の思い出に捕らわれたままだとも思えなかった。
「そうですわよね。ローラントさま、亡くなって久しいし。」
「……ねえ、ご挨拶したいわ。」
「ええ。……トゥーリ! 私のお客様にご挨拶して。」
 公妃が呼ぶと、彼は振り向き、部屋へ入って来た。

 トゥーリは客を一瞥し
「美しい奥さま。初めまして。アナトゥール・ローラントセンにございます。」
と言って黙った。
 照れくさいのだろうと、公妃が取り繕った。
「ごめんなさい。不調法だとお思いかしら?」
「いいえ。」
「この子、近頃めっきり無口になってしまって。人見知りするのかしら? 特に女の人にはねえ……」
 公妃は苦笑していた。子ども扱いである。彼は上気して、大声になった。
「アデルが……姫さまが、変な声って笑ったから……」
「そんなこと……ちゃんとご自分のことおっしゃって。」
 公妃が笑って窘めたが、彼はますます不愉快そうな顔をした。
「……ラザックシュタールの侯爵、ラザックとラディーンのシーク……」
 彼はそこまで言って、咳払いをした。変声期の声が裏返りかけたのだ。
「どうしたの?」
「……にございます。」
「……公女さまも失礼なことをおっしゃったものだこと。傷ついたのね。前は、小鳥のようによく話をする子だったのに。ちっとも変な声ではありませんよ。」
「とても、いい声。」
 慰めるのにも、彼はそっぽを向いて黙ったままだ。
「……この方はね、ウェンリルの公子さまのご息女。あなたの従姉になるわね。ご主人を亡くされて、こちらへ戻られたの。」
 不機嫌そうに返事すらしない。
「ギネウィスですわ。」
 彼が興味なさそうに外ばかり見ているので、公妃は軽く叱った。
「ほら! これからお付き合いいただくのだから、よろしくお願いしますっておっしゃい。」
 彼は緑の瞳をぎらりと光らせて、目の前の客を睨みつけ、公妃の言葉を繰り返した。
「トゥーリ、失礼よ。」
 彼が何か言い返そうとしたところに、着がえたアデレードが現れた。
 途端に彼の表情が和んだ。
 彼女に歩み寄り
「手が届いたよ。」
と微笑み、髪に花を挿した。
「やっぱり! とってくれると思ったの。ありがとう。大好き。」
 素直に喜ぶのを見て、彼は
(お前は可愛いね。努力の甲斐があるってものだよ。)
と嬉しさを噛みしめた。

 その様子を眺め、公妃は肩を竦めた。
「あの調子で。」
「気難しい方なのですか?」
「お小さいころは、懐っこかったのです。大公さまにもよく懐いていたわ。でも、この頃は大公さまにもあまり……。男の子のそういう時期だっておっしゃるけど……」
「お小さいころからご存知なのですか?」
「ええ。ほんの赤ちゃんの頃から。公女さまとちょこちょこ走り回って、可愛かったわ。朝議とお家のご用事が済むと、ここへ来て遊んでいたのです。毎日毎日、律儀にお越しになってね。私たちもとても可愛がっていたのです。」
「他に親しい方はいらっしゃらないの?」
「さあ……。ほとんどお家とここを行ったり来たりだから……。ご身分が高いし、同年輩の若君とはねえ。」
 ギネウィスは質問ばかりしていると思ったが、おおらかな公妃はそれを不調法に思わないらしい。公妃から得られる情報は全て知っておきたいと、次々に尋ねた。
「ご学友とかは?」
「今は学堂に出入りしていらっしゃらなくて。」
「何故?」
 突然、背後から固い声が返って来た。
「私は戦場に出て死ぬるのが勤めゆえ、ご宣旨を読んで署名するだけの読み書きと、兵馬の勘定が出来るだけの加減乗除が出来れば、それでいいそうですよ。」
 アデレードの相手をしていると思ったトゥーリが、ギネウィスのことを苛立たしげに見ていた。

「トゥーリ! 誰がそんなことを!」
「さあ、忘れました。」
 公妃に子ども扱いされるのも適わないが、この見知らぬ客が自分のことを聞き出すのはもっと嫌だった。彼は挑むような目つきで見据えて、さらに言い放った。
「数学だの歴史だの外国語だの、難しいことを考えて余計な頭を使わないで、しっかり武芸の稽古をして、初陣首を落とされぬようにと。ついでに申せば、私に友達なんていません。半年ずつ都と草原を行ったり来たりしていますから、人と親しくなどなっていられませんので。以上。満足のいく答えでしたか?」
 らんらんと物騒に目を光らせて、ギネウィスを睨んでいる。だが、彼女は微塵の動揺すらしなかった。それどころか、彼が猛れば猛るほど、可愛らしく思えた。
 彼女は口許を綻ばせた。
「聞きたがりなど……はしたない真似をいたしましたわ。お許しになって。」
 彼はその様子にもカッとしたが、彼女と喧嘩していても仕方がない。
「お気になさらずとも……」
と怒りを抑えた。
 内心では、どうしてやろうと思っていたが、公妃の前で反抗的な態度を取っている自分のことを、何とかしなければいけないという気持ちも働き始めたのだ。
 しかし、自尊心の強い年頃のこと。吐いた言葉は飲み込めない。言葉を探して惑い、少し気弱になって黙り込んだ。

 気づくと、側にアデレードがいた。
「トゥーリのお友達、いるじゃないの? ほら、テュールセンさまのところの……二番目の男の子。リュイスさま。仲良しよ。」
 トゥーリはほっと息をついた。自分の思いとは違っていたが、上手い具合に話を逸らすことができそうだ。
「あれは、別に仲良しではないよ。お城の馬場で、たまに一緒になるだけ。」
「この間、楽しそうに内緒話をしていたわ。私が何って訊いたら、女の子には関係ない話って、教えてくれなかった。何だったの?」
 彼は小さく舌打ちした。上手い具合どころか、拙い方向へ話が進んだ。それは女の話だった。アデレードには聞かせられない内容だった。
「忘れたよ。」
「本当? まあ、いいわ。それに学堂に行かなくなったけれど、トゥーリは賢いわ。この前の幾何の回答、よく出来ていたってコンラートが……」
 またもや、別の困った方向に話が向かった。
「馬鹿! ……」
「あ!」
 案の定、公妃が聞き留めた。
「コンラートって? 公子さまが何か?」
「コンラートの宿題……トゥーリがいつもしてやっているの……」
「いつもじゃないよ。」
 トゥーリは、アデレードのために弁護をした。コンラートの為ではない。
「そうなの?」
 公妃が疑わしそうな目を向けている。
「別に嫌じゃないから。あんなの簡単だったし……」
「まあ……」
「そう。歴史の宿題なんかだと、三つも四つもいろいろ書くんだよ。それぞれに教授が何を書くか楽しみなんだ。外国語は大食の言葉でしょ? コンラートが習っているのは。あれなら、俺は大丈夫。ラザックシュタールに大食の商人が来るし、医師もそうだから、すっかり覚えているんだ。上手い解答が書ける。」
 彼は全部白状して、笑った。
 公妃は眉をひそめた。
「そんなこと、その人の為になりませんよ。」
「でも、自分の為にはなるでしょう。」
「……まったく。コンラートのものは、引き受けないようにね。」
「はい。あなたのご子息だけはお断りしましょう。」
 叱られても、彼は上機嫌だった。
 アデレードと顔を見合わせて、くすくす笑っている。
「話しちゃった。ごめんね。」
「いいよ。いつかはばれると思っていたもの。」
「そう?」
「あんたが、そのうちぽろっと言っちゃうと思っていた。」
「え?」
「その通りになった。」
 秘密を共有していたのが、楽しくて仕方ないようだった。

 公妃はそれ以上叱る気にもならず、トゥーリの機嫌も直ったようだと安堵して
「ねえ、トゥーリ。お昼の会に、あなたもいらっしゃいな。公女さまも喜ぶし。」
と小さな集まりに誘った。
「屋敷に帰って、せねばならんことがあります。遠慮します。」
「つまらん。お昼の会で、歌をうたってよ。」
「変な声って笑うくせに。」
「歌のときは、今のほうが好き。話しているときは、前のほうが好き。大人のおじさまと話しているみたいで、変なんだもん。」
「おじさまはみんな大人です。あんたの話し振りのほうが変だよ。」
「意地悪。」
「また、ふくれる……」
「お昼の会に来て。歌って。」
「困ったな……」
 また、二人だけの親しげな会話をしては笑っている。困ったと言うが、少しも困っていないようだ。
 公妃が大概にせよと
「公女さま、わがままをおっしゃってはいけません。」
と言うと、彼はその言葉を真似して
「そうそう。わがままをおっしゃってはいけません。」
と笑った。
「帰るの?」
「うん。」
「つまらん!」
「また明日来るよ。……お妃さまもギネウィスさまも、ごきげんよう。」
 トゥーリが部屋から出て行った。
 ギネウィスは注意深く間をうかがい
「わたくしも、お暇しますわ。」
と言った。
 公妃はまったく普通に
「そう。またいらして。」
と答えた。
 鷹揚な公妃は何も気づかないようだ、とギネウィスは安心した。

 ギネウィスは、廊下でトゥーリを呼び止めた。
「ラザックシュタールさま、お待ちあれ。」
 トゥーリは無視して立ち去ろうかと思ったが、これ以上印象を悪くすることは得策ではないと、立ち止まった。ただ、バツ悪かったので、ぶっきらぼうになった。
「何か?」
「ちょっと、お話でも。」
「ゆっくりしていられないのです。」
「少しだけ……。速い足。追いつくのに苦労いたしましたわ。」
 彼女は胸を抑えていた。息が早いようだった。
「あなたが追っているとは思わなかったのでね。……何? 公妃さまのところで、十分お話したと思いますが?」
「背が高いのね。」
「……何のご用です?」
「お昼の会、何故いらっしゃらないの? お嫌いなのですか?」
「別に……」
 彼の目は彼女を見ていない。固い声だった。
「なら、行かれたら?」
「……顔を合わせたくない方がね、いらっしゃるので。」
「宮宰さまですか?」
「さあ。」
「公女さまが歌をうたってと、おねだりなさったのに。」
「その苦手にしている方がね、私が歌をうたうのがお嫌いなのです。」
「どうして? 美しい声なのに。」
「草原の歌は、卑近で扇情的だとか。」
「わたくし、好きですわ。草原の恋の歌。切なくて情熱的で。」
「……他に何もないなら、もう行っていいですか? 近習が待っていますので。」
「まだ駄目。ねえ……わたくしの家の夜会にいらして。」
「遠慮します。」
 取りつく島のない言い様だった。警戒心の強い子だと思ったが、やり方はいくらでもある。
「ずいぶんはっきりおっしゃるのね。どうして? あなたの苦手な方はいらっしゃらないわ。しかめっ面のおじさまたちは招きませんの。わたくしの父も含めて。」
「伯父上は、あなたのご父君は、さばけた方ではありませんか? 上下の隔てなくおつきあいなさるとか。」
「ご存知なの?」
「いえ。直接にお目にかかったことありません。出不精なので。」
「お若いのに……。ああ、お母様のような年ばえの者ばかりの集まりだとお思いになったのかしら。若い方もいらっしゃるの。嫌かしら?」
「そういうわけでは……。初陣もまだの半人前の身が、夜遊びなどしてはならんと……」
 それを聞いて、彼女は軽く笑った。
 彼は上気した。それが誰かに言われたことだとばれたと思ったのだ。
 案の定、彼女は
「それは、厳しいお母様のお言いつけでしょう。」
と言った。
 彼の固い声と態度が揺らいだ。
「でも……いや……そう心に決めています。」
「そうなの?」
 動揺を悟られるのにも、思春期の高すぎる自尊心は我慢ができない。彼は殊更胸を張って
「そう思いませんか?」
と言ってみたが
「いいえ。お母様は遠い草原にいらっしゃるのですもの。ちょっとくらい夜遊びしてもお耳に入りませんわ。」
と言われた。
 彼女はいたずらっぽい目で微笑んでいる。彼もつられて笑った。
 だが、彼は断った。母の言いつけも重かったが、リュイスの話してくれた夜会というものの様子に、どうも気おくれしたのだ。
「物慣れぬ者がおっては、興ざめします。」
「気安い夜会ですわ。……そう、草原の歌を聞かせて。」
「でも……」
「美しい声ね。とても上手だってうかがいましたわ。ね。」
「伶人をお呼びになったほうが、お心にかなうのでは?」
「こんなにお願いしているのに、駄目?」
 どうあっても来させるつもりらしい。断っても、やんわりと真綿が押し返すような応えが返ってくる相手に、彼はなす術を失った。
「わたくし、夫に死なれて、遠い異国から戻ったばかりの寂しい身の上ですのよ。可哀想にお思いになって。草原の歌をうたって。わたくしの無聊を慰めてほしいのです。」
 彼女の見つめる目に、彼は背がぞくりとした。
 我に返ったのは、半ば放心して
「では……少しだけ。お伺いします……」
と答えてしまった後だった。

 トゥーリの後姿を見つめて、ギネウィスはほっと息をついた。
 居間で対峙したときも、驚くほど似ていると思ったが、より側近くで見れば、寸分違わぬと言っていいほど、ローラントに似ていた。
 黒い髪、緑の瞳、草原の衣装をまとった立ち姿。母のソラヤを思わせるものは、何ひとつなかった。
 姿形だけではない。睨んだときの強い光を帯びた目は、人をじっと見つめる癖のあったローラントの眼差しを思い出させた。
 ぶっきらぼうな物言いもよく似ていた。身体の微かな香りすら、似ているように思えた。
(血の力……)
 惑うことなきローラントの血を引いた、奇跡のような造作物である。それは、自分への神の贈り物に思われた。
 ただ、親しく話してみたら、最初の印象よりも子供っぽい印象があった。少し躊躇する気持ちが湧いた。
 しかし、すぐにそれを否定した。
 庭でアデレードを抱きとめたときに、密やかに身を震わせたのを見たのだ。女に対する欲望は、もうあるのだとわかっている。
(殿方を誘惑するなど……それも、あんな固そうな子。……わたくしにできるのかしら?)
 自問すると不安になったが、夜会に誘うことができたのを思うと、何とかなると思った。
(うまくやらねば……ただの愛人ではない。あれは、わたくしの愛しいローラントさまの仮代、お人形ですもの。抱きしめて撫でて……わたくしの大切な生き人形。)
 自分の中の何かと対話していると、決心が今度こそ揺るがなくなった。
 すっかり人でなしになった、と思った。


註:セリカ  ここでは絹の意。
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