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 春の帰省。
 母親とは顔を合わせたくないが、帰ればもれなく付いてくる。複雑な思いはあったが、トゥーリは草原が好きだった。息の詰まりそうな石造りの都、堅苦しい宮廷は嫌いだった。
 母の出迎えはいつも素っ気なく、武芸の稽古はますます厳しかった。それでも、安心するところがあった。

 しかし、母が武芸の稽古をつけるのにも無理が出てきた。大柄で男勝りの母であっても、日に日に身体が男になっていく息子にはついていけない。おまけに、草原の者たちから実践的な技術を覚えてくるのだ。
 ソラヤは、稽古つけるのが億劫になった。だが、稽古は無理だと告げるのは癪に障る。
「アナトゥール、屋敷に呆けっとしておってはいかん。部の民のところを見回りに行くのだ。なまけものめ。」
 トゥーリにしてみれば勝手な言い草だ。
(いつもながら、一言多いんだって。ばばあ。)
 彼は内心で悪態をつきながら、言われた通りラザックの宿営地へ出かけた。

 春爛漫でぽかぽか暖かく、草原は新緑に眩しかった。
 屋敷の息詰まるような圧迫感に閉口していたから、開放的な気分になった。屋敷に問題があるのではなく、住んでいる人が問題なのだが、放浪者の血筋なのかも知れない。

 程なく宿営地に着いた。トゥーリは馬から下り
「きれいに洗って、ちゃんと拭いて、休ませて。」
と、出迎えに手綱を渡した。
 相手は、たまたま女の子だった。
「はあい。」
 声の可愛らしさにハッとし、馬を連れて立ち去る後姿を見送った。なかなか可愛らしい娘だった。お下げにした蜂蜜色の髪が、背中でゆらゆら揺れていた。
 彼の視線を察した彼女が振り向いた。訝しげな表情を向けていた。
 彼は反射的に背を向けた。
(尻が……いやいや、見ておらん。俺が見ていたのは背中なのだ。しかし、睨んだぞ……きれいな青い目だった……)
 どぎまぎした。
 気がつくと、ヤールがすぐ側に立っていた。彼は慌てて手を差し出し
「綺麗な子だね。」
と照れ隠しの平静を装った。
 ヤールたちと当たり障りのない話をしていても、さっきの娘のことが思い浮かんできた。

 やがて、草原を壮麗な夕日が染め上げ始めた。
「今日はお屋敷にお帰りにならんのですか?」
 ヤールに尋ねられた。トゥーリは、母親の顔を毎日見たくなかった。
「今日はここに泊まる。」
と答えた。
 彼らは突然の客に動じず、社交辞令で泊まっていけとも言わない。 泊めるところを整えようと慌てることもない。
「晩飯、何にします? 牛ですか、羊ですか?」
「草原に帰ったんだ。やはり子羊がいいな。」
「シメますんで、どれを召し上がるか、お決めあれ。」
「どれでもいいわ。……そういうの苦手なの。おかず予定者の目を見ると、もう食えないんだ。」
 ヤールは苦笑した。
「……変にお優しいところがありますな。なら、私が決めてきますので、飲んでお待ちあれ。」
「冷たいのにして。暑いから。」
「はい。エールでも。」
 彼は驚いた。酒など勧められたことがなかった。
「え? 馬乳酒か水でいいよ。」
「もう大人になられたのですから、それなりのご接待をせねば、なりませんので……」
 当然そうだという応えが返ってくる。
 古来通り、都に比べて成人と見なされる年齢は早い地方である。突如として、子供接待から一人前接待に格上げになっていた。
 エールが出てきた。飲んでみると、意外にもおいしい。乾いた喉に心地よかった。
「シーク……。沢山召し上がると、おかずができる前に眠りこけてしまいますよ。くいくいっと……いけるクチですかね。でも、すっ倒れますわ。」
「なら、次から次へ注ぐな。」

 ほどなく食事ができた。
 大勢が集い、楽しそうな笑い声が挙がった。
 草原では身分こそ分れているものの、普段はそれを思わせることは少ない。結婚や戦闘の時だけ、思い起こされることだった。食事の時は、ヤールから奴婢までが同じ家畜の肉を分け合う。それはかつて貧しく、全員で当たらねば生活ができなかったころの名残である。
 トゥーリは、もう酔っていた。目を閉じれば、たちまちに眠ってしまいそうだった。食事も進まない。
 その様子に、皆が心配した。
「小鳥ほどしか召し上がってないですな。」
「やせっぽちなんだから、もっと召し上がれ。」
「ああ、そこのところの脂の乗ったとこ、差し上げろ。」
 皆が気を使ってくれるのに、彼は悪いとは思ったものの
「眠いのだ。」
と正直なところを言って、もそもそ立ち上がった。
 そこへヤールが
「シーク、伽はどうしますか?」
と声を掛けた。
「何だ、それ? どうでもいいわ。もう寝る。」
 トゥーリはそのまま立ち去った。
 
 伽とは、冷える夜の天幕で一緒に寝る女のことで、当然身体の関係を持つことも承知のうちである。客人の接待の一環としてされることが多かった。
 ソラヤがそういうことを嫌っていたから、トゥーリは伽というものを知らなかった。

 ヤールは戸惑った。
「……どうでもいいって……どうしたらいいのかな?」
 周りの男たちも首を傾げた。
「意味がようお分かりにならんのではないか?」
「そんなことないだろ? あの歳なんだから。恥ずかしかったのと違うか?」
「一応つけて差し上げたら?」
「酔っていたぞ。かなり。」
「若いから、どうにかなる。」
「どんなのがお好みなのかな?」
 客人にも伽をやるのに、大族長が来たのに無しというのはいけないと、皆思っているのだ。誰かを行かせようとすぐに決まったが、それが最初の相手になると思うと、易々と指名できない。
 一同は、困った顔を見合わせた。
「まあ……最初は、わけのわかった年増の綺麗どころがいいのではないか?」
「あまり熟したのは……びっくりされるのではないか?」
「そうだな。後々忌まわしき思い出になるのでは、男として同情するな。」
 ため息をつき、考え込んでいると、一人が思い出した。
「そういえば、到着されたとき、ご乗馬のお世話を仰せつかった娘。お気に召したようであったな。」
「そうなのか?」
「綺麗な子だねとおっしゃった。」
「なら、その娘に行かせたら?」
 皆、うんうん頷いた。
 ヤールは奥方を呼んで、娘の身元を確かめた。
 奥方は渋い顔をした。
「大丈夫も何も……生娘ですよ。ついこの間、大人の仲間入りをしたのですから。」
「おぼこ同士で大丈夫かな……?」
「さあ……」
 二人は考え込んだが、周りの男たちは、話はもう決まったとばかりに
「そんなもん! 本能が教えてくれる。我らとて、ご教授請うたことはない。」
と言っては、頷き合っている。
「あまり失礼があってはならんから……奥方、娘にそれとなく……」
 皆、当然そうなるものだと思っている。草原では、恥ずかしいことでも、特異なことでもないのだ。

 トゥーリは、酔って寝ていたが、気配を察して目が覚めた。そして、天幕の隅に女がいるのに、飛び上がるほど驚いた。
「お前、何をしている?」
「あの……お慰めせよと言われて……」
「慰めろって……別に寂しくないけど? 何それ?」
「添い伏しせよと……」
「添い伏し! そんなもんいらん。」
 やっとトゥーリは意味がわかったが、娘の方は彼よりも意味がわかっていないらしく、ただただ当惑していた。
「だって、奥方さまに言われたの。シークのおっしゃるとおりせよって。逃げてきたらならんって。朝までご一緒しろって。」
 意味はわかっても、彼もどうすべきか当惑するのみである。
「おっしゃるとおりって……何も言うことがない。帰れ。」
「でも、お言いつけに背くわけには……」
「俺がいいって言ってるんだよ! いいんだってば。」
「でも……今帰されたら、私の立場がない。」
「どんな立場よ?」
「お側に上がったのに、追い返されたって。みんなに笑われてしまうわ。」
 どういう教え方をしたのか、よほどきつく言われたのだろう、彼女は泣き出した。
「泣かなくても……」
「朝までここにおいて。」
「……嫌だな……」
「シークは私に辱めを与えるの?」
 娘は大声を出した。男も女も、体面を一番に気に掛ける土地柄なのだ。損なったと思われたら、長々と恨まれることになる。
「違うって。そんな大声で喚かないでよ。」
 彼女は困った顔で見つめている。彼は、可哀想だと思い始めた。
「わかった。わかったよ。わかったって! ここにいなさいね。仕方ない。」
「いていいの?」
「うん。」
「ありがとう。」
 娘が靴を脱ぎ、服を脱ぎ出した。
「……何しているの?」
「寝るのよ。」
 彼女は、当たり前のことを何故訊くというような顔をしている。
 実際、天幕の中では裸で寝るのが普通なのだ。彼も布団の中は裸だった。
「そんなところで寝ると、風邪をひくよ。」
「じゃあ、横入れて。」
「嫌だ。」
 彼女は鼻を鳴らし、地面に横たわろうとした。彼はいたたまれず、声かけた。
「あの……横入っていいよ。あんた寒そうだから。」
「よかった。」
 にこりと笑った娘の顔に、色事を思わせるものは全くなかった。

 娘がどんどん脱いでゆく。
 いつもの何気ない動作なのか、誘惑の動作なのか、トゥーリはわからなくなってきた。
 彼が見ないように背中を向けているうちに、彼女が布団に入ってきた。
 娘の背中の質感をありありと感じた。そっと窺うと、白い肌の滑らかな様子が見えた。
 彼は、いいと言った自分に、小さく舌打ちした。
 そんなことも知らず、娘はどんどん寝床に進入して、身体を寄せてくる。
 彼は奥の方に寄って、彼女に空間を作ろうと試みた。しかし、天幕の中の狭い寝台である。その努力も虚しく、二人で横になると身体のどこかしらが触れ合ってしまう。
 思わず肘が触れて、慌てて引っ込めた。脚が触れて丸くなれば、背中が密着する。
 しようが無かった。二人とも仰向けに横たわったが、決まりが悪かった。
 身体の温かさ、柔らかさ、肌の香り、直な刺激だった。どうにもこうにも恥ずかしくて仕方がない。
 彼は、こっそり娘の様子を窺った。彼女は目を閉じていたが、瞼と睫毛が震えていた。眠ったわけでないとわかった。
 見つめていると、彼女の呼吸が浅く速くなった。彼もそうなっていた。
 二人は、触れないように無駄な努力を試みて、背中合わせになった。背中がぴったりくっついてしまったが、身じろぎもできなかった。しなかった。
 触れた背中は熱くて柔らかだ。彼は、背中から意識をそらすことが出来なくなってしまった。彼女も同じように感じているのだろうかと思ったが、振り向くこともできない。
 ただ、眠っているわけではないことは確信できた。
 目が覚めきっていた。何かしでかす度胸はないが、好奇心がもたげてきた。
「お前さ……意味わかってきたの?」
「奥方さまに聞いたけど、よくわからん。シークはわかっているから、行けばわかるって言われた。」
「ばばあ、俺に責任をなすりつけたな。」
 毒づいたが、娘は
「わかっているのでしょう?」
と訊く。
 答えられなかった。
「こうしていればいいのかな?」
「違う……いや、これでいいんじゃないの?」
「奥方さまは、はっきり言わなかった。言いにくそうで……。私も聞かなかったけれど。」
「そう……」
「母さんに言ったら、あららと驚いた。そうして、そういうことは、ちゃんとした恋人とした方がいいと言った。」
「だろうね。」
「でも、シークに新鉢を割ってもらえるのなら、いいことかも知らんって、父さんが言ったの。」
 娘がさらりと言った言葉に、彼は驚愕した。
「何だって!」
「新鉢って何?」
「……知りません。」
 この娘は、本当はわかって来ていて、からかっているのではないかという気もし始めた。
 娘が起き上がって、彼を見下した。彼女は
「なんだか……落ち着かない……」
と呟いた。
「そうだね……」
 彼は、闇夜に心から感謝した。ひどく顔が熱く、きっと真っ赤な顔をしているだろうと思った。
「シークは私のことをお気に召して、お側へ呼んだって言われたよ。お話したこともないのに、私のどこが気に入ったの?」
 彼の顔を見つめている彼女の目は、屈託がなかった。本心から、不思議がっていると思えた。
 彼には、その様子が特別に可愛らしく感じられた。彼は肩を抱き寄せて、胸元に抱きこんだ。
「青い目が……気に入ったんだ。青い目が綺麗だったから。」
 言ってから照れくさくなったが、離し難かった。娘もじっとしている。
 髪の香りがした。
(甘い匂い。ニャールやヴィーリとは違う……)
 これが女というものかと思った。
 しかし、それからどうしたらいいのか、きっかけがわからない。
 うまくする自信もなかった。
 彼は、娘の身体をそっと離して、背中を向けて横になった。
 これでいいと思ったが、眠れなかった。
 早い鼓動を治まらない。
 彼はまんじりともせず、相手のあるかなきかの身動きにも心震わせながら、朝を迎えた。

 翌朝は非常に後味が悪かった。
 トゥーリは黙って、娘に出て行けという素振りをした。
 何がしか同じように勘付くものがあったのだろう。彼女はバツが悪そうに黙って出て行った。
 一人になると、夜のことが思い出されて仕方がない。女の生身の迫力が、頭から離れなかった。

 家畜と共に暮らす草原の者は、それゆえにか男女の仲に関しては非常に寛容であった。夫婦や恋人同士である男女が寄り添って、時にはもっと親密にしていても、誰も改めて見もしなければ、目を逸らしもしない。
 トゥーリも、そういう男女の姿をよく見たが、嫌だと思ったことはなかった。
 また、早熟な乳兄弟たちが、女の身体や性の話をして聞かせることがあったが、今までは厭わしいとも思わなければ、さして面白いとも思わなかった
 それが、側に娘が寝たことで、俄然興味が湧いてきた。話に聞きたる女の肉体を、自分の目で確かめたいと思っている自分がいる。見て確かめるだけではなく、触れてみたいという気持ちもあった。
 自分のことがひどく穢いように思われた。
 それでいて、娘たちがやたらに美しく見え、気がつくと見つめている。欲求が強すぎるのではないかと悩み、それを他人に知られるのは、絶対に嫌だと思った。
 ため息が出た。

 食事していると、皆が昨夜の首尾を窺っている気がした。誰も思っていないと否定してみるが、ついつい頭に血が上ってくる。
 トゥーリはさっさと食事を終えて、立ち上がりざま
「ラディーンのところへ行くゆえ、もう発つ。」
と言った。
 別段おかしな発言でもない。皆は
「早いお発ちで。」
とだけ言って、見送りをしてくれた。もちろん、皆は昨晩のことなど気にもしていない。
 ヤールの奥方だけは思い至って、娘を呼んで尋ねた。
「あんた、言ったとおりにしたの?」
「ええ、朝までお側にいたよ。」
「……で? 寵はいただいたのかね?」
「はあ?」
「あんた、何をしていたの?」
「シークとお褥で寝てきたよ。」
「寝てきたって……二人で横になっていただけではないでしょうね?」
 奥方の厳しい問いかけに、娘は慌て出した。
「……いけなかったの? 奥方さまはおっしゃったじゃない。シークの仰せの通りせよって。シークは、横に入って寝ていけとおっしゃったの。」
「そうかね……」
 奥方はため息をついた。
 シークに恥をかかせたわけではないとわかって安心はしたものの、接待が足りなかったのではないかと思ったのだ。

 トゥーリは、ラディーンのところでも同じような接待をされて、閉口することになった。
 怒って断ると、ラディーンのヤールは困った顔をした。

 欲に正直で、何に対しての欲も隠すことをしない草原の民にとって、トゥーリの心の中に突然生まれた葛藤は、想像すらできなかったのだ。


註   馬乳酒:馬乳を発酵させて作る。アルコール度数2度以下。飲むヨーグルトに近いそうです。

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