誘惑
12
トゥーリは、リュイスと頻繁に夜遊びをするようになった。
リュイスは誘うくせに、姫君と親しくなっては、トゥーリを置いて消えてしまう。帰りは一人になることが多かった。
行かなければいいのだが、一人で長い夜を過ごすのは嫌だった。陽気なリュイスといるのは楽しかった。
ある夜、リュイスが思い出したように言い出した。
「お前、まだ年増の愛人をやっているのか?」
にやりとしている。トゥーリは揶揄いには乗らないと決め、淡々と
「年増ではない。何度言ったらわかるの? それにもう別れたよ。」
と答えた。
リュイスはますます嬉しそうだ。
「そりゃあいい。その歳で年増相手では、哀れさ通り越して笑えるわ。お前は女を知らんから、じゅくじゅくの年増にいいようにされてしまったのだよ。修行せねばならん。」
「じゅくじゅくでもなかったが……」
トゥーリは思わず拙いことを言ったと思ったが、リュイスには大して目新しい揶揄いの種でもなかった。
「若い女を知らんくせに、じゅくじゅくかどうかわからんだろう?」
リュイスが大笑いした。トゥーリもつられて笑った。
「だからだな、今から修行をさせてやる。」
リュイスは急に真面目な顔をした。
「何の為に?」
「決まっているだろう? 未来の愛する奥方を悦ばせてやるためだよ。」
リュイスはすらすらと答える。どこまでが本気で、どこからが冗談かわからない。
トゥーリは呆れた。
「お前が言うとやらしいわ。殊更にね。」
すると、リュイスは胸を張って
「そう。俺はやらしいのよ。お前だって何か? 知り尽くした年増に可愛がられていたくせに。お前の方がやらしいわ。」
と言った。口の減らない男だと、トゥーリはますます呆れた。
「それは言わないことにして……そんな淫乱な嫁はいらんわ。」
「却下。お前、その年増と別れたんだろう? 新しい女はいらないのか?」
「別に……」
「ああ、捨てられたんか? そうだろう? 傷心のあまり今はまだ……って感じか? どうなんだ?」
リュイスはにやついて答えを待っているが、トゥーリには元より話す気もない。
「失礼な。」
答えない風を決めると、リュイスはあっさり引き下った。
「可哀想。まあ、早めに次の女とひっつくことですな。別れた女を想ったところでどうにもならん。本日は俺が慰めてやる。」
そう言って、片目を瞑った。
上からものを言える立場かと可笑しくなり
「いやん。男同士で……」
とふざけてみた。
リュイスは向きになり
「まだ言うか! 俺がいいとこ見繕ってやるって言っているんだよ!」
と言って、小突いた。
「そんなお手軽に……」
「お前、女好きする見かけだから楽。一夜の相手くらいすぐ見つかる。」
「ひっついたり、離れたり……あんた、そんなことばかりしているの?」
「そうだよ。皆、そう。つまるところ、我々の人生は、女と抱き合っているか、男と殺し合っているかのどちらかだ。」
「身も蓋もないことを言うなあ……」
「当たっているだろうに。まあ……憎くもない男と殺し合うより、好きでもない女と抱き合う方が、殺生せぬだけ罪が軽い。」
妙に説得力のある言葉だった。
「そりゃあそうだな。」
「よって、やり逃げしても気にしなくてよろしい。」
リュイスはそう言い残すと、勝手がわからないトゥーリを置き去りにして、いつものように姫君の側に行ってしまった。
トゥーリは、友達が水を得た魚のように渡り歩くさまを眺めた。
(いろいろ教えてやるなんて言いながら、自分が楽しみたかっただけだろう?)
何をしに来たのかと、軽く後悔をした。
すぐに帰るわけにもいかない。彼は場の人々の観察を始めた。
暇潰しに始めた行為だったが、見知った輩が思ってもみない姿を見せるのに呆れ返り、楽しくなった。
(まだ食うんかいな? 腹が満ちたら、今度は女か。……あらら、あんな品のいい奥さんがねえ。まあ、旦那も若い娘とひっついてるからいいのかな?)
彼は皆の欲望丸出しの姿に感じ入った。
そして
(普段、殿さまの奥さまのなんてやっているくせに、一皮剥けばこうか。)
と嘲笑を押し隠した。
中年の奥方たちが、ひと塊になって話していた。その中の一人が、広間の隅に立っているトゥーリに気づいた。
彼女は驚いて、他の奥方の袖を引いた。
「奥さま! ご覧なさいね。」
「何ですの? 素っ頓狂な声を挙げて。」
「だって、ほら! あすこの若さま。」
引かれた方の奥方も、驚きの声を挙げた。
「あれっ! ローラントさま。」
他の一人が、やはり驚いたようだったが現実をわかっているのだろう、窘めた。
「そんなわけがないわ。息子さんでしょうに。」
「でも……そっくり。過ぎ去りし日の思い出が蘇りますわ。」
「奥さま、ローラントさまと思い出がおありですの?」
皮肉な笑いとともに一人がそう言うと、言われた方は言い返した。
「思い出というか……あなた、つまらん突っ込みをなさるのね。」
「告げることすらできず、密かに燃やしていたかつての恋心が……」
「そうそう……」
一同はしんみりと、しかし、うっとりとした。
すると、自分以外の誰かが思い出に浸るのは気に入らないらしく、うっとりしている同士のくせに、言い合いを始めた。
「嫌だ、あなた。烏の足跡つけているくせに、涙ぐんだりして。」
「失礼ね。あなただって……ずい分、額が広くおなり。」
「嗚呼! わたくしの青春の輝かしい思い出の中にのみいらっしゃる憧れの君が、そのままの姿で現れるとは……夢かしら。」
「あなただけのものではありません。わたくしの王子さま。」
先ほど窘めた奥方が、皆を再び窘めた。
「皆さま、おやめなさいな。あれは、その皆さまの憧れの君の息子さん!」
「でも、そっくりそのまま。いえ、……まだ、少し丈が小さいかしら……」
「奥さま方、落ち着いて……」
窘められても意に介さず、だんだん声が高くなる。
トゥーリが気づいて、彼女たちを見た。
「ほらあ、こっちをご覧になったわよ。」
「嗚呼! わたくしのこと、ご覧になったわ。」
「わたくしのことをご覧になったのよ。あなた、自意識過剰ですわね。」
「いいえ。あの視線の先は、わ・た・く・し。」
盛り上がって、ますます声が大きくなる。
「皆さま! お静かに! ……ほら、変なお顔をなさった。」
「……お顔を背けなさった……」
「あなたがいかがわしく見つめるから、恥ずかしくなられたのよ。」
奥方たちは、お互いに誰のせいだと言い合っている。姦しい。
奥方たちが、こっちを見て怒ったり喜んだりしているのを見て、トゥーリは気味が悪くなった。
(得体の知れんのが現れた。リュイスと一緒にいよう。)
彼は、広間の向こう側にリュイスを発見して
「リュイス!」
と呼んだ。
それを聞いて、再び奥方たちが色めき立った。
「ありゃあ、お声までそっくり。お聞きになった?」
「ちょっと掠れているかしら……?」
「風邪を引いたローラントさまだと思いましょう。」
「そうね。あの顔には、あの声でなくては……」
「わたくしの為に歌って欲しいわ。」
「抜け駆けなさるおつもり?」
「この期に及んでは、覚悟を決めて。」
「わたくしこそ……」
「お控えなさい。わたくしが……」
またもや興奮が高じて、声が高くなった。冷静さを残した一人が皆を鎮めようとした。
「奥さま方。ここはひとつ、淑女協定ですわ。」
「何故?」
一同は、不満そうに彼女を見た。
「あの方と、わたくしたちの内のどなたが親しくなっても、友情が崩れますわ。そんなのは許せないでしょう?」
「友情はどうでもいいけれど。わたくし以外の方が親しくなるのは許せません。」
「あら、わたくし以外の誰が……」
まったく賛同する者はいない。
「まあまあ……。わたくしたちのうちの誰も抜け駆けしないこと。お近づきになるときは一緒にね。」
「ええっ! 不満……」
「わたくしたちの友情の為ですわ。過日、ソラヤさまに奪われた傷心を癒しあった仲ではありませんか。」
皆は顔を見合わせ、渋々といった様子で頷いた。
妙な協定を結んだ奥方たちが、トゥーリの側にやって来た。
「侯爵さま、こんばんは。このような場所でお目にかかるのは、初めてですね。」
そう言う奥方の顔が、トゥーリには、何か含みがあるように見えた。そうでなくとも、先程の様子ならば、警戒するというもの。
彼だけではなく、一緒にいたリュイスも姫君も、奥方たちに胡乱な目を向けた。
「……このような場所でも他の場所でも、お会いしたことなどありませんが? 初めてお見受けしましたよ?」
「……そうでしたかしら? お遊びの集まりにお出になりませんのね。お嫌い?」
「別に。」
「ああ、その仰り方が……」
「お静かに、奥さま。」
仲間内で興奮しては、窘めあっている。トゥーリは気味が悪いと、眉をひそめた。
「何ですか? ご様子が尋常でないような……まあいいけど。あなた方、母のお知り合いですか?」
奥方は口ごもって
「ああ、まあ……そういったところです。」
と答えた。
「で?」
「あの……お話でもと思いましてね。」
「話……何の話? 私の母なら、変わりなく元気です。」
一人が小声で呟いた。
「聞きたくもないわ。」
一斉に皆の咎める視線が彼女に向かった。何やら唇の動きだけの会話が忙しくなされていた。
「……お母さまも何よりで。その他のこといかがです?」
「だから、何が?」
「草原のことなど。」
「何の変事もないです。ラザックもラディーンも普段どおり、馬と羊を追っているでしょう。おかしなことに興味をお持ちなんですね。」
「なら、よろしいわ……」
彼が話すたびに奥方たちは喜んだり、仲間を罵ったりする。彼はわけがわからない。
「何か、お話になって。」
と言われても、警戒心が増すばかりである。
「だから、何を?」
「何でもよろしいわ。」
「何でもと仰られても……」
トゥーリは困り果て黙り込んだ。
リュイスも内心気味が悪かったが、助け舟を出した。
「奥さま方、あまり若い子を弄ってはなりません。特に彼は擦れていないんだから。ご覧なさい。腰が引けている。」
「あら、テュールセンの若さま。ひどいわ。弄るなんて。」
「侯爵、困っているでしょうに。」
奥方たちは、邪魔なリュイスに嫌味を言った。
「随分と頼もしい保護者ぶりですわね。」
「そうです。私が連れてきたのでね。世慣れた奥さま方から守らねばなりません。彼はそういうことをよくお解りではないのです。」
「あなただって、侯爵さまといくつも違わないくせに。」
「私は場数を踏んでいます。奥さま方は、向こうの渋いおじさま方のところへどうぞ。私たちは若いもの同士で楽しみますから。」
「楽しむって?」
「何も特別なことしませんよ。とにかく、奥さま方みたいな熟女が混じるとやりにくい。早く向こうへ。」
断固たる言い様だった。奥方たちは言い返せなくなり、悔しそうに鼻に皺を寄せた。
「失礼ねえ。」
リュイスは構わずに
「ほら、おじさま方が、お待ちです。」
と言った。
「口の減らぬ方。」
奥方たちは不本意ながら、諦めることに決めた。
「まあ……あんまり長居するのも、ほら、変に思われると後々……」
「そうね。失礼しますわ。」
各々が満面の笑みをトゥーリに向けて去っていった。
奥方たちが去ると、黙っていた姫君が早速尋ねた。眉を顰め、いかにも不愉快そうだ。
「今の方たち……侯爵さまのお母さまのお友達なの?」
「さあ、知らない人ばかり……」
「何やら、ご様子おかしかったわ。」
「そうだね……気持ちが悪かったよ。」
「ああいう変なのがいるんだって。世の中には。ちょっと姫君、失礼……」
リュイスはトゥーリの腕を叩き、姫君から離れたところへ連れて行った。
「トゥーリよ。お前は、ばばあうけするんだな。このままでは、また愛人稼業に引きずり込まれる。早く若い者だけで消えようや。」
「愛人ではないというのに。第一、あんなお母ちゃんみたいな人とどうするの? そういう気にもならんわ。」
「そりゃそうですな。で、お前はどっちの娘にする?」
リュイスの話は実に端的である。端的過ぎて、トゥーリは戸惑った。
「はあ? 今日会ったばかりだよ。そんなことはできん。」
「今日会ったばかりだからいいのだ。後腐れなくいい思いができる。」
俄かには信じがたい。
「えっ……?」
リュイスはにっと笑い、頷いた。
「相手ももう、それを考えている。今頃、同じことを話し合っているんだよ。」
「でも……いいのかな? 結婚前の姫君とそんなことをして。」
「大丈夫なんだよ。身分もさほど重くないし、結婚前にちょっと遊んでおこうというやつだ。」
これも俄かには信じがたかった。
「都の姫君は皆、清らかな身で結婚するんだろ?」
「世の中知らなさすぎ。処女妻なんて、よっぽど固い家の娘か、大公に近い家の娘くらいだよ。」
「そうなの?」
「で、どうする? 女も俺にするか、お前にするか決めかねているだろうから、こっちの出方次第だよ。お前はどっちの女がいい? 金髪の方か? 赤毛の方か?」
リュイスはもうずっと先のことを考えている。姫君たちの様子を窺いながら、早く決めろと言わんばかりに急かした。
トゥーリは、姫君たちをちらりと見て
「金髪の方。」
と答えた。
リュイスは意外そうな顔をした。
「おや? 赤毛の方が美人だと思うけど?」
「そうだね。」
「いいのか? 綺麗な方を俺がもらっても。連れて来てもらったからって、遠慮しなくてもいいぞ。お前の初陣のようなもんだから、花を持たせてやる。」
「いいよ。金髪の方で。」
「金髪が好きなの? まあ、愛嬌があると言えなくもないが……。なら、そういうことで。」
トゥーリの戸惑いなど関知されず、どんどん決定がなされていく。
「どこで?」
「女は今晩ここに部屋を取っている。夜更けに帰られないからって。そこを利用。」
「へえ、お手軽。城の者に見つからないのか?」
「見つかったところで、構わんわ。それに、女が手引きしてくれる。」
「やる気満々なんだね。」
「そうだよ。しっかりね。」
トゥーリは、主導権を握られているのに、一矢報いてみた。
「どうやって口説くの? やはりあれか? ……“一目見て心奪われたのです。”か?」
リュイスはむっとしたが、今はそんなことに関わっておられず
「いらんこと思い出すな。それ、気に入ったのなら使えよ。許可制ではないぞ。……適当なことを言って。相手もその気だから、何を言っても大丈夫。」
と言った。
「その気なのかなあ……?」
「お前、鈍いわ。年増とさんざん練習したのではなかったのか?」
トゥーリはげんなりして、黙り込んだ。
「目を見るんだよ。考えていることがわかる。」
リュイスはにやりと笑った。
密談が無理やりまとまった。
トゥーリは友達の教え通り、適当なことを言っていたが、特別そうしたい気分でもなかった。投げやりだった。
高窓が、建付けが悪くなっていたのか、風に吹かれてがたりと開いた。姫君は見上げて
「あら、雪ですわ。」
と言った。
眺め上げれば、空いた窓から大粒の雪が吹き込んでいた。
「もう、そんな季節なんだね。」
「草原にも、雪が降りますの?」
「降るよ。こんな雪ではなく、軽い雪がひらひらと風に舞う。」
「儚い美しさね……」
姫君がうっとりと呟いた。
どのような想像をしたのかはわからないが、草原のことを美しいと言われたのが彼には嬉しかった。
「そう……雪の翌朝は、凍った草をきらきらと朝陽が照らして、とても美しい。私の生まれた朝も、そのようだったそうです。」
「あら、お誕生日が近いの? いつ?」
「正月二十五日。」
「もうすぐね。お祝いを差し上げるわ。」
「じゃあ……ちょっと早いけど、今日いただける?」
「今?」
「そう。桜桃みたいなその唇、ちょうだい。」
彼はすらすらと口説き文句を吐き、じっと目の奥を見つめた。
「まあ……」
姫君が含み笑いをしている。本当にそういうつもりらしい。
「……後で、あなたのところに行くよ。その時にね。」
「早くね。少しでも遅いと、眠っていますわ。」
彼らの年齢相応の恋の鞘当てを、先の奥方たちが遠目に見ていた。
「奥さま、ご覧あそばせ。あのようなつまらぬ娘の側にお寄りになって。」
「本当に。」
一同は歯噛みした。
「あのお友達がよろしくないんですわ。いらぬことをお教えしているのです。」
一人が憎々しげに言った。
「そうね。ここはひとつ阻止せねば。」
「でも、さっきのやりとりで、わたくしたちはバツが付きましたわ。」
「あなたが興奮して、変なこと口走るから……」
「だって……」
「まあ、仕方がないわ、今日は。でも、今後はなりません。浮ついた公達になられては、わたくしたちの希望が……」
「希望って?」
「やはり何か企んでいるのね。」
「違います。お父さまのような清冽凛然たる公達になって、わたくしたちの眼福になってもらわねばなりません。」
「そうよね。」
「で、わたくしたちが見守っていくの。テュールセンの若さまではだめ。」
「わたくしたち共通の恋人ね。」
だが、ローラントに片想いしていた全員が揃っているわけではないことに気づいた。
「抜け駆けされないように、かつての恋敵たちにも声を掛けましょうよ。」
「恋敵? ……ギネウィスさまは?」
「あの方は、わたくしたちと違って、ローラントさまと実際の思い出がおありだからいいのよ。それ以上、必要ないでしょう?」
「そうよね。出戻って引っ込んだっきり。ご身分が高いから、こんなことにはお誘いしにくいし……」
「あの方はそっとしておきましょう。皆さま、くれぐれも抜け駆けせぬようにね。」
一同の気持ちがやっと揃った。
気楽な姫君との情事は楽しかった。何の気構えも必要なかった。
だが、一人になると、ギネウィスのことばかりが思い浮かんだ。
そのうち忘れてしまうはずだと思いこもうとしたが、上手くはいかなかった。
(身は悦楽の余韻を残しているのに……)
彼は虚しさに苛まれながら、浅い眠りについた。
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