11

 数日後、訪れたトゥーリを、ギネウィスは固い顔で迎えた。
「お話があるの。この前のこと、お母さまや家令の方に話されましたか?」
 トゥーリは照れくさそうに笑った。彼女はまだ話していいないようだと安堵した。
「まだ言っていない。話しようが思いつかなくて。」
「よかった。」
「何故? 何なら、今日帰ったら、ラザックの老ヤールだけには言うけど?」
「その必要はありません。」
 彼は戸惑い、怪訝な顔で彼女を見た。
「いずれ言わねばならんでしょう?」
「わたくし……あなたとは結婚しないの。」
 彼の戸惑いが驚きに変わった。
「何故? この前はいいって。あんなに熱っぽかったのに。どうしたの? 今日は冷淡に。」
「この前は、わたくし動揺していましたの。それで……心にもないことを言ってしまった。」
「心にもないって何? 俺のこと好きだって、結婚してくれって言ったのでなかった?」
「わたくしの愛しているのは、あなたではありません。」
 彼にはさっぱり理解ができない。驚きがまた戸惑いに変わった。ギネウィスは笑いもしなければ、哀しそうでもない。無感動な目を向けている。
「何それ? 藪から棒に……」
「あなたのことは愛していない、と申し上げているのです。」
「あなた、この前の情熱的な俺の恋人とは別人?」
「いいえ。」
「まったくもってわからん。冗談を言ってるつもりか?」
「いいえ。」
「もう一度言って。何だって?」
「わたくしは、愛してもいないあなたとは、結婚などしません。」
 どうしてなのか説明もせずの態度に、彼は段々と苛立ってきた。
「愛してもいないって……これまであんなに親しげに、何度もあんな夜を重ねておきながら、ようもそんなこと言えるな?」
 彼女は全く動じない様子で、白い面を向けたままだ。
「まさか“わたくし発情していましたの。物慣れぬあなたが面白くて”なんて言うつもりじゃないだろうね?」
「いえ……」
「“わたくしの愛しているのはあなたでは……”とか言ったな。何? 別な恋人がいるのか?」
「いえ……」
 彼は黙って彼女の応えを待った。
 彼女は淡々と、想像してもいなかったことを話し始めた。
「わたくしの愛しているのは、あなたのお父さま。あなたがそっくりなお父さま。だから、わたくしはあなたを誘ったの。」
 彼は言葉を失った。すぐには、言われた意味がわからなかった。

「お解りにならない? わたくしの恋人は、あなたのお父さまなの。」
「わたくしの……って。父さまは母さまと……」
 トゥーリは混乱し、辛うじてそれだけ言った。
 ギネウィスは、さらさらと続ける。
「あなたのお母さまが、わたくしから盗ったの。そんなことはどうでもいいけど。わたくしは、あなたにお父さまの身代わりをさせたの。」
「身代わりって……。じゃあ、父さまとも……そうだったのか? ……そうして、息子の俺とも……」
 ギネウィスには、父とも関係していたとまで嘘は言えなかった。
「いいえ。お父さまとは何もなかったの。だから、わたくしはあなたのことを誘ったのよ。お解りかしら?」
「そんなのって……」
「今まで……楽しかったわ。ローラントは、わたくしとは寝台を共にしてくださらなかったけど、そっくりなあなたのおかげで、まるで彼に抱かれているようで……。気が済みましたわ。もう、おしまいね。」
 “ローラント”。呼び捨てが親しげに聞こえた。トゥーリは呼び捨てにされたことなどない。比べようもなく、父との方が濃密だったのだと思わせた。
 彼女の顔を見るのも辛かった。彼は俯いて、黙り込んだ。哀しみと怒りで一杯だった。
 彼女は彼を覗き込み、つっと手を伸ばした。
「触るな……」
「失礼しました。でも……そんなに哀しまないで。わたくしのことで嘆かないで。」
「嘆くなど……ラザックの戦士なら、泣いていいのは生涯三度だけ。シークの死んだときと、母親の死んだときと、戦に負けたときだけだ。俺は母の死んだときにしか泣かない。」
 涙を堪えているのかと彼女は思ったが、上げた顔にはそんな素振りもなかった。燃えるような緑色の瞳が、彼女を見据えていた。
 彼女は、そうではないのだと今更ながらに言いたくなったが堪え、できるだけ冷たく言った。
「それならよろしいわ。わたくしも、気が楽です。」
「とんだ恥をかいたものだな。こんな女に求婚するとは!」
「……裏切られたと……?」
「他に言い様、ありますか?」
「……そうですね。これからは、軽々しく女性に求婚なさってはいけません。思いもよらぬ理由で、床を共にする女もおりますから。よくよくお考えになってね。」
「そうだね。最後のご教授、肝に銘じます。では、ごきげんよう。」
「あの……」
「何か? 心配せずとも、もうここへは、二度と、来ない。絶対に。」
 彼は、言葉を切って言い捨てた。
「はい。」
「では、いつまでもお美しく、お健やかにお過ごしあれ。」
 彼は精一杯の虚勢を張って、貴婦人にする正式なお辞儀をして去った。
 彼女は閉まった扉を見つめた。やがて涙がこぼれ落ちた。彼女はすすり泣きながら、ずっと立ち尽くしていた。

「お早いお帰りで。」
 ラザックの老ヤールが慌てて出迎えたが、トゥーリは言葉もかけず、そのまま自室へ入った。
(何やら不機嫌でいらっしゃるな。一度、ご様子うかがって……)
 老ヤールはそう思い、控えから
“お食事、どうしますか? ”
と声をかけようとした。ちょうどその時、部屋から大きな音がした。
 老ヤールは慌てて扉を開けた。
 部屋の中は、調度が散らかり酷い有様だった。トゥーリは壁に据え付けられた大きな鏡の前に立って、鏡の中の像を睨んでいる。
「トゥーリさま!」
 トゥーリはびくりと振り向いた。
 しかし、彼は側の腰かけを振り上げて、鏡に投げつけた。大鏡が鋭い音を立てて粉々に割れた。
「何をなさる!」
「俺はこの顔が嫌いだ!」
「何をおっしゃる! それにしても、こんなことをしなくても……」
「目にするのも嫌だ!」
 トゥーリは大声で吐き捨てた。
「何故? 亡きお父上に似て、端正なご容貌でいらっしゃるのに。」
 父という言葉に、彼の目元に癇が走った。
「うるさい!」
 彼は、割れた鏡の破片を取り上げた。
「何なさる!」
「顔に傷をつけるんだよ。二目と見られんようにしてやる!」
 切っ先を顔に近づけようとする手を、老ヤールが辛うじて抑えた。そのまま主従で力比べである。

 やがて、多少主の興奮も治まったと見て、老ヤールが力を緩めた。トゥーリはもう引っ張らなかった。
 老ヤールが出した掌に、トゥーリは鏡の破片を載せた。
 再び凶器を取っては敵わない。彼は、鏡から少し離れた床の上に主と座った。そして、静かに柔らかく話しかけた。
「文句のつけようもない綺麗な顔に生まれついたのです。そんなことをせずとも、よろしいでしょう?」
「別に綺麗な顔とは思わん。」
「それでも、わざわざ傷つけずともよろしいでしょうに。」
「この顔を見るのが、不快なのだ。」
 不愉快そうに言うが、老ヤールには子供の我がままとしか聞こえなかった。
「その顔のどこがご不満なんで? 睫毛が上向きに巻いているところですかな? 以前、ご婦人にからかわれて、お怒りでしたな。」
「しょうもないこと……よう覚えているなあ。」
「顔の造作など、男がくよくよ気にすることではありません。男の顔なんざ、付いてりゃ事足りるってものです。」
 トゥーリは苦笑した。
「そういう問題ではない。顔の出来不出来を言っているのではない。……でも、お前に言ったところで、仕方ないな。」
「さようですか。」
 トゥーリは沈黙し、何か考え込んでいる様子だった。やがて
「せめて、金髪に染められんか?」
と言った。
 老ヤールは、馬鹿なことを言い出したと思ったが、主の顔は冗談を言っているようではない。
「無理ですな。金髪を黒く塗った戦士の話は聞いたことがありますが、その逆はねえ……」
「では、短く切る。」
「なりません。」
「毎朝、楽になる。」
「戦のとき、首を守る為の御髪ですから。」
「今時……無用ではないか。」
「伝統ですから。」
「……嫌いな言葉、第一号“伝統”。」
 さも嫌そうに言うのが、老ヤールには可笑しかった。失笑すると、トゥーリはじろりと睨んだ。
「しょうもないことをおっしゃらんと……気は治まったんですか?」
「わからん。しばらく荒れる予定だよ。」
 そう言ってトゥーリはそっぽを向いた。
「なら、割れ物の類は、目に付かんところに始末しておかねばなりませんなあ。」
「特に鏡は。鏡と言うのも気分が悪い。アレは特に注意して片付けておけ。自分の顔を見たくないのだ。」
「またぞろ顔に刃でも当てられたらと思うと……ご後室さまに言い訳がたたんわ……」
 トゥーリは後室と聞いて振り向いた。
「母上は父上の顔に惚れたのかね?」
「さあ……そりゃ、見苦しいよりは、美形の方がいいのでは?」
「美形……父上はそんなに美形だったか?」
 老ヤールは天井を見上げた。美貌だった記憶はあるが、そこは彼の重要視するところではなかった。ローラントの顔かたちを詳細に思い浮かべるには努力が要った。
「そうですなあ……女好きするというのか……。トゥーリさま、ご自分の顔を見たら……いやいや……」
 老ヤールは苦笑し、刺激的な言葉を飲み込んだが、トゥーリはそれには反応せず、妙に真剣な顔で尋ねた。
「……そんなに似ているか?」
「生き写しってところですな。たまに錯覚します。お声も似てきたし。」
 トゥーリが目を逸らした。緑色の瞳が、哀しげな灰色にくすんで見えた。
「そう……。お前、耄碌したのではないか?」
「まあ、言うことが全然違いますから、そうそう思いませんよ。お父上は寡黙な方でした。」
 それを聞くなり、トゥーリはむくれた。
「悪かったね。おしゃべりで。」
「ご性格は、お母上に似ていらっしゃるようで。」
 すると、今度は怒鳴り声になった。
「恐ろしいわ! どこが似ているっていうんだよ! 納得のいく理由を申し述べよ!」
「そういう物言い。」
 切なそうにしたり怒ったり、目まぐるしく変わる様子に、老ヤールは笑い出した。
 トゥーリは、まだまだ子供だと思われているのだと気づいた。だが、向きになって言い連ねても、子供のようにあしらわれそうだ。
「もういい! ……ところで、何しに来た?」
「昼食を召し上がっておられませんが、どこかで上がった?」
「いや。そういや、城から帰ってすぐ出かけたんだな。腹減った。何か持て。」
「はい。……それと、ご学友のテュールセンさまから、お遣いがありましたわ。」
 リュイスは、学友などという真面目な相手ではない。悪友である。
「リュイスか。あれは学友とは言わん。で、何て?」
「今晩、夜会があるのでご一緒にとか。」
「何て返した?」
「トゥーリさまはそれ……女人のところと思いましたのでね。都合付かんだろうと、お断りしました。」
 老ヤールの行いに、またトゥーリは怒り出した。
「女のところになど行っておらん! お前、毎回、俺が女のところに行っていると思っていたのか?」
「ええ、さようです。」
 老ヤールの真っ正直な答えに、責めるのも馬鹿馬鹿しくなった。
「慮外者が。まあ、よろしい。テュールセンのところに誰か遣れ。」
「お出かけなさる?」
「暇なんだもの。」
「女人のところは?」
「くどいな。とうの昔に別れたのだ。」
「そりゃまた……」
 トゥーリは視線を泳がせた。照れくさいのを隠して、偉そうに命じた。
「俺のそういうことには踏み込むな。それより飯だ。速やかに持て。」
 老ヤールは失笑を堪えた。
「しばらくお待ちあれ。」

 一人になると、早速ギネウィスに言われた事が思い出された。
 自分の浮かれようを、彼女はさぞかし嗤ったのだろうと思った。憤りと口惜しさと恥ずかしさがこみ上げてきた。
 そんなことを考えるのは、好ましくないとはわかっている。しかし、どうしても最初から順送りに思い出が浮かんだ。
(父さまか……)
 父を意識したこともなかった。いないのが当然で、懐かしがるような思い出もほぼない。思い出どころか、父のいた記憶すらもう朧気だった。
 容姿が思っていた以上に似ているのはわかったが、人となりや言動は全く知らない。誰かに尋ねたこともなかった。
 ギネウィスを捨てて、母を選んだことだけは知った。女らしく美しいギネウィスではなく、男勝りで気性の荒い母を選んだ理由が、どうしてもわからなかった。
 父に興味が湧いた。だが、誰かに訊く気にはなれなかった。



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