宿命
10
大人のシークがするように、草原と都を行き来する生活が始まった。
ラザックシュタールは遠く、馬車で何日もかかる。今までの大抵のシークは、都を出てラディーンのところまで馬車を使い、その後は馬で駆けて、ラザックシュタールの側でまた馬車に乗って入城したのだが、まだ幼いトゥーリはそれが出来ない。
馬車での長い旅程は疲れたが、草原を旅するのが一番楽しいと思った。ラザックシュタールの屋敷にいるのも、もう嫌いになっていた。都では、アデレードと過ごすのと学堂に行くのだけが楽しかった。
ある日、学堂へ入るなり、男の子が一人トゥーリに駆け寄ってきた。彼は笑いながら、お下げにした髪を掴んで
「女の子みたいだな、お前!」
と言った。
そして、周りにいた子供に向かって
「みんな、見ろ! こいつ、大きくなったら、髪を上げてクリスピンに入れるんだぞ!」
と言って笑った。
トゥーリの格好を見慣れて、特に何も言わなくなっていた子供たちが、くすくす笑っていた。親しくなっていた子供も、その中にいた。皆がまた笑い出したのが何故なのか、トゥーリにはわからなかった。
彼はいつものように、黙って髪を引き、男の子の手を払ったが、また掴まれた。
何度か繰り返した。しつこいやつだと思った。
トゥーリの近習が
「お止めなさい。」
と、相手の子供を窘めた。
「ラザックの近習ごときに命令される謂われはないわ!」
男の子は構わず、髪をぎゅっと引っ張った。頭が一緒に引っ張られるような強さだった。
相手の供が
「リュイスさま! 駄目です、駄目です!」
と大声を出したが、側へ来て止める風はない。
代わりにトゥーリの近習が、リュイスと呼ばれた男の子を抱えた。それでも、左側のお下げ髪を引っ張ったまま笑っている。
「ラザックの姫君!」
トゥーリは、その言葉にカッとした。
リュイスを抱えている近習の牛刀が目に入った。彼は、牛刀の柄を引き、鞘ばしらせると、そのまま左の髪を切り落とした。
強く引っ張っていたリュイスは、近習と一緒に尻もちをついた。トゥーリも前のめりになった。
トゥーリは体勢を整えると、尻もちをついたままのリュイスを蹴り倒し、牛刀を振り上げた。
慌てた近習が、どうにかトゥーリの左腕を掴んで組み敷いた。リュイスは腰を抜かして、恐ろしそうにその様子を眺めていた。
リュイスを一発でも殴りたかったが、老ヤールの言いつけを思い出し留まった。
(喧嘩はしていないよ。邪魔だから退けただけ。)
片方の髪がさらさらほどけた。短く耳のすぐ下で切れていた。
「危ないことを! もう少し上だったら、耳が落ちていましたよ!」
近習が叱りつけた。トゥーリは近習を睨みつけた。
「落ちたところでどうだと言うのさ!」
「耳飾りが落ちます。それは死んだということと同じです。」
「じゃあ、あいつの耳を落とせばよかった!」
近習はとんでもないと、ぎっと睨んだ後に
「絶対にしてはなりませんよ! あの男の子、あれはね、テュールセンさまのご子息なんです。」
と耳打ちした。
トゥーリは、テュールセンの公爵が好きだった。宮宰はもっての外だが、慇懃でいてどことなく見下すような態度の貴族たちと違って、裏表ない言動で接してくれた。
その子息だと聞くと、悔しい気持ちもあったが、それ以上何か言うことも、することもできなかった。
ムッとしながら教室に入ると、既に座っていた子供たちが、片方だけ短い髪になったトゥーリにぎょっとして、何か小声で囁き合った。
彼は無視して席に座り、じっと前を睨んだ。抑えきれない口惜しさと、いくら聞いても理解できないロングホーンの者の態度に、悔し涙が出そうだった。
入って来た教授も、彼の異様な姿に驚いたが、言葉を掛けることもなかった。
老ヤールは、帰ってきたトゥーリの姿を見て驚いたが、何も言わず長い方の髪を切り揃えた。
(あれだけ言い含めたのに……。大人しく我慢していらしたが、さすがに腹に据えかねたか。)
ため息ばかりが出た。
子供ながらよく我慢していたことを思うと、不憫だったが、今日のようなことは絶対にしてはならない。
「申し上げたでしょう? こういうことをすると、どうなるのでしたかな?」
トゥーリは、老ヤールを見もせずに
「監獄!」
と吐き捨てた。
「さようです。さて、監獄へ行きましょうかね。」
手を引いて行こうとすると、彼は驚いて
「今から? 本当に行くの?」
と、急に不安そうな顔をした。
老ヤールは、黙って彼を連れ出した。
監獄の前で、老ヤールはトゥーリを馬車に残したまま、一人で下車した。
トゥーリは馬車の中から、獄吏相手にぺこぺこ頭を下げているのを眺めた。
(あんなに下手に……。どうして、こんな所のやつらにあんなにせねばならんのだ。)
と苦々しかった。
やがて、老ヤールが戻ってきた。彼を馬車から下ろし、獄吏の手に委ねた。
獄吏は彼を、入ってすぐの部屋に入れた。
石の床で殺風景だった。狭い寝床があるだけである。
獄吏が、黙って扉を閉めて立ち去った。彼は、老ヤールの言っていた監獄の様子を思い出した。
(幽霊が……?)
身震いが出た。彼は寝床に慌ててもぐりこんで、毛布を頭まで被った。
そこは牢ではなく、獄吏が仮眠する為の部屋に過ぎない。錠前すらなかったが、彼は怯えて朝まで過ごした。
(これからは、どんなことがあっても我慢しなくては……)
それは、まだ幼い心に深く刻まれた。
翌日に、トゥーリは釈放された。
迎えに来た老ヤールは、辛そうな顔をしていた。
もちろん、監獄に入れたのは、無理を言ってお仕置きの片棒を担いてもらっただけなのだが、それとは別なことがあったのだ。
昨日のうちに、宮廷から遣いが来た。
学びの場で、刃物を抜くなどとんでもない、もう来てはならないということだった。
トゥーリにそれを隠すことは出来ない。新しいことを学ぶのを楽しそうにしていた彼に伝えるのに逡巡したが、老ヤールはそのままを伝えた。
「もう学堂に行ってはなりません。刃物を抜くなどと、乱暴なことをした以上、出入りは許されないのです。」
言い返すかと思ったが、彼はあっさりと
「わかった。」
と言った。
表情に嘆く色も口惜しさも滲んでおらず、老ヤールは鼻白んだが、虚勢なのだと思うと、ますます憐れになった。
老ヤールは
「学堂でなくとも、学ぶことはいくらでもできます。ラザックシュタールから書物を寄こさせましょう。都ではない大食の書物も、フランクやロンバルディアの書物も、遠くセリカのものも手に入る。」
と微笑んだ。
トゥーリは興味もないといった風で、窓の外を眺めていたが
「都のとはどう違う?」
と訊いた。
「都とはずっと新しいものが入るのです。ラザックシュタールのことを思い出してごらんなさい。大食やセリカの商人がたくさん来て、商売をしているでしょう? 都の比ではない。」
「確かに、都でセリカの商人は見ないな。」
興味を引かれたようだと、老ヤールは更に続けた。
「大食はずっと進んだ学問を持っています。ほれ、トゥーリさまの医者も大食の者でしょう? 大食は医学のみならず、数学も星の学問もずっと詳しい。セリカは、不思議な文字の全ては我々にはわかりませんが、いくらでも講釈する者はおります。儂の聞いたところでは、我々とはものの考え方が違うようですな。なるほどな、と思うこともありました。」
トゥーリは、しばらく物思いに沈んでいるようだったが
「医師を呼んで。」
と言い出した。
「ん? 監獄で風邪を召されましたか?」
老ヤールは、わからないふりをした。
すると、トゥーリは
「医師は大食だろう? 大食の文字から習わなくてはならないじゃないか。」
と言って、笑った。
大食の医師は、喜んで学問を教えてくれた。そのうちセリカの書物も読んでみたいと思った。屋敷で教わる方が、好むことを学べる。何より他の子供にいろいろとされることもなく、気楽にじっくりとその世界に取り組めた。
註 大食:アラビアの辺り。
セリカ:中国の辺り。
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