9

 アデレードの足の傷は深かったが、命に関わるようなものではなかった。
 しかし、トゥーリの状態は良くない。都まで動かすことは躊躇われた。
 老ヤールは一部屋を借りたいと申し出た。宮宰は大公に伺いを立てることもなく
「ここは大公さまの館である。血で汚すことはならん。」
と拒否した。
 老ヤールは宮宰をぎらりと睨んだが、首を垂れ
「さようですか。畏れ多いことを申しました。お許しあれ。」
と述べて、そこから立ち去った。
 扉内に入ることすら許されず、トゥーリは来る時に使った自分の馬車で過ごすことになった。
 何人かの貴族がやり取りを聞いて、さすがに憤り
「宮宰さま。それはあまりにも酷ですよ!」
「大公さまに、お話しくらいはして差し上げてはどうです?」
と詰め寄ったが、頑として曲げなかった。
「大公さまのお悩みを、卿らも見たであろう? 申し上げられるはずがない。」
 そればかりか、何の手出しも無用だと厳命することさえした。
 老ヤールは宮宰の性質をよく知っている。交渉している時間も惜しいと、さっさと都の屋敷に使いを出した。
 程なく、命じた通りの馬車が来た。床は藁束で均され、上に沢山の毛布や毛皮が重ねられている。柔らかさを確かめ、近習と二人でトゥーリを抱え入れた。老ヤールが同乗した。
 毛布や毛皮に埋もれるようにトゥーリが眠っている。その姿は、小さく心細そうに見えた。額に汗が浮かんでいた。
 老ヤールはそっと額に触れた。身体の芯が若干熱いように感じた。
 トゥーリはゆっくり瞬きし
「じい。熱い。」
と言った。目が熱っぽく潤んでいる。
(悪い風が入ったのでなければいいのだが……)
 老ヤールは掛けてあった毛布や毛皮を押しのけ、胸元を開けてやった。トゥーリはふうっと息をついた。
「じい。俺は死ぬのかな?」
 老ヤールは胸が潰れそうになった。だが、不安な顔も見せられないし、空々しい気休めも言えない。
「死ぬときは死ぬ。誰もが、いつかは死にます。」
 嘘の言えないラザックらしい答えだった。
 トゥーリは微かに笑った。
「父上が亡くなるときも、お前はそう言った。アーマだったかな……」
 しかし、急に心配そうに眉を寄せた。
「父上のように耳飾りを譲る息子がいない。じい。どうしよう……」
 か細い声だった。舌が回りにくいのか、子供のような言い方でもあった。
 老ヤールは覚えている限りで初めて、本気の嘘を言った。
「馬鹿なことを……死にませんよ。それくらいでは。」
 何でもないという口調に努めたつもりだったが、トゥーリは安心した風もなく目を閉じた。
(眠って。余計なことは考えない方がいい……)
 老ヤールは、トゥーリの髪を撫でた。
 トゥーリは寝息を立て始めた。苦しそうな息だった。眠っているのではなく朦朧としているのではないかと、老ヤールは肝を冷やした。
 彼は白い寝顔を見つめた。幼い頃から一心に、見守り育てて来た。主であると自らを律し接してきたが、内心はずっと孫息子のように思っていた。
 とうとう涙が溢れた。そして、ぽたりとトゥーリの頬に落ちた。
 はっとしたが、トゥーリは目を閉じたままだった。
(老いたりとはいえ、儂とて草原の戦士。シークの亡くなった時にしか泣いてはならない。)
 トゥーリに教えてきた言葉を思い出し、頬に落ちた涙をそっと拭った。
 彼は殊更厳しい顔を作り、前を見つめた。

 馬車が屋敷に着いたのは、夜更けだった。
 赤々と篝火が灯され、近習や小姓、下仕えの男女が、落ち着かない様子で玄関に待っていた。
 馬車の扉が開くなり殺到し、中の様子を覗き込んだ。誰もが絶句した。
 老ヤールは皆を押しのけ、馬車から下り
「退け、退け。お降ろしせねばならん。お前は手伝え。小姓は足許を照らしてくれ。女は湯を沸かして。」
と指示を出した。
 トゥーリはゆっくりと上体を起こした。身体が鉛を詰め込まれたように重く、頭がくらくらした。目を閉じぐらつく感覚が治まるのを待たねばならなかった。
 誰かに触られて目を開けると、助け起こそうとする近習が腕を取ろうとしていた。
 彼は近習の手を振り払った。
「自分で歩ける……」
 近習が中途半端な格好で身構える中、彼はよろつきながら馬車から降りた。ぐらりと膝が崩れ倒れかける彼を、近習が支えた。
「私が……」
「姫君のように抱き上げるとでも? いらぬわ。」
 彼は近習の手を再び払い除け、歩き出した。
 待機していた大食の医師も手助けしようとしたが、それも拒否した。
「お前は……ついて参れ。」
 彼は壁に縋り、部屋の方に歩き始めた。
 だが、すぐに息が上がり、苦しげな喘ぎになった。
 老ヤールは見ておられず、手を貸そうとした。
 彼は大きな息をつき、大声を出した。
「いらんと申した!」
 厳しい叱責に、誰もが手を出すこともできず、彼の大儀そうな歩みを見守るしかなかった。
 幼い小姓は目許を拭いながら、彼の側に従った。雇い女が泣いていた。
 荒い息遣いと、女のすすり泣きが響いた。吊った腕の袖口が赤く染まり、やがて歩く度に鮮血がぽたぽた落ちた。
(何を虚勢を張っておられるのやら。こんな時に……)
 老ヤールは、やはり手を貸そうと覗き込んだ。しかし、彼は黙って手を引っ込め、黙って後に従った。
 老ヤールに構っている余裕など、トゥーリにはなかった。ただ喘ぎ、緑の虹彩が狭まった真っ黒な目で前を睨みつけていた。

 寝室まで、長い時間をかけて歩き切った。もうそこまでが限界だった。トゥーリは寝台に仰向けに倒れ込んだ。その拍子に激痛が走り、彼は唸り声を挙げて身を縮めた。
 老ヤールは駆け寄った。身体をうつ伏せにし、傷の少ない右側の背中を擦り宥めた。
「じいと医師しかいません。もう虚勢を張る必要もありませんよ。」
 トゥーリは一瞥して目を閉じ、初めて泣き言を口にした。
「そうか……。ひどい痛みだ。……早く何とかしてくれ。」
 戸口に立ち待っていた医師がすっと間に入り、傷を検めた。
「深いですね。洗わなければ。」
 厨房から大量の湯が運び込まれた。破れた服が切り裂かれ、裸の腕と肩・背中に湯がかけられた。
 ひどく沁み、トゥーリは唸り声を挙げた。
 医師は遠慮なく湯をかけては、傷を洗った。それが終わると、また傷を観察して
「挫滅したところは切った方がいい。」
と淡々と言った。
 トゥーリは眉間に皺を寄せ、喘いでいるだけで応えない。
 医師は老ヤールに目配せをした。切る痛みに耐えかねて暴れた場合の為に、人を呼ぼうと思ったのだ。
 老ヤールは扉に手を掛けた。
 その気配を察したトゥーリは、気力を振り絞り
「誰も呼ぶな!」
と大声で止めた。
 老ヤールは眉根を寄せてトゥーリを見つめ、それから、医師に問いかけるような目を向けた。
 医師は老ヤールに手を振って止めた。
「痛いですよ?」
 念押しする医師を見やり、トゥーリは短く応えた。
「いい。」
 医師は静かに頷き、彼の口許に麻布を寄せた。
「では、これを噛んで。」

 トゥーリの痛みに少しも遠慮せず、余計なことも言わず。淡々と処置を進めるこの大食の医師の腕は確かだった。
 引きちぎられた肉や皮の断片をすぱすぱと切り取り、唸るのにもわれ関せずと仕事を進める。
 トゥーリは脂汗をかき、噛んだ麻布を更に食いちぎるような勢いで噛んでは、声を殺した。
 老ヤールは沢山の凄惨な戦場を見てきた。しかし、孫息子のようなトゥーリが悶絶する様子には堪えられず、部屋の隅で頭を抱えた。
 永遠とも思える時間だった。
 ようやく処置が終わった。
 医師が終わりを告げると、トゥーリは溜息をつき、小さく呟いた。
「自分の屋敷で、拷問を受けるとは思わなかった。」
「それだけ気の利いたことを言えるなら、大丈夫ですよ。」
 医師が笑いかけた。
 トゥーリはぐったりと目を閉じた。憎まれ口を言う余裕はもうなかった。再び朦朧としていた。
 老ヤールが歩み寄り
「傷は縫わないのか?」
と尋ねた。
「縫うとかえってよくないのです。しかし、熱が高くなるかもしれません……」
 医師は言葉を濁した。
 老ヤールは悄然と頷いた。
「傷は冷やした方が楽になる。膿まないようにまた洗います。」
 小姓と近習が入れられ、トゥーリに新しい寝衣を着せた。
 うつ伏せに眠る彼の寝台の側に、老ヤールが陣取った。医師は部屋の隅に静かに座った。
 青臭い薬草の匂いが漂っていた。

 その明け方から、トゥーリは高熱を出し始めた。
 雪の入った冷水がどんどん運び込まれ、身体が冷やされた。だが、一向に様子は変わらない。
 老ヤールが声をかけると目を開けるが、熱いと言ったり寒いと言ったり朦朧としている。
「悪い風が入ったのだろうか?」
「おそらく、狼から……。さほど悪い風でなければよいのですが。」
「方策はないのか?」
「傷は洗って、ノコギリソウとヘンルーダ、カモミールを湿布しました。熱は……柳の煎じ薬を飲めればいいのですが……」
 薬を飲み下すなど無理な相談である。何とも頼りない答えだった。
 大食の進んだ医術を身につけた医師でさえも、これ以上はなす術がないのだ。

 高熱を発したまま時が経った。トゥーリは話すどころか目も開けず、息遣いも荒くぐったりと眠っているばかりだ。
 都のあちこちで、彼の病状が噂されるようになった。
「シークはもう、明日をも知れぬご様子だとか。」
「ご危篤。話もできんそうだな。何とかご快復されればいいがねえ。」
 心配する者のいる一方で、宮廷から漏れ聞こえてきた話を知っている者が
「あれは、シークのあれは、フレイヤさまの前の祭司長の呪いではないか?」
と言い出した。
「何だ、それ? 詳しく話せよ。」
「滅多なことは言えないがな……」
 その男はにやにや笑いながら、故郷に去った祭司長の呪いの言葉を披露した。
 その台詞に枝葉が付き始め、嘲笑う者も出た。
「毎晩違う女を寝台に寝かせた罰だ。」
「公女さまをお助けになったのだから、必ず神さまはお助けになる。」
と反論する者もあり
「その公女さまに手をつけた罰だ。」
と更に反論する者もあった。
 死ぬのだと決めつけている者もあった。
「麗人は薄命だって言うけれど、本当なんだね!」
 やがては、皆が思っても言い出せないことを、声高に言い出す者も現れた。
「独身の子なしのシークが死んだら、後はどうなるのだ?」
「弟君が二人もいるじゃないか。上の弟君がシークになるんじゃないか?」
 屋敷の周りをうろついては中の様子を窺う者も出て、その度に衛士が追い散らした。

 ある日、比べ馬の時に一緒にいた近習が町外に出ると、貧民の子供が三人駆け寄って来た。
 少女と男の子と幼女だった。兄と妹なのか、男の子の方は鼻水を垂らした幼い女の子の手を引いている。
「お前たち……?」
「ああ、やっと会えた。大人は無理だからさ、子供ならお目こぼしされるかなって……」
 貧民は閉ざされた上町には近寄ることすらできないのだ。子供も入れてはもらえなかったが、町門の外なら追われなかったということだった。
「俺たち、羊を食って、後はシークの仰せ通りに売ったよ。小屋も建ったし、ちゃんと先生も来た。」
 全員相変わらずぼろを纏っていたが、靴を履いていた。
「信じちゃいない奴もいたけど、今じゃ大人も子供も感謝しているんだ。シークはどうなんだい?」
 子供たちは心配そうに、近習の答えを待った。安心させる容態ではない。彼は難しい顔で黙り込んだ。
 重苦しく顔を見合わせたが、幼い女の子が
「シークにお花。滴草。咲いていたの。雪の中に。」
としおれかけた花を手渡した。
「町方はいろいろ嫌なことを言うけれど、俺らは全然信じちゃいねえよ。」
「母ちゃんが言っていた。好き合った男と女が寝るのは、当たり前なことだって。あたしらもシークやお城の姫さまみたいな偉い人も同じだってさ。」
 そして、三人は屋敷の方に手を合わせた。
「尊きシークにご挨拶申し上げます。」
 それは、ラザックやラディーンのする挨拶の文句だった。
 近習は胸が詰まって何も言えず、涙を堪えて子供たちと同じように手を合わせた。

 それから数日経った。トゥーリの熱がやっと下がり始めた。
 皆は一息ついたが、どうしても食が進まない。粥を極々緩くしても、喉を通らない。医師は上澄みでもと勧めるが、少ししか飲めない。
 げっそりとやつれているのが、更にやつれていく。寝台の上にうつ伏せのまま、眠ったり起きたりを繰り返しているだけだ。
 一旦安堵しただけに、老ヤールの苦悩はより深くなった。
(精をつけねば、また悪い風に負けてしまう。)
 彼は厨房と相談を繰り返し様々工夫をしてみたが、変わらなかった。
 食事をさせる度に老ヤールの表情は浮かないものになり、彼自身もやつれてきた。
 そんな時に、ラディーンのヤールが上京してきた。親子の馬を連れていた。
「都へ入るのに苦労した。悪評が独り歩きしておるようですわ。馬賊だなどと、阿呆なことを言われましたよ。」
 老ヤールはすっかり無口になっていた。
「そうか。」
としか言わない。
 その憔悴し切った表情を見て、ラディーンのヤールは声を顰めた。
「シークのご容態は芳しくないようですな。その調子では。」
「食が進まんのだ。弱っていらっしゃるのに。」
 老ヤールは、深いため息をついた。
「そうだと思った。乳の出る馬を連れてきました。精といえば、馬の乳ですからな。召し上がってもらいましょう。」
 ラディーンのヤールは誇らしそうに、自分の思い付きを勧める。しかし、老ヤールは粥も啜れないのに、馬の乳など飲めるはずもないと苛立った。
「そんなもの……召し上がれるはずがなかろう!」
 声を荒げても、ラディーンのヤールは気にもせず、嬉々として自らで馬の乳を搾り取った。
 老ヤールは、気楽なことだと嘆息した。
 ラディーンのヤールが、盃に入れた馬の乳をトゥーリに差し出した。
「生臭い。」
 手に取ることもなく、そっぽを向く。
 それ見たことかと、老ヤールは叱りつけようとした。
 ラディーンのヤールは身を乗り出し、遠慮ない大声を出した。
「恐ろしくやつれましたよ!」
「ラディーンの!」
「まあまあ……。ご老体は少し気を落ち着けて。」
 ラディーンのヤールは落ち着いたもので、寝台に腰かけて
「トゥーリさま、馬の乳ですから生臭いのは当たり前。薔薇の香りの乳など、子馬がそっぽを向きますわ。懐かしいでしょ? 生臭い馬の乳。疲れたときと一戦頑張るときは、これですよ。」
と言い、トゥーリに盃を突きつけた。
 彼は盃を受け取り一気に飲み干し、舌を出した。
「まずい!」
 それだけ言い、またうつ伏せになった。
「まだありますからね。母馬と仔馬を連れてきたのです。好きなだけ飲める。乳搾り、こう見えて得意なんですよ! 悪さの罰に、親父殿にようさせられましたからな。」
 ラディーンのヤールは鼻歌まじりに去った。乳搾りをするつもりなのだろう。
 老ヤールは呆れたが、その一方で
(あれくらい気楽に構えていた方がいいのかもしれぬ。)
とも思った。

 乳から粥、羹と食が進むようになると、トゥーリの体調はみるみる回復した。
 二十代の身体が、病にうち勝ったのだ。


註   ノコギリソウ・ヘンルーダ・カモミール:鎮痛・殺菌作用があるそうです。
    柳の煎じ薬:柳の樹皮にアスピリンの成分が含まれる。
  Copyright(C)  2015 緒方しょうこ. All rights reserved.