8

 激しく吹き荒んだ雪は、明け方には落ち着いていた。ちらちらと静かな雪が舞っているのみだ。
 二人は、心身から湧き溢れる情熱に我を忘れなかったことを、正しかったのだと己に言い聞かせた。だが、その正しさは何処か寂しいとも思った。
 小屋を出たらそこにいるのは、婚約者のいる公女とその父の臣下だ。
 二人とも俯きがちで身支度を整えた。
 最早、去らねばならない。だが、トゥーリは扉の前で足を止めた。
 遠い関係になる前に、何か言いたかった。これが最後だ。未練はある。だからこそ、彼女にも自らにも断ち切る言葉が必要だと思った。
 彼は身を返し、アデレードと向き合った。
「神が……風の神が雪を呼んで、俺に最高にすばらしい一夜を贈ってくれた。お前も……後ろめたいことはしていない。前を向くことができるだろう。」
 彼女は目を伏せ、それから彼に笑いかけた。
「フレイヤの女神も、テュールの神も、私の願いを聞いてはくれなかったわ。私にあなたを贈ってくれたのは、草原の風の神さまだけね。これから私は、事あるごとに風の神さまに祈るわ。あなたと同じように。」
「そうか。お前にいつも、いい風が吹くように。」
 それは、草原の者が別れの際に告げる言葉だった。
 彼女は知らなかったが、知らないなりに意味を察した。目の奥が熱くなったが何とか堪えた。
「あなたにも。」
 同じ神への信仰を、密かな繋がりとして尊んでいこうとと思った。

 外はまだ薄暗い。雪雲の間から、沈みゆく星が最後の光を投げかけていた。
「あっちの……南の明るい星。狩人の連れる猟犬の目。あれをセリカでは天狼というそうだ。あれと逆の方向へ走れば、狩猟館がある。」
 アデレードは、トゥーリが指し示す星を見つめた。
「あの星の方角に、沢山沢山走れば、あなたのラザックシュタールがあるのかしら?」
 彼はすぐに応えられなかった。言葉に滲んだ彼女の叶わぬ願いが、彼を苦しめた。
 彼の瞳に切ない色が浮かんだ。目はいつも、どんなに隠したい本心でも語るのだ。
(ラザックシュタールを一緒に見たい。)
(ラザックシュタールに連れて帰りたい。)
 二人共にその言葉が喉まで出かかった。
 彼女がすっと視線を逸らした。彼は彼女の髪をくしゃっと撫でた。
「そうだな……。でも、今日は逆の方向にね。」
「ええ。」
「馬に乗るか? 歩くか?」
 狩猟館に帰れば、日常が戻ってくる。少しでもその中に帰るのを遅らせたい。
「歩くわ。」
 トゥーリが馬を引く後を、アデレードがとぼとぼ歩く。
 森の小道には踝ほどの積雪があった。木々には雪が載り、枝をたわませている。頭を低めなければいけない場所もあったが、歩きにくいほどではない。二人は黙って森の出口に向かった。
 手を伸ばせば彼の背中に届くだろう。振り返れば彼女を抱き締められるだろう。抑えがたいその気持ちは、しかしながら、絶対に抑えなくてはならないものである。

 きゅっきゅっと、雪を踏みしめる音だけがあった。
 突然、がちりと嫌な音がした。それと同じに、彼女の悲鳴が挙がった。
 驚いて振り向くと、彼女は蹲り片脚を両手で抑えて唸っている。
 彼女の衣装の裾を上げて、彼は驚愕した。大きな虎挟みが、彼女の足に喰いついている。靴皮を容易く貫いた鉄の歯は肉に食い込み、血液が雪を赤く染めた。
 彼は長剣を蝶番に突き立てて、叩き壊した。
 靴を脱がせ足を確かめると、思いの外深く傷ついていた。
 彼女は目を見張りがたがた震えて、彼を見上げた。
 彼は彼女を抱き寄せ、背中を撫でた。
「大丈夫。すぐに館に戻れる。手当をしてもらおう。」
 上手く、落ち着いた様子で言えたのか自信はなかった。彼女は震えたまま、黙って頷いた。
 彼は彼女を鞍に上げ、馬を引いてそこから早足に立ち去った。
 彼の焦りは怪我のことだけではなかった。罠がある意味に彼は気づいていた。あれは狼の為に仕掛けられた罠だ。ここは狼の出る場所なのだ。
(昨日の狩り。沢山の獲物の血が流れた……)
 腹を減らした狼を刺激するには充分だ。彼は予感が当たらないことを祈った。

 木々から雪がざっと落ちた。さくさくと雪を踏む軽い音がした。
 馬は落ち着きなく耳を動かしている。
(狐か? いや、群れている。狼が近寄ってきたか……?)
 トゥーリは益々足を速めた。胸が早鐘を打つようだ。アデレードは青い顔をして痛みと闘っている。
 彼は剣の柄を握り締めた。
(ここでは走らせられん。早く出なければ……)
 森の出口が見えてきた。しかしついに、薮から狼が跳び掛かってきた。
(来た!)
 彼は握っていた長剣を鞘走らせ、一刀のうちに斬り伏せた。彼女の悲鳴が響き渡った。次々に狼が跳び出してくる。十頭ほどの群れだった。
「行け!」
 彼は馬の尻を強く叩いた。嘶きがひとつ。馬が一気に走り出した。
 彼女は馬の首にしがみつき、振り返っては彼の名前を呼んだ。
 馬は確かに狩猟館の方向に走っている。彼は彼女の声と駆け去る足音からそう判断し、狼を相手に長剣を振りまわした。
(“流星”……その名の通りの働きをせよ。流れる星のように疾く駆けろ。)
 その肩口に狼が喰いついた。
 疾走する馬の上で、彼女は振り向き振り向き叫んだ。
 だが彼には、何と言っているのか、もう聞こえていなかった。

 狩猟館の前には、武装した男たちが集まっていた。テュールセンの公爵が彼らと、公女の捜索の手順を確認している。
 リュイスに付き添われたヴィクトアールが、青い顔で当時の状況を説明していた。
 彼らと同じく、老ヤールとトゥーリの近習も今まさに自らの主の捜索に出ようとしていた。
 そこへ、雪煙を上げながら疾走する馬が飛び込んできた。人々は驚き慌て、辛うじて馬を避けた。
 馬は建物のすぐ側まで走り抜けた。近習が慌てて駆け寄った。
 まだ興奮している馬は近習の手を嫌い、乗り手を振り回しながら、ぐるりと輪に歩いた。びっしょりと汗をかき、血走った目を大きく開き、荒い息を吐いている。ようやく止まっても、足を踏み鳴らしていた。
 乗り手は、白っぽい毛皮を纏った小柄な人物だ。金色の長い髪が上体を覆っている。しかし、馬の首に伏せたまま微動だにしない。
 人々は固唾を飲んで見つめた。
 轡を取った近習が
「公女さま!」
と乗り手の身体を揺さぶった。
「大事ございましょうか!」
 彼女はゆっくり上体を上げた。
 皆が殺到した。口々に問いかけたが、彼女は馬上でぼんやりしているばかりだ。
 ヴィクトアールが泣きながら、手綱を握り締めた彼女の手を撫でた。
「アデレードさま……」
 老ヤールが、裸足の右足から血が流れているのに気づいた。
「お怪我をなさっている!」
 彼は狩猟館の玄関へ向けて人を呼んだ。
 わらわらと大勢が出てきた。怪我をしていると、人々は大声で後の者に伝え伝えしている。辺りは騒然とした。
 大公も公妃も取り乱し、リュイスと近習が彼女を馬から下ろす間にも取り縋った。
 老ヤールは群がる人々を押しやり、すぐ側まで強引に近寄った。
「それで、シークは?」
 彼女は、張り裂けそうな目で彼を見つめた。唇が震えていた。
 彼は大声を出した。
「トゥーリさまは、どうなったのです!」
 皆は動きを止め、黙って彼女に注目した。
 彼女はぽろぽろと涙を流し
「トゥーリは……森の広場で……」
と言葉を詰まらせた。
 老ヤールは強い調子で先を促した。
「広場で?」
「狼の群れが襲って来たの。トゥーリは、私を馬に乗せて走らせた……」
 老ヤールと近習は青ざめた。
「私が見た最後は、トゥーリの肩に狼が次々に飛びついていたところなの……。早く行って! トゥーリが……トゥーリが死んでしまう!」
 その言葉が終わるやいなや、二人のラザックは馬に飛び乗り、駆け去った。
「犬を連れて行くといい!」
 テュールセンの公爵が二人の後ろ姿に叫び、猟犬を数頭離した。犬たちは騒がしく吠えながら駆け出し、すぐに二人に追いついた。
 老ヤールがちらりと振り返り、軽く頭を下げた。

 皆は心配そうに、二人のラザックの後ろ姿を見送った。
 ヴィクトアールに介添えされたアデレードが、よろよろと館へ歩み始めた。人々がそれに従う。
 館の扉前には、王子が立っていた。人々は初めて彼に気づいた。
 彼には心配していた様子も、安堵している様子もない。それどころか、目は冷たく責めるようだった。
「あの馬は、イ=レーシの馬ではありませんか。姫は昨夜、イ=レーシといたのですね?」
 誰も気に留めていなかったことだった。皆ははっとして、彼女を見つめた。
 彼女は静かに王子を見据えた。
 その沈黙から、皆は答えを悟った。
 ヴィクトアールは彼女の肩を抱きしめ、王子を鋭く睨んだ。
「そんなことを言える立場ですか? 探しにも行かなかったくせに!」
 彼はちらりとだけヴィクトアールを見たが、気に留める風情もない。じっとアデレードの表情を見つめ、間を置いて
「イ=レーシとね。」
と独り言ちた。
 ヴィクトアールは眦を決した。
 大公は苛立ち
「ヴィクトアール、争う場合ではない! 早く中へ。」
と急かした。
 彼女は舌打ちし、王子の肩を乱暴に押し退け中へ入った。
 騒ぎは、アデレードの部屋の前に移った。
「湯を沸かせ!」
「医者を呼べ!」
 従者や厨士が慌てふためいて走り回っている。
 ヴィクトアールはそれとは逆の玄関へ向かった。そして、森へと走り去った。

 森の広場では、先着していた猟犬が一塊になって静かに佇んでいる。
 二人のラザックはそれを見て、馬を止めた。
 踏み荒らされた雪が、ところどころ血液に染まっている。
 四頭の狼が死んでいたが、猟犬は見向きもしない。
 二人はごくりと唾を呑み込んだ。下馬して近づき、猟犬を脇へ下がらせた。
 覚悟はしていたが、二人とも息を詰めた。
 そこには、血に濡れた剣を握ったトゥーリが、うつ伏せに倒れていた。
 雪の上にほどけた長い黒髪が広がり、左の肩口からの夥しい出血が雪を赤黒く染めている。血の気の引いた白い顔に、返り血が点々と散っていた。
 その背中は既に、うっすらと雪に覆われている。それでもまだ、静かに舞い降りる粉雪が白く埋めていく。
 凄惨でいて、何か壮絶な美しさが、見ている者から言葉を奪っていた。
 老ヤールはこれに似た光景を思い出していた。あの時、うつ伏せに倒れていたローラント。天候も場所さえも違うのに、錯覚していた。
 近習が沈黙を破った。
「ヤール……」
 立ち尽くしていた老ヤールは我に返って跪き、トゥーリの顔に垂れた髪をかき上げた。
 トゥーリの瞼が震え、うっすらと目が開いた。
「生きて……生きておられる。」
「おお、神さま!」
 近習はそう言って溜息をつき、地面に突っ伏した。
 トゥーリは老ヤールを認め
「じいか……。アデレードは?」
と尋ねた。
「公女さまは、館に戻られましたよ。流星がお連れした。」
 彼は安堵し、軽く微笑んだ。そして
「そうか、よかった。……疲れた……。雪が気持ちいい。」
と言って、大儀そうに目を閉じた。
 老ヤールは彼を抱え起こした。鮮血がぽたぽたと雪の上に落ちた。二人は注意深く、服の破れた部分を広げた。
 近習が鞍袋から麻布を取り出して、傷口に当てた。
 血液を拭い拭いすると、数え切れないくらいの鋭い歯型や爪の痕が現れた。深く肉を抉られた傷が幾つか、ぱっくりと口を開けていた。そこから血液がだらだらと流れる。
 老ヤールは気を落ち着け、麻布を細く引き裂き、一番大きな左肩の傷を強く縛った。
 近習は落ちていた毛皮を拾った。濡れて滲みていた。彼は自分の毛皮を脱いで、主を包んだ。
「これしきの傷で情けない……。草原の狼ならもっと凄まじいですよ。」
「うん。」
 そう応えたきりだった。話をする元気もないようだった。

 トゥーリが二人に抱えられ、近習の馬に載せられた時だ。リュイスとヴィクトアールが駆けつけた。
「生きていたか?」
 兄妹が叫んで駆け寄り、毛皮に包まれた彼を覗き込んだ。ひどく白い顔で、きつく目を閉じている。
 リュイスは眉を寄せ、ヴィクトアールは目を逸らした。
「怪我を?」
 リュイスの問いに、老ヤールは厳しい顔で低く答えた。
「怪我もですが……血が流れました。それに身体も冷えている。」
 ヴィクトアールが膝から崩れ落ち、顔を覆ってわっと泣き出した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。私の所為で……」
「ヴィクトアールさまの所為ではありません。」
 老ヤールが優しく宥めた。
 リュイスは、トゥーリの倒れていた辺りを見やったが、直ぐ顔を背けた。
「愛する女と過ごす一夜の代償がこれとは……」
 彼がぽつりと呟くと、馬上から
「妄想が過ぎるぞ。お前の想像しているようなことはない。」
と応えが返ってきた。小さく掠れていたが、はっきりしていた。
 リュイスは驚いて、再び覗きこんだ。
 緑色の瞳がきらりと光り、彼を睨んだ。
「そうか、残念だったな。次の機会までしぶとく生き延びろ。」
 リュイスは軽口を言って笑いかけた。
「うん。」
 トゥーリは言い返すどころか、もう話ができなかった。近習の背中にもたれ掛かって、がたがた震えるだけだった。
 老ヤールが麻布で、近習の背中に彼を結びつけた。
 リュイスが心許ないだろうと、その上から麻縄を巻きつけた。

 リュイスは騎乗し並走し始めた。
 ヴィクトアールは野原に立ち尽くして、トゥーリの倒れていた場所を見下ろしていた。
「ヴィクトアール! 何をしている? 行くぞ!」
 彼女は身震いを一つして、放心した様子で兄を眺めた。
 彼は妹の側に戻り、馬上からその肩に腕を伸ばした。
 兄に触れられて彼女はようやく我に返り、慌てて馬に乗った。
 さめざめと泣いている妹に、兄は声も掛けられなかった。




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