7

 アデレードの姿は未だ見いだせない。猪の飛び込んだ森の広場に至ったが、猛烈な雪が渦を巻いており、立ち入ることさえも躊躇われた。
 名を呼ぶ大声は、風に吹き消された。
 二人は森の際に沿って馬を進ませようと試みたが、馬の動きは悪かった。松明が徐々に雪に湿ってきた。じりりと蒸気を出し、炎が幾分小さくなり始めていた。
 馬の吐く息と身体から上がる蒸気が白く流れていく。馬は睫毛を凍らせ、頻りに瞬きをしていた。
 トゥーリは下馬し、馬の身体に付着した雪を払った。それも気休めに過ぎず、毛はみるみる白く埋もれていく。
 遠い雷鳴が断続的に轟いた。その度に、馬は目を向いて耳を忙しなく動かし、鼻を鳴らす。怖れ、余裕が無くなり始めているのだ。
 彼は馬の風上に立ち宥めながら、周りに目を凝らした。森の中は闇に沈み窺えない。広場を向けば忽ちに、大粒の雪が目に飛び込んでくる。広場の先の森を望むことすら困難だ。
 近習も目を細め、何度も目許を拭って見渡していたが、申し訳なさそうな顔を主に向けた。
「この雪です。森番の小屋にお入りになったのではありませんか? これ以上探すのは、我々も危ない。」
 近習の言う通りだ。
 しかし、トゥーリは絶対に譲れなかった。
 彼には思うところがあった。リースルのことである。一夜のうちに彼女の運命はがらりと変わった。
 この一夜を逃せばあの時と同じに、悔いても悔い足りないことが起こるような気がした。
 ただ、近習にはこれ以上危険を強いることはできない。
「お前は戻れ。」
「えっ! シークもお戻りにならねば。」
「いいから、戻れ!」
 そう言うなり、彼は馬の腹を蹴った。向こうの森に駆けて行く姿は、直ぐに吹雪に紛れた。
 近習はトゥーリの去った先を睨み、空を見上げた。
「風の神さま……この雪雲を吹き払い、どうか……我々のシークを無事帰し給え。」
 そう呟くと、馬を返した。

 トゥーリは森の入り口で下馬し、アデレードの名前を呼んだ。応えは無い。中に目を凝らした。何も無い。
 馬を引き、森の奥へ足を踏み入れた。
 鬱蒼とした森の木々に雪と風が遮られ、目が利くようになった。だが、闇は濃い。消えかかった心許ない松明だけが頼りだ。
 木々の枝を揺らす雪風が、叫び声のようだ。彼女が助けを求めている声に聞こえ、彼は何度も立ち止まっては耳を澄ませた。
 何度目か名前を呼んだ後、微かに人の声らしきものが聞こえた。彼は風の音か幻聴を疑い、もう一度大声で呼んだ。今度は確かに、彼の名前を呼ぶ声がした。
 彼は聞こえる方向を探った。
 呼びかけ、応える声を頼りに歩いた。
 すると、闇の中にぼんやりと白い塊が見えた。彼は手綱を放し、駆け寄った。
 大きな木の下に、彼女が膝を抱えて蹲っていた。激しく震えている。サーディフはいなかった。
 彼が前に立つと、彼女はやっと顔を上げた。
 彼女は呼びかける声が本物だったのだと驚き、目を丸くして彼を見上げた。
 彼は深い溜息をついた。
 それを聞いて彼女は妙に安堵した。途端に、ぽろぽろ涙が流れた。
 彼女はぱっと彼に抱き付いた。
「サーディフが……サーディフが逃げてしまったの。」
 彼女の髪は乱れ、小枝や木の葉が沢山絡みついていた。顔にも小傷がある。動転した馬が、森の中を疾走したからだろう。
 咄嗟に出た彼の言葉は意地悪だった。
「で? お前は落馬か?」
 彼女は言い返す気にもならず
「ええ。腰が痛くて歩けない。寒い。」
と泣いた。
 彼女は子供の頃のように、彼の胸で泣きじゃくった。彼はくらくらする思いがしたが、肩をそっと押して離した。
「俺の馬に乗れ。……お前、腰を傷めたんだったな。仕方ない……」
 彼は彼女を抱え上げ、鞍に乗せた。

 トゥーリは、アデレードを乗せた馬を引き、森の外へ出た。
 広場は猛烈な地吹雪だった。どこまでが広場で、どこからが向こうの森なのかもわからない。真っ白な闇が広がっていた。
「これでは進めない。進んでも、迷うだけだ。戻って、森番の小屋を探そう。」
 彼女にも反対する理由もない。ただ頷いた。
 彼は再び森の中へ馬を引き入れた。彼女の激しい不安感が伝わってくる。元気づけようと、出来のよくない冗談を口にした。
「落馬のシークが、落馬の公女を引くよ。」
 馬上の彼女は軽く笑った。上手く笑ったつもりでいたが、彼には無理に明るく振る舞おうとしていると悟られていた。
 他愛もない冗談は長続きせず、番小屋もなかなか見つからない。
(このまま二人で迷って、雪に埋もれてしまうのだろうか?)
 口には出さなかったが、二人共に思った。すると、焦る気持ちがすっと消えた。
(それでもいい……)
 不思議な陶酔感があった。
 しかし、彼だけはその思いを振り捨てた。連れて帰らねばならない。
 二人は森の中を歩き回って、やっと小さな番小屋を見つけた。

 その小屋の中はがらんとしていた。積まれた干し藁と薪が少しあるだけだ。猟場の下見には使わなかったようだった。
 トゥーリは、馬とアデレードを中に入れた。そして、干し藁をならして、彼女を座らせた。
 火を入れると、お互いの顔がよく見えるようになった。
 彼女はしきりに寒がり、震えている。
「もっと火の側で温まれ。」
 彼女はもぞもぞと靴を脱ぎ、靴下を脱ごうとして手を止めた。
 彼女が目許を赤くしているのを見て、彼は後ろを向いた。
 靴下を脱ぐ音がやけに大きく聞こえた。
 彼女は片方を脱ぎ、もう片方を脱いで、あっと声を挙げた。
「トゥーリ……足が……」
 足の指が赤紫色に変色していたのだ。
 彼はおずおずと指に触れた。
「……触られているのがわからないわ……」
 不安そうな彼女に、彼は何でもないという調子で答えた。
「これか。濡れた靴で長い間雪の中にいたからだよ。温めれば治る。」
 しかし、鍋すらなく、湯で温めることはできない。
 彼は足許に跪いた。そして、足をそっと両手に包み込み、服の合間から裸の胸に抱き込んで蹲った。
 彼女は忽ちに赤面した。拒まなければとは思ったが、彼の肌の温かみから逃れられなかった。
 どれくらいそうしていたのだろう、随分長くに感じられた。
 彼女は指先の感覚が蘇り始めたのを感じた。じんじんした痛痒さがある。
 耐え難くて、もぞもぞ指を動かすと、彼が顔を上げた。
「ちりちりするんだろう?」
「うん。」
 彼は彼女の足を確かめながら、安心させようと自らの経験を話した。
「冬の戦場では、こういう風になることがあるんだよ。酷くなると、足の指が腐り落ちるそうだ。ちりちりしてきたなら、大丈夫。」
 彼女は、彼が戦場に行っていたことを、初めて実感した。こんな足の痛みくらいでは、計り知れぬ辛い思いをしてきたのだろうと思うと、涙が出た。
 彼は視線を上げ
「何故泣く? お前、本当によく泣く女だな!」
と怒ったように言って、再び足に目を落とした。
 彼女は涙を拭い、彼が指に触るのを見つめた。
 視線に気づいた彼が、顔を上げた。しかし、目が合った途端にぱっと目を逸らした。
 彼女はどうしたわけか、嬉しくなった。
「赤くなってきた。後は火に向けて温めろ。いきなり近くで温めてはならんぞ。離れたところから徐々に。」
 彼は足を放すと立ち上がり、向こうの壁際に離れた。そして、毛皮の水滴を払ってみたり、靴を乾かしたり、忙しなく立ち歩いている。何やら落ち着かない様子に見えた。
 彼女は、彼が照れくさいのだと確信した。
 足のことは忘れたように、彼女を構いもしない。足は本当に心配要らないのだと解ったが、絶対に見もしないのが可笑しかった。
 彼女が笑うと、彼は振り返って見たが、慌てて背を向けた。
 それも可笑しくて、彼女は子供のようにけらけら笑った。
 彼は目許に熱が上がったのを感じた。だが、ぼんやりした灯りの中では見えるはずもないだろうと、ぶっきらぼうに
「濡れたものを着ていると温まらんぞ。見たりしないから脱いで……羽織っていろよ。」
と言って、自分の狼の毛皮を投げた。
 服を脱ぐのは躊躇いを感じたが、彼女は言われた通りにした。包まった毛皮から、微かに薫衣草の香りがした。彼女もまた、彼と同じように目許を赤くしていた。
 彼はこっそり彼女を見やった。小柄な彼女の身体は、自分の大きな毛皮に爪先まで包まれている。胸の底が騒いだ。

 狭い小屋の温まるのが早いだけなのか、自分たちの熱が寒さを感じなくしているのか。
 立てつけの悪い扉がばたばた鳴ったが、寒すぎるということはなかった。
 トゥーリは藁束を伸ばして、その上に鞍敷きを敷いた。
「今日は帰れない。お前、ここに寝ろ。贅沢は無しだって、解るだろう?」
 やはり乱暴な物言いだったが、アデレードにはそれが嬉しかった。
「トゥーリは?」
「俺?」
 そんなことまで、思いもよらなかったという様子だ。実際、彼にはそこまで考えている余裕はなかった。
「俺は……火の番をしないと。火の側で起きているよ。」
 彼女は失笑した。
 彼は怒ったような顔をして、そっぽを向いた。
 俄か作りの藁束の寝台はあまり寝心地が良くなかった。彼女は狼の毛皮の間に挟まる格好で横たわった。
 彼は火を眺めたまま、黙って座っていた。彼女の動きを気にしないでいようと思うのに、藁の寝床は微かな動きも彼に教える。
 彼女も同じことだった。背中を向けても、彼が気になって仕方がない。気配を窺うより、あっさり眺めた方が気が楽だと彼の方を向いた。
 火に照らされた横顔は、彼女に向くことがなかった。
 濡れた黒い髪が重たげな艶を放っている。彼の微かな動きの度に、天狼の耳飾りが揺れて煌めいた。彼女の胸は高鳴った。
 彼が立ち上がった。彼女はどきりとして、毛皮をそっと引き上げた。
 彼は向こうに吊られた毛皮の乾き具合を確かめた。そして、毛皮を抱え彼女の側に寄った。
 寝ていると思い込んでいた彼女が、彼を見上げていた。
 彼は少し驚いた顔をして、毛皮を掛けようとした中途半端な格好で動きを止めた。

 アデレードは狼の毛皮を胸に抱えて、起き上がった。
「トゥーリ、寒い。」
 自然と言葉が出せた。
「濡れたものを着ていたからだよ。」
 意図した以上の静かな応えが返せた。
 やがて、毛皮が手から滑り落ちたのが合図だというように、彼は毛皮ごと彼女を抱きしめた。
「アデル……」
 小さく呟き、口づけた。
 彼女は彼の首に腕を回して抱き締めた。
 二人は額を合わせて、切ない溜息をついた。
 彼が藁束に片膝を上げると、彼女は黙って身を奥にずらせた。
 二人は狭い藁の寝台に横たわった。
 彼女は、彼の胸に頭を当てた。
「日向の野原みたいな匂い。」
 その声は思いの外甘えた調子に聞こえた。彼女自身がどぎまぎした。
 彼は必死に己を宥めた。
「そう。」
 素っ気ない応えだったが、彼の内心を彼女は胸の音で悟った。
「きっと……きっと、私のシークが助けに来てくれると思ったの。英雄のように。」
「……英雄の第一声が、“落馬したか”ではなあ。」
 彼は苦笑した。彼女もくすくす笑った。
「トゥーリらしいわ。」
 じゃれつき抱き合った。二人とも、この時間が永遠に続くことを願った。

 少ない薪があらかた燃え尽きた。ちろちろした熾火が闇に沈んでいく。
 二人は黙って見つめ合った。そして、また口づけを交わし、抱き締め合った。
 かさりと灰の崩れる音がした。
「ずっと……こうしたかった。」
 トゥーリの瞳の底に、欲望が揺らめいていた。アデレードは彼の胸に顔を埋めた。
 彼はそのまま胸に抱き込んだが、ひどく切ない表情で彼女を押しのけた。
 “婚約”。
 絶対に口に出したくないが、厳然と二人の間に横たわっている言葉。こうして自然なままに結ばれることは出来ない。
 彼は片腕に彼女を抱いたまま手を伸ばして、古い馬上刀を引き寄せた。
 そして、抜き身を枕元に突き立てた。
「剣が見ている。お前の貞操を。」
 彼はそれだけ言い、彼女から少しだけ身を離した。
「ええ……」
 矢車菊のような青い瞳が潤んでいた。
 その剣、“ジークルーン”と銘された“金髪のアナトゥール”の佩刀が、二人を引き裂く婚約という事実となって突き立っている。
「正しい行いをせねば、この剣は俺の胸を刺し貫くだろう。正しい行いをすれば、女神・ジークルーンは俺をいつまでも守るだろう。」
 二人は仰向けに並んで横たわり、改めて己の愛について考えた。
 アデレードは、この剣が見ているものは、彼に別れを告げた臆病な自分だと思った。正直な気持ちを偽った、罰のような婚約の象徴だと思えた。
 トゥーリは、彼女を真剣に愛するのならば何も無いままでいなければならないと、剣が警告しているようだと思った。

“罰を受けてもいい。首を刎ねられてもいい。この一瞬を恋人として過ごせるのなら。”
 そう言えたらと、二人とも熱望した。
 しかし、正しさを求める剣の鋭く厳しい光の前には、言い出せなかった。
 剣に怒りが浮かぶのが怖い。
「……愛している、アデレード。」
「愛しているわ、アナトゥール。」
 そう言うのが精一杯だった。
 だが、そう言い合うのが一番罪深いと思った。

 それを罪だというのならば、身も心も罪に堕ちて行きたいと思った。
 そう思いながらも、二人がその夜結ばれることはなかった。



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