6

 冬の陽射しは弱々しく、空気はきんと冷えていた。既に何度か雪が降っているが、木陰にうっすらと雪が残るくらいである。
 大公の猟場はまだ暗いうちから賑わしかった。鷹狩りの会に使用されるのだ。
 ここは都からも近く、獣の多い良い猟場として知られている。点々ある森と森の間には草地の小丘や空き地があり、起伏に富んだ地形だった。
 一番広い空き地に、幾つかの天幕が張られている。
 勢子と森番は地形図を前に、相談に余念がない。今日の行事は絶対に失敗できないのだ。
 やがて、角笛が聞こえ始めた。猟犬が主に先んじて駆けてくる。それから、諸侯がそれぞれ立派な鳥を腕に据えて現れた。
 ロングホーンの貴族の鳥は多くが軽量の隼であり、幼鳥のころに巣から捕えて、鷹匠が育てたものだ。皆、抱えの鷹匠を連れていた。
 トゥーリの鳥は草原の大鷹だ。彼は鷹匠は伴わず、鳥に詳しい近習だけを連れていた。使い始めて三年経つ鳥とは、お互いにすっかり慣れていたからだ。
 だが、この大鷹は野生に返す時が迫っていた。最後の仕事がこの集まりであることが、彼には象徴的に思えた。
 はやる猟犬の鳴き声に刺激されて、隼が盛んに鳴いた。対照的に、大鷹はうっそりと黙っている。
 大公と王子、それにアデレードが現れた。諸侯はにこやかに挨拶をしている。トゥーリもそれに倣った。
 王子が鷹匠から隼を受け取り、アデレードの腕に渡した。恐る恐る鳥を扱う彼女に、横から鷹匠が指南をする。王子はその様子を微笑みを浮かべて眺めていた。
(俺なら、自分で教えるのに……)
 彼は咄嗟にそう思ったが、すぐに頭から振り払った。
 年配の者は参加はするが実際の狩りはしないらしく、天幕で早くも葡萄酒を手に談笑している。
 大公も、鳥は連れていたが止まり木に渡し、天幕の下に座った。宮宰がにこやかに開始の許可を求めている。
 角笛が鳴らされた。
 勢子が広がり、猟犬が放たれた。狩りが始まった。
 さっそく、薮から兎が飛び出した。
「ほら、姫君! 鳥をどうぞ。」
 アデレードの隼が飛び立った。低く滑空し兎を捕えた。勢子が駆け寄り、兎を取り上げて見せた。皆が歓声を挙げ、拍手した。彼女も初めて捕らえた獲物に嬉しそうだ。
 王子は彼女に微笑みかけ
「この兎の皮で、マフを作るといい。でも、一羽だけでは足りませんね。」
と言った。
 彼女は表情を心持ち曇らせたが、慌てて微笑み頷いた。不自然な印象は免れていた。
 王子は人々に向かって命じた。
「皆、姫の婚礼の衣装に使えるように、存分に鳥に仕事をさせよ!」
 皆、勇んで散っていった。
 トゥーリには婚礼という言葉が苦かったが、大きな大鷹を据えているのだ。獲物が無しではいけない。
「隼には獲れないような獲物を探そう。」
 彼は老ヤールに笑いかけた。老ヤールは落ち着いた様子で
「人の多いところで、勢子の追い立てるのを待っていても仕方ありません。鳥に探させましょう。」
と言った。

 トゥーリは老ヤールと近習を連れ、皆と逆の平原に向かって馬を駆けさせた。誰も来ていない小丘の上で止まり、鳥の面皮を外した。放たれた鳥はぐんぐん上昇していく。
 トゥーリは陽を翳して、鳥を眺めた。大鷹は早くも太陽に入り、黒い影となって地上を見下ろしている。
「鳥は自由だなあ。天から見下ろせば、全てが小さなことだろう。」
 天空の鳥を見上げる彼の呟きを、老ヤールが顔を歪めて聞いていた。
 すると、一羽の隼が現れた。あっという間もなく急降下し、薮の中に消えた。
「何かいたようですな。」
 老ヤールが呟くと、向こうからアデレードとヴィクトアールが駆けてきた。徒歩の従者が後れて走ってくる。
「公女さまの鳥でしたか。」
 また老ヤールが呟いた。
 二人は、従者の取り上げた獲物を確かめて喜んでいる。
 トゥーリはそれを黙って眺めた。
 ヴィクトアールがトゥーリに気づいて、駆け寄ってきた。
「侯爵さまの大鷹の獲物はまだですか?」
 彼女はそう問うて笑いかけた。アデレードは鳥を据えて、向こうの方から眺めている。表情までは窺えなかった。
「私の鷹には、兎など容易いから。」
「あら、それはそれは……。お見それしました。」
 ヴィクトアールが笑うのにつられて、彼も微笑んだ。可笑しくも楽しくもないのに、笑みの出る自分が不思議だ。
(外面か……。外面が内面まで食いつくしてしまえばいいのに……)
 彼の心はまた嘆いた。
 ヴィクトアールがトゥーリの側から戻らないのに焦れたのか、アデレードが駆け寄って来た。彼女の乗っているのはサーディフだった。鞍に兎を三羽も下げていた。
「サーディフ、久しぶりだな。」
 彼はアデレードではなく、馬に声をかけた。馬は彼のことを覚えていたようで、鼻面を摺り寄せてきた。
 彼女も彼と同じように、声を掛け難かった。二人とも黙り込んだ。
 連れの三人は顔を見合わせて、溜息をついた。
 老ヤールがアデレードを褒めた。
「兎を三羽ですか。そして、また一羽。初めてなさったのに上手なものです。」
 彼女は照れくさそうに笑った。
 その時、天空を旋回していた大鷹が何かに反応した。舞い降りて、茂みの中へ消えた。
 老ヤールが駆け出し、鷹を引きはがして獲物を取り上げた。取り上げ掲げたのは狐だった。
「狐!」
 アデレードは驚き、ヴィクトアールと顔を見合わせた。
 老ヤールはトゥーリに狐を渡し
「赤い狐です。黒い狐ならよかったのに。」
と言った。黒い毛に白い毛の挿した狐は、銀狐と呼ばれて珍重されるのだ。
「大鷹は、大きな獲物を獲るのですね!」
 老ヤールはトゥーリをちらりと見やった。トゥーリはアデレードを見るでもなく、その先の遠くを見つめている。
 何も言うつもりはないように見え、老ヤールが代わりに答えた。
「時には狼を獲ります。大きなところでは、山羊も。」
「山羊ですって! 私の隼にはとても無理ですね!」
「狼の毛皮は上等です。草原の者は、鷹で狼を狙うのです。」
 彼女は感心して頷いていたが、側にいるトゥーリが気になって仕方がなかった。
 彼が何も答えないわけは察していたが、彼に話しかけられたかった。
「トゥーリの……ラザックシュタールさまの着ているのは、狼の毛皮ですか?」
「ええ。」
 簡単な質問と短い答え。彼も彼女も後悔していた。余計に言葉を交わし辛くなった。
 彼が先に気まずさに負けた。隼を眺めてながら
「その……その隼でも、狐は獲るでしょう。狼は無理だとしてもね。」
と言った。だが、彼女と目を合わせることは、とても出来なかった。
 彼女は俯いた。素っ気ない会話。これが二人にとっては相応しい距離になるのだ。彼はそれを教えているのだと思った。
 彼はもう沢山だと、馬の首を返した。
「私は狼を獲りに行きましょう。」
 彼の左耳の“天狼”が、陽を受けてきらりと光った。
 彼女はその背中に向けて尋ねた。
「ラザックシュタールさまの大鷹は、山羊も獲りますか?」
「山羊は獲るかもしれません。小さいのをね。長角の山羊は無理ですよ。」
 彼は振り向きざまに答え、馬の腹を蹴ると駆け足で去った。二人のラザックが後に続いた。
 自分の吐いた言葉が傷を抉っていた。鮮血の噴き出る心が痛かった。
(どうして、あんなことを言ったのだろう……? 長角の山羊、ロングホーン……まるで、アデレードのことのようだ……)
 彼女もまた同じことを思っていた。
(狼……“天狼”……。私には、トゥーリを捕えるのは無理なのだ……)

 午前の狩りが終わり、諸侯が簡単な昼食のために集まった。それぞれ兎や鶉などの獲物を下げている。王子は大公とずっと天幕で過ごしていた。
 昼食を食べ始めたところに、遅れてトゥーリが帰ってきた。赤い狐を二頭、黒い狐を一頭下げていた。
 大公が目を留めた。
「おお! アナトゥールは、随分と獲物を得たのだね! 皆、見よ。」
 皆が称賛した。王子ですら目を見張った。
「素晴らしいぞ、イ=レーシ。その銀狐の皮は、婚礼の際に姫の首を温めてくれるだろうね。」
 確かに称賛ではあるが、彼は言外の意味を察した。苦い気持ちと、感じてはいけないと言い聞かせているはずの挑む気持ちが湧いた。
(お前など、それくらいの嫌味を言うしかできないだろうな! ……ま、俺ではなく鷹が獲ったんだが……)
 彼は三頭の狐を王子の前に下した。そして、微笑み
「ええ。どうぞ、お使いください。」
と言って、お辞儀してみせた。
 彼の態度は誰が見ても挑む様子ではなかったが、王子は鼻を鳴らした。
 アデレードはこっそり溜息をついた。婚礼という言葉が心を重くしたのだ。
 彼はそれに気づいて、残念そうに付け加えた。
「実は狼を望んでいましたが、獲れませんでした。」
 不自然に聞こえないように、彼は先程の二人の会話を続けているのだ。話しかけられることはないと思っていた彼女は、内心驚き嬉しくもあったが、直ぐに切なさに覆われた。
「そうですか……」
 続けて何か話しかけようとしたが、王子が肩を抱き寄せた。
「姫は狼の皮が欲しかったのですか? 残念だけれど、狼は草原に行かねばいませんよ。」
「そういうわけでは……」
「それに、狼などいない方がよいのです。そうだろう? イ=レーシ。」
 王子はトゥーリを見て、薄く笑った。
 トゥーリは瞬時に意味を察し
(俺のことかよ? ……出てきてすみませんね。)
と苛立ったが、何でもないように笑ってみせた。ただ、嫌味には嫌味を返したい気持ちは抑えられなかった。
「そうですね。いない方がいいでしょう。稀に人を襲いますから。」

 その時、森の方から猟犬の鳴きわめく声が聞こえた。異様な鳴き方だった。そして、灌木の枝が折れる音と恐ろしげな轟きが上がった。
 緊張感が走った。皆何事かと森に目を向けた。
 勢子が森からまろび出てくるのと同じくして、大きな猪が飛び出てきた。猟犬に縋られ殺気立っている。一行は恐慌状態に陥った。
 森番が大声で叫ぶ。
「騎乗! 早く! 狩猟館まで走って!」
 皆は身一つで散り散りに走り去った。
 遅れた者が逃げ惑う中で、レーヴェとリュイスの兄弟が槍を取り猪に向かって投げ始めた。
 近習は、騎乗はしたが去ろうとしないトゥーリを促した。
「シーク、槍は持って来なんだ。手柄は、テュールセンのご兄弟に譲ることですな。」
 老ヤールは応えない彼を訝しみ
「ご覧になるんで?」
と尋ねた。
 彼は、暴れる猪と格闘し、鬱憤を晴らしたいと思っていた。
 しかし、あらかたの貴族たちが去ったようだと見渡すと、彼も館の方へ向かった。

 狩猟館の玄関には、既に人々が犇めいていた。口々に猪のことを恐ろしそうに話していた。
 冬の陽は落ちるのも早い。夜闇と共に雪が降ってきた。風が強まり、板戸を鳴らし始めた。皆はようやく、テュールセンの兄弟はどうしたのだろうと心配し始めた。
 父親の公爵は落ち着いた風で黙って座っているが、肘掛けの手は関節が白く浮き出ていた。
 扉が風に煽られ、大きく開いた。皆は驚き、一斉に注目した。
 レーヴェだった。大粒の雪が、開け放たれた扉から吹き込んでくる。彼は扉を両手で圧し閉めると、さも寒かった様子で毛皮に積もった雪を払った。
「皆さん、外は酷い雪ですよ。」
 父親は息子が一人であることに気づき、眉を顰めた。
「リュイスは?」
 レーヴェは鼻を鳴らした。
「猪ですよ。あいつの槍が仕留めた。今、自慢げに入って来ますよ。」
 悔しそうだった。
 皆はやっと安堵した。
 程なく、リュイスが帰ってきた。
 皆は歓声を挙げて迎えた。
 彼は芝居がかった様子で叫んだ。
「さあ! 憎っくき敵をご紹介しましょう!」
 勢子がえっさえっさと猪を運び込む。その間にも、強風に煽られた雪がどんどん吹き込んできた。
 改めて見ても、巨大な猪だった。鉞で殴りつけたのか、頭が陥没し、血の泡を吹いていた。そして、リュイスがつけたのだろう、右目の辺りに槍傷がついていた。
「皆さん! 外は見ての通りの雪嵐! しかし、案ずるには及びません。今晩はこの狩猟館にて、野趣あふれる猪料理を楽しめるのですから。いやあ、天の神さまの妙なる采配というわけで! 自慢の槍を折られた私も喜びこそすれ、哀しむには及ばぬわけです。」
 リュイスの陽気な言葉が皆の緊張を解き、笑い声が挙がった。
 トゥーリも、友達の無事に胸を撫で下ろした。そして、いつもの慣れ性でアデレードを探し、広間を見渡した。
 しかし、彼女の小柄な姿がない。大公と公妃と太子はいた。王子もいる。皆、リュイスの言葉に笑っている。彼女だけがいないのだ。
 胸の底が途端に冷えた。
「公女さまがいない!」
と叫ぶと、皆驚いて彼を見て、それぞれ自分の周りを見渡した。
「ヴィクトアール! 公女さまはどうしたのだ?」
 彼が厳しく詰め寄ると、この娘にしては珍しく狼狽え
「猪が飛び出してくる前は、一緒にいたのだけれど……」
と言い淀んだ。
 テュールセンの公爵が駆け寄った。
「あの騒ぎの時、公女さまとはぐれたのか?」
 皆がざわめき始めた。
 トゥーリは焦れた。当たり前のことを確認している場合ではない。それなのに、大公はおろおろと立ち尽くしているばかりだ。王子も呆然と立ち尽くしている。
 彼は舌打ちし、自分の鞍を取ると玄関に向った。
 老ヤールが察して、鞍を取った。
「シーク、儂も!」
「年寄りは待っておれ!」
 叩きつけるような激しさだった。誰も彼もが慌てるばかりで、探しに出ようとする素振りもないのが、彼には腹立たしくて仕方がなかった。

 扉を開けると、外はレーヴェやリュイスの評が控えめだと思える雪だった。既に玄関には、雪が吹き溜まりに積もっていた。
「これは……」
 皆絶句した。
 誰かが
「出れば、その誰かも帰れなくなりましょう。」
と言った。
 トゥーリは益々腹が立った。
(だからと言って、探しに出ないとは! 大公さまも、王子も、何もお命じにならんとはね!)
 彼は黙って、すたすたと出て行った。
 青ざめた王子が
「森番の小屋がいくらでもある……。そこで難を逃れているであろうよ。」
と呟いた。

 近習が従ってきた。彼は鞍を載せながら、淡々と進言した。
「シークよ。この天気では、犬は使えませんなあ。」
 雪嵐をものとも思わない調子だった。
 トゥーリは頼もしいものだと微笑んだ。
「これは戦とは違う。危ないと思ったら、迷わず引くことにしよう。」
 勿論、彼は見つけるまで帰らない覚悟である。
 狩猟館の敷地から出ると、遮るものもなくなった。強風の中、横殴りに雪が吹き付けてきた。
 真っ白な雪嵐の夜に、躊躇なく踏み出した。
 恐れなどない。




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