5


 大公はトゥーリの行いを咎めはしなかったが、諸侯はトゥーリを避けるようになった。
 彼は毎朝、堂々と登城した。彼の平静な態度を見て、諸侯は恥知らずだと眉を顰めた。気圧される者もあった。同情している者も少数あったが、彼の味方をする者はいなかった。
 彼にとっては、味方をしてもらえない方がよかった。
 卑怯な行為にも負けずに、堂々と勝負をしたという矜持が、彼を支えた。
 やがて皆は、彼がさほど思いつめて求婚したのではなかったのだと結論づけた。益々疎まれることになった。

 王子は以前よりずっとあからさまに、彼に蔑みと侮りを見せるようになった。しかし、アデレードに対する態度には変わりがなく丁重だ。
 王子にとって彼女は、血統を繋ぐ為に必要な、国で一番高貴な女であるに過ぎないのだ。それは王侯の結婚の常識であった。
 トゥーリには冷たい結婚だとしか思えなかった。
 草原でも、氏族の結束の為に成される縁組はある。周りのロングホーンの貴族たちを眺めても、愛し愛されて結婚した夫婦はいない。だが、その中には、感情など入れずに結びついても、仲睦まじい夫婦はあった。
 そのような例を思い浮かべ、血の器としてでも大切にされていれば、彼女も王子に馴染むだろうと諦める努力をした。
 のたうち回る夜を過ごし諦めをつけても、朝に城で彼女の姿を見かけると胸の底が騒ぎ、そして苦しくなる。日毎に生気の無くなっていく彼女ならば、尚のことである。しかし、今度こそもう方策はないのだ。彼女の人生から、己は退場せねばならないのだ。
「我なき後は如何ならん。」
 彼は“ローランの歌”の文言を呟いた。
 ローランは死に、愛刀の行く末を見届けられなかった。奇蹟などは起こらないのだ。
 彼は、期待した己の愚かさを嗤った。だが、ひとつ希望を見出した。彼は死んだわけではなく、彼女の行く末を見ることができるのだ。
 それが不幸な未来であってはならない。
 何も叶えられなかった悔しさは消えずとも、消えないからこそ、彼女には少しでも幸せでいてほしい。何かこれからの彼女の為に出来ることはないかと考えた。
 しかし、彼は再び苦しい溜息をついた。彼女が王子と波風なく暮らすには、彼が視界にいてはならないのだ。
 終わるということは、そういうことなのだと知った。彼は静かに涙を一粒落とした。

 王子とアデレードの婚約が正式に決定した。
 宮廷は祝意で一杯だ。幾人かはトゥーリを気の毒に思って、その話を控えたが、多くの貴族はお構いなしだった。
 粛々と婚約式の準備が整えられていくのを、彼は黙って眺めるしかない。
 朝議でも、結婚の支度の件が取り上げられるようになった。アデレードの領地の問題、持参金の問題、輿入れの道具類の問題など、細々した議題が上がった。
 そのひとつひとつを議論する度に現実感が迫ってくる。苦いことだった。しかし、こうなった以上は、しっかりとした支度をして嫁ぎ、幸せになってもらいたいと思った。
 冬至の祭りの日に、婚約式が行われるということも決まった。
 婚約式は、高位だけではなく、かなり下位の貴族たちも招待して、大々的に行うことになっていた。
 婚約式という言葉は、彼にニコールとの顛末を思い出させた。
(婚約が流れるなんてことは……あるわけがない。未練がましいことを考えてはならん。)
 彼は溜息をついた。彼女の婚約・結婚を祝福しなくてはならないと、何度も繰り返して自らに言い聞かせた。
 奇しくも、それは彼の婚約に際して、彼女が思っていたことと同じだった。

 遅い太陽が照らす、冬晴れの冬至の朝になった。
 大神の社は、貴族や富裕な町方の者が集まり、賑やかで華やかな様子だった。
 色とりどりの華やかな衣装の一団の中で、黒い草原の礼装をまとったトゥーリと随行は異質な印象を与えた。
 人々は彼らを見て
「喪服のようだな。」
と、ひそひそ話している。礼装だから着ているだけなのだが、嫌がらせのように思ったのだろう。知っているはずの諸侯も、何も知らない大勢も不愉快そうに眺めていた。
 社の入り口から祭壇前まで、下位から始まり高位へ並んだ。高位にある彼の案内された場所は、祭壇の側だった。
(ここでは……二言無い誓いをする様子が、すっかり見えてしまう。)
 通路を挟んだ真向いに立ったテュールセンの公爵が、祭司の一人を呼び止め
「あれは……少しは配慮してはどうか?」
と尋ねていた。祭司は短く何か答えた。
 公爵は残念そうにトゥーリに向かって首を横に振った。
 トゥーリは小さく目礼した。
 公爵は気まずそうに目を逸らした。それ以後は、剛毅な彼もさすがに目を合わせることができなかった。
(見ろという神の思し召しか……)
 トゥーリは、そうまでせねば諦められないだろうと神が嘲笑っているように感じた。
 後ろに控えている老ヤールも近習も硬い表情だった。
 やがて大公が公妃を伴って入ってきた。喜び満面の大公と澄ました公妃に、皆が笑顔で挨拶し祝意を述べている。
 彼は声を振り絞った。
「本日はおめでとうございます。」
 大公は軽く頷き、心持ち早足で通った。公妃は彼をじろりと眺めて、何も言わずに通り過ぎた。
 刻限の鐘の鳴るのと同じに、王子が現れた。いつもと同じく、古風な王朝様式の衣装を着ていた。南の海で取れる貝から取った、貴重な紫の染料で染めた衣装だ。風雅な容姿によく似あっていた。
 老ヤールが王子を厳しい目で睨んだ。
 命令通り、ラザックシュタールから暗殺者を呼ぶことはなかったが、気が治まるはずもない。しわぶきひとつない中で声に出すことはなかったが、唇は憎しみの言葉の形に動いた。
 トゥーリは、一連の行事を平静に見ていられるか、自信がなかった。だが、見なくてはならない、彼女のすることは、全て見たいと思った。
 彼が覚悟を決める間もなく、アデレードが現れた。
 彼女はどうしたわけか、黒い衣装に身を包んでいた。
 人々は少し騒めいたが、場所柄すぐに治まった。喪服のようだが、豪華な真珠の首飾りが最上級の礼装だと語って見えたのだ。
 彼には、この行事は思い出の葬送であるという彼女の無言の声明に思われた。
 彼はじっと彼女を見つめた。彼女は固い表情で、前を通り過ぎた。
 祭司長が二人に尋ねた。
「アドラーシ王家のカーロイ王子、この婚約をお誓いになりますか?」
「誓います。」
 王子がよどみなく誓いの言葉を述べた。
「ロングホーン大公ご息女、アデレード・コンスタンシア公女、お誓いなさいますか?」
 聞きたくない彼女の返事は、意外にもあっさりとあった。
「誓います。」
「尊き神々の王、名を秘したる神に、この婚約を報告申し上げる。」
 もう本当に終わったのだ。絶望が襲ってくるわけでもなく、彼は冷静に聞いていた。ただ、彼女の誓う言葉だけが繰り返し心の中に響き、永遠に続くようだった。
 皆の拍手や口々になされる祝いの言葉が聞こえた。彼はとても口にできず、拍手だけをした。
 二人のラザックが彼を心配そうに窺っていた。彼がそれに気づいて、ひっそりと大丈夫だと言うように頷いたが、二人とも哀しそうな顔をしただけだった。
(好きな女が去っただけのこと。今までもあった。いつも、運命はあっさりと女を連れ去って……。俺はそれを眺めているしかできなかった……)
 いくつかの別れを経験しても、少しもそれに慣れることはできないのだと知った。

 その夜は祝賀の催しが行われ、町方もそれぞれ祝いの催しを行った。人々は喜びに満ち溢れ、踊り歌い、晴れやかな表情だ。
 トゥーリも、宮廷の祝賀に出ねばならなかった。
 アデレードが王子と寄り添って、皆の祝賀を受けていた。彼にも順番が回ってきた。
「おめでとうございます。お幸せに。」
 ありきたりの言葉を述べると、王子は唇の端を上げ
「イ=レーシとは色々あったが、これ以降は親しくしたいものだ。」
と言って、彼女の腰を抱き寄せた。勝った者の余裕を感じさせた。そして、相変わらずの蔑むような視線でもあった。
 トゥーリは、負けたこと、従わねばならないことを改めて思い知らされた。
 王子は、彼が僅かに応えに惑ったうちに
「奥方のおかげで私の屋敷も華やぐだろう。そなたも招いてやるゆえ楽しみに待て。」
と言ってにっと笑った。
 事あるごとに知らせ、ずっと見せつけるつもりなのだ。
 彼女は眉を顰めたが、見られないようにすっと目を伏せた。
 彼女もトゥーリも同じことを感じていた。
(何と小さい男だろう!)
 こんな男に彼女を奪われるのかと思うと、彼には怒りと悔しさしかなかった。しかし、ここで言い返すのはもっと見苦しいと我慢し
「ありがとうございます。殿下。」
とだけ答えた。
 彼女には彼が傷ましかった。何よりも、正直な気持ちに蓋をした自らの臆病な過ちに悔し涙が出そうだった。
 彼が我慢しているように、彼女も王子や皆の手前、笑顔を作った。
「ラザックシュタールさまにも祝福していただけて……」
 白々しいことを言っていると思い、彼女は言葉を切った。
 王子に訝しまれてはいけない。彼は続きを言うように目配せした。彼女は “嬉しいです”とも“安心しました”とも言えなかった。ただ
「ありがたいことです。」
と続けた。

 それ以上話すこともないだろうに、どうしたわけか王子はその場を離れない。三人とも黙ったままだ。
 すると、王子が唐突な提案をした。
「祝宴には、狩りが付き物ではないか。また、冬は鷹狩りをする季節でもある。諸侯を伴って、鷹狩りをしよう。」
と言い、彼女に微笑みかけると
「ご婦人にも楽しめますよ。」
言った。
 彼女は全く気乗りしなかったが
「ええ……」
と答えた。
 王子は彼女を眺め鼻を鳴らし、宮宰に手招きした。
「宮宰。近々皆で鷹狩りをすることにしよう。」
「それはそれは……楽しみなことです。皆にも触れましょう。」
 宮宰は笑顔で承諾した。

 宮宰が広間の正面に立ち、王子の提案を触れた。皆は賛成の声を挙げた。
 王子はトゥーリに
「イ=レーシは、いい鳥を持っているのだろう? 草原では、野生の成鳥を捕えて訓練するそうだね。獰猛なのだろう?」
と言った。
「私の鷹は警戒心が強く、ほとんど鳴きません。」
 王子は、奇妙な間を取った。そして、含みのある笑いを見せ
「そうか。鳴かないのか。」
と言った。
 アデレードは王子を睨んだ。だが、王子は涼しい顔で彼女の手を取り、トゥーリの側を離れた。
(まだ足りんのか……)
 彼は王子の後姿を睨んだ。



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