天狼
3
合図がかかると、王子の馬は軽やかに駆け出した。トゥーリの荷馬はそうはいかない。拍車を当てるのに驚いて、前足で立ち上がった。
彼は輪乗りしながら、馬を宥めた。
荷馬がようやく走り出した。軽やかとはとても言えないが、王子の後を追っている。真っ直ぐには走るようだった。
「あれれ、たまげた! 儂の馬っこに駆け足ができるとはね! 今まで知らなんだ。」
農夫が驚きの声を挙げると、皆の緊張が解けた。農夫の様子がおどけて見えたのだろう、街の者がどっと笑った。
「乗り手の技よ。それでも……」
ヤロシュが、トゥーリの後ろ姿を心配そうに見つめるラザックの戦士二人を見やって、同輩たちに小声で言った。
「軍神テュールその人であろうとも、あの痩せ馬では……到底結果は出ないだろうね。」
「そうですなあ。王子さまもまた……酷い仕打ちを……」
貧民たちがトゥーリの後ろ姿に叫んだ。
「あっしらのシークに、テュールがお力をお貸しになりますように!」
老ヤールと近習は苦笑した。
「お前たちのシークではあるまいに。」
老ヤールは馬を返して、トゥーリの駆け去った後をゆっくりと辿り始めた。近習はトゥーリの乗って来たラザックの駿馬の手綱を握ったまま、じっと主の去った方向を見ていた。
トゥーリの痩せた荷馬は、駆け足は何とか続けられた。だが、王子の馬には到底追いつけない。
王子は馬を緩やかに駆けさせている。疾走はさせていない。嘲笑うかのようだった。
(嫌な音がする……)
さっきから荷馬の足もとで、不揃いな音がするのだ。
(蹄鉄か……? 蹄鉄の具合が揃っていないのかもしれない。仕方ない。駆けることなど、考えていないのだからな。)
街角の見物人は、トゥーリの姿が見えてくると、ざわめいた。
「シークの乗っている馬、ありゃあ何だね?」
「みすぼらしい馬だ。」
「百姓の使う馬のようじゃないか!」
次々、驚きの声が上がった。
「百姓馬にシークがお乗りとはねえ……」
どっと笑声が上がった。指さして笑っている者もいた。
「ご自慢のラザックの名馬は怖気づいたと見える。」
とまで嗤う者もいた。
「ありゃあ、シークに勝ち目はないさ。どんな奇蹟が起こってもね!」
「どうせ勝負は見えているんだ。帰ろ、帰ろう。」
町人たちは興味を失って、帰って行った。その真ん中を、老ヤールが背をしゃんと伸ばして進んでいく。目に老人らしからぬ、この人らしからぬ怒りが燃えていた。
余裕のある様子で前を行く王子と全力で走るトゥーリと、王子の加減なのだろう、さほど距離は空かず、後は四分の一ほどの距離となった。
追い縋ったところで、王子は容易く逃げていくだけだろう。荷馬も疲れて、口許から泡を吹いている。
だが、トゥーリは諦めなかった。
「ほら! 頑張れ!」
馬に声をかけて鞭を当てた時、鈍い音がした。馬は嘶き、体勢を大きく崩して倒れた。彼は落馬し、石畳に強く背中を打ち付けられた。
見物人がどよめいた。
先を行く王子はちらりと振り向いたが、止まることはなかった。
前列にいた誰かが
「シークが落馬なさった!」
と叫んだ。
後ろになった者は身を乗り出し、人垣の間から覗き込もうとする。
「落馬だと?」
「落馬だよ。シークが百姓馬から落ちた。」
「シークの落馬なんぞ聞いたことがない。」
「こりゃあ珍しいものを見られたもんだ! 孫子にまで話せるよ。」
「百姓馬のシークが、みっともない落馬をした。」
げらげらと、遠慮ない笑い声が挙がった。
トゥーリは黙って起き上がり、咳をしながら荷馬に乗った。荷馬は二・三歩ぎこちなく歩くと、また後ろ足から崩れた。彼は片足を鐙に取られた格好で落馬した。
見物人がまた大笑いした。かなり無様な落馬の仕方である。余計可笑しかったのだろう、長々と笑い声が続いた。
王子はまた振り返ったがそのまま駆け去り、やがて見えなくなった。
彼は手綱を引っ張り、馬を叱咤した。
「ほら! 立って! 頼む! 走ってくれ!」
馬は立ち上がったものの、しっかり地面を踏めない。苦しそうな鼻息を吐いている。足を傷めた様子だ。
彼は馬の脚を曲げ上げて見た。蹄鉄がおかしな具合にずれている。これが石畳の凹凸に引っかかったのだろう。
王子の去った先を睨み、馬の顔を見、彼は顔を歪めた。
ようやく追いついた老ヤールが、慌てて駆け寄った。馬の足をさらっと見て
「もう終わりにしましょう。」
と言った。妙に優しげな口調だった。
「終わり?」
「終わりですよ。騎乗すらできないんですから。」
トゥーリは唇を噛んだ。落馬した時に噛んだのだろう、鉄臭い血の味がした。
「……あと少し、あの角を曲がれば城が見える。すぐ城なんだ!」
「……そうですな。」
「あそこまでたどり着かねばならん。」
老ヤールは目を閉じた。そして、主を見つめると、大声を出した。
「トゥーリさま! これ以上、辱めを受けることはありません! もう止めましょう!」
両脇の見物人はもう笑いもせず、主従のやり取りを見守った。
「止めない! 止めてたまるか! 退け!」
トゥーリは立ちはだかる老ヤールを押しのけ、痩せ馬を引き歩き出した。老ヤールは激しい気迫に負け、言葉もなく後ろ姿を見送った。
見物人は彼の後ろ姿に、怯えたような目を向けていた。
老ヤールは、馬だけではなくトゥーリもまた、同じように片脚を引きずっていることに気づいた。それでも引き留めることはどうしてもできず、主と同じように馬を引いて歩き出した。
城門に辿り着いた。既に到着していた王子は涼しい顔で、トゥーリの歩いてくるのを眺めた。
居並んで見物している貴族たちが、彼の引いている痩せ馬に気づいた。
「何だ、あの馬。くたびれた馬だ。」
「脚を引いているな。」
「ラザックシュタールさまも脚を引いておられますよ。どうなさったのかしら?」
しかし、彼が目の前を通りすぎると、恐ろしい気迫に気おされて皆黙った。
王子は軽い口調で
「イ=レーシは落馬したのだ。無様に。二回も。」
と言った。
「何と……」
宮宰ですらも絶句した。テュールセンの公爵は、眉を厳しく寄せた。
「これは……あんな馬では……」
その言葉も終わらぬうちに、王子は
「イ=レーシは納得ずくで、あの馬に乗ったのだ。おお! テュールセン、そなたが教えてくれたことではないか。どんな馬でも風の脚と。」
と言って、さも可笑しそうに笑った。
アデレードは堪らず、階段を駆け下りた。
「トゥーリ! 脚が! それに唇が切れている! どうしたの?」
彼は困った顔をしたが、彼女を見つめて静かに答えた。
「落馬したんだ。」
彼女は目を見開いた。やがて、ぽろぽろ涙を落とした。そして、王子を涙目で睨んだ。
「酷い、酷い。こんな馬に乗せるなんて、卑怯よ。」
「卑怯でも何でもありませんよ。イ=レーシがいいと申したのですから。そうであろう?」
「……ああ、そうだ。落馬して負けた。」
彼女は涙を拭って、叫んだ。
「負け? 私のシークは負けたりしていません! これは勝負になっていない!」
貴族たちは戸惑った顔を見合わせた。勝負になっていないと全員が思っていた。しかし、トゥーリは納得して痩せ馬に乗ったのだ。何も言えなかった。
それでも、テュールセンの公爵は思いを述べた。
「これは少し、その……シークに負荷があり過ぎるように私には思えます。」
「テュールセン、控えよ。イ=レーシは納得して騎乗し、正々堂々と勝負したぞ。その百姓馬でな。口を挟むな。」
公爵はそっと大公を見た。だが、大公も言うべき言葉が見つからなかった。
「納得できたかな? イ=レーシ。」
王子が柔らかに尋ねた。アデレードは足を踏み鳴らし
「イ=レーシなんて呼ばないで!」
と怒鳴った。
王子は冷笑を浮かべた。
「おやおや、姫は随分とお悔しいらしい。宝物でも賭けたのですか? “あなたのシーク”は負けたのです。正々堂々とね。」
彼女はありったけの憎しみを込めて睨んだ。
「あなたは正々堂々と勝負したと胸を張れるの?」
王子は表情も変えず、彼女の問いにも答えなかった。
「どうかな、イ=レーシ?」
「確かに負けました。それだけです。」
言葉とは裏腹に、緑色の瞳が怒りを映してぎらぎらと光っていた。王子はさっぱり気づかない風で
「ああ、よかった。そなたが納得してくれねば、私は姫と婚礼を挙げられなかったようだから。これで尊き王朝の血を繋げられそうだ。」
と満足そうに微笑んだ。
老ヤールはトゥーリの側に立った。王子を睨み、低く呟いた。
「この屈辱、決して忘れはいたしません。お恨みいたしますぞ。」
王子は、老ヤールを見ることもなかった。
「イ=レーシ、よう頑張った。そなたでなくては、その難しい馬は乗りこなせなかったであろうよ。風の脚とはいかなかったが、騎馬の腕前は歌通りなのだろう。脚の手当をせよ。」
そう言って高笑いすると、さっさと城の中へ入って行った。
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