2

 都に触れが出た。
 “三日後、北の大門から城門の路程で比べ馬をする。町方の役つきの者は町民をそれぞれ統括して、滞りなく行われるようにすること。”

 人々は奇妙な比べ馬の話に首を傾げた。
「カーロイさまなど、とんと聞いたことがないが? シークはよう知っているな。」
「何でも、古い王家の流れを汲む方だとか。」
「何で、こんなことをなさるのかねえ?」
「シークと比べ馬など……負けるに決まっている。」
「世の中のことが、よく解っておられないのだろうよ。」
 時を待たずして、街に新しい情報が流れた。
 あの場にいた何れかの貴族の屋敷に出入りする商人や使用人の類から、これは公女の結婚に関することなのだという話が漏れ聞こえてきたのだ。
 俄然、話が面白くなり、人々は盛んに噂話に興じた。
 幼い頃に、城で仲睦まじく暮らしていたトゥーリとアデレードのことを知るものは多かった。
 ある者は、当然そうなるだろうと思っていたと言い、好きな男女が素直に結ばれないのはおかしいと言った。
 別な者は、好きだからというだけで結婚できる立場ではないと言った。
 そのうち、王子との婚約を告げようとしたら、トゥーリが異を唱えたという話が聞こえてきた。
 すると、今更無礼だと言う者も現れた。
 公女がどちらと決められなかったのだと、かなり正確な話も伝わってきた。
「それならば、姫さまはシークがお好きなのだろうよ。」
「上の方々は、そんなことも解らないのかねえ。」
「いやいや。シークを退けたいとお思いになっても、拗ねられたら? 何しろ、二百五十旗の軍勢をお持ちなんだぞ。軽々に断れんわ。」
「宮廷は、ラザックに姫さまをやるのは面白くないんだろ。声高には言えないが、何か工夫をしているんじゃないか?」
 いろいろな憶測が囁かれた。


 当日は、薄く雲のかかる晴れた日だった。前夜に相当冷え込んでおり、気温は低いままだ。
 トゥーリは老ヤールとラザックの近習を二人伴って、早朝のうちに路面を確かめに出た。一旦城の門まで行き、そこから北の大門まで。低くなる下町へ、緩やかに下る道である。
「本番は上り坂になるね。まったく緩やかゆえ、問題はない。氷が張った水溜りも無かった。」
「さようですな。」
 老ヤールがうっそりと答えた。馬の吐く息が白く映っていた。
 今日の見世物に、三々五々町人が集まり始めた。知らないで都にやってきた、近隣の百姓の荷馬車が馬止めにあって、外門と内門の間に留められていた。
 この辺りまで北の場所には、トゥーリは来たことがなかった。上京・帰郷の時は、南の大門をくぐるからだ。
 貧しい者の、家らしい家でもない、崩れかけた小屋とも言いにくいものが、城壁にへばりつくように建っている。
 建物もだが、街自体が汚い。得体の知れないごみとも瓦礫ともつかないものが積み上げられ、汚水に濡れた路地から異臭が漂ってくる。
 痩せた子供、薄汚れた格好の女、垢じみた男、背中の折れ曲がった年寄り。ほとんどが裸足で、ぼろぼろの布を巻きつけただけの格好だった。
 皆は四人をじろじろ見ては、何かこそこそと話し合っていた。触れのことは解っているらしく、通りへは出てこない。
 トゥーリが目を向けると、皆すっと目を逸らした。子供ですらそうだった。敵意を感じる視線もあったが、そちらを見ても逸らされた後で、誰が向けていたのか解らない。
 もし何かあれば、黙って刺してくる。そういう静かな不穏さだった。
 彼は、視線を合わせてはいけない場所なのだと理解した。そして、自らの領地である街を思い浮かべた。
「貧民屈といったところか……。ラザックシュタールの下町にも乞食がおったが、ここはもっと荒れているように見えるな。」
 老ヤールは街を一瞥し、淡々と応えた。
「ラザックシュタールの乞食は、乞食とは思えぬ小金を持っている者もおるようです。貰いが多いのでしょう。乞食は三日やったら止められないとか言いますな。」
 トゥーリには、金の問題だけとは思えなかった。何もかもを諦めたような子供の視線が、全てを物語っているように感じた。
「都とは名ばかり。貧しいな。こんな場所を近々で見たのは、初めてかもしれん。憐れだ。こんな所に押し込められて……」
「出て行けんのですよ。我らには信じられんことですが、ここで生まれてここで死ぬのを当たり前だと思い込んでいる。出るという発想すらないのです。」
「大公さまは慈悲深い方だが、ここまでは手が届かないのかな?」
「ここに人間はおらん、ということになっているのでしょうな。」
「いるではないか。」
「あれらは、人間とは見なさないということでしょう。大公さまがどうのではなく、ずっとそうだったから、改めて考える者はないのです。」
 老ヤールの言葉は、終始無感情だった。事実のみを述べている。
 トゥーリは何か考えさせようとする腹かと思ったが、関係のないことを考える必要はないと暗に言われているとも思えた。
 彼はもうそれ以上話さず、集まる人々の視線を受けながら馬上で相手の来るのを待った。
 太陽がすっかり昇った。人だかりが増え、内外の門の間に込められる百姓や行商人の類も多くなった。

 そろそろ刻限の鐘がなる。町方の長たちが現れた。
「王子さまはまだのようですね。こんなところでお待たせして、申し訳のないことです。」
 初老の穏やかな男が話しかけた。品のある物腰だった。身なりも小ざっぱりとしている。
「そなたは?」
「申し遅れました。私は都の町屋をお任せいただいている者です。香辛料の問屋を営んでおります。ヤロシュとお呼びください。今日は畏れ多くも、比べ馬の開始の合図を務めます。」
「そうか。大儀。……あれらは……何とかならんのか?」
 トゥーリが貧民屈に視線を向けると、ヤロシュは気まずい顔をして
「ああ! 不手際でございました。」
と言い、貧民窟の長と思われる男に手招きした。
「目障りだと仰せだ。家に入るように申し付けてくれ。」
 トゥーリは慌てて止めた。
「そうではない。この辺りの者がもっとマシな暮らしができるように、何か方策を考えないのかと申したのだ。」
 ヤロシュも貧民屈の男も、呆気にとられて顔を見合わせた。それから笑い出した。
「方策も何も。田畑のあるわけでなし、商売する方法も才もなく、何も作れず。どうもこうも……」
「ここにおるのは不具か年寄り、淫売婦のなれの果て。それから……まあ、お解りでしょ。在所におられずに逃げてきたような者ばかりでごぜえますよ。どいつもこいつも、使いものになんかなりゃしねえんですよ。」
 ヤロシュだけではなく、貧民窟の男ですら、自らを嗤う。
「だったら、どうやって食べている?」
 ヤロシュが眉を顰めた。
「シーク。貧民などに御自らお尋ねになることはありません。」
 他の町方の長たちも同意した。
「そなたらが答えられるのか? 貧民自身に尋ねなければわからんだろう? どうなんだ? 貧民の長?」
「みんな物乞いをしたりしてやす。町方の台所から残飯を漁ったり。時々、お優しい街の方が、お恵みをくださるときもありやすよ。ありがてえことで。」
 彼は町方の者を見て、あまりありがたそうでもないお辞儀をした。
「足りているようには見えんな。」
「へえ。そりゃあね、子供は多いし。まあ、これから寒くなると、年寄りやら小さい子供やらからくたばりますから。そうなると、少しお鉢が増えるってもんで。」
「子供から食わせようとはしないのか?」
 長は薄ら笑いを浮かべて答えない。
 渋い顔で聞いていた老ヤールは堪りかね、代わりに説明した。
「トゥーリさま。飢えが極まれば、親は自分を生かすために、自分が食うのですよ。その子が死んでも自分が生き延びたら、また子供を持てる。」
「ご老人のおっさる通り。そういうことでごぜえますよ。」
「貧民にたつきを得る方法を教えないのか? 町方は仕事を与えんのか? ラザックシュタールでは……」
 老ヤールは声を荒げ、遮った。
「トゥーリさま、お止めなさい。ラザックシュタールとは違うのです。隊商の人足の仕事も、塩山の仕事も、皮なめしの仕事も、羊毛扱う仕事も、家畜を取り扱う仕事も、何もかも都ではないのです。女もそう。身を売るしかできないのですよ。そしてそれは都の問題。トゥーリさまが、何とできるものではないのです。」
 貧民の長が皮肉な笑みを浮かべて言った。
「ラザックシュタールは極楽のようですなあ。大公さまは、わしらのことはちっとも目に入らんようで。」
 トゥーリは長を睨んだ。そして、目を閉じた。確かに老ヤールの言う通りだ。町方も大公も、第一に貧民自身ですら当たり前のことだと思っている。これは見て見ぬふりをするような類のこと、仕方のないことなのだと考えた。
 しかし、諦めきった子供の目が頭から離れなかった。
「……ヤール、施しをする。取り計らえ。」
 老ヤールは微かに眉を寄せたが
「はい。」
と答えた。
 ヤロシュが口を挟んだ。
「……感心しません。何の足しにもなりませんよ。」
 老ヤールは厳しい目を向けた。
「ヤロシュ殿、シークのご命令には口出し無用に願いたい。」
 凄みのある低い声だった。町方の長たちは恐れをなして黙り込んだ。
 だが、老ヤールはその命令に、心から賛同していたわけではない。
「しかしながら、ヤロシュ殿の申すのもわかります。一時の恵みは、時として長い苦しみになります。」
「冬が越せないのだろう? そこの子供や年寄りが死ぬのだろう? 施しをせねばならん。」
 老ヤールは困ったことになったと内心焦っていた。
 トゥーリがこういうことに弱いのを知っている。破格の施しをするかもしれないと思った。
 だが、大族長の責任は、何の氏族の連なりでもない都の貧民には及ばないのだ。どう諭そうかと考え込んだ。
 すると、長が笑い出し
「お美しいシークは、お心もお美しいらしい。」
と言い、貧民窟に向かって叫んだ。
「みんな、喜べ! 飯が食えるぞ!」
 嘲るような調子だ。世間知らずの若い公達が、気まぐれで施しをすると思ったのだろう。
 貧民街からまばらな拍手が起こった。大した施しがあるはずもないと諦めているようだった。
 老ヤールは苦々しくそれを眺めた。
「羊を十頭くらいでよろしいか? 一時この場を借りる礼には十分です。」
 トゥーリは老ヤールを睨んだ。
 その目には、老ヤールが嫌と言うほど見てきた色があった。
「……五百頭。荷駄に麦を積んで五つ。五年続ける。」
 老ヤールはやはりと溜息をついた。しかし、安堵もしていた。去年から気だるそうに投げやりだった主が、完全に以前の姿に戻っている。彼は俯き、こっそり微笑した。
 貧民屈から驚きの声が上がった。
「よろしいので? あっしらのような者に沢山の施しをしても、お返しすることなど何もございやせんよ?」
「五百のうち、この冬に食うだけ取って、後は金にするのだ。小屋を建ててやるから、そこで子供に文字と勘定を教えよ。人は雇って送ってやる。」
 町方の長たちは失笑し、口ぐちに反対した。
「そんなもの……ここの者たちが教わっても、何になるもんですか!」
「残念ながら、ここの者にそんな意欲はありませんよ。」
 貧民の長は悔しそうにしたが、何も言い返せなかった。

 すると、貧民の子供たちが、ぽつぽつと訴えかけ始めた。
「俺は、字くれえは覚えてえな。」
「俺も。勘定ができれば、誤魔化されることもなくなるってえもんだ。」
「あたしも。母ちゃんみたいに淫売をするのは嫌。裁縫を覚えて、お針子をしたい。」
「あたしの姉ちゃんは、台所を漁っているのを見つかって、蹴られて死んだよ。そんなのは嫌だ。」
 子供たちの訴えを聞いて、大人たちも声を挙げ始めた。
「食うことさえできれば……」
「娘を売りたくない。」
「盗みをしなくていい。お仕置きに怯えて暮らさなくても済む。」
「物乞いだと石を投げられるのは、もう沢山だよ。」
「そうだ。子供に堅気の仕事をさせてやりたいよ!」
 わあわあと声が高くなった。町方の長たちはたじろいだ。一人が大声で
「本気ですか? ここの者たちは、全部食っては、また飢えるだけです。一冬だけでいいではありませんか。」
とトゥーリに言った。
 ざわめきが止み、すぐさま怒声となって町方の者たちに向かった。
「町方は黙っていろよ!」
「ここの者は、息する値打もねえってことかい!」
 拳を振り上げ口々に叫ぶ皆を、老ヤールが一喝した。
「これはシークのご意思である!」
 貧民は静まったが、町方は不満そうにしている。
 トゥーリは町方の者を一人ひとり見つめ、最後にヤロシュをじっと見つめた。
「ヤロシュよ。さっき子供が申したではないか。読み書き勘定を覚えたいと。大人どもも、子供にまともな生活をさせたいと申した。そなたらが留められることではない。」
「ですが……」
 トゥーリは町方を相手にするのはそれまでにして、近習に命じた。
「ラザック。一番近いラディーンのところへ発て。羊を三百頭、ここの壁の外まで連れて帰れ。一月後にもう百頭。さらに一月後に百頭。それから、ラザックシュタールに荷駄を用意させよ。」
「は。」
 近習が一人、たちまち馬を返して、街の門から駆け去って行った。町方の者も貧民たちも呆気にとられて、その後ろ姿を見送った。
 一時の静けさの後、貧民の長が叫んだ。今度は嘲るような調子はなく、本当に驚いていた。
「たまげた! シークは……本当になさるおつもりのようだぞ!」
 貧民たちはどよめいた。まだ疑っている者もいるようだったが、声を挙げ歓喜する者が多かった。
「ありがとうございます。ありがとうございます。お言いつけ通り、羊は金にして貯めます。子供らに学をつけてやります。きっと……きっと。」
「うん。その前に、ここの路地、ちっと綺麗にしておけ。腐った物やら鼠は、悪い病気を運んでくるらしいから。まともになる前に死んではつまらん。」
「ええ。ええ。きっとそうします。ありがとうございます。尊いお家柄の方から、こんなお情けをいただいたのは初めてだ。それも滅法沢山だ。目から汗が出ていけねえ……」
 貧民の長は涙を拭った。
「きっとシークはお勝ちになれますよ。そうでなきゃいけねえ。神さまもそうなさるさ。滅多にねえお気持ちをくださったんだ。神さまもご覧になっていらっさる。きっと姫さまを腕にお抱きになれますよ。」
 貧民たちも口々に同意した。
 町方の長たちは呆れて物も言えないと、その様子を眺めた。


 刻限の鐘が鳴り響くのと同じに、向こうから王子の一行が現れた。いつもの執事と、大公から借りたのだろう、たくさんの護衛を従えていた。
「大袈裟だな。」
 トゥーリが失笑すると、老ヤールも苦笑して頷いた。
「下町にお出ましになるというので、用心のためでしょう。ああいう方は、お身を大事になさる。」
「こいつらは何もせぬわ。元は自分の民だろうに。何を怖れるのだ。」
「都はそういったものなのでしょうなあ。草原とは違う。狼はいないが、人が狼以上の魔物なのでしょうよ。」
 王子の一行が側まで来た。王子は駒を止め、トゥーリたちを見て鼻で笑った。
「イ=レーシ。随分簡素に現れたものだな。こんなおぞましい場所はとても恐ろしゅうて、少人数では来られん。そなたは勇敢だな。」
「何も悪さはしませんよ。いきなり襲い掛かるわけがない。」
「どうだか……汚いところだ。」
 王子は一瞥して、見るのも嫌だというようにそっぽを向いた。
「刻限が……過ぎていますが?」
 老ヤールが静かに言うと、王子は軽く笑って
「城に挨拶に参ったゆえにな。門の前で皆待っておる。そなたは参らなかったようだな。」
と言った。礼儀を心得ない野蛮な奴だと思っているのが、ありありと顔に出ていた。
「ここへ参れという話でしたから。」
 王子はトゥーリに蔑む視線をくれ、鼻で嗤った。
「まあよい。草原の者はそんなものだろう。早く始めよう。こんなところにいるのは我慢がならん。町方、始めるぞ。」
(自分がここから始めると決めたんだろうが!)
 トゥーリはそう言いたかったが、黙っておいた。

 町方の長たちが居並び、内門の下に二人を招いた。
「こちらの赤い石並びからでございます。」
 トゥーリは下馬し、王子に尋ねた。
「私の乗る馬は? 用意すると仰った。」
「おお! そうであったな。失念していた。」
 王子は護衛の間に入った。
 老ヤールは王子の馬を眺めて、こっそりトゥーリに耳打ちした。
「王子さまの馬。ラディーンの馬ですが、若くはない。おまけに、それほどいい馬でもないように見えます。目が死んでいる。ああいう目をした馬は走らん。」
「そうだな。驚いた。あんな馬にお乗りとはね。」
 老ヤールは苦笑し続けた。
「あれでは……。トゥーリさまなら、驢馬に乗っても勝てますよ。驢馬とは仰らなんだゆえ、馬には乗せていただけるのでしょう。」
 待っていると王子が馬も引かずに戻ってきて、残念そうに言った。
「執事が馬を連れて来るのを忘れた。ほんに仕方のない年寄りだ。どうしよう。」
 老ヤールは呆れた。
「話にもならない。ご随身に取りに戻らせてください。」
 王子はにやりと笑ったが、困った顔を作ってみせた。
「時が惜しいではないか。それに、イ=レーシは乗馬の名手なんだろう? 手綱を取れば、どんな馬でも風の脚だそうではないか?」
「……で、どうなさるのですか?」
 王子は辺りを見回し、執事を連れて外門と内門の間に駒を進めた。
「そこな、百姓! 藁束を積んだなれのことだ。」
 農夫がきょろきょろ見回し、自分のことだと気づいて、おずおずと返事をした。
「儂のことですか? ……」
 皆が一斉に農夫を見た。
「そうだ、なれだ。よさそうな馬を連れているではないか。その馬を借り受けたい。」
 農夫の荷馬車に痩せ馬がついている。
 農夫は自分の馬と王子を代わる代わる見て
「儂の馬っこをどうなさるんで?」
と恐る恐る尋ねた。
「イ=レーシが乗るのだ。」
 古い賜姓など農夫は知らない。きょとんとする彼に、側にいた商人が、この商人とて初めて聞いた身だったが見当をつけて、トゥーリのことだと教えた。
「ひゃあ! シークが儂の馬っこに乗りなさるんで? そりゃあまた……。儂の馬っこは力はありますがね、駆けっこなんかしたことありませんですよ。ちょっと無理でさ……」
「なれの意見など聞いておらぬ! さっさと渡せ!」
 厳しく命じられ、農夫は飛び上がった。慌てて荷馬車から馬を外し、王子の執事に渡した。
 固唾を飲んでやり取りを見つめていた町民が
「これは酷過ぎる!」
「ずるいぞ!」
「最初から、勝負も何もあったもんじゃない!」
と口々に叫んだ。
 王子は聞こえないかのように涼しい顔をして、トゥーリが馬を受け取るのを眺めていた。
 トゥーリは老ヤールと近習と一緒に、荷馬の様子を確かめた。痩せて疲れた馬である。田畑の耕作や荷馬車を引くには、これで充分なのかもしれないが、疾走するには向いていない。
(負ける……。いや、やってみないうちから、そんなことを考えてはいかん。)
 彼はその馬に乗ると、決心した。
 連れの二人は溜息をついていた。
「こんな駄馬……。驢馬に乗った方がマシですわ……」
「トゥーリさま……王子さまは初めから、こうなさるおつもりだったのですよ。」
 憎々しげに二人が言った。
「それでも約束したのだから、これに乗らねばならん。」
「しかし……」
「約束だから、これに乗るよ。それに、こいつは尻から後足の様子はそう悪くない。」
 トゥーリが慰めにもならない長所を見出して努めて明るく言ったが、二人は苦虫を噛んだような表情のままだ。
「止めても乗るのでしょうな。」
 諦めて老ヤールが言った。
「ああ。約束は約束だ。」
 トゥーリは自分の馬の鞍を外して、荷馬に載せた。鞍をのせるのも、馬銜を噛むのも慣れていないようで、馬は身動ぎした。宥めながら馬装を整え、赤い敷石まで引いた。
 彼は馬上の王子を見上げた。
「鞍は置いてもよろしいのでしょう?」
 緑色の瞳がぎらりと光った。
 王子は、挑むように見返して
「裸馬に乗れとは言わぬ。許す。」
と尊大な口調で言った。
 トゥーリは、馬の鼻面を撫でた。そして、馬の額に額をつけて囁きかけ、角砂糖を与えて騎乗した。
 それを眺めるヤロシュの目には憐みが浮かんでいた。
「よろしいでしょうか?」
 王子とトゥーリは駒を並べた。
 しんと静まった中、合図がかかった。




  Copyright(C)  2015 緒方しょうこ. All rights reserved.