天狼
1
冬の兆しが見え隠れする朝。
朝議が終わると、大公は十人のごく高位の貴族を居間に集めた。遅い午前の陽が射す温かい居間に、彼らは朝議そのままの順位を守って立ち並び、大公の現れるのを待っていた。
大公の成りは遅かった。
待ちくたびれ、間を持て余した彼らは
「何事であろうの?」
などと、小さく推量を始めた。
トゥーリも不審に思い、皆の話に聞き耳を立てたが、大した情報を持っている者はいなかった。テュールセンの公爵も、宮宰ですら首を傾げているのだ。
彼は大公が現れれば直ぐにも解ることであると、仲間に加わって詮索することは控えた。
扉が開いた。皆は押し黙り一斉にそちらに注目した。
大公は一人ではなく、アデレードとカーロイ・アドラーシ王子を伴っていた。
満足そうな笑顔の大公が、皆の間を歩いて行く。いつも通りに澄ました顔の、想いを窺い難い王子。アデレードは俯いていた。
彼女はトゥーリの前を通り過ぎる時、ちらりと目を上げた。瞳には怯えた色があった。
彼はこの集まりの意味を理解した。眩暈がした。胸が早鐘のように鳴った。血液が一瞬に足許まで下がるような心地がした。
周りを窺えば、他の者も解ったらしく、皆にこにこしている。彼は落ち着きなく、親指で人差し指の指環を弾いた。
大公が口を開いた。
「皆、突然の召集、驚いたであろう。」
彼は言葉を切って、貴族たちを眺めた。そして、上機嫌で
「今日集まってもらったのは、私の愛しい公女の婚約を、内々にそなたたちに相談したかったのだ。」
と言った。
相談と言っても報告と承認を得るだけのことだと、皆理解していた。
「私の長女、アデレード・コンスタンシアをアドラーシ家の王子、カーロイ殿下と婚約させようと思うが、皆はどう思うか?」
皆は両隣の者と笑顔で頷きあっている。トゥーリは隣の者を構うことも忘れ、俯いたままのアデレードを食い入るように見つめた。
「それはまことによいお考え! 賛成であります。」
宮宰が真っ先に答えた。
「公女さまがよいとお思いなら。」
テュールセンの公爵も賛成の意を示した。
皆はめいめい、いい話だとか、めでたい話だとか言っている。トゥーリにはそれが遠くに聞こえた。
(これは、卒倒するというやつの前触れかもしれん……)
彼は首を軽く振って、その感覚を振り払った。改めて彼女の様子を見つめたが、少しも嬉しそうには見えない。彼女の意思など考慮されず、押し切られて決定されたことのように思えた。
リュイスなどは彼女の意思を尊重するはずだと言い、彼も希望的に信じた時もあったが、君主の子女の結婚はこういうものなのだと知らされた気がした。
(アデルは、大公さまの決めた相手と結婚すると。そいつと仲睦まじくできると言っていたじゃないか……)
彼は自分に言い聞かせた。
(嬉しそうではないなどと、俺の思い込み……)
しかし、どうしてもそうだと思えなかった。
(怯えている。助けて欲しいと言っている……俺に!)
大公は、皆が賛成しているようだと判断した。
「では、カーロイさまとアデレードの婚約は皆の認めることとして……」
トゥーリは一歩前に出た。九人の貴族の視線が集中した。
「その婚約、待っていただきたい。」
皆は驚き、隣の者と小声で話し合った。そして批難するような目で彼を見た。
宮宰は顔を顰め、彼を咎めた。
「何を申しておる。」
彼は宮宰には応えず、見もせずに大公の正面に立った。
「私は認めない。」
居間が静まり返った。
「私は公女に求婚する。」
彼は静かにそう言って、深々と首を垂れた。
皆、唖然として言葉がない。
彼は皆の様子をずらりと眺め、アデレードを見た。煌めく青い瞳が彼を見つめ返していた。
彼は正しかったのだと確信し、微かに彼女に笑いかけた。彼女は唇を震わせ、目を伏せた。
彼が彼女の返答を尋ねようとした時、宮宰が彼の前に割り込んだ。
「また……この愚か者は! この話はもう纏まっておるのだぞ?」
呆れた表情で、嘲るようだった。
七人の貴族たちは口々に、今更何事かと囁き始めたが、宮宰のように厳しく責める者はいなかった。
トゥーリは大軍勢を持っている上に、豊かなラザックシュタールの主である。そこを経由せねば、諸国からの文物は、ほとんど自分たちのところには届かない。恨まれて仕返しをされることを案じているのだ。
彼らはそれとなく、引き下がるように諭した。
「これは困った。ラザックシュタールさまにも認めてもらわねばならない話ですよ? どうしたら納得していただけるのかな?」
テュールセンの公爵は、求婚を撤回させるのは得策ではないと思った。
「大公さまは以前、アデレードさまのご意向を尊重なさると仰っていたと記憶しております。アデレードさまは、シークの求婚をどう思っておられるのかお尋ねしましょう。どうです?」
アデレードが覆すとは思えない。彼女の口からその求婚はならん、王子に嫁ぐと言われたら、さすがに諦めると考えたのだ。
皆が一斉に彼女に視線を移した。王子も、彼女の顔を覗き込んだ。
長い間があった。彼女は何度も溜息をついた。
「その求婚……」
どうしてもその後が繋げなかった。
王子は柔らかに非難した。
「姫は、私と婚約することに、踏切りがつかないのですか? イ=レーシの申すことに迷うほど。」
王子は、大公が決めた上にほとんどの者が承認に向いているこの婚約を、彼女が拒否できないと知っている。知っていながら聞く王子が、彼女は益々嫌いになった。
彼女は王子を一瞥しただけで、答えなかった。今できる精一杯の拒否だった。
王子はくすりと笑った。
「これは……どうあっても、イ=レーシの挑戦に応えねばならないらしい。」
「応えるとは、どうなさるおつもりですか?」
誰かが尋ねると、王子は微笑んだまま
「古来、男が男を従えようとするならば……戦うしかないではないか。」
と答えた。
九人の貴族たちは一斉に、驚きの声を挙げた。
大公が皆を鎮め
「戦うなど……殿下は、武芸の心得がおありなのですか?」
と尋ねた。
王子は困ったといった表情をして見せたが、すらすらと応えを返した。
「私は剣など持ったこともない。弓も引いたことがない。ただ乗馬は好きだ。比べ馬をするとしよう。」
誰かが失笑した。
「草原の者に比べ馬など……」
他の者も苦笑いしていた。
テュールセンの公爵は笑いもせず、王子に話しかけた。
「草原の武芸の名手を歌う詩がありますが、一節変わったのをご存じですか?」
「そんな歌は知らない。」
ぞんざいな答え方だった。
「剣技、弓、馬、槍鉾など、ひとつひとつに手練れの名前を挙げていく歌なのですが……ご存じない?」
「知らぬな。」
「“馬の誉れはアナトゥール 手綱を取れば忽ちに どんな馬でも風の脚”。このアナトゥールとは、御前におるアナトゥール殿のことですよ?」
宮宰も止めるように勧めた。
「王子の乗馬の腕も素晴らしいでしょう。しかし、これは少しお考えになる必要がありますな。」
そして、トゥーリの方を向いては、憎々しげに
「世迷い事を申しおって。さっさと撤回せんか!」
と怒鳴った。
トゥーリは、静かな声で拒否した。
「撤回などしない。王子は馬と仰った。」
王子は少し悩む様子を見せ、困った顔で
「しかし……その歌が大袈裟でないのなら、私には不利である。イ=レーシは、素晴らしい草原の駿馬に乗るのだろう? 私のラディーンの馬も悪い馬ではないが、今から引けを取らぬ馬を探すのはね……。草原の者は、私たちに駿馬を売りたがらない。こういうことならば、尚のこと。駄馬でも売ってくれないだろう。とても敵わないかもしれない。」
と言った。
皆口々に反対した。
「そうですとも!」
「お考え直しあれ。」
王子は全て無視し、自分の発言の続きを述べた。
「かといって、何か他の手段は思いつかない。まさか将棋で? 姫は将棋のご褒美になりたいですか? そんなみっともない話は、お伽話以外に聞いたことがありませんね。」
そして、くすくす笑っている。アデレードはぎっと睨んだ。
だが、浮世離れして、表情の読みにくい王子ゆえに、冗談ともそうでないとも判然としない。皆は黙って聞いていた。
「イ=レーシには、少し負荷を与えよう。」
「どんな負荷です?」
テュールセンの公爵が尋ねると、王子は
「イ=レーシは、私の選んだ馬に乗るのだ。」
と答えた。
全員が卑怯だと思った。
テュールセンの公爵は、皆の思いを代弁した。
「それは……こういう場合は、距離を長く与えるか、時間を遅らせて走り始めさせるとか。そういう負荷になさらないと……。失礼を承知で申しますが、不公平ではありませんか?」
「不公平などない。イ=レーシは挑戦するのだ。この期に及んでのこの仕儀なのだから、私の申す通りにせなばならん。それに、どんな馬でも風の脚と申したではないか。」
表情は柔らかなままだが、断固とした物言いだった。
トゥーリは何か企んでいるとは思ったが、馬なら勝機があるかもしれないと思った。
「テュールセンさま、ご配慮ありがとうございます。私はそれで結構です。」
王子はもうひとつ提案した。
「どうせだから、華々しく行おう。都の大路を駆け抜けるのだ。北の大門から城まで戻る。先に城門に達した方が勝ちだ。姫に求婚する権利を持つ。」
貴族たちが、トゥーリの顔を窺った。
「よろしいでしょう。」
「町屋の者が邪魔にならぬように、皆で図れ。……イ=レーシ。石畳ゆえ、蹄鉄を打った馬の方がいいだろうな。」
王子は唇の端を上げ、皮肉な笑みを浮かべた。
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