黒衣の女
10
続いていた記念行事の最後を締めくくる、盛大な祝いの宴が催された。
トゥーリはアデレードの姿を探した。長年そうしてきた彼にとって、既に無意識の行為になっていた。すぐに見つかったが、彼は後悔した。
彼女は遠く向こうで、若い公達や姫君と談笑していた。その中に加わりたくとも出来ない。
(今は……近くに寄るべきではない。いつか、お互いに構えなく向き合えるようになるまで……)
一旦はそう思って、前を向くように自分を励ましたが、溜息が出た。そんな日が来るとはとても思えなかった。
今晩の彼には連れの姫君はいない。彼もまた、話しかけられるのを拒否するかのようだった。
皆が広間の扉に注目した。
恭しく案内されて入ってきたのは、アドラーシのカーロイ王子だった。
王子は一直線にアデレードに近寄り、挨拶をした。何か話しかけている。彼女が笑っているのを見て、彼の心は疼いた。
だが、嫉妬したところで仕方のないことなのだ。これからも、そのような光景を眺めることになる。その度に嫉妬心を疼かせるわけにはいかない。
(身が持たないぞ! もし、アデルが結……)
“結婚することになったらどうするのだ? ”という自問すら、恐ろしくて皆まで思い浮かべられなかった。
王子がトゥーリの方をちらりと見て、アデレードに何か言った。彼女の手を取り、彼の方へ歩み寄ってくる。
彼は声を掛けられるのだろうかと思い、不自然に思われないように気構えした。
しかし、王子は顎をそびやかして彼の顔を見、軽く笑っただけだった。彼女を伴って庭園の方に去った。彼女は俯き彼の姿すら見なかった。
(さようならと告げたのだから……今はまだ……)
彼女もまたそう思っていた。
トゥーリは王子を睨み、溜息をつくとその場から離れた。
王子は、アデレードの座る腰掛の横に立ち、庭園を眺めながら
「狼が……」
と呟いた。
彼女は彼を見上げた。
「狼が喰いつきそうな目で私を睨んだ。」
感情の読みにくい王子にしては珍しく、不愉快さが顔に出ていた。
「緑色の目をした狼もいるのですね。」
彼が唇の端を歪めた。そして、彼女をじっと見つめた。
「緑色の瞳の者は、情愛が深すぎるほど深いとか……。本当でしょうか? 姫はどう思いますか?」
彼が誰のことを言っているのかは判っていたが、彼女はどう返答をしていいのか解らなかった。
「さあ……」
彼女はできる限り軽く言った。彼は目を離し、また庭園を眺めながら
「深情けは辛いものですね。掛ける方も掛けられる方も。」
と独り言のように呟いた。
トゥーリは、庭園とは逆の壁際に、ギネウィスがぽつんと座っている姿を見つけた。どうしたわけか安堵した。側に歩み寄り話しかけた。
「ギネウィス。一人?」
「わたくし、いつも一人ですわ。あなたと違って。」
意外にも、彼女は逃げもせず無視もしない。彼は、二度と近づかないと言ったことを思い出したが、忘れたふりをした。
「私もいつも一人です。」
「何ですの?」
素っ気ない応えが返ってきた。彼女は目の前の彼ではなく、その先の広間を眺めたまま応えていた。それなのに、彼は益々安心感を覚えた。
「寂しいのです。ずっと一人で。」
それは彼の本音だった。彼女は白々とした答えを返した。
「……若い姫君のところへおいでになれば、寂しくありませんわ。」
「あなたがいいのです。」
「もう終わったと申し上げたでしょう?」
彼女はやはり、視線を合わせようともしない。
「誇り高いギネウィス。確かにそう仰ったけれど、今も瞳の奥が潤んでいるよ。」
彼女はぎくりとした。話しかけられた時から、心穏やかというわけではなかった。ばれたのかと焦ったが、彼の悪い冗談かもしれないとも思った。とにかく彼の一番嫌がることを言って、早く退散させようと思った。
「……そうなら、あなたによく似た方を思い出したからです。」
彼はにっと笑った。彼女の意図通りにはならないと、挑む気持ちだった。相応しからぬほど親しげな言葉で話しかけた。
「見て。ますます似てきたでしょう? あの頃より背も伸びたし、この長すぎる髪も父さまの真似だよ。両脇も肩で切りそろえた。父さまはそうしていたってね。おまけに今日は、父さまの衣装箱をひっくり返して、出てきた服を着てきたんだ。体つきもほぼ同じなんだね。誂えたようにぴったりだよ。」
服云々の話は本当だが、特に意味はなかった。とても美しい作りだったから着たまでのことだった。
彼女は不愉快そうな顔で、彼の格好をさらりと眺めると
「……何故そんなことをなさるの?」
と言って、また視線を逸らした。
「あなたに見せるため。どんな顔をするかと思って。嬉しい? それとも苦しい?」
「子供みたいな悪戯をなさるのね。嬉しくも苦しくもありません。呆れただけ。」
「呆れないで、よくご覧なさい。寸分違わぬ複製でしょう?」
彼女は見もせずに、冷たい言葉を返した。
「複製だなんて……。あなたはあなた、お父さまとは全然違います。別人です。」
「別人? そう思う? 何処が違うか教えて。」
彼女の視線の高さに、ちょうどいい違いがあった。
「ほら、指環が違います。」
「他には?」
彼女は、彼の策に乗ってはいけないと視線を低く据えまま、左手の指環を探りながら
「瞳の色だって、あなたの方が碧い。」
と答えた。
言った直後に、彼女は拙いことを言ったと悔やみ、すっと左手の上に右手を重ねた。
だが、彼は不自然な仕草に気づいた。緑色の大きなベリルの指環がちらりと見えた。それが何を表しているのかも、類推できた。急に切なさが込み上げたが、負けるものかと自らに挑んだ。
「“指環”か。後学のために尋ねておきましょう。父さまは、どんな指環をしていたの?」
彼女は彼の右手の人差し指を見つめ、恐ろしげに目を逸らした。
「血のように赤い柘榴石。……草原の巫女は恐ろしいわ。細工は全く同じ。石だけ違う指環をあなたに与えたのね。もうそれ自体、予言めいている。そっくりな父と息子。でも魂の色は違う……」
「次は、柘榴石の指環をして来よう。」
彼が皮肉な笑いを浮かべると、彼女は吐き捨てるように
「愚かなことを……」
と言った。
彼は長椅子の隣に座った。彼女は逃げなかった。
「他に何がお気に召さないの? 見た目も同じ。声も同じだと言われる。歳は少し若いけれど。」
「お父さまは、そんな悪戯をなさいませんでした。」
克服したと思ったのに、また父親に対する嫉妬の気持ちが、じくじくと疼いた。
「もっと落ち着いていた? 私のように浮ついていなかった?」
「同じ声ですって? 話し方が違いますから、同じには聞こえませんわ。あなたはRの発音が明るくて軽い。それに、Cの音を弾く。」
「そんなことまで覚えているの! ラザックの訛りか。父さまの乳母は、ラディーンだったのかな? さぞかし、綺麗な発音だったのでしょうね。」
「あなたも綺麗な発音をなさいます。」
「あなたが教えたのではありませんか。覚えているでしょう? あなたにはいろいろ教えていただいた。草原の田舎から出て来た羊と馬しか知らない子供に、話し方、宮廷での振る舞い方、優雅な遊びの数々、花の名前に至るまで教えてくださった。あなたが私の先生でした。」
「嘘。あなたは、何でもご存じでしたわ。」
「知りませんでしたよ。こんな話は嫌ですか? 父さまとはどんな話をしたの? 教えて。父さまは、どんな風にあなたを口説いたんだろう?」
彼女が嫌がっていることは、百も承知だった。
「お父さまは、わたくしを口説いたりしません。彼の恋人は、あなたのお母さま。」
「母さまは、父さまのことを何も教えてくださらないから、あなたが教えて。一番印象的だった言葉は?」
彼女は無感情に
「“泣かないでギネウィス、ソラヤを愛しているのだ”。」
と言った。
嫌がっているのに応える彼女の気持ちが、彼には不思議だった。更に応え難いことを言って、もっと嫌がられてみたかった。
「泣かないでソラヤ、ギネウィスを愛しているのだ。」
「つまらぬことを……。楽しいの?」
彼女は眉を顰めた。彼は笑いながら
「割と。あなたが厳しい顔をなさるから。そのきつい顔が好きなのです。」
と言った。
彼女は溜息をつき、苦笑した。
「お姿は似ていらっしゃるけれど、中身は全然。あなたは何をなさっても……生気に満ち溢れていらっしゃるわ。熱っぽくて……。お父さまはまるで……ご生涯の短いのを悟っていらっしゃるように冷めていらした。あなたは長生きなさりそう。」
「そうですか。お教え通り、せいぜい長生きしましょう。色々なことを本当によくご存じですね。……ね、また教えて。」
「何でもご存じでしょう? 何をお教えできるというのです?」
彼はふっと笑い、彼女を見つめた。
「女の抱き方。忘れてしまったから、もう一度、最初から教えて。」
彼女はさすがに怒りを覚えた。
「お断りしますわ!」
だが、彼の予想は外れ、彼女はそれ以上声を荒げることはなかった。
「……どうなさったの、今晩は?」
「どうもしない。前に私の屋敷にいらした時は、そんなに冷たくなかったのに。あなたこそどうなさったの? 他に恋人ができた?」
「いませんわよ。いくつだと思っているのです?」
「若くて美しいですよ。あの頃と全然変わらない。ね。私のことをご覧なさい。あなたの愛しいローラントだよ。今なら手に入る。」
彼は今度こそ、彼女が嫌悪感を露わに怒鳴り上げるだろうと期待した。
彼女は顔を歪め、小さく呟いた。
「……残酷なことを……」
それは、彼女自身の過ちに対して呟いた言葉だった。
「“泣かないで、ギネウィス。あなたを愛している”。口づけして。」
彼は、かつて口にした言葉を言った。彼女は罰を受けているようだと苦しくなり、黙り込んだ。
祭司長はようやくトゥーリを見つけた。隅で女と寄り添って親しげに話をしているのを見て、頭に血が上った。
(私の妻だけに飽き足らず……)
しかし、初老に差し掛かっている身が、激情に任せる様子を見せるわけにはいかない。ゆっくり歩み寄り、穏やかに話しかけた。
「ラザックシュタールさま、先日は立派な細工物をいただき恐悦です。お望みは叶いましたか? 不思議なお願いでしたね。」
トゥーリは、フレイヤの夫を見上げた。穏やかな言葉とは裏腹に、瞳の奥に暗い怒りがある。
だが、特段慌てる気持ちもなかった。露見したのだろうと、事実を認識しただけだった。ただ、はっきりと言わないのが癪に障った。
「何だったかな? 忘れてしまったよ。」
恍けてみせると、祭司長は笑みを浮かべた。
「“愛しい女神よ。今日も私は、あなたの為に、私の犬に鞭を入れなくてはならない”。草原では、犬に鞭を入れるのですか?」
「ああ、そうだったね。そういう文句を書いた。……足の遅い猟犬は、しっかり罰を加えねば働かなくなる。」
「お持ちの猟犬は、雌が多いのですか?」
「雌の方が忠実なんだよ。さかりがつくと始末に困るけれど、しっかり管理しているよ。つまらん雄とつがわないようにね。」
「つがいの相手が、あなたのお気に召さなければ、引き離すのですか?」
「そうだな。獣に喰いつかない雄、尾を足に挟んだ臆病な雄、年寄りの雄では、つがいにする意味がない。若くて、元気で、勇敢な雄と掛け合わせるよ。」
トゥーリが白々と犬の話をするのに、祭司長は怒りを露わにした。
その雌犬は自分の妻なのだろうと、言いたかった。そして、つまらない雄とは、自分のことを言っているのだと思った。
「残酷なことを仰る……。その調子で、その美しい顔と声で……」
祭司長は手袋をもどかしげに脱いだ。しばらく見つめて思い悩んでいたが、それをトゥーリの足許に投げた。
トゥーリは笑った。
「決闘? そなたと決闘するいわれはない。」
「この期に及んで……言い逃れはできないぞ。」
祭司長が低い声で凄んだ。トゥーリは落ち着き払っていたが、ギネウィスは動揺した。
「祭司長、お控えなさい! シークに決闘を申し込むなど……」
トゥーリは彼女を遮り
「誤魔化す気はない。そなたが勢い込んでくるわけも察しがついているが、それでどうだと言うのだ?」
と薄く笑いながら言った。
彼女は心配そうに彼を覗き込んだ。
「アナトゥールさま、何をなさったの?」
「別に。」
その冷めた言い様に、祭司長の怒りは頂点に達した。
「……よくも白々と。あなたは私の名誉ばかりか、ご聖殿を穢したのだ。草原の者は、とかく神をないがしろにする。」
「そう言うたものでもないぞ。私の父は“テュールの愛し子”であった。ご縁日に犠牲をささげて崇めているよ。」
祭司長は大声を出した。
「父親も血腥い行いを繰り返す男だったが、息子も息子で神をも畏れぬ不敬の輩とは!」
ギネウィスはぎょっとした。祭司長が、亡くなった者を、それも高位の故人を罵倒するなど聞いたことがない。
「ギネウィス、手袋を貸せ!」
トゥーリは、彼女の手袋を強引に奪って、祭司長の顔に叩きつけた。
「父を辱めるな。たかが祭司長が無礼な! フレイヤの為に戦うのなら、俺は父の名誉の為に戦う。」
彼女は更に驚き、立ち上がろうとする彼の肩を抑えた。
「この方は神職なのですよ? 決闘などお止めなさい。」
「そうであったな、勇ましき祭司長よ。決闘は何でするのだ? 物語にあるように、将棋でも指すのか?」
「ふざけるな!」
トゥーリは構わず、彼女に尋ねた。
「ギネウィス、私の腕前で彼に勝てますか?」
彼女は困った顔でトゥーリを窘めた。
「あなたの手はあざといわ。こんな時もね。少しは真面目にお話なさって。」
そして、祭司長には、分別盛りの身ならば判るだろうと目配せした。
「……祭司長、治めなさい。」
「尊い貴婦人の取り成しはありがたいのですが、この慮外者には我慢がならんのです。」
「聞き捨てならんな。お前も勇猛をもって古の王朝に仕えたロングホーンの末裔ならば、剣と馬をもって俺に臨め。」
「アナトゥールさま、お止しになって! 祭司長ですのよ? 武芸の心得などありません。」
彼女は慌てたが、彼は鼻で笑っただけだった。
「祭司長も。ずっとお若い時から、シークは戦に出てきたのです。敵いませんよ。」
トゥーリは高笑いした。そして、瞳をぎらりと光らせた。
「切り刻んでやるよ。」
祭司長は悔しそうに俯いた。
「だが、今晩はならんぞ。酔っている。手元が狂っては、更に苦しい死を与えてしまうかもしれないからな。」
祭司長は真っ赤な顔をして、必死に感情の爆発を堪えた。
しばらくの後、祭司長は暗い顔を上げ、低く呟いた。
「ラザックシュタールの侯爵……ラザックとラディーンのシーク、アナトゥール・ローラントセン。決して汝の愛は成就することはない。祝福もされない。毎晩違う女を抱いては、虚しさと苦さに嘆きくれよ。」
呪いの言葉だった。ギネウィスは口許に手を当てた。
トゥーリは彼を睨みつけ、怒鳴った。
「そんなもの、今までとて成就したことがないわ! 一度たりともな! お前が黒い祝福を与えるまでもない!」
その激しさに祭司長は怯み、踵を返して去った。ギネウィスも怯んだが、哀しそうな目でトゥーリを覗き込んだ。
広間の皆が、彼を恐ろしそうに眺めては、ひそひそ話をしていた。
彼は立ち上がり、彼女に微笑みかけた。
「帰ります。」
「お帰りに?」
「ええ。それとも、あなたのところへ行ってもいいの? あの大きな寝台に上げていただけるのかな?」
「寝台を換えましたの。小さいのに。私一人で一杯ですわ。」
「身を重ねて寝たら大丈夫ですよ。……嘘です。困った顔をなさらないで。」
彼女はどう言っていいものやら解らず、黙り込んだ。
「私はいつも恋が上手くいかないようです。」
彼が軽い調子で言うと、彼女は苦しそうな溜息をついた。
「今のあなたは、群れからはぐれた鳥みたい。寂しいからって、誰にでも歌ってはいけないわ。……ご自分に素直になられないと。」
彼は心の中で、彼女に問いかけた。
“そう言うあなたは素直なのですか? ”
「あなたにも振られたし、屋敷に帰って寝ましょう。一人でね。“いずれまた”。」
彼女は苦い顔で
「……ごきげんよう。」
とだけ言った。
(もうやがて、草原に帰る。草原に戻れば……)
トゥーリは、緑滴る故郷が癒してくれることを期待した。しかし、それが叶わないことも知っていた。
実際、戻った草原は緑萌える春であるというのに、色の無い世界にしか見えなかった。
心が砂漠のように渇いていく。
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