9

 草原は都の南、国の南半分。草原に深く抱かれるラザックシュタールは、都の遥か南にある。
 春また浅い都とは違い、もう春爛漫だ。地平線の果てまで新緑の絨毯が広がり、そこかしこで、白い野いちごの花が綻んでいる。
 蒼穹は柔らかな光に満ち、乾いた穏やかな風が草を揺らす。
 至るところで、生まれたばかりの子馬や子羊が跳ねる。ゆったりと草を食む馬群や羊の群れ、それを騎馬の牧人が見守る。
 日常極まりない光景にも、春独特の喜びに満ちた空気が感じられた。最も美しい季節とは、決して言いすぎではない。
 近年の草原の気候は、穏やかで安定している。家畜の育ちもよく、氏族間の争い事も少ない。多くの隊商が草原の街道をひっきりなしに往来していた。

 町方の者や庄屋、商人、隊商などが訪ねてくるのも一段落すると、トゥーリは早速二人の弟を呼んだ。
 弟たちは、彼が帰った日に
「お帰りなさいませ。」
などと居並んで挨拶をしていた。
 だが、何分夜更けのことだ。彼は一瞥して
「出迎え大儀。」
と言ったきり。
 ラザックシュタールに帰ってからの兄弟の会話はそれだけだった。
 程なく二人が現れた。
「お呼びですか?」
 何やらおどおどしている。トゥーリは、二人ともが大きくなったように思われ、じっくりと様子を観察した。
 ヴィーリもだが、ミアイルは見違えるほど大きくなっていた。
 トゥーリとは全く違う、金髪で青い瞳の弟たち。著しく背の伸びたミアイルは、遠目ではヴィーリと見分けが難しいくらいだ。
(……よく似た兄弟。)
 それは、感心だけではなかった。
 ヴィーリがするりと膝をつき
「尊きシークにはご機嫌麗しく……」
と堅苦しいことを言い出した。
「兄に形式的な挨拶も、つまらん社交辞令も必要ない。」
 トゥーリはむっつり制したが、ヴィーリは
「申し訳ございません。」
とまた堅苦しいことを言った。
「立て。」
「はい。申し訳ございません……」
 ヴィーリはようやく立ち上がった。
「申し訳も何も、それしか言うこと知らんのか? ……他人行儀な弟だね! どうしたのだ? 去年は好き放題ものを言っていたくせに。頭でも打ったのか? 気にせず、好き放題言え。」
 兄の言い様を聞いて、ヴィーリは言い返しそうになったが堪えた。
「母上が……兄弟であっても、兄上はシークなのだから、そろそろけじめをつけろと仰って……」
「堅苦しいって言っているんだよ! ばばあの言うことなど、聞かんでよろしい。」
 応えに窮するヴィーリに、ミアイルが小声で囁く。
「大きい兄さまがああ仰るから、ヴィーは普通でいいのではない?」
「でも、母上が……」
 ヴィーリは、母の言うことを尊重する傾向が強かったが、今年もそのままだ。反抗する気概もないのかと、トゥーリは呆れた。
「お前は相変わらずだな!」
 ヴィーリは困った様子で俯いた。
「最近は身体の調子はどうか? 春先と秋口はあまり良くなかったが?」
「もうそういうことはなくて。兄上がお帰りになるちょっと前かな、風が強く吹いて急に寒くなった日に少し……」
「そうか。良かった。……お前が赤ん坊の頃だな。隣で寝ていると、夜中にお前の胸の音でよく目が覚めたよ。」
 赤ん坊の時だけではなかった。トゥーリが草原にいる半年の間にも、幼いヴィーリは咳病に苦しむことが度々あった。
 息をするのも苦しく、横にもなれず、枕を背中にして半身を起こして寝台で過ごしている子供の頃の姿が、トゥーリがまず思い浮かべるヴィーリの姿だった。
「木枯らしみたいな音?」
「そう。とても苦しそうで、俺はお前が死んでしまうのではないかと怖かった。」
「ここ数年は、そんな酷い咳も出ないよ。去年だって、元気だったでしょう? 医師が言うには、大人になったから治ってきたのだとか。息が詰まるような感じのはもうない。」
 ヴィーリの言う通りだ。去年の“大冒険”を思い出し、トゥーリは失笑した。ヴィーリも察して笑っていた。
 トゥーリは弟の前に立ち、自分の背と比べてみた。去年は彼の方が頭一つ高かったが、弟の背は鼻の辺りまで伸びていた。
「寝込むこともなくなり……随分背も伸びた。」
「ヴィーはね、この前、ラザックのヤールと一緒に、街道筋の盗賊を討伐に行ったの!」
 ミアイルが自分の手柄であるかのように、目を輝かせて言った。
「それは聞いた。しっかり働いたと母上からも書状が来た。よほど嬉しかったのだろう。あの病気がちだったお前が荒事をね……よかった。」
「ありがとう、兄さま。」
 ヴィーリが照れくさそうに笑うと、ミアイルがまた話に割り込んだ。
「それでね! ヴィーはこの前、大きな鹿を獲ってきたよ。広間に角が飾ってあったでしょう? あれはヴィーが仕留めた。」
「立派な角だった。」
「凄いでしょう! 美味しかったよ。大きい兄さまも少し早かったら、一緒に食べられたのにね。残念。」
 末弟は当人よりも誇らしそうだ。兄二人は苦笑した。
「ミアイル、兄上は都でお忙しかったのだ。仕方ないよ。」
「早く帰りたかったんだがな。」
「でも、楽しかったなあ……」
 ヴィーリは、居なかった者の前で楽しかった話をしないだけの分別を身に着けていた。
「ミアイル、もうおよし。」
 だが、トゥーリは気遣われるほど不愉快ではなかった。むしろ、居なかった間の弟たちの生活を感じたかった。
「別にいいよ。お前ら、実に仲がいいね。」
 ヴィーリは微かに頷いただけだったが、ミアイルは胸を張り
「うん!」
と言った。いかにも誇らしそうだ。
 二人の兄は一頻り笑った。ミアイルは自分の応えを笑うわけがわからず当惑していたが、やがて照れくさそうに笑った。
 トゥーリは、ヴィーリの髪が捻じれて編まれているのに気づいた。
「ヴィー、髪が途中から……」
「ああ、本当だ。俺は昔から苦手でね……」
 ヴィーリは髪をほどいた。ミアイルが近寄り、ヴィーリの櫛を取り上げた。
「ヴィーは下手くそだよね! ぼくがコツを教えてあげるよ…ここを……」
 ミアイルは器用に櫛を扱い、ささっとヴィーリの髪を三つに分けて、編み始めた。
 兄に偉そうな口調で何やら教えを垂れている。トゥーリは微笑ましく思い、笑い声を挙げた。
 しかし、彼はすぐに笑うのを止め、黙って二人を眺めた。
 子供の頃から何千回となく苦々しく思ってきたことを、再び思い浮かべていた。そして、弟たちとは似ても似つかぬ黒い髪をこっそり見た。
 母と同じく金髪で青い瞳に生まれついた弟たち。あと数年したら、双子のように似た兄弟になるだろう。
 何となく思ったことが、思いのほか彼の心に重くのしかかった。
(黄金の髪だったら、全て解決すると思っていた。愚かなことを……)
 二人はまだ髪の編み方について話し合っている。仲睦まじい弟たちの姿は、兄弟とは本来こうあるものだと語っていた。彼の心に、急速にある種の焦りが湧き上がった。
(一緒に育ったからだ。俺は離れてしまったから……)
 そう言い聞かせても、強い疎外感があった。

 トゥーリは、楽しそうに話している弟たちの間に入りたかった。せめて半年の隔たりだけでも埋めたいと思った。
「ヴィーは何だか……大人びたか? 昨年の夏とは、様子ががらりと変わった。」
 ふと思いついたことを言ってみると、またもやミアイルがヴィーリより前に答え始めた。
「ヴィーはね、恋をしているんだよ! ラザックのヤールの姪にご執心。」
 慌ててヴィーリが咎めた。
「ミアイル! 変なことを言うな!」
「ヤールの姪?」
 気まずい顔をするヴィーリなど目もくれずに、ミアイルは得意げに暴露を続けた。
「ヤールの弟の……何番目の弟かな。同腹の弟だよ。“ニガヨモギの丘”の氏族のヤール、彼の一番上の娘だよ。ナディーシャといって、とても綺麗な子。大きい兄さま、知らない?」
「知らない。」
「栗色の髪で瞳は変わった色、夜明けの空みたいな色だよ。長い靴下を履いたような脚の白い鹿毛の馬に乗っているよ。」
 すっかり語られて、ヴィーリはますます俯いた。
「どういう付き合いをしている?」
「別にどうといって……」
 ヴィーリは照れくさくて堪らず、言葉が出てこなかった。また代わりにミアイルが、くすくす笑いながら話し出した。
「ヴィーは今年の初め頃から、出かけると帰りが遅いの。とうとうこの間は、屋敷に帰ってこなかった。」
 ヴィーリはそっぽを向いた。目許が赤くなっていた。トゥーリは初々しく思い、失笑した。
 兄の笑い声を聞いて、ヴィーリは声を低め悔しそうに呟いた。
「ミアイルのやつ! 余計なことを……」
「そのナディーシャのところへ泊まったのか?」
 トゥーリは、判り切ったことをわざと訊いた。案の定、ヴィーリは答えられない。
「いいよ。お前には草原から妻を迎えて、一氏族を任せようと思っていたのだから。」
「……はい。」
「お前はそういうことは奥手……いや、真面目な方なのではないかと思うが、その娘と何がしか言い交したことはあるのか?」
「まだ、そこまでは……このままなら……それでもいいかと思う……」
 ヴィーリはぽつぽつ答えた。それだけ言う間ににもどんどん顔が赤らんでいく。
 ミアイルは面白い話になったとばかりに、にやにやしながら聞いている。
「結婚するつもりか? 娘はどう思っている?」
「その……ナディーシャは何も言わないけど……他に心惹かれる男もいないようだし、俺のことは嫌いではないみたいだし……」
 ヴィーリの声は徐々に小さくなり、言葉も弱々しくなっていった。最後には
「大人しい娘だから……よくわからん。」
とぼそりと言って、拗ねたような顔で俯いた。
 トゥーリは溜息をついた。真面目な弟は慎重過ぎる上に、事を運ぶのが下手くそだと焦れた。
「情けない……。早く結婚してくれと言え。まどろっこしいことをしていたら、他の男に気が向いてしまうかもしれんぞ。父親はどんな調子なんだ? 文句を言われたか?」
「父親は何も言わない。」
「なら……ああ、母上か。知っているのか? 知っているのだろうね。ミアイルがおるからには。」
 ミアイルに釘を刺す視線を送ると、彼は肩を竦めた。
「薄々とは……何も仰らんけど。」
 トゥーリは扱いの差に苛立った。
「まったく! ばばあは、俺以外には甘いんだな!」
 弟たちはぎょっとして彼を見つめた。母親に親しんでいる二人には聞き苦しかったのだ。
 彼は取り繕った。
「……何でもないぞ。こっちの話……。不都合ない話と思っているのかもな。今すぐ結婚するわけでもないのだろうからな。」
「はい……」
 ミアイルは待ちかねたという風に大声で祝福した。
「ヴィー! おめでとう! 大きい兄さまのお許しが出たよ!」
 ヴィーリはミアイルを睨みつけた。
「自分で言おうと思っていたのに……」
とぶつぶつ呟いている。
 トゥーリが考えてやる必要もなかったのだ。ヴィーリは自ら将来を考える相手を見つけ出していた。今後も、自ら道を開いていくだろうと思えた。

 問題はミアイルである。トゥーリは厳しい顔を作り、末弟を見据えた。
「ミアイルよ。お前は本当におしゃべりだな。ちっとは口出しを控えんか。お前のこと、先についてだが、考えがあるのだ。」
「えっ? ぼくのこと?」
「行儀よくしておくれよ。お前は草原から出す。」
 ミアイルは言葉を失った。不安げそうな顔をしている。
「先日、都の伯父上、ヘルヴィーグさまに、お前のことをお願いしておいた。お前は、大公さまのお側に行くことになる。」
「……今すぐ?」
「今はまだ行儀がなっておらんゆえ、しばらくは伯父上のところで、恥ずかしくない立居振舞を学ばねばならん。どうも……長くかかりそうだね、その様子では。秋には都に発てるようにしておけ。」
「はい……」
 先程の様子なら、多少は言い返すだろうとトゥーリは覚悟していたが、全くそのような風ではない。そればかりか、眉間に皺を寄せて考え込んでいる。彼は訝しく思い
「不満なのか?」
と訊いた。
「……いえ……」
「急に元気が無くなったぞ?」
 先程とは逆に、今度はヴィーリが代わりに応えた。
「兄上、ミアイルは甘えん坊ゆえ。ラザックシュタールを去るのが心細いのだよ。」
「甘えん坊なのはよく知っている。いつまでもそれではいかん。」
「だって……」
 ミアイルは助けを請うような目をヴィーリに向けた。向けられた方も、宥めるように頷きかけている。
 トゥーリは苛立ち、叱りつけた。
「だってもへったくれもあるか! 俺など、四つの時にラザックシュタールを離れたぞ? 俺より遥かに長く草原にいられたのに、文句を言うな。」
 ついつい愚痴になったが、止まらなかった。
「大きななりして、まだ母上が恋しいか?」
「違うよ!」
 ヴィーリが慌てて間に入った。
「ミアイル、兄上が立派な行き先を見つけてくれたんだ。喜べよ。ちっと寂しいかもしれんが、都の生活も華やかで楽しいだろうよ。」
「うん……」
「ほら、しっかりして。草原を出るのは不安かもしれないけど、兄上も行くんだ。」
「でも、兄上は半年ずつ……」
「兄上は草原にいる時は、あちこちの氏族を回ったり、町方の事をしたり、お前と過ごすことはできなかっただろ? 広い草原と違って、都のうちなら兄上にいつでも会える。いいじゃないか。お前は兄上をあまり知らんわりに、“大きい兄さま、大きい兄さま”と言うじゃないか。“絵の中の父さまに似た、大きい兄さま”ってさ。」
「うん……」
 ミアイルが普段そんなことを言っているとは、トゥーリは全く知らなかった。彼は苦い想いで、ヴィーリが説得するのを聞き続けた。
「まだまだ先の話だ。今すぐ発てと仰っていないだろう?」
「だって……」
「心配するな。お前のことだから、都に慣れて帰りたくなくなるだろうよ。」
 ミアイルは困った顔で黙り込んだ。
 それとなく前振りし、整えてから話すべきだったと、トゥーリは悔やんだ。
「話が少し性急だったかな……?」
 ミアイルは顔も見ずに、肩を落として
「ごめんなさい……ぼく、もう失礼します。」
と出て行った。

 兄二人は顔を見合わせた。
「そんなに衝撃的だったか?」
「さあ……驚きはしたんだろうけど。」
 よく知っているだろうヴィーリですら、首を傾げている。
 トゥーリには、もっと解らない。
 悩ましいことだが、屋敷とラザックシュタールの近辺だけしか知らない弟には、都は未知の場所過ぎて怖いのだろうと、結論づけた。
 また、都へ一緒に行く彼自身とさほど親しんでいないことも、不安の一因なのだろうと思った。
「しばらく様子を見て……俺もせいぜいミアイルの相手をしてやるか。」
「うん。」
「今晩は三人で飯を食って、その後ゆっくり遊ぼう。」
「今晩?」
「お前、忙しいのか。ナディーシャのところに行くのだな。」
 トゥーリがにやりと笑うと、ヴィーリは向きになって大声を出した。
「違うよ!」
「毎日通っていると、女に侮られることもある。しばらく屋敷で大人しくしておけよ。しかし、お前がねえ……去年は“女なんかいらん”と言っていたのにね。」
 トゥーリは失笑した。すると、慌てて
「あれは……すごい年増だっただろ!」
などと声を荒げる。
「ああいう腐りかけがいいのだ。お前はよく解っていないのだね。ニャールだって、その気満々だったじゃないか。」
「兄さま、割と悪食だね。」
「いいところも悪いところも、食ってみなければ判らん。」
「兄さまは誰でもいいんだね。」
 ヴィーリの品行方正な根っこは、去年と変わっていない。責めるような言い草に、トゥーリは下手な言い訳を返した。
「失礼な。お前より守備範囲が広いだけだ。あの時は……あの時の俺やニャールの気持ち、今なら解るだろう?」
「全く解らん。」
 予想通りの答えに、トゥーリは笑い転げた。
「堅物だな。」
 ヴィーリは咳払いし、話を変えた。
「何だか腹が減ったね。」
「昔からよく腹の減る男だね。」
「悪い? ご飯まだかなあ……厨房へ行って見てくる。」
「三人で食うんだからな。出かけるな。」
「わかっているよ。」
 ヴィーリは肩を竦めて見せると、静かに出て行った。
 トゥーリは一人苦笑した。色気づいたと思ったヴィーリが、腹が減ったと繰り返し言ったのが可笑しかった。何処か安堵してもいた。
 しかし、この半年のうちの弟たちの変化は、今までになく大きく思えた。
 特に、順調な交際をしているヴィーリは、見違えるほど落ち着き、物静かで実直な男に成長しようとしている。
(このまま放っておいても、あいつは大丈夫。)
 一方のミアイルには、溜息が出た。柄は大きくなったのに、中身は不釣合いに子供のままだ。母親が可愛がり過ぎている所為だと思った。
 彼は母に話すのが億劫になった。手放すのを嫌がるかもしれないと思った。
 いつまでも手の内で可愛がってはいられないのだと説得せねばならない。
(……弟ばかりは、行先やら何やら悩むことが多すぎる。)

 母に何と言うか考えているうちに、夕の鐘が鳴り始めた。
 いつものように、小姓が食事を告げに現れた。
「お食事の支度が整いました。」
「今晩は弟どもと食事をする。」
 小姓は少し惑った。トゥーリは、いつも一人で食事をしていたからだ。
「え……はい。」
「こっちに持ってきてしまったの?」
「いえ……表でどうぞ。」
 居間から出ると、食堂代わりに使っている小部屋から物音が聞こえた。
 小姓が気まずそうな顔で彼を見上げた。彼は気づかぬ振りを決め込んだ。

 表の食堂は、彼には久しぶりだ。厨房の側だから、熱々の料理が楽しめると期待した。
 入るなり、トゥーリは舌打ちした。母がいる。三人で食べると言ったはずだと、彼は二人の弟を睨んだ。
 ところが、彼らは目を合わせず、澄ました顔で前方を見ている。
「おや、アナトゥール。珍しい。」
 母は驚いていた。
 彼は、弟たちが母に何も伝えられなかったのだと悟った。その気持ちは理解できた。また、母親抜きだとは言っていない。
 弟たちは、彼の言外を察しはしなかったが、言われた通り実行したのだと、己に言い聞かせた。
 彼は身構え、だが、毛ほども表情には出さずに母に応えた。
「変ですか?」
「家族で食事をするのの、何が変なのだ。今までが変だったのだ。どういう風の吹き回しか知らんが、いいことだよ。」
(“いいことだ”だけで終えられないのかよ!)
 彼はそう思ったが、口に出すわけにはいかない。
「気まぐれでもないのです。」
 トゥーリが座ると、母が嬉しそうに言った。
「今晩はご馳走にしてよかった。」
「献立は何です? 羊? 牛? 鳥ですか? 魚? 川魚なのか……?」
 内陸にある草原では、新鮮な海の魚は手に入らない。塩をきつくした物か、川魚が魚料理の定番だ。彼は、川魚の独特の匂いがあまり好きではなかった。
 だが、母の答えは更に上だった。
「そんな日常的なものは、ご馳走と言わんのだ。」
「え? 何? 毎晩、肉に魚と贅沢したの?」
「贅沢か? お前が粗食すぎるのだ。酢キャベツに、何だかよく判らん汁と固い黒パンなど……毎晩毎晩、飽きもせずに食べられるのは、お前くらいだ。坊さんの食事かと思うわ。大きななりして、栄養が回らんぞ。」
 心配はしているようだが、彼女の言葉にはいちいち棘がある。だが、彼にはいつものことで、涼しい顔で言い返した。
「汁ものに肉が浮いています。」
「浮いているような切れ端は、肉とは言わないのだ。肉というのは……ほれ! 鎮座しているようなのを言うのだよ。」
 時機よく料理人がどんっと、食卓の真ん中に大きな肉を置いた。
 相変わらず口の減らん女だと、彼は舌打ちが堪え切れなかった。
「鳥じゃないか。でかい鳥だな。鵞鳥……ではなさそうだ。」
 すると、母が恐ろしいことを言い出した。
「孔雀だよ。お前の庭にいたのを一羽もらった。丁度いい肥え具合であったからな。」
「ええっ! どの孔雀?」
「心配しなくとも、見劣りする雄だよ。目玉模様の少ない不細工なやつ。」
 彼は、羽が貧相だからか雌に見向きもされず、いつも隅でおどおどしているその雄を憐れんでいたのだ。彼は頭を抱え、嘆いた。
「嗚呼……何てことするんだろう! その雄は気に留めて、特に餌をやって育てていたのです。懐いていたのに!」
「どおりで、よく肥えていたはず。」
「酷いことを……」
 息子の嘆きようを見てソラヤは少しだけ悔やんだが、あっさり気持ちを切り替えた。
「そのつもりで肥やしていたんだと思った。もう焼きの入ったものは生き返らんよ。早く切りなさい。弟たちが待っている。」
「はあ……」
 肉を切り分けるのは主の役目である。今日だけは嫌な作業だと思いながら、彼は肉を切り分けた。
 母は自分に分けられた肉を眺め、彼に皿を渡した。
「アナトゥール。一応、お前は主ゆえ、いいところを食べろ。」
 この母なりの気遣いだったが、今の彼には逆効果である。母と息子であるが、心の持ち様は全く違っていた。
「いらないです。胸が一杯で。」
「おかしな子。なら、ミアイル。お前がもらいなさい。食べ盛りだからね。」
 母が末弟に頷きかける様子に、彼はちくりと痛みを感じた。だが、彼自身とて弟は可愛い。
「ミアイル。俺のをやる。皿をかせ。」
「大きい兄さまはいらないの? 美味しいのに。」
 ミアイルの言い様から彼は、今までも庭の孔雀を食べていたのだと察した。
「俺はいらん。……まったく思いやりのない家族……。俺の可愛がっていた鳥なのに……」
「何をぶつくさ申しておる?」
「別に。ヴィー旨いか?」
 いち早く食べ始めたヴィーリは、やはり母と同じような感覚の持ち主だった。
「雄だからかな? 少し筋っぽいなあ。固いけど……噛みごたえがあって旨いよ。」
などと言って、トゥーリを消沈させた。
 更に、母が追い打ちをかけた。
「足の方だからだよ。アナトゥール。ヴィーリにもっといいところを切ってやれ。」
「はい……」
「早くせよ。」
(友達の鳥を解体する身にもなれよ! まあ……母上には、鳥を愛する気持ちなど、解らんだろうな。)
 暗澹たる思いでトゥーリは肉を切った。
 母は色々勧めたくせに、一皿食べたきりだ。
「母上はもう召し上がらんのですか?」
「私はもうよい。この後の料理がまた待ち遠しい。」
 彼は顔を顰めだ。最悪の事態を想像していた。
「この次は何? 俺の鷹?」
「挽肉のパイ。」
「鷹肉を挽いたの?」
 疑わしい目を向けたが、母は平然としている。
「羊の肉だよ。いらんのか?」
「肉ばっかり。いらん。」
 彼女は呆れた。
「何なのだ? 一緒に食べると申したのに、汁しか啜っておらんではないか。つまらん! 食べない者と食卓を囲むのは興ざめだよ。」
 トゥーリは向こう気が湧いて、料理人に命じた。
「そのパイ、親指の太さくらい切れ。」
 母もすぐさま命令した。
「指五本分ほど切って、シークに差し上げろ。」
 料理人はシークの命令を聞くべきか、厨房を管理する女主人の命令を聞くべきか悩んだ。彼はシークの命令を優先すべきだろうと考え、細い一切れを作った。
 トゥーリは孔雀の一件で、すっかり食欲を失っていた。無理をして飲み下し
「あっさりしたものはないのか?」
と料理人に尋ねた。
「例の漬け物ですか?」
 料理人まで逆撫でするようなことを言うのである。
 母が茶化した。
「おや、また酢キャベツ? それほど好きか? 百姓みたいだな。」
「酢キャベツはいらん。二度と食わん。死んでも食わん。」
 彼は、母は相手にしないと決めた。
「……ミアイル、お前の前にあるのは何だ?」
「萵苣菜。」
「食べないのか?」
「嫌いなんだ。苦いから。」
「食うからかせ。」
「おや? 私の息子は、お百姓どころか兎なのだね!」
 ああ言えばこう言う。口の減らんところはまったく劣化が見られない。
 彼はじろりと睨み、小声で呟いた。
「うるせえ。黙って食え、ばばあ。」
 すかさず彼女は
「何か申したか?」
と睨み返した。
「いえ……」
 そう答えねば、いらぬ騒ぎを起こすことは、よく知っている。

 豪勢な料理をたらふく詰め込む母と弟たちを眺めながら、トゥーリは野菜ばかりを食べ、ぼそぼそしたパンを齧った。
 ソラヤはさすがに心配になった。
「アナトゥール。お前いくらも食べていないけれど、口に合わないか?」
 彼には意外な心配そうな口調だった。
「羊肉のパイ? 旨いですよ?」
「野菜ばかり。空腹ではないのか?」
「充分いただきました。」
「そうか?」
 彼女はますます心配そうに眉を顰めた。
 彼は心配させてはいけないと思い、真面目な答えを返した。
「私はいつもこんなものです。あまり贅沢をすると、戦場で辛いですから。」
「良い心掛けだが、屋敷にあるときには、食の楽しみを味わっても良いのだ。これからも一緒に食事をしなさい。」
「人と食事をするのは苦手です。ご存じでしょう?」
「誰も気にしておらん。行儀が悪いと言う者もいただろうが、ここにはおらん。あいつは都から出ないからな。」
 “あいつ”とは宮宰のことだろうと見当がついた。しかし、それだけではない思いが、彼にはあった。
「……根深い疎外感があります。私だけ逆というのはね。」
「まあ……見ていると不思議な感じはする。器用に左手で使えるものだな。」
「そうですか……」
「どちらでも良い。お前の好きなようにしたらいい。……独りで思う存分酢キャベツか?」
 彼女はいつもの調子に戻った。
「二度と食わんと申したでしょう? 特別に好きではありません。」
「そうだったかな?」
 弟二人はうんざりした様子で、目配せし合っていた。

 粗方食事が終わった。ミアイルの話をする頃合いだ。
「申し上げたいことがあります。」
「うん。」
「ミアイルをヘルヴィーグさまに委ねることにします。」
「ゆくゆくは大公さまのお側か?」
「はい。」
「立派な行き先だ。ミアイル、兄上にお礼を申し上げよ。」
 楽しそうだったミアイルは、途端に元気がなくなった。
「私のことにご尽力頂き、ありがとうございます。」
 小声で、大して有り難くもないような口調だった。
「うん。」
「ミアイル、どうしたの? 都が嫌なの?」
 母が尋ねるのにも、彼は答えもせず
「身の回りの準備は、秋までにすればいいんでしょう?」
とトゥーリに確認した。
「そうだね。母上はよろしいですか?」
「これ以上無い行き先だ。不満などない。」
 母は満足そうだが、ミアイルは不満そうだ。トゥーリは気になったが、ヴィーリの話もせねばならない。
「ヴィーリは……」
 彼が言いかけると、母が手を振って留めた。
「ヴィーリは……懇意にしている女人ができてね。真面目に交際しておるようだ。ゆくゆくは……」
 ヴィーリは慌てて遮った。
「母さま、私から兄上に申し上げましたから……」
「そう。お前はしっかりしてきた。心配いらないね。……そういうことだよ。」
 トゥーリが心配するまでもなく、既に母は納得していた。
 監視をされてもあれこれ口出しされないヴィーリが、彼には妬ましかった。彼は見苦しい感情だと、腹の底に押し込めた。
「ご存じならよかった。母上はヴィーリの恋人にお会いしたのですか?」
「いや。“ニガヨモギの丘”のヤールの娘であることは知っている。名前はナディーシャ。人伝にいい娘だと聞いた。」
「どんな娘かなあ……。気になる。」
 ごく普通の興味で言ったのに、母は眉を顰めた。
「お前! ならんぞ。弟の妻になるのだから!」
「何を考えているのです? 極当たり前の意味で申しているのです。」
「……お前、帰って来て、開放感を感じておるだろう?」
「そりゃあ、都にいるよりはね。のびのびした感じ……」
「それが危ないのだ。間違いをしでかす。」
 トゥーリは苛立った。
「しませんよ! 失礼な! 母上はいつもそんなことを仰るけれど、妄想が過ぎますよ。」
「女が大好きだろう?」
「普通ですよ!」
「そうかな?」
「もういいです……」
 母は鼻を鳴らしている。彼はかっとしたが、弟たちの視線に気づいた。
「二人とも、くだらん妄想話に耳を傾けんでもよろしい。ヴィーは心配しなくてもいいぞ。俺はナディーシャには近寄らない。」
「それはわかっているよ。」
 ヴィーリは苦笑している。トゥーリは、本人が解っていれば、母などどうでもいいと思い直した。
「飯も終わったし、三人で……」
 言葉も終わらぬうちに、母が口を挟んだ。
「母も加えろ。」
 トゥーリは精一杯の嫌味を言った。
「兄弟三人で“ばば抜き”ですよ。」
「ん? 何だそれは? 骨牌か?」
 解っているのに恍けて見せる。癪に障る女だと、彼はますます苛立った。だが、恍けた嫌味を続けても、更に不愉快な返事が返ってくるのはよく知っている。
「もういいです……。母上抜きで、兄弟だけで誼をと思ったのです。」
「そうならそうと申せばよいまでのこと。母はもう休む。弟たちに悪さを教えてはならんぞ。」
「しませんって! 教えられるほど知りませんよ!」
「どうだか。」
 母は疑わしい目を向けている。
「もういい……もういいです。母上もご一緒にどうぞ。」
「解ればいいのだ。解ればな。」
 トゥーリは歯を食いしばって、舌打ちを堪えた。



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