指環
8
もう草原に帰る準備はあらかた済んだ。トゥーリの屋敷の中はがらんとしていた。
彼は伯父の話を苦々しく思い出した。
好意の裏に張り付いた意識は、自覚していないだけに始末に困ると思った。
少しだけ、彼は問題を解決する方法を考えた。
だが、都と関わりがなければ、何の痛痒も感じない。そして、都と関わらねば生きていけない草原の者はほとんどいないのだ。差し迫って困っているわけではないと、考えるのを止めた。
伯父は、アデレードを妻にもらえとも簡単に言った。不可能だと思ってきたが、そうではないのかと考えが揺らいだ。
しかし、伯父の口調が軽すぎたことを思い、本気で言ったのではないのだと結論した。
(次から次へ……嫁さんの世話ばかり。)
ほとほと嫌気が挿して、彼は伯父のことを頭から振り払った。
そもそも結婚などと一足飛びの話ではないのだ。側近く寄って、彼女の気持ちをはっきりと知りたい。今はそれだけだ。
(……しかし、人目を忍ぶ仲が関の山か……)
彼は庭でのアデレードのことを思い浮かべた。
あの様子からすれば、気がないわけではないと思えた。
そう思っても、彼ははっきりと何かを伝えられたことがないのだ。今日はかなり核心に迫ったつもりだったが、彼女ははぐらかすような答えを返した。
単なる幼馴染への思い入れであって、それ以上は望んでいない気持ちの表れが、あの答え方なのだとも思えた。
今度は溜息が出た。
子供の頃の彼は、彼女が可愛くてならず、大切に思い、素直に好きだと言い、相応しい男でいようと決意していた。
“大きくなったら、大公さまの為に戦に出て、手柄を立てて、アデルを奥方にいただくよ。”
“必ずよ。約束だからね。”
幼い頃の調子で、そのままの想いを伝えられたらと思った。
“お嫁さんになってね。”
これでは真っ向過ぎる。それ以前に、冗談としか思えない。気が狂ったと思われるか、馬鹿にしているのかと怒らせるだけである。
彼は、己に失笑を漏らした。
純粋だったあの頃のように堂々と宣言できない。今が殊更見苦しく思える。
(アデルは、そんな今の俺をどう思っているのだろう?)
“ローランが死にかけたままなんですけど? 早く続きを読んで。”
ローランの続きを読んでやらねばならないのだと、彼は思い出した。
「デュランダル、我がなき後は如何ならん……」
彼はうっとりと呟いたが、その直後には顔を顰めた。
奇蹟など起こらない。ローランは死に、岩に叩きつけられようと折れなかったデュランダルは、次の主の手に渡るのだ。
翌日、トゥーリは朝議が終わった頃を見計らって登城した。諸侯にも別れの挨拶を一言する為だ。。
老ヤールは、その時間にも拘るように彼を教育していた。
朝議を中断させてはいけないのは当然のことだが、かと言って早すぎても遅すぎてもいけない。全員が揃っていなけば、軽んじられていると曲解する者が出るからだ。
彼にはもう慣れたことだった。思惑通り、広間の諸侯は、ちょうど整列を崩し始めた頃だった。
大公は少しだけ迷ったが、彼を居間に招いた。ニコールのその後を彼に教える為だった。
彼は不審に思ったが、居間には大公の家族が揃っており、アデレードと思いがけずもう一度会えたことに喜びを感じた。
「ニコール殿のことだが……この度、正式にお社に入られることになったそうだよ。四月のご縁日に堅信式をするらしい。」
あの日の二コールの決心は、一時の思いつきではなかったのだ。続いただろう両親の説得にも意を曲げることがなかったのが、彼には感慨深かった。
「若い身空で、よくぞ尊いご決心を固められたものです。私からも何か……いや、何の関わりもないのに、何か差し上げるのも困惑なさるでしょう。黙して、あの方の信仰の成就を祈念いたします。」
「その方がいいだろう。」
「お暇いたします。皆さま、お健やかに。」
彼が去ろうとすると、コンラートが唐突に話しかけた。
「アナトゥールは、草原から奥方を迎えるのか?」
「まだ考えておりません。」
コンラートは、トゥーリの答えを無視して続けた。
「ヤールたちは、そう思っているだろうな。」
「さあ……何も申しません。」
「アナトゥールも、その方がいいんじゃないか? 気心知れたる草原の女の方がいいだろう? そうに決まっている。ね? そうだろう?」
粘着な言い方だった。トゥーリは嫌悪感を持ったが、涼しい顔で
「気心の知れた女人もおりませんから。」
と答えた。
大公が窘めた。
「太子、止めないか。アナトゥールは、結婚はまだ早いと考えているのだよ。そう申しておるのがわからんのか?」
「ニコール姫を失って、寂しいんじゃないかと思ったから。ねえ、アナトゥール?」
「はあ……」
彼は曖昧な答えを返した。見かねた公妃がコンラートを諌めた。
「お止めなさい。侯爵さまには心苦しい出来事だったのです。申し上げてはいけません。」
コンラートは上目づかいに公妃を見て、いかにも口だけだという様子で返事をした。
「解りました、母上。」
コンラートは謝罪する様子もない。トゥーリは、相変わらず嫌な子供だと思った。
代わりに公妃が謝罪した。
「要らぬことを申し上げましたわ。お気を悪くなさらないで。」
「いえ。大丈夫ですよ。」
公妃は目を伏せ、気を落ち着けた。これからせねばならないことがあるのだ。
彼女はトゥーリの姿をすばやく観察した。そして、望外に好都合なものを見つけた。
「あら! ちょっと手を見せてください。右手です。」
「え? 手ですか?」
彼は言われた通りにした。
「綺麗な指環だこと! ルビーですか?」
例の指環のことだった。指に嵌めたままにしていたのだ。高価すぎるルビーである。老ヤールを始め側の者は盗難や紛失を恐れ、彼の指に保管することを要求したのだ。
「ああ、これ。そうですね。例のね……」
「立派なルビー。こんな色のルビーは見たことがないわ。」
「大食の国では、鳩の血の色といって珍重するようです。お気に召したのなら差し上げます。正直、始末に困っていたので。」
「よろしいの?」
「験が悪いけれど、お気になさらんのなら……」
彼は指環を外して、公妃に渡した。礼を言う大公と二言三言の言葉を交わした後、アデレードをこっそり見つめた。
アデレードは一瞬だけ彼と目を合わせ、後は澄ました顔で彼を見送った。
公妃はじっと二人の様子を見ていた。
女二人は奥に戻った。公妃は、自分の翼に戻ろうとするアデレードを引き留めた。
「少し訊きたいことがあります。私の居間においでなさい。」
「はい。」
居間には侍女たちも女官もいなかった。公妃の表情も硬い。アデレードは不穏な空気を感じた。
公妃はなかなか話を始めない。思案している様子を見せ、やがて唐突な話をし出した。
「近頃、身体の具合が優れぬようですが、いかがです?」
「特別悪いことはありません。……月の終わりはいつもこんな調子です。」
「そう……順調なのですか?」
「ええ……」
「お若いから、多少身体の調子が思うようにならないのでしょうね。障りの前などは。」
「……何故そんなことをお尋ねになるのです?」
「心配だからです。」
「元気ですよ?」
「先日、ご気分が悪いと仰ったから。」
「ああ、あの折のお料理が何やらもたれて……」
「もうお腹の調子はよろしいの?」
「ええ。今朝もしっかりいただきました。」
「そう……」
公妃はそう言ったまま、黙り込んだ。アデレードの顔を見つめて、何か考えている。
「どうなさったの? じっとご覧になって。」
「ありていに申しますが、先日ご気分が悪いと仰って、夕食の途中でお休みになられた時。あの時、あなたのお部屋に伺ったの。」
「全然気づきませんでした。」
「ぐっすりお休みでしたもの。」
「ええ……」
アデレードは困惑した。公妃が何を言うつもりなのか解らなかった。
公妃は溜息をついた。
「私、見たのです。あなたは指環を握り締めていらした。」
公妃の表情は厳しい。アデレードは不安になり、胸が締め付けられるように感じた。
「寸法の合わない指環。男持ちの指環。どこかで見たような気がして、もしやと思ったけれど……確信しました。」
公妃は声を低め、鋭く宣言した。
「あれは、ラザックシュタールさまの持ち物。」
胸が急に鼓動を止めたように冷えて、アデレードは目の前が真っ暗になった気がした。
(露見してしまった……)
彼女はどうにか誤魔化そうと
「お母さまの見間違いでは?」
と言った。
だが、下手な誤魔化しは、あっさりと退けられた。
「あれ程上等なサファイアはそうそうありません。そればかりか細工も同じです。先程、確認しました。」
「あの……」
「あの夜、あなたは何故、彼の指環をお持ちだったのです? 今日、その指環が彼の人差し指に戻っているのは、どうしてなのです?」
「それは……持っていたのは、あの婚約式の前日の夕方に、ラザックシュタールさまが帰省するからとご挨拶にいらして……」
「そのような話は、初めて聞きました。」
「大したことではないと思ったの。女官たちも知っています。お母さまのお耳に入れなかったのね。」
「何処で対面したのです。」
「私の翼の庭園です。彼は庭園で、私は庭園に出る階段の上。二つ三つ話して、お帰りになりました。そうしたら……指環を落としていかれたの。それを拾って……」
我ながら怪しい嘘を言っているとは思ったが、それしか誤魔化しようが思いつかなかった。
「では、持ち主のところへ戻っていたのは?」
「ラザックシュタールさまは昨日、大叔父さまのところにおいでになったのです。」
「ようご存じね!」
「……それで、登城なさったから、お返ししたのです。」
「どこで?」
「それは……ソラヤさまの翼につながる廊下です。」
「……嘘を仰らないで! あなたの話は変なところばかり。第一、指環がどうしたら落ちるのです? ぴったり指に合っていたではありませんか。外そうとしなければ外れません。」
その通り。アデレードには反論する言葉もなくなった。
「ラザックシュタールさまは、ご自分で指環を抜き取ったのです。そうして、あなたに渡したのです。」
もう全て露見している。彼女は言い逃れを諦めた。
「……はい。」
答える小さな声が震えた。
「そうでしょう? 受け取ったのですね。」
「ええ……」
消え入るような声になっていた。
「何の為に?」
その質問には、到底答えることはできなかった。
公妃は、アデレードの顔を睨みながら続けた。
「あなたとラザックシュタールさまは、どういうご関係なの? 兄妹のように毎日一緒に過ごしていたけれど、彼が大人になられてからは、親しくお会いしていないはずですね?」
「ええ。宮廷の行事などで会う程度です。」
「それなのに指環を渡されたの? あれは大事なものだと聞きました。肌身離さずお持ちだとか。意味もなく渡す代物ではありません。第一、彼は婚約直前でした。一体、あなたたちはどういう仲なの?」
「どうといって……」
「お答えなさい! ……まさか、ご立場にあるまじき行いをなさっていたのではないでしょうね?」
厳しい声だった。
「何を?」
「まったく! おかしなことを考えるとお思いにならないで。恥を忍んで尋ねます。あなた、こっそり夜半にラザックシュタールさまを寝室に招き入れた……なんてことはないのでしょうね?」
アデレードは、そこまで言われるとは想像もしていなかった。慌てて大声で否定した。
「そんなことしていません!」
公妃は、娘の表情をじっと探った。嘘はないのだと思えた。
「……ラザックシュタールさまも、そんなことをなさるとは思いません。ですが、若い殿方は時として大胆なことをなさる……。今度の行いも十分大胆です。大公さまに知れたらと思うと身が縮みます。私にはどういう間柄なのか、正直に教えて。」
公妃の瞳には心配そうな色があった。アデレードは目を逸らし俯いた。
「間柄って……婚約するけれど、本当は私のことを……愛しているのだと……そうして指環を渡されたのです。何がしか思い出が欲しいと仰って。」
「それだけ? 指環の思い出だけで満足なさったの?」
「そのようです……」
「で、あなたは何と答えたのです?」
「私は……あの時は破談になると思わなかったから……今更そんなことを言われても困ると。」
「そう……」
公妃は娘の答えの中に、憎からず思っているのを聞き取った。だが、本人はそれに気づいていない様子だ。一旦は安堵してよいのだと思った。
ただ、これからは注意せねばならないと思った。
「それでよかったのですよ。」
公妃はできるだけ優しく言った。
「ええ……」
「くれぐれもね。これからも、軽はずみなことはなさらないようにね。」
アデレードは俯き黙り込んでいたが、顔を上げると公妃を睨んだ。
「ええ。よっく解りましたわ!」
挑むような口調だった。
「どうなさったの?」
彼女は堰を切ったようにまくしたてた。
「指環ひとつ預かっただけのことです。何故それほど? 心外です。挨拶に来たことすら報告がないと叱られる。話したことは全部報告しろと言われる。いちいち、いちいち。……やましいことなどありません。邪推ばかりされるから、黙っているのです。」
「それは、あなた……」
「トゥーリがどんなに辛いか、お母さまも解っていたでしょう?」
公妃は戸惑った。
「一体……何のお話?」
「誰もかれもがトゥーリを責める。剰え、おかしな縁談まで! そんな残酷なこと、ようもできたものだわ!」
公妃は困惑しし、アデレードを宥めようと試みた。
「何を仰っているの? よく解らないけれど……昨秋のことなら、おいたをなさったのだから、仕方ないでしょう? それに、宮宰さまと和解するには縁談が一番いいと、大叔父さまたちもお勧めしたのよ。」
「じいさまたちは、何もわかっていない! 都の若さまなら、それで結構でしょうけど。トゥーリは違うのよ。可哀想だと思わないの?」
一気に言い終え、アデレードは悔し涙を流した。公妃はたじろいだ。
「それはあなた、ただの草原の若者ではないのよ。無理も何も……」
「それにニコールでは無理。支えきれないわ! トゥーリは全く気弱なんだから!」
「小さいころから物怖じしない子だったけど……」
「それは私がいたからよ!」
「まあ……」
「だから、あの小娘では荷が重いのよ。今だって、どうせ変りばえしないんだから!」
「小娘とかじいさまとか……言葉が過ぎますよ? トゥーリのこと、よくご存じなのはわかったけど……」
彼女には、公妃の言葉など耳に入っていなかった。今度はしょんぼりとして言った。
「トゥーリは……草原に帰ったら、小さなあの人を思い出して、また寂しがる。」
「小さなあの人?」
公妃は何も知らないのだ。アデレードは、誤解を与えずにどう言っていいのか迷い、それには答えなかった。
「……何でもないの。トゥーリは辛いことが続いたから……側にいてあげなくてはいけないわ。」
彼女はぽろぽろ涙を零した。
「……私はトゥーリの側にいたい。トゥーリが好きなの……」
公妃はますますたじろいだ。
「それは……同情なさっているだけですよ。錯覚です。おまけに、告白をした相手でしょう? 意識してしまっただけよ。」
「ラザックシュタールに行きたい。ついて行きたい。」
公妃は長い溜息をついた。
「それは……奥方になりたいということですか?」
「……判らない。……でも、側にいたい。」
「……興奮なさって……。少し気を落ち着けて。彼は草原にお戻りになるわ。しばらく離れていたら落ち着いて、自ずと心の整理ができるでしょう。」
「トゥーリのことが心配なのです。」
「大人なのですから。心配なさらんでも、ご自分で立ち直ります。あなたが思うほど、辛いとお思いではないかもしれない。大丈夫よ。」
「そんなに大人じゃないって言っているでしょ!」
また怒り出す彼女を、公妃は叱りつけた。
「また! 私は、あなたの方が心配よ! 熱に浮かされて、取り返しのつかないことをしでかさないかね! ラザックシュタールさまが向こうへ帰られるのは、本当に好都合。あなたも天の配慮だと思って、よく考えてごらんなさい。」
気持ちを解ってくれない母に、アデレードはそれ以上訴えることを諦めた。
「はい。」
「お母さまの話はそういうこと。驚かされました。知らないことが、ぼろぼろと出てくるし……くれぐれも自重してくださいね。」
「ええ……失礼します。」
アデレードはどうにか涙を止めようとしたが、止められなかった。
公妃は、しゃくり泣きしながら出て行く娘を心配そうに眺めた。
公妃は頭を抱え、何度も溜息をついた。
アデレードは“はい”と答えはしたが、納得していないのは明らかだ。
トゥーリに対して、彼女の中に強い不満と苛立ちが生まれた。彼女が尊んできた平穏な日常をかき乱し、涼しい顔で帰っていったのだ。何を考え、どうしようと思っているのか理解に苦しむ。
手紙を書いて、釘を刺した方がいいような気もした。だが、要らぬ刺激を与えてしまう恐れもある。考えた末、手紙を遣るのは断念した。
彼女は苛立ちを抑え、娘とトゥーリについて冷静に考えようと努めた。
予てから彼女は、トゥーリは公女の伴侶として、悪い相手ではないと思っていた。
ロングホーンの貴族たちの意識は知っている。ラザックと血統を混ぜ合わせるのは論外だと皆言う。しかし、外国人である公妃には、その意識がどうしても解らなかった。
ソラヤが嫁いだことを思えば、前例のないことではない。彼が堂々と求婚できない理由に合点がいかない。
(トゥーリが、何を考えているのか解らないわ。)
結局は、そこに思考が行きついてしまう。
(昨秋の件ではひどく荒々しく、方々の前で宮宰を罵った。どうも底知れないところがあるわ……。父親に似ている……?)
否応なしに、いつの間にか公女と親密になっていたローラントが、トゥーリに重なった。
居間の扉が突然開いたように思え、公妃はびくりと震えた。現れたのは、大公だった。
彼女はほっと息をついたが、彼に構いかける気分ではなかった。
彼は長椅子に座り込んだ。
「どうした? 一人きりで。」
彼の様子が殊更気楽に思え、今日ばかりは疎ましかった。
「少々考えごとなど……」
彼女は素っ気なく答えた。
だが、彼はまったく感知せずのんびりと
「何? 難しい顔だね。私でよかったら、相談に乗るよ。」
などと微笑んだ。
彼女は相談していいのかどうか迷ったが、少し話してみる気になった。
「宮宰さまの姫君のこと。尼僧になるなど……私の娘なら胸が潰れそうです。」
「そのこと? 宮宰の奥方は、寝込んでしまったそうだよ。」
彼女は心から同情を感じた。
「無理からんことです。でも、ラザックシュタールさまは……」
トゥーリに対する苛立ちが、言葉に現れてしまう前に、彼女は言葉を飲み込んだ。
大公は彼女の想いを少し違う形で察し、トゥーリの弁護をした。
「今更騒いだところで、どうしようもない。もともと周りの思惑で決められた縁談だ。本人は執着がないのではないかな?」
「仲良くなさっていたと聞きました。」
「結婚するのだから、つっけんどんにはできない。無理していたのだと思うよ。」
「無理?」
「ニコール殿は典型的なお姫さまだ。好きなものといったら華やかなもの。夜会に音楽会、観劇。こういってはなんだが、見栄っ張りでもあったね。」
彼は困った笑顔を向けた。彼女も、ニコールの評判は聞いているし、彼の評価に異存はなかった。
「ええ、そうですね。」
「アナトゥールはどちらかというと、華やかな場は好きではないようだ。夜の遊びに来ても隅に立って、自分からは出て行かないね。遠乗りしたり鷹狩りしたり……そういう朝の早い遊びの方が好きなんだろう。」
彼の口調には、トゥーリへの好意が明らかにあった。今の彼女には複雑なものであったが、言うことには同意できる。黙って頷いた。
「ニコール殿の夜遊びに、無理して付き合ったんだろう。朝議で居眠りをしていたよ。生真面目に相手をしたものだ。」
「そう……」
「生活の合わない相手と今後ずっと暮らして、相性の悪い舅を持つなど……。ほっとしたのが本音かもしれないね。それに、妻帯するにはまだ若い。」
彼は苦笑したが、彼女は苛立った。
政略の結婚に、個人的な好みを持ち込むことは許されない。彼女はそう教えられ、躾けられてきたのだ。聞き捨てならない言葉だった。
「名流の当主なら、早いこともありません。」
「固いことを……遊びたい盛りだろうに。」
「……浮ついた遊びをなさっているの?」
「さあ……テュールセンの弟息子とよく遊んでいるね。男の子なのだから、大目に見てやったら良い。」
「他所さまの息子さんにお説教などしませんわ。」
「おや、冷たいことを申すものだ。“私の小さなトゥーリ”なんて、胸に抱いていたのに。」
彼が茶化すも、彼女は憮然と
「つまらんことを。忘れました、そんなこと。」
と言い返した。
彼は微笑み、自分の思い出を語り始めた。
「私はよく覚えている。お下げ髪のアナトゥールが、毎日寝所に起こしに来てくれたこと。ずいぶん早くに来るんだよ。まだ外は暗くて寒いのに……じいやに言いつけられていたのだろうね。冷たい小さな手で、私の身体を一生懸命揺するんだ。あまりに冷たい手をしているから、まだ早いよと寝床に入れてやると、すり寄って来たよ。父親のことを思い出すのかと憐れだった。しばらく抱いて寝ていたよ……。おや、夫婦そろってあの子を抱いていたか。」
そんなことを言っては陽気に笑っている。彼女は苛立ちを通り越して、怒りを感じた。
「そうですか!」
彼は厳しい声色を気にもせずに続けた。
「私はどうしても、アナトゥールを子供の頃のつもりで見てしまう。いつも失念してしまうのだ。……縁談が出たり、恋人がいる歳になっているとはね!」
彼女は聞き流すつもりだったが、初めて聞いた単語に反応した。
“小さなあの人”のことだと直感した。
「恋人?」
「宮宰は草原の妾だなんて……酷い呼び方だな!」
彼女は眉根を寄せた。彼は咳払いをし、話を続けた。
「亡くなったそうだ。去年の秋のことらしい。アナトゥールの様子が変だったのを宮宰はその所為だと申した。妾に現を抜かした上に乱心したと、草原を任せてはおけないなどと……」
「そのことで騒ぎを起こしたの?」
「そのこと?」
「恋人を亡くしたこと。」
「審問官を遣ったが、草原の者は審問官などに話をしない。判らないよ。キリルが無礼を働いたとしか申さん。」
「恋人というのは、どういった方?」
「審問官も、さすがに諸侯の私生活を細々と調べてこないよ。」
彼は目を泳がせている。何かあると確信した。
「そこまで調べたなら、調べたのでしょう?」
彼は立ち上がり、うろうろと歩き出した。時折、彼女を窺っては、目が合うと慌てて逸らす。彼女は厳しい目で睨み続けた。
「仰ったらどうです。」
彼は観念した様子で答えた。
「娘はラザックのヤールの縁だ。母親の身分が低いとかで、結婚には至らなかった。おそらく叔母上が諾と言わなかったのだろうな。まあ、夫婦同然の仲、俗に言う内縁の妻といったところか。」
「……どうして亡くなったの? 若いんでしょう? 病気?」
すると、また彼はおどおどと言い淀んだ。
「……あなたの耳に入れるのはちょっとね。けじめのないことを殊更嫌うから。」
「で?」
「アナトゥールのことを厭わしく思うようになるのかな?」
「そんなこと……内縁の何とやらをお聞きした以上どうも思いません。厭わしいとまでは思いませんわ。結婚しなかったのは、門地に釣り合わない女人だったからでしょう? しなかったではなく、結婚できなかったと言った方が正しいわね。哀れだと思わないでもありません。それに、殿方はそういうことをなさるでしょう? 甲斐性とか仰って、愛人だとか妾だとか庶子だとか……」
「……それだよ。」
彼女はとうとう怒鳴り声を挙げた。
「何なのです? はっきり仰ってくださいな! さっきから……もどかしいわ!」
「庶子。」
「え? お子さまがいらしたの?」
「流れたんだよ。それで、その女人は亡くなったんだ。」
彼女は絶句した。そんなことのあったすぐ後に、アデレードに言い寄るとはとんでもない浮気性だと思った。
「金髪で青い瞳の、小柄な可愛い娘だったとか。」
小柄で金髪に青い目と聞いて、彼女は自分の娘が思い浮かばれた。過剰な想像だと思ったが、得体の知れない胸騒ぎがした。
「哀れだね。……そんなわけで、ぴりぴりしていたのだろう。だが、許されることではない。宮廷を強引に辞して、ラザックとラディーンを多数召集したのだから。それはいけないことだ。」
「ええ……」
「不愉快? あなたに責められると私は弱いんだ。何でも白状してしまうね。あなたとアデレードには頭が上がらない。」
彼は照れくさそうに微笑みかけたが、彼女はそれどころではなく
「アデレード!」
と叫んだ。
「ああ、アデレードの様子はどうかね?」
彼女は咄嗟に
「血の道です。」
と答えた。
「そう……なら、もう何も聞かなくていいね。あなたが看てやっておくれ。」
「ええ……公女さまも子供ではないのですから、いつまでも父親がべったりではいけません。」
「寂しいことを……。まだ手の内で可愛がっていたいのだ。」
「すぐに縁組のことを考える年頃になります。弟の方は決まっていることですし、この際あなたのお考えをお聞きしたいわ。」
「まだ考えたくもないよ。」
彼女は遠慮なく舌打ちした。
「後になって慌てることになります。何かお考えはおありでしょう?」
「遠くへやるのは……何か含みを持たせてやるのは気が進まないね。国内のしかるべき旧家に。私の側近く。いつでも会える距離ならなおいい。」
「ええ……」
「アデレードが好ましいと思う相手があれば、叶えてやりたいとも思うよ。卑しい身分の者はならんが、そういう者との接点はなかろう。由緒ある一族の宗家の子息なら、より良い。そして何より、彼女を大切にしてくれる相手でなくてはならん。」
「例えば?」
「家柄の条件だけで言えば……宮宰の息子か、テュールセンの弟息子か? いずれかの叔父上の子息か……いとこ夫婦は気が進まないな。他に高い家門といえば……アナトゥールは、ラザックだからな……。皆に祝福される結婚をさせてやりたいね。」
公妃は詳細を尋ねた。
「宮宰さまのご子息は?」
「……娘が望むとは思えないな。それに二重に婚姻するのは良くない。」
彼は顔を顰めた。確かに性格の狷介な男だ。彼女も強く勧める気になれない。
「テュールセンさまのところは?」
「リュイスは朗らかで気持ちのいい若者だけれど、少し浮ついたところがあるね。」
「では、ラザックシュタールさまは?」
「アナトゥールはラザックだと申しただろう? 諸侯が難色を示す。」
また部族の違いの話かと、彼女はうんざりし溜息と共に話を終わらせた。
「……もう結構です。」
「まだアデレードの結婚は早いよ。悩ませないでおくれ。」
「本当に娘には甘いのだから……」
大公は嬉しそうにして
「父親はそんなものだよ。」
と目を細める。
彼女は苦笑した。優しく家族への愛情が深い彼が好きだった。だからこそ、仲睦まじくいられるのだと感謝もしていた。
「リュイスさまとラザックシュタールさまは仲がよろしいのでしたね?」
「何だ? アナトゥールのことばかり訊くが、興味があるの?」
「そういうわけでは……。最近、お振舞いに理解できないところが目立ちますから、どうなのかと思っただけです。」
「リュイスにアナトゥールのことを尋ねるつもり? 他所の息子さんに説教はしないのではなかったか?」
彼は面白そうに揶揄った。何の察しもついていない彼が情けなくもあり、彼女は再び苛立った。
「そんなことしません。」
「何の話だったかな? ああ、娘が尼僧になったらどうしようという話だった。アデレードは、そんなことにはならないよ。私が立派な伴侶を見つけてやるのだから。」
「そうですか!」
「どうした? 心配せずとも大丈夫だよ。」
彼女は不機嫌そうに応えもしない。何故なのか、彼にはさっぱり解らず
「執務がある。」
と言って、退散した。
公妃はますます落ち着かない気持ちだった。
良家の子女として育ち、国家の決めた相手に嫁いだ。何ら疑問に感じたこともない。
だが、当然そうなるはずの娘は、驚くべき様子である。トゥーリの気持ちも推し量れない。それゆえに疑心暗鬼にもなる。
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