指環
10
その夜は、四人で過ごした。思いのほか骨牌遊びが盛り上がり、それぞれが楽しんだ。
ソラヤはいつもなら咎める時間が過ぎても、ミアイルが起きているのを許した。札が回るたびに歓声を挙げる末弟に、母も兄二人も勝てるように手加減をした。
いつにない夜更かしも限界がある。ミアイルは眠そうにし始め、まだ遊びたいようだったが、さすがに皆に窘められて去った。
ヴィーリも機会を窺っていたのか、末弟と前後して寝室へ去った。
ソラヤとトゥーリだけが残った。
トゥーリは骨牌や敷き布を片しながら、母に語り掛けた。
「ミアイルの元気が出てよかったですね。ずい分しゅんとしていたから。」
彼女も同じように思っていた。苦笑し、頷いた。
「ミアイルは草原を出たことがないゆえ、驚いたのだよ。」
「でしょうね。……ところで、母上はお休みにならんのですか?」
彼女は曖昧な答えを返した。
「そうだな……」
彼は母と二人でいるのが気まずく思え、退出しやすいように言葉をかけた。
「夜更かしはお身体に悪いです。」
「そんなに年寄りではない。」
「失礼。お肌に悪いです。」
彼女は言い返すこともせず、かといって長椅子から立ち上がりもせず、座り込んだままだ。
彼は実のところ、明日の予定を決めており、もう休みたかった。彼女を先にして、最後に部屋を出ようと思っていたが
「私は明日一日出かけます。そろそろ床へ入りたい。」
と告げた。
彼女は探るような目を向けた。
「何処へ?」
静かな問いだった。いつものように、悪行を疑って尋ねているようではなかった。
彼は正直に答えた。
「一度……女の墓を見たいと。早くに行こうと思っていたけれど、踏ん切りがつかなくて。」
それを聞いて彼女はふっと微笑み、目を伏せた。
「ああ……そうするといいと思っていた。」
安堵した口ぶりだった。
彼も気が楽になり、想いを語った。
「身よりもなく中途半端な立場だったゆえ、祀りなどは誰もしていないのでしょう? 祀れと言うつもりはないけれど。」
「祀りなど……大掛かりなことなど望まない娘だっただろう? お前が一日、のんびり墓に添うてやる方が喜ぶだろう。」
「そうですね……。忙しさに感けて……薄情なことです。」
彼は言った直後に拙かったと思った。冷たい男だと容赦なく責められるのだろうと身構えた。
彼女は立ち上がり、彼の横を素通りして窓辺に立った。板戸を開け、黙って暗い庭を眺めている。
彼は母の後姿を見つめた。
長い間に思えた。
彼女は、意外なことを言った。
「……その方がいいのだ。思い出の中に囚われていたのでは、人は前に進めない。忙しいのは神さまのお恵みだよ。」
彼は母の背中に応えた。
「自分を忙しさに追い込んでいたように思えます。」
「自らの心がそうさせるのだよ。」
「どうして?」
彼女は振り向き、窓枠にもたれて彼をじっと見た。
「自分の心が壊れないように。人の心は弱い。愛憎の念に支配されれば脆く、囚われて身動きができなくなる。」
「……そんなのは……」
彼はその後を継げなかった。“女が思うこと”とも言えなかったし、自分は違うとも言えなかった。
彼女は彼から目を逸らし、窓の外に再び目を向けた。
「女より男の方がそうかもしれんな。勇者・トリストラム卿でさえ、愛ゆえに命を落としたのだ。」
「それは物語の中のこと。私はアルテュール王の騎士のように、身を殺したりしません。」
「そうか……」
彼女は板戸を閉じ、元の長椅子に戻った。そして、卓の象嵌をじっと見つめたまま、物思いに沈んでいた。
静かでいつもと様子が違う。灰色がかった青い瞳が、困ったようにくすんで見えた。
彼は落ち着かない気分になった。
「今晩はどうなさった? 聴解師のようですね。」
茶化してみたつもりだったが、彼女は一向に言い返さず
「お前が……辛かったこと、今更ながらに思い出したのだ。」
とさえ言った。
彼は何と答えていいのかわからず、小さく苦笑した。
すると、言ったことを悔やんだように、彼女はいつもの強い目を向け
「でも、心配は要らなかったな。半ば忘却の果てだったとは! この度、思い出したのはよかった。女の墓でさんざん涙にくれてくることだよ。せめてもの罪滅ぼしにな!」
と怒鳴った。
そうでなくては母らしくないと、トゥーリは安堵した。
「泣いたりしない!」
「女に死なれた男は一晩飲んだくれて、泣き潰れるのが礼儀というもの。」
「下々の礼儀に通じていらっしゃるようですな。」
「どうせ明晩は泣きはらした目で帰ってくるに決まっている。想像に難くないわ。」
「……もう寝たら?」
「おや、言い返せなくなったな。」
母が笑った。彼は悔しいやら、腹が立つやらで、溜息まじりに負け惜しみを言った。
「まったく……言い負かして満足ですか?」
彼女はにっと笑った。
「大変気分がよい。このまま床に入れば、幸せな眠りが訪れるであろう。お休み、アナトゥール。」
「ゆっくり明後日の朝までお休みください。何なら、そのまま父上の御許に旅立たれてもいいですよ?」
「そうできたらねえ……できんわ! お前のことが気がかりで、殿さまの許へなどまだ行けぬ。」
「お・や・す・み・な・さ・い・ま・せ!」
「嫌な言い方だ!」
彼女はぱっと立ち上がると、振り向きもせず早足で出て行った。
彼は肩を竦め、灯りの始末を確かめて、ようやく部屋を出た。
翌朝、トゥーリはいつも通り一人で食事をした。
終わり掛けに扉が遠慮がちに小突かれ、ミアイルが顔を覗かせた。
「大きい兄さま、お食事中ですか?」
「いいよ。もう食べ終わった。どうした? 早いね。」
「うん。昨日は楽しかったね。」
「そうだな。また折をみて……。ヴィーは?」
「部屋にいたよ。今日は馬を見るって。」
「そうか。」
ミアイルはぶらぶらと小部屋を物珍しそうに歩き回った。やがて、庭を眺めて歓声を挙げた。
「……大きい兄さまのお庭は、綺麗な花が沢山咲いているね! 何という花?」
「いろいろ咲いている。どれ?」
「黄色いのは?」
「あれは金雀枝だ。詩中の美女の金の髪を金雀枝のようなって言うだろ? あれ。」
「へえ! 桃色のは?」
「あれは石楠花という。」
「白い玉になっているのは?」
「あれか。あれは鈴懸。」
「白い鳥みたいなのは?」
「木蓮。」
「あれ。あの紫色の変わったやつは?」
「糸繰草。」
「そっかあ……」
次々尋ねていたが、ミアイルはどこか納得していない素振りだ。
「何だ? お前、花が好きなのか? あっちには薔薇が咲いているぞ。このところ暖かかったから、蕾が一斉に開いた。」
トゥーリの指差す方を眺めるなり、ミアイルは感嘆した。
「綺麗だ! ぼくにあの赤い薔薇の花を切らせてくれない?」
目をきらきらさせる弟が微笑ましく、トゥーリは快く許した。
「いいよ。」
「ありがとう!」
ミアイルが嬉々として庭へ駆け出して行く。
やがて、三本ほど薔薇の花を持って戻って来た。
「すごくいい匂いがする。」
「棘があるから気を付けろ。取った方がいい。」
「痛いっ!」
「言っただろう? 貸してみろ。」
棘を取って返してやると、ミアイルは嬉しそうに何度も礼を言って出て行った。ぱたぱたと走り去る足音が聞こえた。
突然やって来て、用が済んだら帰るのも素早い。トゥーリは苦笑した。
(慌ただしいな……)
彼は出かける用意をして、屋敷を出た。
城門の外は、見渡す限りの平原である。雲もなく晴れ渡った青い空の下、穏やかな風が新緑を揺らしていた。暖かかった。
トゥーリは囲い地を越えると、ゆっくり馬を歩かせ、秦皮の丘を望んだ。そこは思い出深い場所だった。
去年の夏、リースルは、秦皮の根元にひっそり立って、彼を待っていた。
彼を見つけると、笑顔で丘の上から小さく手を振った。
(抱き寄せると甘い香りがして。小さくて優しくて。……秦皮はそのままだが、リースルはいない。あそこから手を振ってくれることはもうない……)
しんみりと眺めた。
すると、街の方から街道を駆けてくる一騎に気づいた。猛烈な勢いだ。
馬の面皮に取り付けられた金の飾りが、陽光を受けて光った。
(あれは……立派な馬装だな。馬も悪くない。誰かな?)
そのまま眺めていると、その騎馬は奇妙な動きを見せた。
丘には見向きもしないで、真っ直ぐ北へ走り去ったのに、東へ急旋回した。騎馬は丘の陰に入り、見えなくなった。
彼が訝しく思い目を凝らしていると、丘の上の秦皮の側に現れた。騎馬はわざわざ街の陰になる方から上ったのだ。
そして、目深に被った外套を剥いだ。
トゥーリは慌てて馬から下り、灌木の茂みに身を低くした。
(あれは! あの金髪のは……ミアイルではないか!)
秦皮の陰から娘が一人現れた。ミアイルが外套の下から薔薇の花を出した。娘は両手を挙げ、そして口許を覆った。驚き、喜んでいるように見えた。
トゥーリにはミアイルの背中しか見えないが、どんな顔をしているかは想像に難くない。
(花をくれだなんて、おかしいと思ったんだよ……。女の餌に使ったか。色気づきやがって。俺の神聖な思い出の地で……)
彼は、早熟だった自分のことは棚にあげ、そんな勝手なことを思った。
見ていられないと思った。しかし、気にはなる。隠れて見ている所為か、殊更に好奇心が刺激され、彼はじっと観察を続けた。
お互いのことばかり見ている二人は、全く感づかない。
ミアイルが何か俯きながら話をしている。すると、娘が両手で顔を覆った。泣いているのだとすぐわかった。
(下手くそ! 泣かせてどうする!)
ミアイルは首を傾げている。困っているように見えた。
トゥーリはいりいりと焦れた。
ミアイルはゆっくり娘の肩に手を伸ばし、そっと抱き寄せた。
覗きの兄は俄然興奮した。
(それ以上はならん!)
髪を撫でながら話し掛けているようだったが、すぐに二人は身を離し、木の根元に座った。そのまま何か話し込んでいる。
(もうおしまい?)
呆気なかったと思うも、トゥーリはほっとしていた。
(嫌な気分だなあ。弟の濡れ場を隠れて見守るだなんて……見なければよかった。)
彼は複雑な気分で立ち去った。
都行きを聞かされて消沈していた理由が解った。憐れだった。
リースルが埋葬されたと教わった場所は、緑に覆いつくされていた。
立派な墓をつくる文化はない。彼女の身の上ならば、言わずもがな。ほんの目印に平たい石が置かれただけだ。
トゥーリは草むらを分けて探したが、見当たらなかった。
諦めて座り込むと、馬が鼻面を寄せてきた。その時、馬の蹄が固い音を立てた。馬が探していた石を踏んだのだ。
彼は石を撫で、草を毟り取った。
すると、平石の側に小さな丸石が転がっていた。おそらく胎内の子の為に、母の石の側に置かれていたのだろう。
小さな石を摘み上げ、平石の上に載せてみた。母の背に負われる赤ん坊が思い浮かんだ。
(母親の胎内で微睡んでいた、芽生えたばかりの小さな娘は、何か物思うことがあったのだろうか?)
その自問の答えはすぐに得られた。
母に抱かれ、父にあやされる日、生れ出る日を数え、希望だけを見つめていたはずだ。
あやすどころか、名前もない。“娘”としか呼べない。娘であるのかすらも定かではない。
(俺が訪ねてきたことを何と思うのか……?)
彼の幻想の中の“娘”は、妻子を守れなかった不甲斐ない父親であり、目と鼻の先にいるのに、なかなか来ない薄情な父親だと責めた。
リースルと話したことが思い出された。
“男かな? 女かな? ”
“きっと女の子。”
“どっちでもいいや。来年の今頃は、俺は父さまか。”
胸が締め付けられ、目頭が熱くなった。
トゥーリは石のすぐ側に座って、ぼんやりと空を見上げた。
手の内にいた二人は、今生ではもう決して会うことはできない。やっと得たものを、運命は嘲笑うかのように奪い去った。
(雲居というけれど、リースルたちのいる雲はどれなんだろう?)
薄い千切れ雲が高い空を、風に吹かれて流れていく。乗馬はのんびりと草を食み、雲雀が囀っていた。穏やかで温かい春の日。昨年もその前も、ずっと前からそうであっただろう。
人の営みなど、一瞬の出来事でしかない。
往く鷹の翼 支ゆるは 大いなる風の掌
馬肥やす草 芳しく萌ゆ 其は風の力
人と人 吹き寄する風の御業 尊し
愛づる者 去り往きぬ 其もまた風の意思
そんな古詩が思い浮かんだ。
とうとう涙が零れた。トゥーリは大地に額をつけ、声を押し殺した。
馬がぶるっと首を振って頭を上げ、主人の突っ伏すのを眺めて、また草を食むのに戻った。
彼は身動きもせず、蹲り続けた。慟哭だけが漏れ聞こえた。
何千回と、今の彼のような姿を見てきたであろう草原は、素知らぬ顔で時を刻むばかりである。
陽が午後に傾いた。
トゥーリは騎乗し、ラザックシュタールの方向へ馬首を向けた。そして、名残惜しそうに、一度だけ墓を振り返り、走り去った。
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