7

 トゥーリはアデレードと別れて、伯父のヘルヴィーグを訪ねた。
 彼はソラヤのすぐ上の、年の離れていない兄だ。大公の叔父の中では一番若く、城内に詰める近衛とは近しい関係にあった。
 午後の陽が低く差し込む居間。伯父は彼をにこやかに迎えた。衝立で分けられた向こうから、奥方も顔を覗かせ、彼に微笑みかけた。
「ごきげんよう、奥方さま。」
「ようこそ。ゆっくりしていらして。」
 挨拶を交わすと、奥方は衝立の陰に隠れた。刺繍をしているようだった。
 身分の高い婦人は、興味のある客と主のやり取りをそれとなく聞く為に、しばしばそうするのだ。主の方も、婦人が満足するような話運びをしがちになる。
 トゥーリは、話が長くなりそうだと予感した。
「末弟のミアイルを、ゆくゆくは大公さまのお側にと思っています。どうぞ、お力添えをお願いします。」
 そう言って丁寧にお辞儀をした。ヘルヴィーグは満足そうに頷いた。
「草原の者が大公さまのお側に仕えるのは賛成だ。大公家と草原の絆が深くなるのはいいことだからね。ただ、私はそなたの弟には会ったことがない。よく知らないのだ。どんな子かね?」
「末っ子ゆえ、少々子供っぽいところがありますが、素直です。武芸の方は、草原の者と母が多少仕込みました。」
 トゥーリは、弟の武芸の腕をぼかして答えた。基本的なことは知っているから、今後の修業如何であると考えた。
 ヘルヴィーグはソラヤの名前を聞いて、にっこり笑った。
「ソラヤはまだ武具を持つか……。後は宮廷のしきたりなど、私からおいおい教えていこう。」
「何分田舎育ちのことで、粗野な振る舞いが目につくかもしれません。厳しく。」
「うん。それから、そなたの弟ならば心配はしていないのだが、その……近衛はお城の飾りという部分もある。悪いね。こんな言い方をして……」
「容姿ですか? 弟は母親似です。私とは全然違った顔立ちですね。体格は……まだこれからでしょう。昨年、国許を出てきた時は子供っぽかったのですが、私の両親はどちらも大柄ですから、あのままということはないだろうと思います。」
 ヘルヴィーグはあっさり納得した。
「そうだな。」
「では、良しなに。」

 退出しようとするトゥーリを、ヘルヴィーグは引き留めた。宮廷人である伯父夫婦は、やはり他の宮廷人と同じように噂話が大好きなのだ。
「そなたの縁談、流れたと聞いた。何故か? 伯父の私には、本当のところを教えるのだ。」
 噂話に興じるなど、堕落したロングホーンと言われても仕方がない。トゥーリは情けないと内心思ったが、おくびにも出さず苦笑して見せた。
「お耳の早いことで。本当のところも何も。断られたのです。」
「断る理由は何?」
「さあ……」
「祭壇の前で断るなど有り得ない。酷い侮辱を受けたものだ。で、何と申した?」
「ニコール姫は……」
 言い淀むと、伯父は身を乗り出した。
「何?」
「男と結婚するのは嫌だと仰いました。」
「女と女は結婚できん。」
 ヘルヴィーグは自分の相槌に笑ったが、トゥーリは不出来な冗談だと舌打ちした。
「当たり前でしょう。最初は、私のことを嫌だ嫌だと仰っていたけれど。結婚制度がお気に召さないようで、私は元より他の誰とも結婚はしないとか。ご両親と私とで説得したのですが、どうしてもならんと仰っいました。結婚するくらいなら、尼になると仰ったのです。」
「結婚前の娘は、いろいろと気持ちが乱れるものだよ。もう少し上手く説き伏せたらよかったのに。」
「はあ……力及ばず、申し訳ない次第です。」
 ヘルヴィーグは残念極まりないといった溜息をついた。
「折角の妙案。いい話だったのに。」
 そう思うのは宮廷だけだろうと、トゥーリは冷めた気持ちだった。
「残念ですね。でも、結婚後に舅殿と上手くやっていけたかは疑問です。あちらもそうでしょう。」
「気持ちは解るよ。でも、我慢して。」
 トゥーリが長い溜息をつくと、ヘルヴィーグは、手のひらを鳩尾の辺りに翳して
「これくらい小さい坊主の頃からだったな。」
と言い、気の毒そうに続けた。
「いろいろと意地の悪い扱いをされていた。可哀想だったよ。」
 トゥーリは顔を顰めた。謂れのない侮蔑的な扱いを軽く言われたのが不愉快だった。
「子供の頃のことは言いませんよ。宮宰さまは上席だと仰って、殊更に私のことを低くご覧になる。子供の頃はまるで従者、長じては手下の傭兵……」
 そこまで口走って拙いと思い、彼は咳払いをし苦笑した。
「あれ? 要らぬ愚痴を申し上げました。聞かなかったことに。」
 そして、伯父の表情をこっそり窺った。伯父は困った顔をしたが、咎めることまではしなかった。
「まあね。……ロングホーンの貴族の中には、ラザックを下に見る者もおる。我々よりも古い血筋を誇るそなたらには、我慢がならないだろうね。」
 気安い伯父相手であっても、これ以上は口を滑らせてはいけない。トゥーリはちゃんと弁えていた。
「……人は自分と違うものを、自分と同じようには扱えないものです。それでも、大体の貴族たちには、良くしてもらいましたから。」
「宮廷で、いつまでも外様の、草原のと陰口を言われているつもりかい? 何処か……釣り合いの取れる一族の娘と縁付いたらどうかな?」
 トゥーリは、伯父は結局のところ、差別する側にいるのだと知らされた思いがした。
 そういうロングホーンの貴族の家などない。彼らは、娘を草原に嫁がせるなどと考えることもない。下った家系の者ですらそうだった。
 ヘルヴィーグのように寛容な考えを持ったとしても、大多数は理解を示さない。同胞の顔色を鑑みて、結局は許さないだろう。
 縦しんば嫁がせたとしても、差別の向かう対象が増えるだけだ。
 他方の草原では、他部族との通婚は普通にあった。結婚についての禁忌は、奴婢との間だけだった。
 元は同じであった二つは、この点でもすっかり習俗を異にしている。
 安直な歩み寄りは、何も解決しないのだ。

 だが、トゥーリは議論を控えた。
「はあ……どうでしょうね。」
「気の乗らない顔をしないで。テュールセンの娘は? 親しいだろう?」
「あの方はご多忙なご様子。」
「男友達が大勢いるようだね。父親が息子たちと一緒に仕込むから、心根も自ずと男になるのだよ。姫君というより若君だな。」
 ヘルヴィーグは笑った。
 その通りなのだが、トゥーリは断言される彼女が憐れに思えた。
「いやいや。ヴィクトアール殿は、案外女らしいところがあります。」
「姉御肌というのかねえ。取り巻きの男どもには、よく慕われているようだね。美人じゃないか。男装の麗人といったところか。背格好も釣り合いがいい。何よりテュールセンのところは、そなたのところに恩義を感じている。おかしな意識もない。あの姫とどうか?」
 軽い調子だった。ヘルヴィーグも本気で言っているのではなさそうだった。
 トゥーリと彼女は結婚を意識する仲ではない。そもそも、彼女は誰かと結婚することを望んでいない。
「……奥方の間男の顔を覚えきる自信がありませんよ。」
「結婚したら治まるよ。」
 そんなことを言って、ヘルヴィーグは笑い出した。
「それ以前の問題だろうが……」
 ぼそりとしたトゥーリの呟きは、笑い声にかき消された。
「何か申したか?」
「いや、独り言。ヴィクトアール殿は嫌いではないけれど、夫婦になるのはちょっと……」
「なら、我が血縁から。ロングホーンの公女のうちの誰かを。大公家の外戚になってはどうか?」
「外戚も何も……。私の母は、そのロングホーンの公女ですよ。もう姻戚関係にあります。」
「二重三重に姻戚結ぶのだよ。」
「はあ……」
「そなたは好みがうるさいのかな? えり好みしていると、奥方をもらえないよ。」
 ヘルヴィーグは苦笑している。好みも何も、トゥーリは親しくしていないのだから、答えようもないだけだった。
「別にそういうわけでは……ロングホーンの公女さまは、どの方もよく存じ上げません。何も申せません。」
「よう知らんと言っても、夜会に行ったらいるではないか。私の上の兄のところから私のところまで。上は三十過ぎ……これは後家だし歳が上すぎる。却下だな。下は十二・三歳まで。どれがいい?」
 伯父は予想外にしつこく勧める。
「ひと山なんぼですか? もういいです。」
「何を申す。重要なことではないか。そうしなさい。そなたの母も姪が嫁なら、そうそうきついこともしないだろう。」
 トゥーリはうんざりした。ただ、予てよりの疑問をぶつけてみたい気分になった。
「考えておきます。……あの……」
「何かね? 若いのがいいか?」
「そうではなくて……。私の母のことですが、何故父のところへ?」
「ソラヤが迫った。」
 そう言って、ヘルヴィーグはにやりと笑った。
 聞くなりトゥーリはげんなりした。真面目に話すつもりがないのなら、これ以上の長居をする必要もない。
「さようですか……。それでは……」
と立ち上がった。

 ヘルヴィーグは慌てて止めた。
「嘘だよ。冗談だ。やっぱりって顔をしなさんな。」
 トゥーリは立ち止まり振り返った。伯父は少しだけ悔やんだ様子に見えた。
「本当のところは?」
「よう知らんのだよ。ローラントはあまり話をしない男だった……でも、歳の近い私とは割と話したかな。親しい方だったと思う。だが、全く気づかなかった。ある日突然、ソラヤと結婚したいと言い出したのだよ。“可愛い”などと世迷い事を……すまんね。そなたの父には、ソラヤが可愛く見えたようだよ。惚れていたみたいだったね。」
 彼の言葉の中には、トゥーリの理解を超える単語が含まれていた。耳を疑った。気分が悪くなり始めてもいた。
(父さま、やはり気が狂っていたか……)
 だが、興味がある。伯父も話したいようだった。
 彼は元の椅子に座り、先を促した。
「母は?」
「ソラヤはねえ……嗚呼、あの妹は! 私の姉妹の中で、誰よりも美しく生まれついたのに。私は気づいていたがね。妹の本性に……」
 ヘルヴィーグは言葉を切り、にやりと笑った。
 トゥーリは白々と先を促した。
「どんな本性?」
「多くは語らない。そなたこそ、よく知っているだろう? 類稀なる美貌の下の獅子の心……」
 芝居じみた台詞と大げさな仕草で、伯父が麗々しく言う。トゥーリはますます気分が悪くなった。
(美貌かどうかは知らんが……、獅子の何とかってのは、嫌と言うほど知っているさ。獅子どころか鬼だよ!)
 彼はそう言い返したかったが、控えておいた。
 ヘルヴィーグは懐かしそうに、話を続けた。
「それでもね、子供の時は皆騙されていたよ。馬や武具に興味を持つ変わった娘というだけで。お気楽な連中は“ワルキューレですな”なんて。長じて、縁談が出る頃は……」
 トゥーリは鼻に皺を寄せた。
「縁談?」
「最初の話があった時、ソラヤは試したいと申して、相手を馬場に連れ出した。」
「馬場?」
「どれほどの腕前かということだよ。……私の父は美しい末の娘には甘かった。で、打ち合って落とした。」
 それは有り得ることだが、実際に言われてトゥーリは驚いた。
「え?」
 ヘルヴィーグは、上手く話が伝わらなかったのだろうと勘違いし、詳細を語り始めた。
「そなたの母が、求婚者を打ちのめしたのだよ。止めておけばよかったのにね。私は知っていたよ、ソラヤの腕前。女だてらにやたら強いの。本気で対峙しないと負けたもの。相手は力不足だった。落馬した男の頭を踏みつけて……何と申したと思う?」
「……“それでも武名高き何とかか! ”とか、そういうのですかね?」
「ああ、惜しいな。そなたはそういう感じで言われたのか? “見苦しい! 二度と私の前に現れるな! ”だよ。」
 ヘルヴィーグは大笑いしていた。
 トゥーリの想像通りだ。思い浮かべたのと寸分違わぬ若い母に、げんなりを通り越して、本当に胸が悪くなってきた。
「……もういいです。恐ろしい話。これ以上、聞く勇気がありません……」
「あの妹の息子にしては怖がりだね……。ソラヤは万事その調子。床に就いた父が嘆いても、平然と“私の夫たる者は、本物の男でなくてはならん。私は自らで己の伴侶を選ぶ”と宣言した。」
 トゥーリには、眉間に皺の寄るような話である。実に楽しそうに話せる伯父を理解できなかった。
「その怒れる女戦士が何故? 私の父は、母を打ち落としたのですか?」
「いや、あの二人は勝負していない。」
「え?」
「だから、ようわからんと申したのだ。」
 トゥーリには、もっとわけがわからない。
「……春先の怪談ですなあ……」
「ローラントの方は……。彼はよく若い姫君に囲まれていたよ。お上手を言う必要もないのだから、実に羨ましかった。惚れ込んでいる姫君が大勢……。一番はほら! 次兄の娘。ギネウィス。彼女といい仲なのだと皆思っていた。」
 トゥーリの聞きたくない名前であり、話である。
「そうですか……」
 ヘルヴィーグは首を捻り、虚空を見上げながら
「何故、ギネウィスにしなかったのか……? 美人で女らしくて。少し歳は離れていたけど。皆、ギネウィスにしておけと忠告したのにね。」
と言った。
「さあ……」
 トゥーリは気のない相槌を返したが、伯父は更に聞きたくない話を続ける。
「ギネウィスは酷く落胆して……死ぬの生きるのと嘆いた。次兄は恨んだだろうね。愛娘を蔑ろにしたと……。といって、縁遠い末の妹をもらってくれるのだから、文句も言えない。」
「そうですか……」
 もう止めてくれと思ったが、話は終わらない。
「ギネウィスは当てつけのように、年寄りの外国人なんかに嫁いたんだ。早々に後家になって……。愚かなことをしたものだよ。」
「私の母も早々に後家になっています。」
「でも、子供が三人もいるんだ。生きる楽しみがあるというもの。ギネウィスは、亡夫の菩提を弔っているだけの寂しい身の上だ。次兄は、ローラントのことをずっと託っていたよ。」
「……すみません。」
「そなたが謝らんでもよろしい。」
「だからでしょうかね? ウェンリルの伯父上のところは、敷居が高くて。」
「思い込みだよ。次兄はそなたのことを気に留めているよ。宜しくやっているようで重畳と。一度、顔を見せてはどうか?」
「ご尽力いただいたのに破談にりました。行き辛いです。」
「そうだな。……しかし、本当にローラントに似てきたな! その姿で現れたら、次兄は複雑な気持ちになるだろうが、ギネウィスは懐かしがるかもしれん。」
 トゥーリは、嬉しそうに揶揄う伯父を睨みつけた。
「そんなことはありません!」
「どうした? 大きな声出して? 昔の想い人がそっくりそのまま、いや若くなって現れるのだ。きっとよくしてくれる。」
 ギネウィスの話だけでも、トゥーリには複雑なのだ。父親を絡ませられると、余計不愉快だった。彼は早く話をまとめて帰りたかった。
「どうしたんだい? 目許を赤くして。……よからぬ想像をしただろう? そこまでよくはしてくれないよ。若いっていいね。」
 ヘルヴィーグは、にやにや笑った。
 トゥーリは奥歯を噛み締め、感情を押し込めた。
「そんなことは考えておりません。」
 淡々と応えたかったが、どうしても感情が入った。
「可愛らしいね。それにしても、こんなに父親に似た子も珍しい。若いローラントと向き合っているようだ。黙って立っていれば、二十年前かと錯覚するよ。もうそんなになるのかな? ……二十年?」
「そんなには経っておりません。」
「……長いようで早かったね。ローラントが急死したのが、昨日のことのようだよ。子供のお下げ髪のそなたがもう縁談の出る歳で、ソラヤの胎内にいた末弟はやがて一人前か。私が年寄りになるのも当然だな。人の一生は一炊の夢か……。末弟はローラントの顔も知らんのだな。憐れな。」
「弟は父の没後に生まれましたから。そうはいっても、私も父の顔は覚えていません。母は何も話してくれないし。」
「ローラントの顔? 鏡を見たらわかるではないか。声も似ているな。自分と話せば、気分になれる。」
 上手い冗談を言ったとばかりに、伯父は大笑いした。トゥーリは笑えない。
「伯父上、どうせなら、父の人となりをお聞かせ願いたいのですが?」

 ヘルヴィーグは思案顔になった。話していいものか悩んだのだ。
 トゥーリには訝しい間が過ぎた。
「ローラントか……。そうだな……あの頃、草原は天候のよくない年が続いていた。冬になると、氏族間でよく争いが起こったのだ。ローラントはその度に宮廷を辞して、草原に戻った。……熱心に聞いているね。そなたなら、そういう場合どうする?」
「調停して、食いつぶした氏族に施しをします。」
 それ以上正しい答えは、なかっただろう。
「うん、うん。大公さまの臣下ならば、それが正しい。」
「小さな争いでも、順位の高い血筋から死人が出たら復讐につぐ復讐で、収拾がつかなくなります。」
「草原は気位が高いからな。でも、ローラントのやり方は違った。やり合わせるのだ。」
 それは絶対にしてはいけないことだった。トゥーリは驚いた。
「何ですって? そんな大暴れをさせては、大公さまがお怒りになる。」
 ヘルヴィーグは頭を振った。
「今の大公さまが即位なさったばかりの頃だよ。それに、大公さまは何と申したらいいか……優しいご気性だからね。叔母の夫を、頭ごなしに叱りつけることはお出来にならん。」
「それにしたところで、拙いですよ。」
「ローラントにとっては、軍勢の鍛錬の一環だったのかもしれない。そんなやり方でも、何がしかの秩序は生まれてくるんだな。」
 トゥーリには、考えもよらない思想である。彼は戦が好きではない。強い者が問答無用に支配するのも感心しなかったが、自分はその強さの上に立っているのだ。父親の考え方を否定しきれなかった。
 今の草原は、父親の頃と違い、実りが十分だった。食い詰めるということを彼は知らない。そういう状況では、奪い合わざるを得ないのだろうかと考えた。
(でも、俺はそう易々と“やり合え”と命令はできないな……)
「私とは、まったく違う人種だったということですなあ。」
「そうかな? まあ、あの頃の草原の騎兵が凄かったのは確か。隣国のキャメロンと境を争った時、最後にはとうとう……」
 キャメロンの王国との小さな争いについては、トゥーリも知っていたが、すっかり終わった話だ。今では何の遺恨も聞かない。だが、伯父の語り口は不穏だった。
「何?」
「ローラントは、高々五旗のラディーンを連れてキャメロンに侵攻した。おかげで、今は随分向こう側に境が引かれている。」
 また予想以上の話が語られた。
「そんなことまで……! よく治まりましたね!」
「そなたは父親の業績を何も聞かされていないのだね。キャメロンは完敗なのだから。おまけに、まだ食い足りないとばかりに草原の狼が睨みつけている。荒野の境が少しずれただけだ。黙っていて正解なんだよ。」
 トゥーリにはそんな荒事はできない。もう言葉がなかった。
 ヘルヴィーグは、甥の驚き呆れる顔を面白そうに眺めた。
「大人しそうな顔をして、やることはこっちの予想以上のことをしれっとしてくるのだから……。父に倣って、どこぞの国に攻め込まないように。」
「しませんよ! そんなこと。計画しただけでも、監獄から招待状が来るんでしょ?」
「そうそう。先だってのようなはねっ返りはならんよ。……正直驚いた。宮宰などは、“本性が出た。父から継いだラディーンの血が騒ぐのだ”と大喜びしていたけどね。」
「父の生母は、確かにラディーンの女ですが……」
「ローラントの生母、大変な傾城だったそうだ。よく似ていたそうだが、それを言われるのは嫌がっていたね。」
 祖母のことなど、まったくトゥーリは知らない。父はともかく、祖母を気にしたこともなかった。
 父が容姿について、彼と同じように感じていたとは意外だった。伯父の話を聞いて、逆立ちしても敵わない大胆不敵な父だと見上げるように思ったが、急に近しさが湧いてきた。
「そうですか……」
「そのラディーンの血筋かな? 昔から傍流のラディーンの方が、気が荒いので有名。」
「“左利きのアナトゥール”の戦で、断絶寸前になりながら尚引かなかったというのが、ラディーンの誉とするところです。今後気をつけますよ。祖母から受け継いだ狂犬の血が騒がないようにね。」
「厭わしい顔をせずとも良い。そなたの父は、普段は物静かな男だった。どちらかと言うと、ぼんやりしていることが多かった。そなたもよく、朝議でぼんやりしているだろう? 知っているぞ。」
 ヘルヴィーグはそう言ってにっと笑った。
「……注意することにしましょう。」
 伯父は満足そうに頷いている。トゥーリは、話が終わったのだと判断した。
「……長居しました。私はこれで失礼します。弟の件よしなに。」

 ヘルヴィーグはトゥーリが立ち上がるのを眺めていたが、思うところができ食事に誘った。
「ゆっくりしていきなさい。一緒に夕食をどうかね?」
「私は躾けがなっていません。他人と食事するのは苦手です。」
「そなたは他人と逆向きだったね。気にしなくとも、私は何も思わぬ。」
「伯父上が思わんでも、私が気になるのです。」
「“左利きのアナトゥール”……。良いではないか。誉れ高きご先祖と同じだ。」
 気楽に言われれば言われるほど、やるせない気持ちになった。左利きであることと名前のことと。先祖の英雄に結び付けられて揶揄われてきたのだ。良いと思ったことなど、彼にはない。
「そうお思いになる?」
「ああ。」
「ラザックの老ヤールなどは、その名前を非常に畏れています。私が戦場に出るときには精進して、お社に献金したり、“金髪のアナトゥール”の墓所に犠牲を奉げさせたりして、障りを受けないようにしているようです。迷信深くて困ったものですよ。」
「特別な思い入れのある名前なのだろうよ。ローラントらしいよ。その話が好きだったもの。」
「ご先祖のお名前を頂戴したのだろうと皆は言いますが、違いますよ。私は日の出と一緒に生まれたので、東から上りくるもの(アナトゥール)なんです。母がそう申しました。」
 これ以上引き留められないように、トゥーリは扉へ歩き始めたが、ヘルヴィーグがまた止めた。
「待て、アナトゥール。この際、私の娘とどうかね?」
 トゥーリには面倒な話である。迷惑ですらあった。
「ええ? 私はしばらく独り身でいます。それに、従兄妹夫婦はあまり勧められないと聞きました。血が澱むとか……。せめて、もう一筋伸びていないとね。」
「本気で申したわけではないが、冗談でもない。結婚のことは考えるように。我が血筋からだぞ。」
 ヘルヴィーグは、それこそが同化の一歩だと信じ切っているのだ。実際の困難までは考えていない。
 トゥーリは真っ向から反論することは避けた。
「ええ。ロングホーンの公女さまね。三十過ぎから十二・三歳までいるんでしょう? ……どの方とも、いとこ夫婦になってしまいますね。」
「大公さまの妹君に二人。そなたから見たら、従姉の娘だ。一筋伸びているよ。」
「妹君の上の姫は年上、下の姫は子供ですよ。」
「年上といっても、そなたより数か月だけではないか。贅沢だねえ。何ならアデレードさまにするか?」
 彼はぎくりとしたが顔には出さず、努めてさらりと受け流した。
「アデレードさまのような位の高い方は、いただけないでしょう。大公さまは、もっと使い道のあるところへ嫁がせたいとお思いでしょうよ。」
「何を使い道と考えるか。だろう?」
「……一品の公女さまをご降嫁いただくと、対価が重いです。……もういいですか?」
「やはり帰るか。水臭いね。」
「食事はまた今度に。いろいろと取り込んでいますので、お暇いたします。……奥方さまもごきげんよう。」
 トゥーリは衝立の向こうの伯父の妻も会釈し、退出した。

 ヘルヴィーグの妻は、もう我慢ができないという様子で話し始めた。
「宮宰さまのご息女、ニコールさまと仰いましたか。随分思い切ったことをなさる。あの立ち姿麗しい方に、心動かされなかったのでしょうか?」
「そなた、面食いだったのかね?」
「あなたと結婚しているではないですか。」
「どういう意味?」
 奥方は軽く笑って、それには答えず続けた。
「ローラントさまのお話、熱心に聞いていらしたわね。覚えていらっしゃらない分、少しでもお知りになりたいのでしょう。可哀想に。……本当にローラントさまにそっくりで。見ていて、わくわくしましたわ!」
「何だ? ローラントに惚れていたのか。」
「嫌なことを仰るわね。憧れていたのです。物静かで麗しく、勲の高い……あんな亡くなり方をなさって……佳人薄命と言うけれど、本当なのだと思いました。」
 彼女はしんみりと語った。
 ヘルヴィーグも、ローラントの急逝に接した時の気持ちを思い出し、苦い顔になった。
 彼女は夫の表情を見取り、ローラントの話を続けるのは止めた。
「でも、お姿はお父さまでも、言うことはソラヤさまみたい。それとも草原風なのかしら。あけすけな物言い。まだお若いからかしら。……そうね、結婚して落ち着くには、まだお早いですね。」
 トゥーリの様子を思い出すうちに、二人ともに微笑みが浮かんだ。
「まあね。まだ遊びたい年頃だろう。といっても、妻は草原からではなくこちらから。やっと入ったロングホーンの血だ。薄めてはならん。」
 彼女は頑なな彼を、それとなく諭した。
「でも、歳が上とか下とか。どの方にも興味がなさそうね。婉曲にお断りしたというところでしょう。」
「政略にはうんざりしたんだろうよ。押し付けられた妻は嫌なのだろう。草原の者は気位が高いから。困ったね。」
 だが、彼女にはふと気づいたことがあった。
「でも……アデレードさまのことは、少し違ったようにお答えでしたね。」
「身分が高すぎるとか、対価が重いとか申していたではないか。嫌なんだよ。」
 彼は、トゥーリの答えを言葉通り捉えているが、彼女にはそうとばかりも思えなかった。
「そうかしら? 満更でもないのかと思いました。仲が良かったし、お好きなのかと。」
「子供の時のことだろう? 今は、テュールセンの娘との方が仲が良いのではないかな?」
 二人は、ヴィクトアールの奔放さを必ずしも良いとは思っていなかったが、厳しく咎めるほどではないと思っていた。彼女は相手のいる男とは関係を持たないからだ。
 奥方は苦笑した。
「あの元気な姫君ね……」
「元気すぎるよ。」
 二人は愉快そうに笑った。



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