6

 アデレードにとって、この三日は胸の苦しい時間だった。喜びと不安、後ろめたさ、切なさ。様々な感情が次々に湧き、一時として落ち着かない長い時だった。
 約束した日だ。トゥーリは指環をどうやって受け取るつもりなのか、彼女には想像がつかない。しかし、これ以上持ち続ければ、激しい感情の起伏に耐えられないと思った。
 昼食を終えたばかりの午後、彼女のいる奥向きが少しだけざわついた。他の翼の女官が現れ、彼女の女官を何人か連れて行った。急な来客の準備に借り出されるということだった。
 侍女が二人いたが、一緒に過ごす気になれなかった。緊張が頂点に達しているのだ。指環も、下手すれば見つかる場所に移してある。何か気づかれることを恐れた。
 彼女は二人を去らせ、一人で庭園に出た。
 立木には新芽が芽吹き、ごく日陰の融け残った雪の間にも黒く湿った土が顔を覗かせている。陽のよく当たる場所には紫色のクロッカスが咲いていた。
 彼女は立ち止まって花を見、紫色の花弁に触れた。
 その時、男の声が聞こえた。彼女の部屋から男の声が聞こえることはない。とすると、庭を接する隣の、ソラヤの翼だ。
 そこは、現在の主とも言えるトゥーリが草原に帰る為に、戸締りがされているはずだった。彼女は鼓動の速くなった胸を抑えた。
 ゆっくりと目の前の垣を分けた。こちらの金柵の先に、小さな溝を挟んで隣の金柵がある。その内側には、樫の木立とこんもりした沈香の茂みが見えた。
 建物の方から、髪の長い男が歩いてきた。ラザックの近習だとすぐ判った。近習は、彼女の見ている先の茂みの前で立ち止まると、すっと身を屈めた。
 彼女が幼い頃から何度も聞いてきた、シークにする挨拶の文言が聞こえた。もう間違いがない。
(すぐそこにトゥーリがいるのだ。)
 彼女は、音を立てないように慎重に垣から手を離し、背を向けて鳴りを潜めた。
 使いが現れたと近習が述べた。
「では、伯父上に会いに行くゆえ、お前は同道せよ。用意をして参れ。」
 そう言う彼の声がはっきり聞こえた。彼女は叫び声を何とか堪えた。
 近習が復唱し立ち去った。彼女はじっと様子を窺い、近習が戻ってこないと判断すると、再び垣をそっと分けた。
 彼は腰掛に座り、ぼんやり庭を見つめているようだったが、気配を察したのだろう、呼ぶまでもなく振り返った。
 彼はすばやく周りを確かめると、金柵の側に寄った。
 彼女も周りに誰もいないことを確かめて、垣の間に身を滑り込ませた。
「トゥーリ! 何から話していいことやら……縁談が壊れたって本当なの?」
「本当だよ。」
「何故?」
「一言で答えにくい。」
「いじめたでしょう?」
 アデレードは苦笑したが、トゥーリは笑いもせずに館の方を再び確認し
「話している暇はない。表向きこちらに非はない。心配するな。あれは?」
と言った。
 彼女は黙って、帯に挟んだ香入れを引き出した。下げ紐に指環を通して帯の裏に隠し、いつでも直ぐに取り出せるようにしていたのだ。
 だが、出した拍子に、陶製の香入れに指環が当たった。固い音がした。
 二人ともびくりとして自分の後ろを振り返り、誰も来ないのを確かめて、ほっと息をついた。
 早口の話が続いた。
「ずっと帯に?」
「今朝からはね。初めは靴下止めに通していたの。でも引っ掻いてしまって。」
「えっ! 大丈夫か?」
「ええ。でも、お母さまが私の様子がおかしいって。靴下止めなど弄るなと仰って……」
「見つかってしまったのか?」
「いいえ。それは大丈夫。誰にも見つかっていないわ。お母さまにも侍女たちにも、女官にも……。でも、見つかりそうで気が気ではないわ。」
「何て不自由な身の上なんだろう!」
「トゥーリの方は?」
「……ある意味、俺の方が拙いかもしれん。」
「何?」
「ラザックのじいやに……」
 アデレードは慌てて訊いた。
「知られてしまったの?」
「最後まで聞けよ。何もお前のことが知れたわけじゃない。俺の指に指環がない理由に気づいた。全く! あの年寄りは鋭いのだから……」
「そうね。老ヤールは誤魔化せない。お母さまは大らかだからいいけれど……」
「心配しなくても、お前のことまでは感づいていない。」
「ええ……もう草原に帰るの?」
「うん……」
「これを返さないとね……」
「すまない。面倒なものを渡したりして。」
「ええ……いいえ……」
「さあ……」

 アデレードは指環を握り締め、トゥーリを見つめた。やがて涙が零れ出した。
 涙が頬を伝うのを、彼は黙って見つめた。
 彼は切なさに耐えかね、目を逸らした。
「また泣く……。柵の間から腕を出せるか? 俺はちょっときついから、お前が頑張って手を伸ばして……」
 彼女は涙を拭い、金柵の間から手を伸ばして指環のやり取りを試みた。
「ちょっと私もきついわ……」
「落としたら事だ。お前の方が腕が細い。もう少し……」
「これ以上は無理……」
「腕が抜けなくなるのもなあ……」
 二人とも限界まで腕を入れた。指先は触れそうで触れない。
「そのまま指先使って、俺の手の中へ落とせ。少し弾くようにして……」
 彼女は溝に指環を落とすのが心配で、躊躇した。
 彼はじっと彼女を見つめ頷きかけた。
 彼女は意を決して、彼の手をめがけて指環を落とした。
 指環は危うく滑り落ちかけたが、彼は何とか示指と中指で挟み取った。
 彼は彼女に小さく笑いかけた。彼女は長い息をついた。
 彼は指環を挿し、陽に翳して眺めた。
 そして、意外そうな顔をし、しみじみと呟いた。
「初めて気づいた。この石は、お前の瞳と同じ色をしている。これから見る度に、お前を思い出すだろう。」
「……トゥーリばっかり。」
「何が?」
「あんたは縁が欲しいと言って、それを私に渡した。満足でしょう?」
 彼女は不満顔だ。彼は笑いを堪えた。
「満足だよ。お前は俺の縁が欲しいのか?」
「……別に。」
 彼には、彼女が心とは裏腹なことを言っているのが、よく判った。だが、しんみりとした話をする気にはならなかった。
「この前、短刀をやった。あれなら誰のものとも判らん。堂々と持っていられる。抱いて寝てやってくれ。」
と言って、笑った。
 彼女は眉を顰めた。
「嫌な人! 女官が変に思うじゃない。」
「護身用とか言って。枕の下に入れておかないか?」
「入れないわよ。私の寝室にどんな曲者が入れると言うの。」
「そりゃ……いろいろ。お前の崇拝者が思い余って乱入とか。」
 彼はさも可笑しそうに言う。彼女はむくれて言い返した。
「そんな人、いるわけないでしょ!」
「では、俺は?」
「乱入するの?」
 いつものように更なる意地悪を言うつもりなのだろうと彼女は思ったが、彼は急に真面目な顔になり
「いや……しないけど。今のお前と俺の関係って何なのかな? こそこそと、こんなところで。」
と呟いた。
 それは、彼女も同じように思った。常々、会うだけならば自由であってもいいのではないかと思っている。
「そうね……」
「密会というには色気がない。顔を合わせたから、世間話という風でもない。お前と俺って、一体何なのだろう?」
 彼女は考え込み、口に出すのは恥ずかしい言葉であったが、思いついたことを言ってみた。
「……人目を忍ぶって仲ではないよね。」
 彼は目を伏せ、苦笑した。
 そして、二人は見つめ合って、相手が何か言うのを待った。
「やはり……大公のたった一人の娘が、特定の男と親しそうにしているのは拙いんだろう。忍んで正解だよ。」
 諦めたように彼が言うと、彼女は抗弁した。
「一緒に育ったわ。親しくても当たり前。急によそよそしくする方がおかしいのよ。」
「大人になったのだから一応ね。それらしくしないと。」
「それって、何だか寂しいわ……」
 二人とも切なかった。素直に思ったことを表明できた彼女も切なかったが、同意を伝えられない彼は切ない上に辛かった。
 俯き黙り込む彼を、彼女も黙って見つめ続けた。

 アデレードの足許に、白と紫のクロッカスの花がいくつか咲いている。
 トゥーリは花を見つめ、微笑んだ。
「その花……その小さい花が咲くと、小さなお前は泣きべそをかいた。遊び友達が遠い草原へ帰ってしまうから。」
 彼女も苦笑し、足許の花に目を落とした。
「すねていたら、少し待ってくれないかと思ったわ。」
「……帰ると、草原は春爛漫で、真っ白の野いちごの花が咲き始めている。今頃そんな様子だろう。やがて、一面に……雪が降ったように咲く。」
 それは、よく聞いたことだった。聞く度に、彼女も見たいと思った。
「とても美しくて。いつかお前に見せてやりたい……」
 彼ははふっと笑って、目を伏せた。
 彼女もしんみりとし、黙り込んだ。
 離れがたい。しかし、いつまでもそうしてはいられない。
「あの……今から伯父のところに行かなくてはならないんだ。」
「ええ……」
「何だい? この前は冷淡だったのに。今日は違うんだね。」
「あの時は、婚約直前だったじゃない。今日は……」
 彼女はその先を言い淀んだ。
「今日は?」
 彼は真意を聞き出したかった。彼女は視線を彷徨わせた。本音を言えば、彼はまた揶揄うようなことを言うだろうと思えた。
「もう帰省してしまうから。寂しいなと……子供の頃のように思ったの! それだけ!」
「なあんだ。優しいから期待してしまったよ。……寂しがらなくても、その花に似た花が咲くころには、舞い戻ってくるよ。」
 彼は内心がっかりしたが、不思議な安堵感があった。
「似た花? サフラン?」
「そういう名前だったね。しっかりサフランを摘んで。お前は年の割に発育が悪いようだから。」
「え?」
「じゃあね。あまり遅くなると、女官が心配して探しにくるぞ。薄い胸をしたアデル。」
 彼女はたちまち赤面し、慌てて上着を掻き合わせた。
 彼は笑いながら立ち去った。

(トゥーリはいつも、去り際に意地悪を言うんだから!)
 そう思いながらも、彼女は胸元をこっそり覗いた。食べても食べても薄いままの胸に溜息が出た。胸が小さいのは気にしていた。
 女らしい身体を作るというサフランの花。本当に効果があるのだろうかと、よく似たクロッカスの花を眺めた。
 かつて、クロッカスが咲き始めるのを見て、彼に泣いて訴えかけた言葉。
「連れて帰って。一緒にいて……」
 思わず言葉に出していた。



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