5

 アデレードは、公妃が気分を害した話を知りたかった。だが、公妃には厳しく拒否されている。
 ほとぼりが覚めた頃に、再び尋ねてみようと思ったが、夕食時に父の顔を見て、彼に直接訊けばいいのだと思いついた。
「お父さま。お昼に、お母さまのご居間でお話ししていらしたこと。何のお話でしたの?」
 ただ今思い出したという風に尋ねた。
「おや? 公妃に聞いたのではないか?」
「いえ。お母さまは何やらご不興のようで……私には関係のない話だと。」
 公妃が手を止め、彼女に厳しい目を向けた。
「およしなさい。不愉快な話です。食事が進みません。」
「気持ちの悪いお話なの?」
 大公が公妃の気持ちを代弁した。
「いいや。公妃は、その話自体も愉快ではないのだろうが、それよりも、人々が面白おかしく話を広げていくことが、厭わしいのではないかな。」
「そうです。無責任な枝葉をつけて、そこかしこで話し合うのがね。卑しいことです。」
 公妃は鼻に皺を寄せて、さも嫌そうな顔をしている。
「では、枝葉の付く前の話を私に教えて。」
 アデレードは、無邪気さを装って聞き出そうとした。公妃はよほど嫌なのか
「公女さま!」
と留めた。しかし、娘に甘い大公はそれを制した。
「よいではないか。まんざら関わりのない話でもない。」
 公妃は眉を顰めた。
「どのような関わりです?」
「ほれ、姫と当人はよう知った仲だ。」
 アデレードは、急な胸騒ぎを感じた。
 その見当は、公妃の応えを聞いて決定的になった。
「大昔にはね。」
 アデレードは震える声を悟られぬように、短く答えを促した。
「何?」
「アナトゥールの縁談が破談になったのだよ。」
 彼女は叫び出しそうなほど驚いたが、辛うじて取り繕った。
「どうして?」
「ニコール殿が、結婚を望まないのだとか。アナトゥールとも他の誰ともね。輿入れするなら、神さまのところへ輿入れすると申したそうだ。随分と固い決心らしいよ。」
「ニコールさまは尼僧になられるの?」
「決心が変わらなければね。」
 彼女は目の前の食事に目を落とした。そして、肉を突きながら序でに訊くとでもいう様子を装い、一番知りたいことを尋ねた。
「では、ラザックシュタールさまは?」
「どうもこうも……引っ張って、無理やり婚礼の席へ連れていけないだろうに。」
「どうしてそんなことになったのかしらねえ。」
 トゥーリが結婚することはないのだと安堵すると、何が起こっていたのかも知りたくなった。だが、単なる相槌に聞こえる呟きに留めた。

 すると、黙って聞いていた公子が、笑い出した。
「姉さま。そんなの決まっているでしょう? ラザックの羊飼いの女房になりたくなかったのさ!」
 酷い言い草に、すかさず公妃が叱りつけた。
「何ということを仰るの! おやめなさい!」
 だが、彼は黙らない。更に嘲った。
「だって、そうだろう? 今でも天幕暮らしをしているんだ。都の姫君には耐えられないよ。食事は丸の羊に、馬や山羊の乳。羊の皮にくるまって、羊臭い夫と寝るんだよ? 嗚呼、嫌だ!」
「太子さま、おやめなさい!」
「おまけに、二番目・三番目と奥さんを次々もらうんだろ? 信じられない! ニコールさまが嫌がっても仕方ないよ。そんなところへ嫁ぐより、尼僧になった方がマシさ。それに、ぼくの未来の妃の姉君が、羊飼いの女房だなんて嫌だね!」
 大公は拳を卓に叩きつけた。
「コンラート! いい加減にしなさい!」
 姉弟のみならず、公妃も一瞬怯んだ。
 公妃は慌ててコンラートを窘めた。
「羊飼いだなんて……ラザックシュタールさまのことを、そういう風にお考えでしたの? いけないわ。彼は草原の太守です。」
「まあ……アナトゥールはシークだから、もうちょっとマシな暮らしをしているのかな?」
 コンラートはそう言って、鼻で笑っていた。
 大公は溜息をついた。
「そなたには、度々話してきただろう? シークは大公の臣下でも特別な立場ゆえ、決して軽んじた扱いをしてはならぬと。」
「十万余りの騎兵の統括者だもの。叛意をおこされたら大変だね。アナトゥールの前でこんなことは言わないよ。彼は大公家に盾つくことなどしないだろうけど。……“忠実なるラザック”。そうでしょ? ラザックは、忠実であることに誇りを持っているもの。」
 忠実さを貴ぶことを蔑むような口調だった。
「そなたのその心が態度に出るのだ! しっかり歴史の勉強をしなさい。我々の為に、草原がどれだけ血を流してきたことか!」
 大公は声を荒げたが、コンラートはどこ吹く風といった様子で、肩を竦めただけだった。
「知っているよ、父さま。代々のシークが何人も、都と大公家を守るために、戦場で命を落としたんでしょう?」
 少しの反省の色もない息子を、大公は怒鳴り上げたかったが抑えた。怒りに任せて、頭ごなしに叱りつけることを嫌っているからだ。
「そのことをくれぐれも忘れんように。臣下というよりは……そなたはアナトゥールと歳もさほど離れていないのだから、友情を結んで互いに尊重し合うように。」
「でも……」
「何かね?」
「今は平和だけれど、事あればテュールセンさまより、アナトゥールが先陣を務めるのでしょう?」
「事と次第による。」
 大公は、憮然とした顔で答えた。
 コンラートの言う通り、何かあればまず草原の兵に動員がかかるのだ。冬戦などの辛い仕事は、譜代の諸侯に回されることはない。
 それは習慣化していた。それどころか、当たり前のことと誰も気にせず、既に常識となっていた。
 草原に重すぎる負担を課すのも、諸侯が絶対に負担を分け合おうとしないのも、大公はいいとは思っていなかった。だが、宮廷も諸侯も変えることを許さない。反発を呼んだだけで、できなかったのだ。
 大公の表情から現実を読み、コンラートは薄ら笑いを浮かべた。
「そうなる前に、アナトゥールには早く結婚して、二・三人は子供を作っておいて欲しいな。」
「……シークを使い捨てだとでも思っているのかね?」
「そうは言わないよ。でも、君主はいろんなことを考えておかないとね。」
 大公の怒りが、さすがに沸騰した。
「愚か者! 食事がまずうなったわ! まったく。誰がそんなことを吹き込んだのだ!」
「大公さま! 大声をお出しにならないで!」
 公妃は懸命に言い聞かせた。
「太子さまも、大概になさって。お父さまの仰る通り、ラザックシュタールさまのことは大切になさらんと。あなたの仰ることが起こるとは思えませんが、もし大乱があれば、最もご尽力いただくのがラザックシュタールさまなのですよ? お父さまにお謝りなさい。」
「はあい……父さま、ごめんなさい。」
 そう言ったが、少しも懲りていないようだった。
「早く食べましょう。」
「早よう食べて、史書でも読むように!」
「かしこまりました……」
 コンラートには、徹頭徹尾、悪びれた様子も反省している風もなかった。むしろ、叱られ窘められる筋合いではないと、腹を立てているようであった。

 食事が終わるや、コンラートは部屋へ去った。大公は顰め顔で後姿を眺めた。
「先が思いやられるわ……。コンラートがあんなことを申すとは!」
 公妃は消え入りそうな様子だ。
「申し訳ございません。」
「まさか、あなたがあのようなことを?」
 大公は驚いた顔で尋ねた。公妃は目を丸くして彼の顔を見つめ、首を振った。
「とんでもない! 蔑むなど……。この前のことはね、少し驚きましたけど、それが草原のやり方なら……。大変お怒りだったようですが、いろいろと意地の悪いことを言われたからでしょう?」
「まあね……」
「子供だった彼を可愛がっておりました。近頃は親しくお話しすることもありませんが、好ましく思っています。太子さまにあのように話したことはありません。」
 公妃の言葉に嘘はなく、態度も毅然としていた。大公は疑ったことを恥じた。

 もどかしく聞いていたアデレードが、とうとう口を挟んだ。
「コンラートは、トゥーリのことが嫌いなのよ。」
 公妃はそうまではっきり言うのかと、眉を顰めた。だが、興味を惹かれた。
「それは、どういうわけで?」
「トゥーリが大人になる前、私のところへ来ていたでしょう? あの時のことよ。お母さまは知らないの?」
「あの時? どの時ですか?」
「馬のことで……コンラートがまだ六つくらいだったかしら、トゥーリの馬に乗りたいと言ったの。トゥーリは、小さいし無理だって言って。ほら、コンラートはちび……いや小柄だから。でも、コンラートは乗せろの一点張りで。仕方なく乗せたのだけど……」
 アデレードは困った顔で、言葉を区切った。
 公妃は有り得そうなことを上げてみた。
「落馬でも?」
「いえ。馬は乗り手を見るって言うでしょう? 一向に動かなくて。動いたら、落ちていたでしょうね。私は可笑しくて笑ったけど……トゥーリも可笑しかったんだと思うわ。笑いはしなかったけど。」
「そんな話は初めて聞きました。それから?」
「コンラートは恥ずかしかったのでしょうね。馬から下ろしてもらって、腹立ちまぎれに小枝で馬を打ち据えたの。トゥーリはとても怒って……」
 それには、知らぬ顔で聞いていた大公も、思わず声を挙げた。
「そりゃあ、怒る。草原の者は、何より馬を大事にするのだから。」
「ええ。“乗り手が落ちないように身動きしなかっただけだ”って怒鳴った。コンラートは何も言わずに立ち去ったけど……。ラザックの黒い駿馬、お尻が傷だらけになってしまったわ。トゥーリは涙ぐんで……哀しそうだった。」
 公妃は酷いとは思ったものの、息子を非難するようなことは言えなかった。
「……そう……」
「それ以来いろいろと。何やら難しいことを言ってみたり、ちょっかいを出して。ほら、お母さまもご存じでしょう? 幾何の宿題の話。私は困らせようとしているだけだから、放っていけばいいと言ったの。トゥーリは“別に困りはしないよ”なんて笑っていたわ。小さい子の考え付く無理難題なんて知れているし、トゥーリは小器用で……それもコンラートには気に入らなかったんでしょうね。」
「……あの子も生真面目に相手をしたものだこと……」
「あの子?」
「トゥーリ……いやラザックシュタールさま。あの方はお小さい時から、律儀なところがおありだったけれど……」
「そうそう。それも気に入らなかったみたいよ? お母さまも、トゥーリが来なくなるまで“私の小さなトゥーリ”なんて呼んで、可愛がっていらしたから。」
「私によく懐いて、可愛かったから。」
「やきもちを妬いたのよ。」
「でも、他所の息子さんです。実の息子とは別です。」
「そんなこと、小さい子には解らないわ。」
 アデレードと公妃が言い合いになる前に、大公が話を引き取った。
「それはそれだ。子供の頃の諍いを引きずってどうするのだ。やがて人の上に立つ身で、おかしな私心を持っているのでは危ういわ。太子によう言って聞かせねば。」

 三人は静かに食事を続けた。大公は怒った顔で黙り込んでいる。公妃も、内心はどうだか知れないが、澄ました顔で黙って食事を続けている。
 アデレードは、トゥーリと弟のことが心配だった。
 ある日突然大人になり、子供の頃のことはすっかり忘れてしまうわけではない。弟がトゥーリのことを苦手で嫌いだと思う気持ちは、変わらないだろうと思った。また、弟の妃になるのは、彼とは犬猿の仲の宮宰の娘・マティルドである。
 ニコールと結婚していた方が、彼の立場では良かったのではないかと思えた。
 宮宰にとっても、この結婚は利があるはずだ。娘によくよく言い聞かせていただろうと思った。
 彼女は、ニコールの予想外の行動を訝しんだ。ニコールは派手な暮らしが好きだった。信仰深いなど、素振りにもなかった。
(ニコールと尼僧とは全くしっくりいかないわ。)
 ニコールが決心した動機が何なのか、全く思い当たることがない。思いついたのは、意地の悪いことばかり言っては喜んでいたトゥーリのことだった。
 だが、尼僧になることを望むほどの意地悪は、想像もつかない。
 彼女自身、ありとあらゆる意地の悪いことをされてきたが、トゥーリを嫌いにはならなかった。
 意地悪をした後の彼は、非常に後悔するのか、ぶっきらぼうな優しさを見せた。毒舌をまき散らすが、彼女の希望を何とか叶えようと努力もしていた。根っからの意地悪ではないと思っている。彼の困った個性なのだと、彼女は理解していた。
 彼女は段々とニコールに腹が立ってきた。
(ニコールなどには、トゥーリは勿体ないというのに。何が気に入らないのよ!)
 そう思うも、結婚されてしまえば、それも腹立たしい。
 相反する気持ちがせめぎ合い、食欲も失せた。
 彼女は食事を大方残して
「気分が優れぬので、早めに休みます。」
と自室に帰った。

 アデレードは心配する女官たちを下がらせ、服を脱ぎ靴下を脱いだ。指環を手に取ると、あの時のトゥーリが自ずと思い浮かんだ。
 引き寄せられた時に、ふわりと薫った日向の野原のような香り。
 草原で生まれた彼は、やはり草原の匂いを纏っているのだと思った。彼の愛する草原へ行ってみたいと思った。
 もしあの時、一人きりだったならば、彼に帰れとは言わなかったのではないかという気がした。同じ気持ちだと伝えていたら、彼は堅苦しいこの場所から連れ出してくれただろうかと想像した。
 有り得ない仮定ばかりだと、彼女は苦笑いした。だが、心の奥底から震えるような感情が湧き上がった。
(……二人でいられるのなら、私はそれを幸せだと思うだろう。)
 陶酔感のある感情だった。彼女は、その未知の感情に飲まれるのを恐れた。
 二人の間には、見えない障壁があるからだ。二人の間だけではない。普段は薄い影を指しかける程度だが、或る場合には強固にトゥーリを拒否し退ける。
 最も代表的なのが婚姻だ。この障壁を越えられたのは、ソラヤだけだった。
 だが、アデレードはソラヤと違い、何人も姉妹のいる公女ではない。とにかく誰かに縁付いてくれと、溜息まじりに語られることもない。
 彼女はやりきれない思いで寝台に入った。そして、指環を握り締め、大事そうに胸に抱いた。

 アデレードが寝入った後のことだ。体調を案じた公妃が様子を見に訪れた。
 控えの女官は、何の変事もないと言うつもりで
「お休みになりました。」
と言ったが、かえって公妃を心配させた。
「そんなに体調が悪いのですか?」
 彼女は寝室に入り、静かに寝台の側に歩み寄った。
 健やかに眠っていると安心したところ、アデレードの指の間から何かが見えた。そっと開かせて見ると、見慣れない指環だった。
 大きな指環だ。華美な意匠ではない。
(……こんな渋い指環、持っていたかしら?)
 彼女は指環を取り上げ、灯りの側で観察した。
(あら……なんと上等なサファイア! 彫金も見事……。数字……一、二、五? 裏は……古の文字ね。)
 古代の文字を公妃は読めなかったが、護符の文言なのかもしれないと考えた。
(お守りの指輪? ……大きくて、とても澄んだ色の……この石ひとつで何とやら聞いたような……?)
 よくよく考えれば、ぼんやりと思い出されることがあった。

 十数年前のことだった。公妃の居間の大きな扉が遠慮がちに開き、小さな姿が心細そうに覗いた。彼女が手招きすると、幼いトゥーリが入ってきた。
「姫さま、お昼寝してしまったの……」
「今日は一緒に遊べなかったのね。せっかくお越しになったのに残念だったわ。」
「うん。今日は史書の講義が長くて。遅くなってしまったんだ……」
「そう。お勉強をしっかりしていらしたのね。」
 公妃は褒めてやり、微笑みかけたが、彼はぽろぽろと涙を落とし始めた。
「あら、どうしたの?」
「歴史の勉強は嫌いだよ。 ご先祖 ( おじいさま ) たちが戦死する話ばっかり。皆が揶揄うんだ。」
「……今日もその話だったのね。可哀想に。こっちへいらっしゃい。」
 言われるなり彼は走り寄り、長椅子の彼女の膝に抱き付いた。そして、うっとりと見上げた。
「公妃さま、いい匂い……ねえ、抱っこして。」
「あら、甘えん坊ね。」
 公妃は軽く笑った。すると途端に、彼の顔が不安そうに曇った。
「だめ?」
 迷惑がられているのかと案じているのだ。そのように強いられる彼の境遇を、彼女は改めて憐れに思った。
「膝の上においでなさいな。」
 彼はぱっと表情を輝かせ、膝の上に乗った。
「柔らかくって気持ちいい。」
「赤ちゃんみたい。」
 彼女は彼の髪を撫でた。
 彼は、胸に顔を埋めて呟いた。
「ぼく、公妃さまの赤ちゃんだったらいいのに。母さまって呼びたい。」
 彼女は可愛いことを言うと思ったが、軽く窘めた。
「ラザックシュタールにお母さまがいるのに?」
 すると、彼は顔を上げ、はっとするほど冷たい声で低く
「母など……ぼくに母はいない。」
と言った。ぎらりと瞳が光った。公妃は背がぞくりとした。
「何を仰るの? いけないことよ。」
「後室さまは、ぼくをすぐ叱りつけて……。こんな風に抱っこしてはくれないよ。」
「ソラヤさまは、あなたのことを思って厳しくなさっているのよ。だから、仰らないで。大きくなったら、お母さまのお心も解るというもの。ね。」
 そう窘めて、顔を覗き込むと、彼は諦めたようにぽつりと言った。
「はい……ごめんなさい。」
 公妃は憐れに思い、黙って抱き締めた。

 抱き締めていると、トゥーリの襟元から見える金の鎖に気づいた。
「あら……この鎖は何?」
 彼はじゃらりと鎖を引きずり出した。それには、男持ちの指環が吊るされていた。
「ぼくの指環。大きくなったら、右手の人差し指にするんだ。その指で指図をするんだって。失くさないように首から吊っているの。身から離してはならんって、じいやが言っていた。」
「そう。見せて。」
 彼は逡巡する様子を少し見せたが、大好きな公妃の関心を引きたかったのだろう
「人に見せてはならんって、じいやが……でも、公妃さまにならいいよ。」
と言って、彼女の掌に指環を載せた。
「……美しいサファイア……」
 すると、彼は声を顰めて、自慢げに言った。
「でしょう? ぼくが生まれた時に、巫女がくれたの。この石は遠い東の秘密の国から来た石で、深い山の中から生まれだんだって。これひとつで、十万の騎兵と同じだって!」
「まあ……」
「でも、あまり好きじゃない。青い色を見ていると、何だか切なくなっちゃうんだ。赤い石の方がいいのに、巫女は取り換えてくれないし。」
「そんなことないわよ。赤い色より青い色の方が高貴です。」
「赤いのは砂糖菓子みたいで、美味しそうじゃない? そのお盆の上に載っているやつみたいに。」
 彼は笑いながら、小卓の上を見るように目配せした。
 公妃はくすくす笑った。
「お目の卑しいこと。立派な若君は、お菓子などには目を留めてはいけませんよ。」
「だって、お腹がすいたんだもの。」
「じゃあ、公女さまには内緒。“小さなトゥーリ”と私の二人だけで食べましょう。」
「二人だけ?」
 彼はいかにも嬉しそうだ。
 彼女は菓子皿を持って戻り、彼の目に背を合わせた。
「トゥーリには大きいのをあげるわ。さあ召し上がれ。」
 彼は一番大きいものを取りかけて止め、二番目のものを口に入れた。

 公妃は、指環を掌の中に握った。目の前の灯芯がじりりと音を立てた。彼女は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸した。
(これは、小さな侯爵が首から下げていた指環。……何故、ここにある……?)
 落ち着こうと思い努めても、得体の知れない不安が湧き上がってくる。
 脳裏には、子犬のように戯れる幼い二人の姿が浮かんでいた。
“トゥーリのお嫁さんになる。”
“お嫁さんになってね。”
 そして、人形を並べてはままごとをしていた。
“一番初めは男の子。お父さんの跡を継いでシークになります。二番目は花のようなお姫さま。”
 彼女も大公も、二人の仲睦まじい様子を眺め、可愛い初恋だなどと微笑ましく思っていた。
(そのまま今も? そのまま以上……?)
 彼女に不安が募った。
 アデレードとトゥーリの接点があった行事を一つ一つ上げ出し、近くにいたかどうか、様子はどうだったかを必死に思い出そうとした。
 二人が不自然に近い距離にあった覚えはなかった。
 彼女は一旦は胸を撫で下ろしたが、掌の中に指環は彼女の安堵を嘲笑う。
 見たことは、あったことの全てではない。一部だ。あったことの中には、見ていないことがある。また、見たことの中には見過ごしていることもある。
 そう考えると、アデレードの様子が変だったことが思い出された。
 昼間に、靴下止めが切れたと言って、青い顔で去ったこと。いつぞやも、具合が悪いと言って部屋に戻った覚えがあった。今晩は、体調が悪いではなく、気分が優れぬと言った。
 彼女は動揺し始めた。足元がふわふわとおぼつかない。
(……それって? まさか、まさか悪阻?)
 気を落ち着けようと焦るあまり、可笑しな感慨が浮かんだ。
(“お父さんの跡を継いでシークになります”の男の子? “花のようなお姫さま”……?)
 彼女はこめかみを揉み解した。動揺が過ぎて、なかなか思考がまとまらない。
 自分の娘はふしだらな行いはしないだろうと信じる気持ちがある。トゥーリも、そんなことをすれば、五体満足でいられないことは解っているはずなのだ。
 だが、熱に浮かされて何も見えなくなる年頃だとも思えた。
 彼女は自分を安心させる事柄を探した。
(……でも、この寝室に忍び込むことはできないはず。思い過ごし……)
 何を思おうが、掌の指環が悉く否定していく。
(公女が手引きすれば、可能ではないか?)
 この思いの方がずっとしっくりする。
 縦しんばそうだとしても、体調の方は考え過ぎだと思い込もうとした。
(……ただお腹の調子が優れないだけ。とにかく! 確たる証拠はないのだから、おかしな想像をしてはいけない……)
 彼女は、少しの納得もできぬまま娘の手の中へ指環を戻し、そっと退出した。

 公妃はどうしようもなく不安だった。己の心の内だけで解決できる性質の悩みではない。大公に相談しようと考えた。
 大公は居間の火の前で犬と寛いでいた。コンラートとの不愉快な口論のことは、もう気にしていない様子だった。
「今、公女さまの様子を見てきたのです。」
 公妃は声を顰めてたが、大公はのんびりと応対した。
「どうだった?」
「ぐっすりお休みでした。」
「気分が優れないと申していたが、さほどでもなかったのだね。よかった。」
「……若い娘ですから……」
「血の道かね?」
「そういったところでしょう。」
 大公は軽く頷き、足元の犬を撫でている。
 だが、公妃が立ち尽くしたままでいるのに気づき、訝しそうに彼女を見た。
「……どうしたの? 物言いたそうだね。」
「別に……」
 大公は彼女の表情を窺い、更なる言葉を待った。彼女がそれ以上言わないでいると、彼は困ったような顔になった。
 公妃は苦笑し、大公の側に座った。
 何の疑いもない彼に、いきなり刺激的な内容の相談をするのは気が引けた。彼女は何と話そうか考えた。
 だが、穏やかな彼の側にいるうちに、彼女の悩みは飛躍し過ぎているのだと、少し安心する気持ちになった。
 厳格な家庭に育った公妃には、結婚前に恋愛をすることは許されなかった。したいとも思わなかったし、することもなかった。それでも、故国の宮廷で皆が恋愛するのを見聞きしたことはある。それは一体、どれくらいの密度の関係なのだろうかと思った。
「ねえ……あなた、若い時に恋をなさった?」
 大公は苦笑した。
「藪から棒に……まあ、少しだけ。あなたがこちらに来てからはしていないよ?」
「では、私が来る前は好きなご婦人とその……逢引きなど?」
「どうしてそのようなことを? ……昔の、結婚の前、婚約の前どころか、対面前のことを持ち出して責めるの?」
「そんなことは申しません。」
「だったら何故?」
「どうなの?」
 彼は忍び笑いを漏らしたが、彼女の目が真剣であることに気づいた。正直に答えるべきなのだと思った。
「若い時はね……まだ気楽な身分だったころの話だよ。」
「恋人がいらした?」
「まあね。」
「ご寝所を共にしたとか?」
「何なの? そりゃ男だから。」
 彼はますます困った。
「相手の方はどういった方?」
「……亡き母上の侍女だよ。太子になった私の妻にはなれんということは、初めからわかっていたし、あなたとの話が出たころには別れていたよ。程なく嫁いで、後は何もない。母上のご葬儀のときに顔を見たけれど、話はしていないね。丸くなって、旦那さんと一緒にいたよ。仲が良さそうだった。幸せそうでよかったなと思った。それだけ。」
「ソラヤさまは?」
「え? 叔母上はローラントと……私は無関係だよ。苦手だし、なるべく避けていた。」
 大公は有らぬ疑いだと笑い声を挙げた。公妃は苛立った。
「そういうことを申しているのではありません。ローラントさまとソラヤさまは、どういうお付き合いだったの?」
「知らんよ。あの二人は潜行していたし、知らなかった。別に隠す必要もなかったのにね。あの人をもらってくれるのなら、皆手放しで応援したのだから。朝・昼・晩、好きな時に堂々と逢引きしても、誰も文句は言わなかっただろう。……まあ、ローラントは秘密にしているつもりはなかったのかな? ほとんど話さぬ男だったから……」
「ご寝所を共になさった仲?」
「何なの? さっきから、そればかり。そういう話は嫌いではなかったか?」
 公妃は余計な話は要らないといった目で、大公を見つめている。
 彼は、粛々と答えねばならないのだと悟った。
「……知らんね。そんな仲ではなかったと思うよ。公女の身分で、結婚前に男とどうのってのはないだろう。……あの人は型破りだけど、おかしな噂もなかった。計算の合わない子がいるわけでもない。」
「ええ……」
「えっと……結婚式は確か、冬至の祭りの日だったね。翌々年の一月に赤ん坊が生まれている。なら、アナトゥールは、その前の年の四月くらいに……」
「それは訊いていません!」
「だって、しつこく訊くから……」
 大公がわたわたと言い訳しかけたが、公妃は難しい顔で考え込んでいる。
「気になるの? テュールセンに訊いてみたら? 彼は叔母上のことを何でもよう知っている。」
「何と訊くの?」
「ソラヤさまは結婚前に、とでも。」
 大公は笑ったが、公妃は不愉快そうに顔を顰めた。
「いやらしい。そんなこと殿方に訊けませんよ。」
「で、このおかしな会話は、どういう意図でしているの? 普段、男女のことは話題にしないのに。」
「……昔話がしたかっただけです。お邪魔しました。」
 大公が何か言う前に、公妃は出て行った。怒った様子だったが、彼にはそのわけがわからなかった。
「何か拙いことを申したか……?」
 彼は、答えるはずもない犬に問いかけた。

 公妃は自室で考え込んだ。彼女自身が始めた話だったが、大公の答えを聞いて余計に不安になっていた。
(あの穏やかで真面目な大公さまでさえ、若い時は恋をして、情熱の赴くままのことをなさった。)
 それよりも身が震えたのは、ローラントとソラヤのことだ。
 公女と親密な仲になる者もいたのだ。それは、よりにもよってトゥーリの父親だった。
 彼女はローラントのことを思い浮かべた。
 彼の完璧な美貌には、見るたびに衝撃を受けていたが、今思い出しても溜息が出た。実に麗人であった。
 だが、ローラントには相手を睨みつけるようにじっと見る癖があった。それも、口が重い彼は何を言うでもなく、黙って目の底を見つめるのだ。その時の目には艶っぽさがあった。
 彼女は、自分のような善良な女には御しきれない男だと直感していた。
 だから、見つめられ心が騒いだこともあったが、怖いという感覚が辛うじて克った。
 気性の荒いソラヤですら彼に参ったと聞いたときは、空恐ろしいとさえ思い、近寄らなくて正解だったのだと心底安堵したものだった。
 彼女のよく知っている幼いトゥーリ。実の息子よりも可愛いとさえ思えた彼。甘い香りの髪を撫でるとうっとりと顔を上げ、父親と同じ緑色の瞳を潤ませて彼女を見つめていた。美しい父親とよく似た顔だった。
 そして、彼はますますローラントにそっくりな容姿に成長した。
 因縁めいているように感じられた。
(トゥーリはニコールと縁談が決まっていた身。あの子は、一体どういうつもりでアデレードに……? それ以前からの仲なのかしら? ……何でもないのかも……?)
 眠れぬ夜になった。



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