4

 トゥーリとラザックの老ヤールは、ラディーンのヤールの両脇を固め宥めた。
 老ヤールは、噛んで含めるように言い聞かせた。
「ラディーンの。くれぐれも、絶対に、決して、今日のことを理由に襲撃をしてはならんよ。」
「あからさまに今日のことと、知れるようなことはしてはいかん。お前のところは最近実り豊かではないか。必要のない襲撃はならんぞ。」
 トゥーリも、厳しく言いつけた。
 怒りの治まらないラディーンのヤールは言い返した。
「草原の戦士にとって、襲撃はある種の力試し。それに我々にとって、名誉はとても大切なものでしょう?」
「それは解るが……なら、難しいところを狙え。第一、俺の名誉は今日のことなどでは何ら傷つかん。」
 唇を噛んだまま、ラディーンのヤールは黙った。
「ラディーンの。シークの仰せに異を唱えるのか?」
「いや……もう解りましたよ。頭が煮えくり返りそう。卒中で倒れそうですよ。」
「可愛い娘が哀しむぞ?」
「それは別問題……。私のことは置いて、シークは本当によろしいのか?」
「何が?」
「今日の茶番ですわ。娑婆ではこういうのは婚約不履行といって、それ相応の贖いをもらうのです。」
「婚約不成立だろ? 別に構わないよ。せいせいしたし。」
「せいせいねぇ……何やら、好きの、嬉しかっただの、惜しいの、何のと、えらい熱っぽかったじゃありませんか?」
「社交辞令だよ。」
 トゥーリは涼しい顔で答えた。ラディーンのヤールは唖然とし、言葉を失った。
 老ヤールは苦笑した。
「トゥーリさまは都ではとても嘘つきなのだ。」
 ラディーンのヤールは呆れ顔のまま尋ねた。
「さっきの全て嘘?」
「概ねそう。」
 トゥーリが笑顔で答えると、ラディーンのヤールは眉を顰め
「トゥーリさま、嘘つきにおなり? 嘘つきは泥棒の始まりですよ?」
と諫めた。
「全てではない。概ねだよ。何か惜しくなったのは確かだな。」
 二人のヤールには意外すぎる答えだった。目を丸くして、同時に同じ質問をした。
「宮宰の娘と結婚したかったのですか?」
「そうではないのだが……こう……逃した獲物を大きく思えるような、あれだよ。」
 トゥーリが困ったような表情で答えると、二人のヤールは吹き出した。
「ちっぽけな小娘ではないですか。」
「欲張りですなあ。」
「惜しまんでも、ラディーンのところにはもっといい女がたくさんいる。ラザックのところにも、綺麗な女がたくさんいますでしょう? 嫁さん候補はより取り見取り。」
「そうそう。」
 堅物の老ヤールも同調している。
「おかしなことを……。別に結婚したいのではないよ。」
「なら、何です?」
 トゥーリはしばらく空を睨んで考えたが、上手い説明が思いつかなかった。
「いや……どんなのかと思って……」
 案の定、二人のヤールは顔を見合わせて、よく意味がわからないという顔をした。しかし、ラディーンのヤールは思い当たることがあり、膝を叩いた。
「トゥーリさま、嘘つきばかりか女好きにおなり……」
 そう言って、彼はにやにやしている。
 老ヤールも、納得顔だ。
「トゥーリさまは都に来られると、羽を伸ばされますなあ。そう言えば。」
「草原では母上がうるさいじゃないか。いやいや。そんなに鼻の下伸ばしておらん。」
「今期は縁談があったから大人しかったけれど、よう午前さまですな。」
「悪いとでも?」
 トゥーリは老ヤールをじろりと睨んだ。老ヤールは笑いながら
「いやいや……男としては健康な証。」
と言った。
 ラディーンのヤールも陽気な笑い声を挙げていたが
「でも、あんな鶏がらみたいな小娘に食指を動かされるとはね……情けない。」
と言って、眉間に皺を寄せた。
「うるさいね、二人とも! そういうのではない。……結婚生活って、どんなのかと思っただけだよ。」
「どんなもこんなも……同じ女の顔を毎日見ることです。」
 ラディーンのヤールの身も蓋もない即答具合に、トゥーリは嘆息した。
「もうちょっと言い様ないの?」
「朝起きて、嫁の顔を見て飯を食う。羊追いに出て、嫁の作った弁当を食う。夕方帰って、嫁の顔を見て飯を食う。で、嫁と寝床に入って寝る。たまに仲良くする。繰り返し。そのうち嫁が子供など産む。以後は、嫁の顔見るときはもれなく子供の面もついてくる。繰り返し……ねぇ、ご老体。」
「まあ、そういうことだな。同じ嫁の顔ばかりを見ることもない、一日順繰りに通えばいいんです。」
「おや? ご老体は一日ごとだったのですか。慌ただしくないですか? 私は大体二日ごとですが……」
「その方がいいのだよ。何かとね。」
 二人はさも当たり前のことのように話しているが、トゥーリには大いなる違和感があった。

「何だかつまらなさそうだね。お嫁さんはどんな振る舞いをする?」
 その問いにも、夢も希望もない答えが返された。
「お嫁さんの振る舞い? 大飯食って、口開けて寝る。」
 ラディーンのヤールはそう言って、大笑いした。さすがに、老ヤールは窘めた。
「これ! お若い方の夢を破壊してはならん。」
「ああ、そうですな。でも、あまり夢を持ちすぎてもねえ……」
 窘められても堪える様子はなく、そんなことを言って苦笑している。
 トゥーリはうんざりし始めていたが
「初めからそうなのかよ?」
と尋ねた。
「女というのは、とても可愛いものです。」
 その言い様に興味を惹かれた彼は、先を促した。
「そうだろう、そうだろう。で?」
「そんな目をきらきらさせて……期待を裏切るようですがね、子供を産む度に本性を現わす。本性は……まあ、驢馬ですな。中には山犬もおる。」
 老ヤールは慌てて否定した。
「儂の妻たちはそんな風ではないですよ。小羊です。トゥーリさま、ラディーンのは女房運が悪いんです。参考にしてはならん。」
「ラディーンの妻女は、四人とも驢馬に山犬か……」
「と言うと語弊がありますかな……一室はもうばあさん、二室は息子の妻女と闘っていて、私の相手はしてくれん。三室はもう女を捨てている。四室は……これは若くて可愛いんだけれど、何分子供を産んだばかりで、側に寄ってもいいことできん。」
 ラディーンのヤールはからから笑った。その口調に悪意は感じられなかったが、何の遠慮もない。老ヤールは眉間を抑えた。
 トゥーリも呆れ果て、こめかみを揉んだ。
「また生まれたか。ぼろぼろと……」
 呆れられようが、窘められようが、ラディーンのヤールは何処吹く風である。しれっと応える。
「羨ましい? また男だったけど。何故こうも偏るのでしょうなあ。私の妻たちは皆男腹。」
「よいではないか。世の中には後継ぎの男の子ができんと言って、悩む者も多いと言う。それはそうと、もっと夢のある話をせんかね。トゥーリさまが、さっきから嫌な顔をしておられる。」
「はあ……」
 ラディーンのヤールは考え込んだが、何を話せばいいのか迷い、黙り込んだ。
 トゥーリはラディーンの奥方たちのことを思い浮かべた。
 物静かで品の良い一室。陽気で気の利く二室。小股の切れ上がった様子の三室。笑顔の可愛い若い四室。四室を除いて、ヤールの言うような女とは思えない。
 だが、ふと思い出したことがあり、そのままを口に出した。
「ラディーンの三室に文句を言われたことがあるぞ。“うちの宿六は最近私に冷たい。浮気しているのと違うか? シークから訊いてみて”だって。あんた、四人抱えてまだ他所に行くのか?」
 そんな内輪のことを話されているとは思わなかったのだろう、ラディーンのヤールは舌打ちをした。
「他所なんか行っていないですよ! まったく。あのばばあ……冷たいもへったくれもあるかいな。」
「ばばあって……まだ色気むんむんじゃないか。」
「鶏がらだけではなく、腐りかけにもそそられるんですか?」
 トゥーリは嫌気が挿し、話を終わらせたくなった。
「いや……もういい。」
「そんなに結婚生活にご興味があるのなら……可愛い四室が、何やらおかしな写本を持っていた。」
「何が書いてある?」
「飯の支度の仕方とか、洗濯はこうするといいとか、ご近所との付き合い方とか……」
 そういう日常の細々とした妻の生活を、トゥーリは知りたかったのだ。内容を知りたい。彼はまた身を乗り出した。
「それで、それで?」
「何ですか? トゥーリさま、どこぞへ嫁入りなさる? 男はそんなもの知らんでも構わん。」
「で、どんなおかずを作れって書いてあった?」
「シークの奥方は、おかずなんかしないでしょうに。」
「そうかも知れんが……」
「母君さまのこと思い出したら解るでしょう?」
 彼の知りたかったことは一切聞けなかったばかりか、話は不愉快な方向に向いた。
 母親のことなど、何の参考にもならない。
「……俺は小さくて可愛いらしい嫁さんがいいのだよ。母上とはまったく違うタイプのね!」
「長男は不思議と、母親に似た女を妻に選ぶものです。トゥーリさまもそうかも。よく言えば芯の強いお人。ありていに言えば男勝りのお人。」
 ラディーンのヤールは高笑いした。
 トゥーリは鼻に皺を寄せ、怒鳴った。
「黙らんか! もうよいわ! ……何の話をしていたのか? ……そうそう、宮宰のところは襲撃ならん。解ったら下車せよ。本当に話し相手にならん男。じい、お前が帰りは馬車に乗るように。」
「かしこまりました。仰せ通り、騎馬でお供いたします。」
「ん。じいは残れ。」
「はい。」
 ラディーンのヤールはわけがわからんといった表情で、馬車から下りた。

 馬車にラザックの老ヤールとトゥーリが残った。
「ラディーンのヤールは話が通じませんな。ありゃ独特ですわ。」
「参考にはならんが、そこそこ面白かった。あんなこと言っていたけれど、ラディーンの嫁さんたち、皆幸せそうだよ。今のは照れ隠しで、本当は嫁さんが大好きなのかもしれないね。また赤ん坊が生まれたようだし。一体……何人いる?」
 老ヤールは指を折って思い出している。子福家であるのだ。
「ラディーンのヤールは……息子が十四人、娘が一人ですかな。ああ見えても、外腹はおらんようです。まあ、愛妻家でしょうな。」
「上の方の息子はもう女房持ちだったな。」
「三人ほどは妻子持ちではなかったかなあ……。そこまではよう知りません。」
「孫より小さい息子か。いつまでも元気だなあ。俺には真似できん。あの歳で若い嫁さんの相手など。」
「そう言うたものでは……シークのご家庭の繁栄は部族の栄えの象徴ですよ。十五人なんてすぐ。四人の嫁さんをもらって毎年産んでもらったら、四年で終わる。おつりまである。」
 老ヤールさえもそんなことを言うのかとトゥーリは驚き、うんざりして溜息をついた。
「……俺が女なら、そんなところへ嫁ぎたくないぞ? 毎年毎年出産だなんて……」
「なら、嫁さんを十人単位でもらうことです。」
「もうしゃべるな……」
 老ヤールは額をぺちりと叩き、笑い声を挙げた。
「これはしたり! ラディーンの物言いがうつってしまったようです。……ご容赦あれ。」

 トゥーリは、ラザックやラディーンの男たちが複数の妻を抱えて、何かと文句を言いつつも、楽しそうに暮らしているのを思い浮かべた。
 明快な愛情のある様子、難しいことは考えず、ただ好きだという感情だけで存続する関係が羨ましかった。
 しかし、複数の妻に欲望だけではなく、愛情を持つ感覚が今一つ解らない。そうとは思っても、極貧にある男ならまだしも、一人前の戦士が一人妻をしているのも思い浮かばない。彼自身の父親だけだった。
「父上の妻は一人だっただろう?」
「はい。」
「何故?」
「それは……トゥーリさまがご後室さまにお宿りになった時と、お生まれになった時と二度。私はお父君に次の奥さまを迎えてはどうかと申しました。ラディーンのも何やらそんなことを申し上げたようです。ローラントさまは“要らぬ”と仰られた。我々がどうしてかお尋ねしたら“女はうるさい”と仰せになった。口の重い方でしたから、女人のとりとめない話の相手をするのが苦手だったのでしょうな。無理に勧めるわけにもいかず、そのうちあのご最期で……。しかし、三人も男のお子さまを残されたので、我々としては異存はありません。」
「そうか……」
 老ヤールの説明は事実のみの報告であり、父親が一人妻だった理由も取って付けたように感じられた。
「お父君のことを思うと、この老骨としては……」
「何だ? また泣くの?」
「いいえ。トゥーリさまには早く妻女をもらっていただいて、可愛らしい赤子を、できれば男の子をね……」
「友達は誰も妻帯しておらん。」
「草原では早いものは子供もおる歳です。」
 彼は答えあぐねた。
 老ヤールは様子を眺め、ほっと息をついた。
「……あの女子に、子が宿っていたそうではありませんか。」
 その声はひっそりと低かった。
「儚くなってしまいましたが、じいは安堵いたしましたのです。ほれ、トゥーリさまはご多忙なわりには何事もなく、草原の手つきになった女人にも何の気配もなく……もしや、お身体に何か……」
 不愉快だった。リースルのことを器のように言われたのも、奇態な心配をされているのも我慢がならない。
「慮外者が! 俺はまともだよ! そういうことに立ち入るなと申したはず。黙っておけ! 今日はお前もおかしいわ!」
「失礼を……」
 重苦しい空気が流れ、二人は黙ったまま馬車に揺られた。

 老ヤールがおずおず口を開いた。
「あの……」
「何か? 子供の話と結婚の話と、俺の下半身の話なら絶対に許さん。その他の話も控えよ。」
 トゥーリは横目で一瞥して、そう言い捨てた。
 老ヤールは構わず話を続けた。
「いえ……ラディーンは、今日のことを腹に据えかねて、今秋には襲撃するでしょう。」
「ならんと申した。」
「今夏の実りが芳しくなかった、冬場を越せないものが出る……何とでも言い訳はつく。宮宰さまから相応の贖いをもらわねば……」
「そういう聞いた風な理由を言い出さぬように、今夏は精一杯ラディーンのところへ行って、実入りを確認せねばならん。」
「宮宰さまのことは?」
「どうでもよろしい。体面が潰されたとは思わない。もともと草原にはそぐわない縁組。流れてよかったと言えなくもない。」
「都で不名誉な噂が立ちます。」
「宮宰の娘は、シークの奥方など嫌じゃと尼になったと? 事実はかわらん。人の口に戸は立てられない。放っておいたら、すぐに誰も言わなくなるよ。つまらんことを心配して、やいのやいの言わないでおくれ。せいせいしたんだから。」
「はあ……」
 またしばらく主従は黙り込んだ。今度はトゥーリが口を開いた。
「意味深い一生か……」
「え?」
「ニコールがそんなことを言っていた。」
「意味のあるもないも、神さまがお決めになることです。」
「神さまのお側で意味深い一生って……人それぞれなのだろうが、俺には修道生活など死んだも同然としか思えんね。」
「まあ、そうですなあ。精一杯生きてこそ、意味深いというものです。」
 トゥーリはそう言ったものの、一族の軛から逃れ生き方を選び取ろうとしているニコールに羨ましさを感じていた。
「ニコールは初めて選び取った人生を生きるわけだ。これは俺にとっても、何がしかの神のご意志かもしれん。」
 彼は、老ヤールが訝しそうにじっと見つめているのに気づき、苦笑してみせた。
「あの娘と人生を送るのではね……暗澹たるもの。舅の宮宰にいいように使われるんだろうから。」
 茶化してみたが、老ヤールは笑いもせず
「全ては風の神の思し召し。我々のシークにいつもいい風が吹きますように。」
と言って、頭を下げた。
 トゥーリは、緑煌めく故郷を思い浮かべた。
「お前にもな……。草原に帰りたい。風に吹かれて、遠乗りがしたい。」
 老ヤールも草原に思いを馳せ、微笑んだ。
「それはいいですなあ。何処までも何処までも広くて自由で。空まで駆け上がれそうで。」
「そうそう。よく鷹だけを供にして遠乗りをしたよ。鳥は天に舞い上がって、陽の中に入ってしまうんだ。鳥は目が眩まないのかと思ったよ。」
 懐かしむように言うと、老ヤールもうっとりと呟いた。
「鷹は風の眷属ですからなあ……太陽を啄み、蒼穹に安らうとか……。もう草原に帰れます。」
「屋敷に着いたら、すぐ帰る準備を始めよう。」
「ええ。」

 老ヤールには、ふと思い出したことがあった。
「その前に指環を返してもらわねば。どこの職人に預けたのです? 半日もあれば充分でしょう。寄って帰ったらどうです? 誰に仕事を頼みましたか?」
 トゥーリはぎくりとしたが、平静を装って軽い調子で答えた。
「いつものルーグのところ。今日はいい。屋敷に帰って休んでだね……」
 老ヤールは言葉を遮った。
「ただの指環ではないんですぞ。あれには、トゥーリさまのお生まれになった日付から刻限から……それにほれ! 裏には、例の文言が入っているんですぞ。ルーグは信用のおける男ですが、もしどこぞの術師・導師の類に見られたら……。ルーグのところならそう遠くないし、御者に申し付けましょう。」
「面倒だ。」
「何が面倒なんです。馬車に乗っているだけなんだから、面倒も何も……」
「今朝からごたごたとあったから疲れたんだよ。屋敷に帰って食事をして、休んでからでも構わない。」
 老ヤールは舌打ちした。
「ですから! 繰り返し申しますが、あの指環はまずいのです。」
「怪しい術をかけられるとでも?」
 くだらないとばかりにトゥーリは言ったが、老ヤールは呪術ではなく、術師・導師などの予言に詳しい者に見られるのを怖れていた。
「……予言の文言を、宮廷の難しい方々に知られたりしたら……」
[あんなの誰が解釈するのかね? 草原の巫女でさえはっきりと説明できないのに。第一、文字自体が今のものとは違う。誰も読めないだろ? ]
「偉い学者なり、古い文字の読み方を修めた者ならば読めるのです。内容ははっきりしなくとも、何やら穏やかでない雰囲気は伝わってしまうかも……。やはり早く取り戻さねば!」
 老ヤールが御者に声をかけた。
「止めよ!」
「勝手なことするな! いいんだって! 今日は!」
「申し上げたでしょう!」
「今日はいい。」
 何事かと小窓から顔を覗かせた御者に
「何でもない。屋敷へ走ればよい。」
と、トゥーリは命じた。
 老ヤールは彼に探るような目を向けた。
「ご様子が……おかしいですな。」
「普段通りだよ。」
「何やら隠し事をしていますね?」
「していない。」
「嘘を仰っている。」
「嘘など言わん。」
「何故、じいの顔をそんなに見つめるのです?」
「人と話をするときは、相手の顔を向いて話すものだろう?」
 老ヤールは長い溜息をついて、首を振った。
「トゥーリさま、お小さいときからそうでしたな。嘘を仰っている時は、殊更に相手の顔をじっと見つめる癖がおありになる。」
 トゥーリは咄嗟に目を逸らしてしまった。
「……慌てて目を逸らさなくてもいい。もうばれていますよ。」
「ありもせぬことを……」
 そっぽを向いたトゥーリに、老ヤールは厳しく尋ねた。
「何故、指環を取りに行かせまいとするのです?」
「行かせまいとしているのではない。今日はいいと言っている。」
「じいの方をごらんなさい。」
「お前の顔を見ると、嘘を言っていると疑われるんだろう?」
 相変わらず窓の外の景色を眺めたまま答える。これはしっかりと話さねばならないと思い、老ヤールは御者に止めるように言った。御者は戸惑った。
「停止と申している! ……少々込み入った話をするゆえ、小姓は外へ出ていなさい。」
「でも、シークが……」
 小姓が、トゥーリと老ヤールの顔を交互に見て、困った顔をした。
 トゥーリは、もう隠すのを諦めた。
 指環の因縁など、彼には馬鹿馬鹿しいとしか思えないが、老ヤールにはそうではないのだろう。今日の調子なら、本当のことを言うまで、責められるに決まっている。
 彼は小姓に下りるように促した。
「今からじいに叱られるんだ。お前に見られるのは恥ずかしいからね。少し外で待っていてくれ。」
「はい……」
 小姓が下車した。扉が閉まって、小姓が離れたところに行くのを確かめて、老ヤールは御者にも下りるように言った。

「さて……トゥーリさま。」
「お説教は短くしてよ。」
「はぐらかさないでいただきたい!」
 老ヤールが大声で厳しく咎めた。トゥーリは肩を竦めた。
「もう嘘は言わないよ。」
「なら……指環はどうなさいました?」
「秘密。当ててごらん。」
 彼は挑戦的に胸を反らした。
「職人のところにはないのでしょう? 別なところにあるのですね?」
「さあ……」
「嘘は言わんと仰った。」
「嘘は言っていない。黙っているだけ。」
 溜息をつきながら老ヤールが口説いた。
「まったく……あなたはお姿こそお父君によう似ていらっしゃるけれど、中身はまるっきり違いますな!」
 父親と比べられるのが嫌いなトゥーリは、老ヤールを睨みつけた。
「何が言いたい? 父上と違って、肝の据わらんところを言っているのか?」
「トゥーリさま。そうではありません。あなたは若いけれど、ラザックシュタールの領主としても、大公さまの臣下としても、ようやっておられます。シークとしても上手に采配なさる。何より草原の皆は、自分たちで育てた“小さいシーク”と言って、あなたのご成長ぶりを誇らしく思っている。“部族の父親”というより“皆の愛しい息子”です。小さかったあなたのことを皆で支えた。ラザックもラディーンも。」
「……また泣くのか?」
「黙ってお聞きなさい。都でも、大公さまを初めとして、宮廷の方々にはよくしていただきましたな。四つの時から大人に立ち混じるのを、憐れと思し召したのでしょう。大公さまにもお妃さまにも、息子のように可愛がられていらした。」
「そうだね。早くに父親を亡くして、母親には去られて可哀想がられていたよ。中には意地悪なおっさんもいたけれど。」
「そう……その所為かもしれませんな。あなたは他人の目をよう気になさる。」
 自分の発言の効果を確かめるように、老ヤールはじっとトゥーリの表情を窺った。だが、特に表情は揺れていなかった。
「失礼な言い草でしたかな? あなたは、他人の思うように自分を演じなさるきらいがある。必要以上にね。今度のことだって、宮宰さまや宮廷の意向に添うように、申し分のない求婚者を装いなさった。」
「まずかった?」
 トゥーリは、そっと指環をまさぐろうとして、その指に指環のないことに気づき、所在なさげに指を撫でた。
「いえ。ただ初志貫徹できないと解り切っていることは、最初からしない方がいい。無理な挑戦だと解っているならね。」
「あの娘と仲睦まじく夫婦になるつもりでいたけど?」
 彼は、いかにも意外なことを言われたかのように言葉を返した。実際、仲睦まじくのところ以外は、本当だった。
 二人はしばらく黙り込んだ。
 やがて、老ヤールが話し始めた。
「……最近、私はトゥーリさまのこと、もうひとつよう解りました。……あなたは草原の血を濃く引かれた。」
「何の話? 親父がラザックとラディーンのシークだもの。当たり前だろう。」
「……先だっての焼討ち。随分と峻烈でしたな。情け容赦なく。うちの倅が申しておりました。女子供まで始末せよと厳しいお言いつけで、まるでお人が変わったようだったと。お諫めしたら、斬られるのではないかと怖かったとか……」
 トゥーリは呆れた様子で言い返した。
「宗族のヤールを斬ったりするもんか。何の罪もないのに。」
 老ヤールはますます声を低めた。
「罪があったとしたら、あの娘をトゥーリさまに差し上げたことでしょう。」
「つまらんことを言うな!」
「女仇討ちなどなさって……」
「草原ではよくあることではないか。大がかりにしてしまったけれど……。そうだったとしても、宮廷には知られていないし、大事はない。」
「宮廷のことを申しておるのではありません。」
「なら何?」
 少々苛々しながらトゥーリが尋ねると、老ヤールは哀しそうな顔で答え始めた。
「草原の者は血が熱い。恋をすると他に目が行かなくなる。最高の悦びをもって尽くし、失っても愛し続ける。奪われれば……何処までも追って復讐する。儂の兄などは、マラガにまで出張って相討ちした。……善悪は別として、一途ですな。」
「……何の話をしていたのか忘れたか? 焼討ちのこと、まだ叱り足りなかったのか?」
 茶化すように答えるのにも構わずに、老ヤールはにこりともせずに続けた。
「あなたもね……とても一途ですな。」
「褒められているの?」
「あなたのような方はね、本心と裏腹なことはできないんです。」

 トゥーリの目尻に癇が走った。彼は大声を出した。
「しているじゃないか! 常に、いつも、絶えず、しょっちゅう! おっさん共のご命令に従って、かしこまりましたの連続じゃないか。お申し付け通りのことをしている!」
「そういうことを言っているのとは違います。もっと心の奥底にあること。どうもこうも抑えが利かないのでしょう?」
「何が?」
 彼は苛々して吐き捨てるように訊いた。
「恋。」
「女?」
「遊びのことを言うのではありません。初めてそういう方が現れた時のこと、お忘れではあるまい。どこぞの若後家に惚れ込んだでしょう? あの時も激しかった。袖にされた時は、もうひとつ激しかった。お部屋の鏡を割って、大暴れしなさった。」
「黙っておけ! 一体何が言いたい? 大昔のことをべらべらと申すな!」
「黙りません。」
 トゥーリの方が黙った。
「また……どなたかに恋をしていますね?」
「いいや。」
「嘘は言わんと仰った。」
 トゥーリは老ヤールを睨みつけたが、心配そうな目の光を見取って目を逸らした。
「仄かな片想い……」
「また嘘を! 激しく恋心を掻きたてられて、思い詰めたのでしょう? 判るんです、様子を見ていれば。叶わないからと我慢しても……だから、できもせんことはと申し上げたのです。」
 黙ったままのトゥーリに、老ヤールはもっと図星をつくことを話し始めた。
「どんどんニコールさまのことが疎ましくなり、恋人のことはますます恋しくなって……今度の行いをなさったのでしょう?」
「行い?」
「……ご自分の形代ですか?」
 ばれているが、トゥーリには不思議と慌てたり、焦る気持ちは湧かなかった。むしろ安堵していた。
「恋人にあの指環を与えましたね?」
 老ヤールはじっと目の奥を覗きこんだ。
「くだらない憶測を……」
 そう言ったが、老ヤールの切なそうな哀しい眼差しに胸が痛んだ。
 全てばれているという諦めと、同じ草原の男である老ヤールには、気持ちが解るだろうという思いがあった。彼は目を伏せて、告白を始めた。
「女はね……この指環はならんと言ったよ。それでも、しばらくでいいから、持っていてくれと頼んだのだ。」
「そうですか……」
「恋人なんて……恋人だとお前は言うけれど、その手のことは何一つないのだよ。だから何か関わりが、思い出が欲しかった……」
 老ヤールが合点がいったと頷いたが
「それでも、あの指環はまずいです。」
と言った。
「同じラザックの血を引いたるお前ならば、気持ちが解るだろう?」
「そうですね。解らんでもない。……でも、ただのラザックの戦士ではないのです。少々抑えてもらわねば。間違いをしでかさないかと心配です。母君さまもね、今度の縁談は意に添わなかったけれど、奥さまをもらえば慰むとお思いになったのです。先のこと……気になさっておいででした。」
「わかったよ。もう女には近寄らない。」
「どなたか存じ上げませんが、お心に適ったその女人が妻女になってくれたら……」
「それは難しいな。」
「何故? 人妻ですか?」
「違う。固い家の娘。父親が溺愛しておる。男はおいそれと近寄れん。」
「一体……何時、指環を渡す機会があったのです? そんな箱入りに……。昨日はしていましたな。さすれば、昨夜から今朝の間? まさかその姫君のところへお泊まり!」
「昨晩は屋敷にずっといただろうが! ……だから! その手の関係は何もないと言ったろ? 白状すれば、女はどう思っているのかさえ判らん……」
 老ヤールは呆れた。
「情けない……」
と言って、溜息をついた。
「ここのところ、お前の言うように、余裕のない状況だったから。いろいろと破滅的なことを考えたりしたのだが……」
「……よう我慢なさいましたね。」
「ありがとう。」
「……嫌味です。」
「だろうね。」
「その女人は、妻女になってくださらんのか? この際、申し入れてはどうです?」
「何せ父親が溺愛しているからなあ。その他にもいろいろとしがらみもある。大騒ぎの上に、ラザックシュタールの侯爵などと、ふんぞり返っていられなくなる。」
「考えすぎですよ。うちみたいな大家の正室になら、父親も文句を仰らん。」
「気位の高い家なんだって! ラザックと血統を混ぜることなどならんと、門前払いを喰らう。」
「そんなことありません。先代には、公女さまをご降嫁いただいた名流です。元をただせば、ロングホーンの氏族は皆ラザックの氏族から出たのだから。」
「それこそ皆は忘却の果てだろうよ。ロングホーンの貴族は多かれ少なかれ、我々と血統を混ぜるなどとんでもないと思っている。降嫁した公女といっても第五番目の公女で、しかも売れ残りの男勝りじゃないか。」
「母君さまのことを貶めてはなりません。」
「事実。」
「それはそうと。指環を返してもらいなされ。」
「わかっているよ。」
「くれぐれもね。自重なさって。」
「女には近寄らないよ。……その女の名前は訊かないのか?」
「訊いてどうするのです。仰らんくせに……」
「母上に報告しなくていいのか?」
「いたしません。お心を悩ませるようなことはしてはならんのでしょう? 早く返してもらいなされ。余計なことはなさらんように。」
「真っ昼間に行くよ。」
 もう後は、屋敷に到着するまで、二人とも無言だった。
 誰であるかも推察されたかもしれないと、トゥーリはひやりとしていた。
 老ヤールは、息子が心配して寄こした手紙のことを思い出していた。
(愛憎の念が強すぎる……。生来のものをどうしたものか?)
と重苦しい気持ちだった。

 指環を返してもらうには、まず城に行かなくてはならない。だが、帰省の挨拶はもう済んでいる。それを口実にはできない。
(何とも、後先考えないことをしてしまったものだ……)
 悔やんだところで仕方がない。
 トゥーリはそれらしい方策を直ぐに思いついた。末弟のことを頼みに、城内に住む伯父に会うことにすればいいのだ。
 まずは、伯父のヘルヴィーグに使いを遣った。翌々日には面会できることになった。

 トゥーリは、伯父との約束の時間よりずっと早くに登城した。城の執事に母親の翼で伯父の使いを待つ旨を伝え、空腹でもなかったが軽食を頼んだ。
 執事は微かに戸惑った様子を見せた。その翼は、彼が帰ることを見越して、既に鎖してあったのだ。家具も片づけた後だった。執事はしばらく待つように請うた。
 鍵を開け、整える為に、城の女官が駆けて行った。昼食が終わったばかりの厨房へ、俄かの仕事を申しつけに向かう者もいた。
 約束の三日目である。アデレードも指環を返す機会を探っているはずだ。いつもと少しだけ違う皆の動きに気づいてくれるかと、彼は期待した。だが、彼が登城していると知っても、城内をうろうろすることはできないかもしれない。
 天気はいい。どんより曇った都の冬がやっと去った。暖かい陽光を喜んで、庭園に出てくるかもしれない。彼はそれに賭けた。
 彼女のいる翼は目と鼻の先だ。彼は庭園に出て、隣との境に添って歩いた。
 彼は隣に一番接した場所の腰掛けに座った。そして、思惑が外れた場合に彼女の翼を訪ねる口実を探した。



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