3

 神殿では、臣下は外陣に馬車を止める習慣だった。だが、あろうことか、内陣に宮宰の馬車が止まっていた。
 トゥーリは、厚かましいやつらだと苛立った。何を見ても、苛立たしい。
 馬車の側で、宮宰と奥方が浮かない顔をして話し込んでいる。トゥーリが眺めていると、向こうが気づいた。
 彼は近づき、にこやかに挨拶した。
「宮宰さま、おはようございます。いいお日和でよかったですね。」
 宮宰は目を逸らし、応えなのか唸りなのかはっきりしない声を漏らし、頷いた。
「ご令室さまも、いつにも増してご機嫌うるわしく。」
 奥方は慌てて笑顔を作った。
「ええ、ごきげんよう。ソラヤさまはお越しになりませんの?」
「申し訳ありません。」
「残念ですわ。久しぶりにお会いできるかと思っておりましたのに。お変わりありませんか?」
「母もね、最近はずいぶん腰が重くなりました。あまり遠出はしません。どこといって悪いところもないのですが、寄る年波には勝てんというところでしょうね。」
「まあ……おいたわしい。大事にして差し上げて。」
「もちろんですよ。……ところで、もう刻限の鐘が鳴りましょう。姫君は?」
 途端に、宮宰夫妻は表情を曇らせ、黙り込んだ。トゥーリはじっと様子を窺い、答えを待った。
「……女人は支度に間がかかるのだ。」
 ここまで来て何の支度だと思いながら、トゥーリは当たり障りのない相槌を返した。
「そうでしょうね。」
 宮宰がラディーンのヤールに気づいた。苦虫を噛み潰したような顔になり、低く呟いた。
「……ラディーンか。」
 ラディーンのヤールはにっと笑い
「ご挨拶が遅れましたな。ラディーンのヤールにござる。本日は おめでとうございます ( ・・・・・・・・・・ ) 。」
と、挑戦的な強調をつけて挨拶をした。
 宮宰は頬を引き攣らせた。
「ようも白々と……」
 トゥーリはラディーンのヤールの肩をそっと掴み、後ろに下げた。
「宮宰さま、そうおっしゃらんと。今日の儀式が済んだならば、“勇敢なるラディーン”……いや、あなたにとっては“狂犬のラディーン”かな? “非道なるラディーン”? そのラディーンも、あなたのご息女に忠誠のご挨拶をするのです。嘉ばしきかな。」
 宮宰は、厭わしそうにラディーンのヤールを睨んだ。
「待ち遠しいですね。あなたはラディーンの忠節を。私はニコールを。」
 ラディーンのヤールは鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。宮宰も無言でそっぽを向いた。
「神官が待っていますよ。私は先に行きます。失礼。」
 トゥーリは二人のヤールを連れて、お堂へ歩き出した。視界の隅に、宮宰夫妻が目配せし合っているのが見えた。

 ラディーンのヤールはトゥーリの横へ寄り、顔を覗きこんで訴えかけた。
「トゥーリさま。ラディーンは、宮宰なんかに忠節を尽くしたりしませんよ。黙っていたけれど。」
「よう黙っていたね。お前が反論するかと冷や冷やしていたよ。一応は心得ているようでよかった。まあ……社交辞令だよ。」
「宮宰が本気にしたらどうします?」
「何? ほとぼりが冷めたら、また襲撃するつもりではないだろうね? ならんぞ。固く申し付ける。」
「はい……」
「気に入らなさそうだね。」
「だって……」
 トゥーリは歩を止め、ヤールを睨んだ。
「黙らんか! 未練がましい。解ったのなら、口を開くな。」
「でも……」
 見かねた老ヤールが、ラディーンのヤールの肩を叩いた。
「ラディーンの。もうおよし。シークは今日はその……」
「じい! お前も何か? 文句があるのなら、はっきり申せ!」
「何もありませんです。」
 二人のヤールが、図らずも声を揃えた。
「二人揃って何だよ? もうよいわ! 両名とも黙っておけ。」
 トゥーリはそう言い捨てると、二人には構わず早足で歩き始めた。
 老ヤールは、ラディーンのヤールを窘めた。
「ほら……今は何も申すな。」
「ご老体まで……大きな声では申せませんが……」
 トゥーリは再び立ち止まり、怒鳴った。
「ラディーン! まだ言うか! 小さな声では聞こえん! 言いたいことがあるなら、はっきり大きな声で申せ!」
「なら、申し上げます。今日はえらく調子がよろしいようで。全開という感じですな! やはり、ラザックシュタールの母堂をお連れしたらよかった。」
 ラディーンのヤールも、トゥーリが母親に弱いことは知っている。思惑通り、トゥーリの表情が揺れた。
 しかし、彼はぎっと唇を噛みしめると
「……絶好調だよ。お袋なぞおらんでもよろしい。いや、いたとしても変わらんぞ? ……お前、いらんこと言うな! 脅しをかけているつもりか! 俺はお袋など怖くないぞ!」
と言って、二人のヤールをねめつけた。
 ラディーンのヤールは苦笑した。
「声色が変わりましたぞ?」
 トゥーリは胸を逸らし
「そう? 母上さまはね、ラザックシュタールでごゆっくりしていただいた方がいいのだよ。お心を悩ませるようなことはならん。心穏やかに、亡き父上の菩提を弔っていただかねばならん。」
と言って、微笑んでみせた。
「はい……」
 二人のヤールは呆れて黙った。

 一方、内陣では小さな騒ぎが起こっていた。ニコールが、馬車から下りようとしないのだ。
「婚約など嫌です。」
 そう言って動かない。母親が馬車に乗り込み、説得していた。
「また……昨日から言っているでしょう? 結婚したところで、何も暮らしぶりは変わりません。今と同じ。」
「都を離れるのは嫌。」
「知らないところに行くのは不安でしょうけれど、優しい旦那さまと一緒で、何も怖いことはありませんよ。」
「お母さまは、ずっと都でお暮しですもの。私は……草原なんかに下らねばならんのよ!」
 二コールは身震いした。母親は言葉を尽くした。
「草原と言っても、お屋敷で暮らすのです。何も変わりません。シークのお屋敷、それはそれはご立派だそうです。緑色の大理石の床で、セリカの緞通が敷いてあるんですって。波留の天蓋張りの美しいペルシャ風の庭園があって、孔雀が放し飼いにされているそうよ。まるで夢のよう。」
 母が嘘を言っているとは思えない。聞いたことがある話でもあった。だが、嘘でも本当でも、どうでもいいと思えた。何しろ、屋敷ではなく、天幕暮らしだと宣言されているのだ。
「毎日のように、外国からの隊商が訪れて、皆シークにご挨拶に行くんですって。珍しい贈り物を携えてね。」
 ニコールは、話し続ける母をただただ眺めた。
「そうそう! ソラヤさまが、大食の商人から贈られた大きなルビーの首飾りをお持ちだったわ。あんな大きなルビーは見たことがない……! 大食の職人の神のような技の細工で。宮廷の婦人は皆羨んだわ。あなたには何が贈られるかしら?」
 母親はうっとりと囁いた。ニコールは顔を顰めた。素晴らしい宝飾品も、羨望を受けることも大好きだったのに、何の興味も惹かれなかった。
「ご立派なお屋敷で、珍しい文物に囲まれて、優しい夫と水入らずの暮らし……それがあなたの一年後の姿です。我儘は許しませんよ。これ以上の縁談はありません。」
 例え、あの恐ろしいトゥーリが優しいままで、豪奢な屋敷で暮らすのだとしても、彼女には何故か魅力的だとは思えなかった。
「……そんなのが幸せ?」
「まだ仰るの? まったく! 誰しも、結婚の前は気分が沈んだりするものだけれど……あなたは少し考え過ぎのようですね。何も心配しないで。結婚してしまえば、何故あれほど思い悩んだのかと不思議に感じられるものです。」
 宮宰も表から猫撫で声で誘った。
「ニコール、お母さまの申す通りだよ。早く機嫌を直して出ておいで。」
 しかし、ニコールは
「嫌です!」
の一点張りだ。焦れた宮宰は、馬車の扉を開け
「ニコール! これは、そなただけの問題ではないのだぞ。儂の娘ならば、申した通りのことをなせ。侯爵はもうお堂の中で待っておる。これ以上待たせるわけにはいかん!」
と叱り飛ばし、無理やりに彼女を引きずり出した。

 大伽藍の中は薄暗かった。ニコールは目が慣れず、眩暈さえ感じた。やがて目が慣れると、トゥーリの姿が目に入った。祭壇の前で、彼女の方を向いて立っている。
 彼女は“当日は笑顔でね”と 命令 ( ・・ ) されていたことを思い出した。何とか笑顔と作ろうと努めたが、無理だった。
 彼は、立ち尽くす彼女を見つめた。
 彼女の顔は蒼白になり、足も震え始めた。
(早く行かねば……ご勘気を被る……)
 彼女は何とか祭壇まで歩いた。
「あの……お待たせしてしまって……」
 彼女が小さく詫びると、彼は微笑んで首を振った。
「いいのです。待っている間、楽しかったから。どんな装いでお越しになるかと思ってね。……考えていたのと、少し違った。その赤い衣装、とても華やかで可愛らしい。あなたは赤がよく似合うね。 今日の指環を赤いルビーにしてよかった。」
 それは解りやすい嫌味だった。この少し前に、鮮やかな青色に布を染める技術が確立し、赤い色は古臭い流行遅れの色になっていたのだ。だが、彼女には気づく余裕がなかった。
「ルビー……」
「大食の商人から手に入れた大きな赤いルビー。鳩の血の色と彼らの国では表すようです。なるほど、血のように赤くてとても綺麗だよ。あなたは、きっと気に入ると思います。」
「血のように……」
 彼女はぶるりと身震いし、彼を見つめた。彼は一瞬にっと笑ったが、すぐさま悔やむような顔をしてみせた。
「ああ、ご祭壇の前で使う言葉ではなかったね。」
 彼女は彼の表情の変化に気づき、目を逸らした。

 祭司長と神官が現れた。跪く二人の前で、祭司長が神々に祈りをあげた。
「ラザックシュタールの侯爵、アナトゥール・ローラントセン殿。異存なくお誓いなさいますか?」
「はい。」
 トゥーリは、さらりと言えた自分に驚いた。
「カラシュの公爵がご息女、ニコール姫。お誓いなさいますか?」
 ニコールは、隣に跪いている彼を見やった。気づいているのか気づいていないのか、床に視線を落としてじっとしている。
(こうしていると、物静かで優しそうな方なのに……。中身はとんでもない。)
 黙っている彼女に、両親や神官たちが怪訝な目を向けている。彼女は慌てて
「はい。」
と答えた。両親の溜息が聞こえた。
 祭司長が書類を広げ
「侯爵さま。あなたから、婚約の証書にご署名なさって。」
とトゥーリに促した。
「はい。」
 神官は、彼の右側にインク壺を置いた。右利きならばそれで不都合ないが、彼は左利きだ。彼は左側に置き直し、ペンを取り上げた。
 神官は恐縮し
「おや、左利きでしたか。失礼いたしました。気の付かないことで……」
と言った。
「躾がなっていないんだよ。なにしろ、乳人が 草原の無学な女 ( ・・・・・・・)だったから。」
 彼は聞えよがしに答え、横目で宮宰を見た。宮宰は舌打ちした。
 神官は自分が責められたと思い、目を白黒させて謝罪した。
「重ね重ねご容赦を……」
 トゥーリは神官に小さく笑いかけた。
「……言いすぎた。」
 そして、ペンを持ったまま、署名をする場所を確認した。
「……どこ? ここ?」
「ええ。そこですね。あまり大きく書かないで。下に姫君の分を空けてくださいね。」
「私は、大きな字は書かないよ。母と違って……」
 その時、ペン先に含んだインクが紙の上にぼとりと落ちた。
「嗚呼! ……しまった。」
 トゥーリも神官も慌てて、書類を見つめた。やがて、神官が
「結構ですよ。余白だし。不都合ありません。」
と判断し、先を促した。
「そう? 悪いね。……何やら縁起が悪いな。そうでもない?」
 トゥーリはインク染み避け、ペン先を紙の上に落とした。脳裏にアデレードのことが過り、書くのを躊躇った。
 その一瞬のことだった。横からニコールがペンを奪い取った。そして大声で言った。
「私は……私は婚約などしません!」
 総員が驚いた。
「ええっ! 何を仰るのです?」
「祭司長さま。私は、この婚約はならんと申し上げているのです。」
「それはまた……」
 祭司長が絶句した。ニコールの母親が慌てて
「ニコール! あなた、動揺なさらないで……」
と言ったが、ニコールは
「私は動揺などしていません。」
ときっぱりと答えた。
「なら、何故?」
「何故って……」
 彼女は答えあぐねた。
 トゥーリは眉を顰め、宮宰に振り向いた。
「宮宰さま。何ですか、あなたのご息女は? うんと仰ったかと思ったら、嫌じゃと仰る。」
「えっと……」
 宮宰が言い淀むと、ラディーンのヤールは怒声を挙げた。
「宮宰よ! シークのご質問にお答えせんか! お前の娘は何じゃい! はっきりせんか! ここへ来て嫌じゃとはどういうことか? お前の娘は、シークに恥をかかせるつもりか? 答えんか! ……事と次第によっては、お前の荘園が地上から消滅すると思えよ!」
 ラザックの老ヤールも、怒りを露にした。
「ラディーンの、控えんか! ……と言うたところで、某とて、正直同様の気持ちです。この縁談は、元々そちらからもたらされた。姫君は納得されていたのではないのですかな?」
「それは……」
「早く答えよ! 草原の意には添わん縁談だったのを、“小さいシーク”は国の安寧のために、涙を呑んでお引き受けなさったのだぞ!」
 宮宰は答えられず、ぎりぎり唇を噛んだ。
 祭司長が仲裁に入った。
「ラディーンのヤール、少し落ち着いて……」
「坊主は黙っておれ! こんな辱め、治まりがつかんわ!」
 宮宰が悔し紛れに言い返した。
「ラディーン! この狂犬が! 尊き神々の御前だぞ。控えんか!」
「ようも誉れ高き醜名で我を呼ぶことよ! “金髪のアナトゥールさま”のお供をして以来、ラディーンは狂犬よ。尊き神々の前でも、卑しき売女の群れの前でも同じこと。お前に喰いついて、腸引きずり出してやる!」
「ラディーンの! 言いすぎだぞ!」
「ご老体、もう治まりがつかんわ。宮宰たら名乗るこのろくでなし、いっぺん……」
「ろくでなしだと! 無礼な!」
 掴みかかろうとするラディーンのヤールを、老ヤールが抑えた。
「まあまあ、ラディーンのヤールも、宮宰さまも、お鎮まりを!」
 神官たちが宥めても、誰も聞く者などいない。
 宮宰とラディーンのヤールは、声高に罵り合った。老ヤールもそれに加わった。神官たちは鎮めようと試みたが、治まるどころか益々激昂する始末だ。
 皆、当の若い二人などそっちのけで、騒ぎ続けた。

 トゥーリは騒ぎを眺め、目の前のニコールに目を移した。彼女は騒ぎに慌てる様子もなく、俯いている。
「何やらすごい騒ぎになっておるが……お前、自分の発言の意味、解っているのか?」
 彼女はぼんやりと彼を見上げ
「ええ……」
と呟いた。
「お前と俺だけの問題ではないんだが?」
「ええ……」
 彼は、彼女の上の空の応えに嘆息した。
「それはさておき。お前、今更何で嫌なんだよ?」
 彼に睨まれて、彼女は身震いをした。しかし、ここで負ければ、最悪の未来がやってくると思った。
「私は……あなたのような怖い人と暮らして、剰えお世継ぎの為に、あの恐ろしい行為の続きをするなどできません。私は死んでしまう。」
 彼は鼻で笑った。我儘娘ならではのくだらない理由だと思った。
「別に死んだりせぬわ。そのうち慣れる。俺でなくとも、結婚したら男はみんな同じ。お前の親父だって、大公だって、同じようなことをしたんだよ? 子供、いるだろうが。」
「おぞましいことを仰らないで……。心臓が止まりそう。」
「大袈裟な! 死ぬ死ぬと慌てなくとも……百年経ったら、ここにいる者は誰も生きておらん。しばらく辛抱して、子供を産んでから死ねばいい。」
 彼の口調はは淡々としている。彼女は顔を顰めた。
「だから、それが嫌なの!」
 彼は、嫌だと言えばまだ通用すると思っているのかと呆れた。彼女の言い分が通用するわけのないことを諭し始めた。
「そんな我儘を言っても、いつかは誰かに嫁がねばならん運命だろ? お前の親父は、閨房政策が得意なんだから。そこそこ納得して、話を進めたんだ。納得というよりは諦めか。お前が黙っていれば、丸くおさまるんだよ。俺で我慢しておけ。内輪はともかく、外面は優しい旦那を演じ続けてやる。」
「その落差が怖いのよ! あなた、狂っているわ!」
「そんな上等なものではない。皆そうだぞ? お前が宮廷の若い男どもの内情を知らんだけだ。テュールセンのところのだって酷いぞ? あそこの兄弟は俺以上に酷い。それに……礼儀正しく、女のように柔らかい物腰のアランドラの伯爵、あれも裏では乱行三昧だ。あいつの奥方の鼻が曲がっているのを知らんのか? エチェルの伯爵の息子、あれは怪しげな店の常連。セクサルドの主、華やかに着飾る美食の権威。その実、税を上げすぎて百姓ほとんど逃げた。ペシュトの主、きれいな顔して拷問が趣味。ジェールの侯爵、独身なのに庶子だらけ。まだ聞きたいか? ……第一、お前の兄貴、あれも相当遊んでいる。」
 彼が挙げた男たちは、兄は元より、全て彼女の見知っている者だ。彼女は驚き、耳を疑った。
「何ですって?」
 彼女は彼の顔をまじまじと見つめた。俄かには信じ難かった。しかし、目の前の美しい男が一皮むけばこうなのだから、そうかもしれないとも思った。
 彼は冷笑を浮かべ、頷いた。
「姫君の前では、皆取り繕っているだけだ。ろくなのおらん。俺はまだマシ。ラザックシュタールは、百姓も商人も逃げるどころか増えておる。俺は、衣食住にさしたる拘りはない。お前と交際していた間は、他所の女のところへは行っておらん。変わった性癖もない。」
 彼女は驚きが醒めやらず、黙りこくっている。
 彼は、世間知らずの彼女を更に嘲笑った。
「結婚しても、しばらくはお前だけにしておいてやる。ついでだから、今誓ってやろう。」
 彼女は憎々しい思いで
「……結構です。」
と低く呟いた。精一杯の敵意を込めたが、彼は涼しい顔で
「あら、いいの? あっちこっちほっつき歩いても? 寛大な奥方でよかった。まあ、そういうわけだ。亭主と姑にしっかり仕えたら、衣食住の贅沢と身の安全だけは保障する。」
と言って、小さく笑った。

 トゥーリの言葉を聞いて、ニコールの胸の底で何かが蠢いた。
「衣食住と安全? それだけ?」
「それ以上を期待されてもね……。一応、お前の意見聞いてやる。申せ。」
 彼女は眉をひそめ
「……意見? “却下”なさるんでしょう?」
と嫌味を言ったが、彼には何処吹く風だ。
「ああ。覚えていたようで重畳。お前に、傾聴に値する意見があれば別だが?」
 白々と答える彼に苛立ったが、いちいち言い返すことはしなかった。彼女は、馬車の中で母親が話したことを思い浮かべていた。虚しいとしか思えなかったわけも考えた。
「贅沢をして……でも、あなたの保護の下。あなたが“却下”すれば、私がどんなに望んでも叶わない。そうでしょう?」
「望みの種類にもよるが、概ねそうだな。どんな大それた望みを持っているんだ?」
 彼女はそれには答えなかった。望みが何であるかが問題ではないと気づいたのだ。
「……女人はなんて不自由なのでしょう……。生家では父に従い、嫁いでは夫とその両親に従い、老いては息子に従う……。いったい私自身はどこにあるのかしら……?」
 彼は溜息をついた。彼女は、一顧にも値しないと嗤われるのだろうと、唇を噛んだ。
「仕方ない。女一人では生きていけない。余程の女相続人でも、亭主がおらんことには、生きていけない世の中だろう? 女に生まれるのは、不幸と言えば不幸かもしれん。不幸というより不自由か。そうだな、不自由なんだろう。……今更こんなところまで来て、難しいことを考えたものだな。」
 彼の口調は妙に優しく、表情は楽しそうだった。こういう議論が、実のところ彼は大好きなのだ。
 彼女には意外な反応と答えだった。聞くつもりはあるのだと、勇気を振り絞って話を続けた。
「同じように父と母から生まれて、何故男と女はこうも違っているのかしら……? 不公平だわ。」
「だったら、男だってどうなのさ? 女房子供を養うのに大変な思いをするよ。俺なんか家業が家業だから、命を危険に晒して、お前などを養わねばならん。今だって、着道楽のお袋の衣装代に辟易しているが……それよりはまだ働き甲斐もあるか。」
「でも、男の人はやはり自由。」
「きつい・汚い・危険の三拍子揃った家業なんだ。自由も何も、命あってのことだろ?」
「だからって、家に縛り付けられて、夫に忍従せねばならない理由はないわ。」
「お前ね……ねんねだと思っていたが、難しいことを考えるようになったもんだな。何なら、世の中を改革してみるか? 同じような思いの女がいるかもしれん。たくさん集めれば、耳を貸す男も出てくるかもしれんな。皆で一緒に、女ひとりで出来る相続財産の管理法を考え出したらいい。」
 彼女は嘲っているのかと、彼の表情を探った。しかし、彼はごくごく真面目な顔をしていた。
 彼女は考え込んだ。いい方法だと思ったが、発想が奇抜すぎて誰も耳を貸さないと思った。強いて探せば、目の前の大嫌いな男くらいだと思うと悔しくて仕方がなかった。
 彼は、黙り込む彼女を眺めた。
「お前はそう言うが、周りを見てごらんよ。若い奥さんたち、楽しそうじゃないか。自由とか不自由とか言うけど、人は皆不自由だよ。皆、何かに縛り付けられている。家やら肩書やら立場やら、何やかんやと。その最たるものが、自分自身じゃないか? 自分が一番自分を縛り付けている。俺が今日ここに来たのも、だからだよ。」
 最後の方は呟きに消え、彼も黙り込んだ。
 やがて、ニコールが口を開いた。
「でも……私は、私からも自由でありたいと思うのです。」
「それは無理。生まれたての赤ん坊ですら、自分からは逃げられないのに。この世に生まれ落ちた以上は、自らの虜囚だよ。足掻き苦しんで生涯を送る。それゆえに喜びもあるというもので。この不自由で猥雑な俗世、愛しいと思わんかね?」
「全然! 私は早く、清らかな神さまの御国へ行きたい。」
 彼は苦笑した。
「清らか? テュールもフレイヤも荒々しくて、欲望に忠実だろうが。そんなものはない。お前の幻想。」
「罰当たりなことを!」
「そうか? 美しい言葉は全て幻想だ。愛? 友情? 忠節? 貞節? 他に何? 諸々あるが、全て俗な欲望の前にはもろい。皆、何処かでそれに気づいているから、美しい言葉を持ち出しては幻想を抱こうとする。肉欲、嫉妬、名誉欲、裏切りと裏腹なんだよ。」
「……やはり恐ろしい人! 虚しくないのですか?」
「別に。俺は、そういう世の中で生きているのが、割と好きだよ。」

 相変わらず外野は、騒がしかった。祭司長はニコールに歩み寄ると、肩を抱き
「皆さま! ここはひとつ! 姫君にもう一度お尋ねしましょう!」
と大声を出した。
「そうだ、そうだ。ニコール! さっきは動揺したのだろう? 今一度気を落ち着けて、本当のことを申せ。」
「動揺って何じゃい!」
「うるさい! 野育ちのラディーンの娘どもと違って、儂の娘は温室育ちゆえ、少しのことにも心震えるのだ。殊に、お前のような恐ろしい者がおっては……」
「そんな調子では、シークの奥方は務まらんわ!」
「あの、お静かに。よろしいですね、皆さま。……姫君、お気持ちをお聞かせ願いたいのですが……」
 祭司長が困った顔で、ニコールを覗きこんだ。
「どうなさいました?」
 祭司長に促され、彼女はとんでもないことを言い出した。
「祭司長さま。私は今日、婚約のお誓いに参りましたけれど、婚約するのは侯爵さまではありません。私が身を奉げるのは、尊き神々の王。 」
 一同は唖然とした。

 瞬の後、宮宰夫妻は失笑した。本気だとは、思えなかったのだ。
「愚かなことを……」
「私は今日を限りに、俗世を捨てて、神さまのお側で一生を送る決心をいたしました。」
 母親は、言を重ねる彼女を叱った。
「ニコール! あなた何を仰るの!」
「お母さま、私は俗世を捨てるのです。」
「あなた……感情的にそんなことを仰っては……後悔しますよ?」
 彼女は母を真っ直ぐに見つめた。静かな眼差しだった。
「私、取り乱してなどいません。」
 宮宰は戸惑い
「ニコール。先ほど、そなたは“はい”とお誓いしたではないか。急に心を変えるなど……取り乱しているのだ。少し別室で休んでだね……」
と勧めたが、言葉も終わらぬうちに拒否された。
「お父さま、私の気持ちは確かです。」
「だったら、さっきの誓いは何なのだ?」
「それは……」
「何故? この申し分のない方の何処が気に入らないの? あなたの言う通り何でもしてくれて、あなたも気に入っていたでしょうに。」
 彼女は固い表情のまま黙っている。両親は焦り始めた。
「家を出て嫁ぐのが不安なだけで、動揺しているのです。そうでしょう? 尼になるなど……許しませんよ!」
「いいえ、いいえ。私は本心から申し上げているのです!」
 宮宰夫妻は狼狽えた。
「何たることかな! ……まさか? まさか、侯爵、そなたが焚きつけたのではあるまいな?」
「焚きつけたって……尼になることを? まさか! 私は姫君のお気に召していただけるように、尽くしたつもりです。それは姫君にもお判りでしょう?」
「ええ……」
「どのように私があなたのことを思っているか、どんなにあなたを待ち遠しく思っているか。思いの丈を語ることをお許しになったのを、お忘れになりましたか?」
「いいえ……」
「なら、何故? あの時あなたは何とも仰らなかったけれど、それはあなたが無垢で、世慣れた婦人とは違うのだと、ご自分のお心を言葉にして語ることに、慣れていらっしゃらないからだと思っていました。不愉快だったのですか?」
「そうですね。」
「私のこと、お厭いですか?」
 ニコールは黙り込んだ。
「ねえ、ニコール。何か仰って。これ以上、何を言われても驚かない。」
「何も申し上げることはありません。疎ましいだけです。」
「そう……私のことをそれほど疎ましく思っていらしたとは、思いもよりませんでした。ずいぶんと嫌われたものだ。あなたのお心に適うように尽くしてきたのに、残念です。私は可愛らしい奥方をもらえる果報者だと思っていたのに。」
「ニコール! 考え直しなさい! こうまで望まれて、何が不満なの? 侯爵さまが特別な立場だから? 気後れするの?」
「気後れなど……都の貴族の奥方になるのと同じことです。家の采配をして、後はお好きになさっていただいたらよいのです。」
「そうですよ!」
「ニコール、よくよく申したであろう? これは、そなただけの問題ではないのだ。父の申す通りせよ!」
「まあまあ……お二人とも落ち着いて。姫君は都を離れるのをお気になさっていらしたから。」
 宮宰はまた怒鳴りそうだったが、奥方に手ぶりで窘められて黙った。
「あなたのような方は、なかなか決心がつかないのかもしれませんね。恐れるほど、草原は怖いところではありませんよ。」
 奥方が涙声に説得した。
「結婚式の済んだ後も、しばらくは都で暮らすのですもの。そのうちに情が湧いて、あっさり草原に下る気持ちになりますよ。」
「春の草原はとても美しい。最も美しい季節に、あなたを伴って帰ることができるのはとても嬉しいことです。帰ったら、二百四十三の氏族のヤールが、花綱を付けた馬に貢物を一杯載せて、あなたにご挨拶しに集まるでしょう。」
 老ヤールが、ぼそりと口をはさんだ。
「二百四十六ですよ。」
「ああ、そうだった。三つ貢物が増えましたね。」
 ニコールは小さく首を振り、呟いた。
「……もうよして。」
 微かな声だった。皆よく聞こえなかったが、言を変えていないのは様子から判った。
 溜息が漏れる中、宮宰だけは説得を続けた。
「以前から、話して聞かせていただろう? 父の決めた相手が気に入らなくても、我が家門の娘ならば、黙って従うようにと。侯爵が厭わしいのか、草原が恐ろしいのか知らんが、今後も我が家名を名乗りたければ、父の決め事を守れ。」
「私は侯爵さまが嫌なのではないのです。」
 それを聞いてトゥーリは驚愕し、声を漏らしかけた。だが、彼女の様子には、全てを暴露するつもりもなければ、嘘をつくつもりもなさそうだ。
 何をいうつもりかは、彼が尋ねるまでもなく宮宰が尋ねた。
「なら何故? 草原が嫌か? 解らんでもないが……」
「いえ、草原は恐ろしいけれど……そんなことではないの。私は侯爵さまのところにも、他のどの殿方のところにも嫌なのです。お父さまの仰る通り輿入れして、表面上は仲睦まじい夫婦を装って一生を終えるのは、虚しいのです。」
 これは脅かし過ぎたとトゥーリは思ったが、彼女の言ったことは、案外いいところを突いているとも思った。
 彼は、父娘のやり取りを黙って見つめた。
「愚かしいことを申すな!」
「だって……お父さまとお母さまにしたところでどうなのです?」
 ニコールの両親は顔を見合わせて、やがて笑って言った。
「私たちは仲睦まじいですよ。本当にね。」
「嘘。一緒にいるところ、見たことがないわ。」
「何を仰るの。一緒にいなくても円満ですよ。お父さまは、お仕事柄お忙しくしていらっしゃるけれど、いつも私には気を使ってくださいます。」
「やはり表向き仲睦まじくなさっているだけ。二人とも嘘つき。」
「黙りなさい! 貴族の夫婦は皆そんなものだ。下々のように、べったりとくっついている者などおらんわ。そなたはそんな在りようを望むのか? 儂の娘は何というふしだらな娘になったのだろう!」
 尼になるなど、宮宰のような高い家柄の者はそうそうしないのだ。説得のしようもあるように、トゥーリは思った。しかし、宮宰のやり方では、ニコールが頑なになっていくだけだ。
「宮宰さま。そう仰らなくても……。姫君がそう望むなら、私は出来る限り側近くおりましょう。」
「結構です。」
「何故、急につれなくなってしまったのです? あまり難しく考えないで。気を取り直して。」
「そうだよ。ニコール。」
「私の気持ち、ご存じでしょう? 今朝はあまりに嬉しくて、ずいぶんと早くから目が覚めて、待ち遠しかった。喜び勇んでここに来たのに。この期に及んで、あなたにそんな寂しいことを言われるとはね……。胸が張り裂けそうです。」
 ニコールは彼に冷ややかな目を向けた。
「……あなたのどんな気持ちを知っていると仰るのです?」
「……ただ愛しい人と。」
 彼女は俯き、ぶるっとひとつ震えた。上げた顔には嘲笑めいた表情が浮かんでいた。
「……存じ上げませんでしたわ! もうたくさん! 祭司さま、早く私を連れて行ってください。」
 彼女は神官たちを促して立ち去ろうとする。彼は駆け寄り尋ねた。
「どうあっても、私の妻にはならんと?」
「はい。あなたでなくとも、誰の妻にもなりません。」
 そう言った後、彼女の唇は
“大噓つき! ”
と動いた。
 彼は彼女ににっと笑いかけた。

 祭壇の前に立ち尽くしたままの宮宰が、真っ赤になって怒鳴った。
「ニコール! ならんぞ! 第一、侯爵は証書に署名してしまったのだ! いくら儂の娘でも、侯爵に署名を撤回させるなどという侮辱は与えられないのだ!」
「それは……」
 トゥーリには結婚を免れると安堵する気持ちがあったが、手放しで喜ぶ気にはなれない。最後の説得を始めた。
「姫君、お社に入ってしまわれたら、あなたは唯のニコール。尊い家門とも縁を切って、生涯を信仰と奉仕のうちに送ることになるわけですが、よいのですか? 綾絹や宝石を身にまとうこともなくなるのです。華やかな場に出ることも、誰かを愛することも、子を産み育てることも、それら全てをお捨てになるのですか? お社の中で墨染めの衣を着て、これからの長い人生を過ごすのですか?」
「それでも、心の平安を得ることができます。」
 彼女の答えは淀みなかった。彼はもう説得は無理だと思った。
 母親も駆け寄り、涙を流しながら口説いた。
「お願いだから、お願いだから、ニコール。やめて。尼になど……」
「ご令室さま、お嘆きにならないで……。宮宰さまも、ご息女がこうまで固い決心をなさっているのですから……何の所縁もない私から申し上げるのも差し出がましいことですが……、お認めになるしかありませんね。」
「ですが……」
「可愛らしく、無邪気な姫君とだけ思っていました。失礼ながら、そこまで気高いお心の持ち主とは……。高貴なお生まれを捨てて、一人の尼僧として、衆生の安寧を祈ろうというお気持ちには感服いたしました。」
「私も……」
 母親は同調し始めた。
「無礼を承知で申し上げますが、ご両親もこのお心を尊重して、お許しになってはいかがでしょう?」
「侯爵さまはよろしいのですか……?」
「残念ですが……。お社に入られたら、もうお目通りするのは叶わないんだな。でも、今日のあなたの可愛らしい姿は、忘れられそうにないよ。」
 彼に微笑みかけられた彼女は、白々とした顔で彼を見つめ返した。
“これが望みか? ”
 彼の唇の動きに、彼女は小さく頷いた。

「侯爵も奥方も! 勝手に納得いたすな! 儂は許さんぞ。第一、侯爵よ、そなたはもう署名したのだろうに。ラザックとラディーンのシークが二言するのか!」
「ああ、そのことなら……」
 トゥーリは、証書を指差した。
「最初の一文字しか書いていません。早く書けばよかった。」
「どれ?」
「……ほらね、最初のAの字を辛うじて書いただけ……これでは、誰のことやら判りません。」
「……祭司長! 何とかならんのか?」
「困りましたね。侯爵さまの仰る通り、これでは証書として通用しません。」
 宮宰も奥方も渋い顔をして、証書を見つめている。
「私にとっては、残念極まりないことだけれど。あなたにとっては、まさに神さまの思し召しでしょうね。」
「ええ、悦ばしいことですわ。」
 二人は既に婚約はならなかった方向で話している。宮宰は怒鳴り散らした。
「どいつも、こいつも!」
「ニコール、お気持ちをそれ程までに明らかになさったのを聞いたのは、お母さまも初めてで、とても驚きました。何やら心動かされる話もありましたが、あなたと今生の別れをするのは、私たちには哀しく認めるのが難しいのです。お心を変えることはできずとも、お社に入ってしまうのは考え直して。家にあって神さまにお仕えすることもできるでしょう?」
「いえ。もうきっぱりと俗世を離れます。家にいれば、また私の望まぬ方に流されることになりましょう。」
「もうよい! この我儘娘。家門の恥というもの。若い身空で世を捨てて、後々悔やむがいい。そうなっても、儂は知らんからな。」
「悔やむなどありませんわ。私は神さまのお側で、意義深い一生を送るのですから。」
「世間知らずがよう申したな。」
「ごきげんよう。お父さま、お母さま。兄さまと妹に、よろしくお伝えになって。」
 祭司長が引き取った。
「あの……しばらくご様子を見て、それでもご決心が固いようならば、こちらに入っていただきますので……」
 ニコールは神官に連れられて奥へ消えた。

 怒りと哀しみにそっぽを向く宮宰と、むせび泣く奥方。トゥーリと、白けきったヤール二人が取り残された。
 誰も何も言い出さず、誰かが言い出すのを待っているようだった。
(どうしますかな? いくら口先三寸の俺でも、この場を仕切るのはちと難儀……)
 トゥーリは途方に暮れた。
 奥から戻った神官が婚約の証書を取り上げ
「これは無効となりました。破棄します。」
と言って、短冊に裂いて火にくべた。そして、足早に立ち去った。
 奥方は蹲って慟哭した。
「うるさい! 泣くな! 我々には関わりのない娘が尼になっただけのこと!」
「酷いことを!」
 夫婦喧嘩が勃発した。
(これ以上の諍いはもうたくさん。自分の屋敷でやってくれ。)
 うんざりしたトゥーリは仲裁を始めた。
「まあまあ……そう仰らんと。奥方さまも気を確かに持って。お立ちになって。」
「はい……」
「あの……しばらくは哀しくて仕様がないでしょうね……。何を申し上げても、白々しい物言いにしか聞こえないでしょうが……。お母さまには、身を切られるような思いがするのでしょう。私などにはその百分の一も理解できないでしょうが、ご同情いたします。」
「お優しいのですね……」
「姫君は、望み通りのお暮しを手に入れようとしているのだもの、子の望みが叶うのは、親にとっての喜びにせねばならぬのかもしれません。親ならぬ身が申し上げるのは、おこがましいのですが……」
「いいえ。そう仰っていただけると、何がしかの光明も射してこようというもの……」
 奥方はトゥーリの胸に顔を預けて、すすり泣いていた。それを見て、宮宰が怒声を挙げた。
「侯爵になど抱き付くな! 侯爵も儂の奥方に触れるでない! 両名とも早く離れるのだ。帰るぞ。」
「触れるなって……あなたの奥方がしがみついているんですけど……。あの……奥さまちっと離して。しがみつくのは旦那さまになさって。」
「申し訳ありません……」
 奥方は泣きながら、宮宰によろよろと力なく歩み寄った。
「では、用のなくなった婿候補は消えますので。」
 去ろうとしたところに、神官が先ほどのルビーの指環を捧げ持って現れた。
「侯爵さま、指環をお忘れ。」
「持って帰ってもねえ。」
「私どもとて困ります。」
「仕方ない……」
 彼は、神官の差し出す盆の上の小さな指環を取り上げた。右手の小指に挿し入れ、踵を返した。後に二人のヤールが従う。
 お堂を出る時、どうしても我慢がならなかったのだろう、ラディーンのヤールが振り返り叫んだ。
「宮宰! 今日のこと、よう覚えておけ!」
 慌ててトゥーリと老ヤールが引きずって連れ出し、馬車に乗り込ませた。




  
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