指環
2
特別な用事のなかったアデレードは、翌日も日常があるだけだ。しかし、トゥーリの婚約式がある上、指環のこともある。そわそわと気が漫ろだった。
一緒にいた公妃は、彼女の様子を訝った。
「どうなさったの? 今日はご様子が違いますね。」
公妃は、彼女が腿のあたりを撫でているのに気づいた。
「何をなさっているの?」
アデレードは慌てて手を引っ込めた。その拍子に、靴下止めに通した指環が動き、肌を引っ掻いた。
「靴下止めが切れました。」
彼女は部屋に戻り、一人指環を眺めて溜息をついた。いきおい、昨夕のことが思い出された。
薄暮の中、所在なさそうに立っていた寂しい姿。“愛しているから! ”と言った時の生き生きと輝く緑色の瞳。また、鼓動が速くなった。
彼女は指環を靴下止めに戻した。トゥーリが肌身離さずにしていた指環だ。変なところに隠しているのは申し訳なかったが、これを渡したいほどに想われたのが嬉しかった。
公妃の居間へ戻ると、大公がいた。二人はアデレードが来たのに気づくと、急に話を止めた。大公は黙って出て行った。
公妃はアデレードをじろりと見た。
「靴下止めは直していらしたの? 弄るから切れたのでしょう。気をつけなさい。」
公妃は見るからに機嫌が悪く、怒ってさえいるようだった。アデレードは素直に謝った。
「はい。ごめんなさい。」
公妃は溜息をついた。
「あなたはご様子がおかしいし。大公さまも聞きなれぬお話を耳に入れるし。よくない日ですこと。」
「聞きなれぬお話?」
公妃は不愉快そうに眉を寄せた。
「あなたには関係のないお話。」
公妃はアデレードの姿を上から下まで眺め
「……あなたも、あまり我儘を仰らないでね。」
と付け加えた。
「私、我儘?」
「我儘……というよりは、お転婆ね。近頃は急に大人びてきたけれど、まだまだです。前のように二階から落ちるようなことは……あの折も、ラザックシュタールさまでしたね……」
そう言って、公妃はまた溜息をついた。
「二階から落ちるなど、もうしません。」
「くれぐれもお願いよ? あなたも、これからご縁談など来るのです。その時に、“あのお転婆では”と思われないようにして。」
アデレードは縁談と聞いてぎくりとしたが、平静を装った。
「ええ。ところで、お父さまは何を?」
「何です? 知りたがりなどして。あなたには関わりのないお話だと申したでしょう。」
公妃の言葉は素っ気なかった。教えるつもりはないようだった。
公妃は刺繍の道具を取り出し、刺繍をしようと誘った。
針を動かすのに没頭すれば、嫌なことを考えなくて済むかと始めたが、アデレードの頭からは一向にトゥーリのことが離れなかった。
その朝、トゥーリは、ラザックの正装を纏って髪を結った。側仕えは下げ、予定の時間が来るまで一人で部屋に閉じ籠った。
今日の婚約式が益々厭わしかった。全てをぶち壊してしまいたかった。
しかし、それはできない。大公を始め、宮廷の怒りを買うのは明白だ。
(我慢……しかし、俺のこの心はどうなる?)
自問すると、本心が語り始めた。
“アデレードを奪い、草原に還る。”
大それた本音に、彼は身震いした。
それを忠実に実行すれば、取り返しのつかないことになる。国や、大切にしてきた者、関わりのない者まで、全てに辛酸を舐めさせることになる。
(決まった通り、ニコールと結婚せねばならん。)
唸り声が出た。
また、宮宰が義父になることを思うと、別な種類の暗澹たる気分が湧いてきた。子供の頃からされてきた数々の嫌がらせや嫌味を、彼はほとんど覚えていた。宮宰の性質ならば、婿になっても変わらないだろう。
悔しくて、歯噛みした。
更に、この縁談に尽力した人間にも怒りが向いた。
彼は小卓を蹴り倒し、悪態をついた。
「ウェンリルの伯父貴のやつ! おかしな頑張りしやがって……くたばりやがれ!」
ギネウィスが伯父に色々と訴えたことも恨めしいが、彼は彼女に対してはさほど怒りは感じていなかった。むしろ、ある種の同情を感じ、理解もしていた。
(愚かなギネウィス……捨ておいたところで、大したことは起こりやしなかったのに……)
彼は、あの夕に彼女が座っていた長椅子を見やった。そして、その時のやり取りを思い出し、ほっと息をついた。
(……四十近いのに、あの美貌は化け物だな。艶っぽいのなんのって。それに比べて、ばばあは……? 子供を三人も産み育てたのを鑑みると、女ではあるが、中身は気合の入った漢だよ。男としては間違いなく俺の上。根性が座っている。)
妙な感心と共に母親のことを思い出した直後には、不満が湧いた。
(ぴんぴんしていやがるから、うるさくてならん。早く親父の許へ旅立ちたまえ、だよ……。父さまは、あのばばあとどう闘って……いや、どう接していたのか……?)
その答えは、推量すらできなかった。父親のことを知りたいと思っていたが、知るのが怖い気持ちもあり、誰にも尋ねていなかった。
彼は、微かな父親の記憶を辿った。
身体の大きな男だったこと。黒い長い髪をきっちり編んで、帯に挟んでいた姿。
平穏な屋敷での思い出は浮かばなかったが、刺激の強い草原でのことには、思い出すことがあった。
(親父の鞍の前に乗せられて、草原に出た……。飯を食うのは親父の膝の上、親父はリュートを弾いて、いい声で歌っていた。楽しかった。)
その時の部の民のわいわい楽しそうな様子が思い浮かんだが、その時見た光景なのか、後年の見慣れたそれを重ねているのかは、彼には判然としなかった。
(それから……すごく速く走るラディーンの馬。親父が乗っていた……? 親父に抱かれて、遠くに稲妻が走るのを見ていた。夜、夏かな……? 恐ろしかった……)
思い出せたのは、断片的な事実だけだ。
父親の人となりもわからなければ、あの母親とどんな結婚生活をしていたのかは、更にわからない。ただ、好き好んで結婚したということだけは知っている。
「信じられんわ……。さっぱりわからん、親父の女の趣味……。狂っていたとしか思えん……」
彼は思わず呟いて、慌てて周りを見渡した。亡父とは言え、シークを罵るなど、草原の者には聞き捨てならないことなのだ。
(……ばばあの尻に敷かれていたに違いないな……。まあ、父さまは好きな相手と暮らしていたのだから、俺の参考にはならん。俺はニコールと暮らす……新手の拷問だって!)
目の前にあったはずの小卓がない。彼は代わりに床を蹴った。
ニコールとの暮らしを思い浮かべるのは、不愉快であった。彼女は不愉快どころか、恐怖なのだろう。その原因を作っているのは彼自身なのだと思い至ると、考えるのを止められた。
父母のことを思い出せば、弟たちのことも思い浮んだ。
上の弟のヴィーリは、身体が丈夫ではない。草原の氏族から妻を迎えて、屋敷で暮らすのが尤もだと思えた。
下の弟のミアイルの行き先は悩ましい。預ける適当な氏族が思いつかないのだ。それならばと、都で近衛に入れることを考えついた。
だが、ラザックやラディーンの者は、近衛にはなれないという俗説があった。強力な後見人が要る。
誰かと考えるまでもなく、伯父のことを思いついた。ウェンリルの伯父には頼む気にならないが、幸い他に二人も伯父がいるのだ。
母のすぐ上の兄であるヘルヴィーグが、彼には気安かった。その伯父にミアイルを頼むのがいいと思った。
そう決めたが、ミアイルの武芸の腕前は非常に怪しい。溜息が出るほど怪しい。
(ばばあは末っ子には甘いから……俺のときは全力できたくせにさ! )
彼が受けた母親の稽古には、厳しい仕打ちが付属していた。打ち落とされて立てなくなると、馬の鞭で背中をしたたかに打ち、蹴りつけるような激しい折檻だった。それは憎しみとしか思えなかった。
子供のころの一時期、彼はソラヤを本当の母親かと真面目に疑ったことがあった。父親が草原の女に産ませた子が自分なのではないかとさえ考え、容赦ない扱いや、弟たちとの態度の差を納得させようとしていたのだ。
久方ぶりに、子供のころの気持ちが蘇った。
(俺の親父はシーク・ローラントだとしてだな……母親は、本当のところどうなのよ?)
すぐさま彼は自分に苦笑した。ソラヤの性格を鑑みれば、母子関係にあることは疑いようもない。庶出の子を後継にされて黙っている女ではないはずだ。
(俺、母さま、ギネウィス……親父のお陰で悩ましい人生……)
彼は顔を歪め、虚空を睨んで、恨み言を漏らした。
「父さま、あんた罪作りだよ。とっ散らかして、さっさとあの世へ旅立つとはね……。“後は頼む”では困るよ……」
父親が生きていたら、母との関係も少しは柔らかくあっただろう。堅苦しい都は無縁で、草原で伸び伸びしていられただろう。今よりもずっと幸せに思えた。
しかし、彼はすぐに思い浮かんだことを否定した。そうならば、アデレードと巡り合うことはなかった。それは、彼にとって不幸なことなのだ。
といって、今の状況ならば、呪わしい気持ちにもなる。
(もし……状況が逆で、アデレードが婚約するという話になったなら、俺はどうする? 他の男がアデレードの夫になる……)
トゥーリは大公が彼女に合わせる相手を想像してみた。テュールセンのリュイス、宮宰の息子、高位の貴族の若君が次々に思い浮かんだ。
(国内に相応しい相手はおらん。全員悪魔みたいな行状……まあ、俺もか。とすると、外国の王家の者? ……風の消息を待っているのも辛い……)
厳しい想像だった。彼は思いを振り払った。
(考えたところで無意味だ。俺は、後家のばばあと頼りない弟二人に、ラザックとラディーンと、いろいろ抱えているわけだから。我慢、我慢!)
彼は大儀そうに立ち上がり、蹴り飛ばした小卓を元に戻した。
「トゥーリさま。お返事がないので、入って来ましたよ。」
ぼんやりしていたトゥーリは、突然の老ヤールの声掛けに腰を浮かせた。
「全然気づかなかった! 何?」
「そろそろお出にならねば。刻限に遅れます。」
「もうそんな時間かい? では……」
前を通り過ぎたトゥーリを見て、老ヤールが言葉になっていない大声を挙げた。
トゥーリは慌てて振り向き周囲を見渡した。何も変異はない。彼は怪訝な目で、老ヤールを見た。
「何? 驚くよ。大声出して。」
「何ですか? その髪は!」
老ヤールは厳しい目を向けている。
「は? 心痛のあまり白髪になっているとでも?」
トゥーリは編んだ髪を持ち上げ、眺めた。特別変わりない。
「いつも通り真っ黒じゃないか。」
「だらしない髪を……ラザックの戦士は、朝一番に髪をきっちり編みます。シークならば言わずもがな。直しなされ!」
老ヤールの言うのは、髪を途中までしか編んでいないことだった。いつものことだ。
厳しく咎めるのは婚約式だからだろうが、後生の大事とわざわざ念入りにしていくのも、彼には癪に障ることだ。
「いいだろ? 別に戦場に行くわけでもなし……。この前切ってから随分伸びてしまって、下まで編むのが面倒なのだ。」
老ヤールは深々と溜息をついた。
「あなた、いつもそう仰いますなあ。」
「そうか?」
「髪のことは、ほんの小さい頃から何度も申し上げました。」
「そうかもしれないね。アーマにやってもらっているのを見つかって、よく叱られた。」
「あなたの乳母は甘かったですなあ。我が家の嫁女の悪口を言うのは気が進みませんが、甘かった。」
「優しかったと言えんのかね? 怒ると怖かったけど……」
「六つまで乳を吸わしていましたな。夜寝る前に。」
聞くなり、トゥーリは不愉快そうに鼻に皺を寄せた。
「いらんことを思い出すな。」
しかし、年寄りは昔のことを思い出すと次々思い出され、話が止まなくなるのだ。バツの悪いこともよく覚えていて、繰言は長い。
「その乳離れ遅かったトゥーリさまがご婚約とはね。感無量です……」
老ヤールは目頭を押さえた。
「お前、涙もろくなったな。牢屋に来た時も泣いておった。草原の男なら、泣いていいのは三度だけ……ではなかったのか?」
「歳を取るとこんなものです。……いろいろと泣かされることも多かった……」
「そんなに悪いことばかりしたか?」
「いやいや……トゥーリさまはちゃんとしていなさる。元気すぎるくらいでちょうどいいのです。……奥さまをお迎えになるお歳になられたとは……、お父上亡き後……」
「もうよい! 髪はやり直すから、湿っぽい思い出話はもう止めよ!」
「申し訳ありません……」
老ヤールは涙を拭った。
トゥーリは老ヤールを横目で睨み、髪を束ねていた紐を外した。その途端に、腰の強い彼の髪はぱらぱらと解けた。舌打ちが出た。
「ああ、面倒! 半分だけでいいだろ!」
彼は髪を、やはり半ばまで編み終えた。
「最初に申し上げたでしょう? ラザックの戦士は……」
「うるさい!」
トゥーリは言い放つと、半分だけ編んだ髪のまま戸口に向かった。
「しっかり下まで編まないと、跪くときに踏みますよ? 立ち上がるときに、つんのめって無様なことになる。」
老ヤールの言葉を聞いて、トゥーリは立ち止まった。無様なことは避けたい。ニコールと婚約することが既に無様だと思っている。それ以上、無様な真似は絶対に避けたい。格好の悪いことは、死ぬより辛い年頃なのだ。
「……仕方ない。しばらく待て。」
老ヤールはしたり顔だ。トゥーリは髪を全て解き、文句を言いながら、櫛を入れ始めた。
その時、満足そうに眺めていた老ヤールがまた大声を挙げた。
「トゥーリさま! 指環! 指環をどうなさったのです?」
右手の人差し指に、指環がないのに気づいたのだ。
「石が緩んだ。直しに出した。言っていなかったか?」
トゥーリはすらすら答えたが、老ヤールは渋い顔をした。
彼の指環の石は、台座にしっかりと固定されているのに、時々ゆるゆると外れそうになることがあった。それは、時ともなしに起こった。緩んだところで、あからさまな危難が起こるわけではなかったが、老ヤールには気味が悪かった。
「それは……! 一大事。……何かの前兆かも……」
老ヤールの声は低く呟くようで、微かに怯えを含んでいた。トゥーリは後ろめたい気持ちになったが、気楽な様子を装った。
「迷信深いね! 偶然だよ、偶然。弄り回す癖があったから、緩んだだけではないか? 今までだってあっただろ?」
老ヤールは黙り込み、トゥーリが髪を編むのを眺めていたが
「それもね! それも止めた方がいいです。指環を親指で弾く癖。」
と言った。癖の所為で緩むと思いたいようだった。
「わかったよ……。髪、言われた通りしたよ。これでいい? 急がねば、遅れる。」
トゥーリは老ヤールを促し、部屋を出た。老ヤールはまだ不安そうだった。
本来、婚約式などと格式ばったことは、ほとんどしない。草原には勿論、そういう風習がない。
仲の悪い両家が、いずれ結婚で結びつくことを世間へ宣言することが必要なだけだ。だが、本音を映して、客を招いて盛大にというわけではなかった。
ニコールの側は両親が同伴する。トゥーリの側は、ラザックの老ヤールとラディーンのヤールが同伴することになっていた。
ラディーンのヤールが既に玄関で待っており、彼を見るとすっと膝と手をついた。
「尊きシークにご挨拶……」
トゥーリは挨拶を受ける為に、いつものように手を伸ばした。出してから拙いと気づいたが、遅かった。
いつもなら、彼は文言を遮るように、唱え始めると同時に相手の額に指環を圧しつける。一向にそうしないのを不審に思い、ヤールは文言をそこで止めて視線を上げた。
「トゥーリさま、指環はどうなさったのです?」
「……修理中!」
「はあ……ラディーンのヤールにございます。お跨ぎあれ。」
トゥーリは平伏するラディーンのヤールを跨ぎ
「ラディーン、大儀。」
と面倒くさそうに言った。
「はい。本日はご婚約おめ……」
「余計なことは言わなくてよろしい。刻限がある。急ぐのだ。」
トゥーリは小姓を連れて馬車に乗った。しかし、出発を告げかけて止め、二人のヤールに声を掛けた。
「おい、どちらか一人乗れ。」
「騎馬でお供はならんのですか?」
二人共がそう言った。
「気が滅入るから、話し相手が欲しいんだよ。」
二人のヤールは顔を見合わせた。
「なら、ラディーンの。あんたが乗ったらどうかな?」
ラディーンのヤールは慌てて拒んだ。
「何を仰る! ご老体が乗りなされ。」
「いやいや。ラディーンのは、トゥーリさまとは久しぶりだろう? つもる話でも……」
「この前一緒に焼打ちしましたから、話すほど話は溜まっていませんよ。ご老体、遠慮せずに。」
「遠慮などしておらんよ。ラディーンのこそ遠慮するな。」
二人共、不自然な笑みを浮かべ、妙に明るい口調で譲り合っている。トゥーリは苛立った。
「ラザック! お前が乗れ。年寄りが途中、落馬などしたら縁起が悪い。乗れ!」
老ヤールは眉根を寄せて、トゥーリを睨んだ。
「何ですと? 落馬などいたしません。そこまで老いさらばえておりませんよ!」
年寄りと自分で言うくせに、他人に言われると不機嫌になる。トゥーリは舌打ちした。
「他人の好意は素直に取らんか!」
「結構!」
老ヤールはぶつぶつ言いながら、どんどん先に行ってしまった。
「ご老体! お待ちなされ!」
慌ててラディーンのヤールが呼んだが、振り返りもしなかった。
「もういい。ラディーン。お前が乗れ。黙っているのが気詰まりだ。」
「はあ……ご老体、行ってしまわれましたな。」
「早く乗れ。刻限が迫っていると言っただろ。」
ラディーンのヤールは躊躇ったが、諦めて同乗した。
ラディーンのヤールは、トゥーリの様子を探った。いつになく機嫌が悪く見え、話しかけにくかった。
「おい、気詰まりだ。何か話せ。」
じろりと睨まれたヤールは
(こりゃ機嫌が悪いどころか、怒っていらっしゃる。)
と確信し、更に話し辛くなった。
「何か様子が落ち着かんようだな?」
ヤールは無理して笑顔を作った。
「いやあ、久しぶりに都へ来ましたから……居心地が悪いだけです。」
「何故?」
「ラディーンは、都では今一つ評判が芳しくないゆえ……」
「そんなことを気にする男ではなかっただろう? 石でも投げられたか? 気にしなくてよろしい。」
「石など投げつける者はおりませんよ、さすがに。」
「宮宰の荘園ともめることはもうならんぞ?」
宮宰と口にして、トゥーリはまた不愉快になった。
「直々のお言葉をいただいてしまった……どうしても?」
「ならん。」
「はあ……」
「言いたいことがあったら言え。」
「……ラディーンは飢えたならば、何処を襲えばよろしいのでしょう?」
トゥーリの眉間に皺が寄った。そんな状況に陥る心配など、今のところないのだ。面倒なことを言い出したと思った。
「西へ向かえ。隣のキャメロンの王国、あそこの平原の部族を襲え。ただし、深く入り込むな。国同士がもめる元を作ってはならん。」
「キャメロンですか……河を渡らねばなりませんなあ。おまけに、宮宰の荘園の衛兵とは段違いに強い。」
「女子供がばたばた死ぬようなことになれば、選んでもいられないだろう?」
「はあ……ラディーンには益のない縁組ですなあ。ラザックはそうでもないだろうけど。」
「ラディーンよ。親父の氏族に喰いつくつもりか?」
「しませんわ、そんなこと!」
「そうか。よろしい。」
あり得ないことを出さなければ、素直にうんと言えないのかと、トゥーリは更に苛立った。
すると、ヤールが面妖なことを言い出した。
「……それに、何より残念なのは“小さいシーク”に、私の一人娘を差し上げられないことですよ。」
「お前、娘なんかいたか? 息子ばかりではなかったか? 見たことがないぞ。」
「いるんですわ、私の秘蔵っ子が。私の娘にしては出来がよろしくてね。蜂蜜みたいな金髪で碧い瞳の、色白の可愛らしい娘です。見たいでしょう? 変な虫がつかないように、厳重に見張って育てています。兄弟もあまり近づけておらん。どうです? この際、二番目の奥方でもいいですわ。どうです?」
ヤールは目を輝かせているが、トゥーリは些かの興味も感じない。
「今からそういう箱入りと結婚するのに、二番目の女房の算段までできんよ。大体、その娘っていくつ? 十五・六? 存在の気配すら感じたことがなかった。」
「何を仰る! うちは男ばかりで、やっと女の子が生まれたと、大騒ぎしたのをお忘れですか? 娘はまだ五歳。」
トゥーリは長々と溜息をついた。
「その妙齢のご息女と結婚させて、俺におねしょの始末でもさせる気? ……もう黙っていて。」
「何ですと? 私の娘、もう一年以上前からおねしょは止みましたよ。失礼な。まだ先の話をしているんです。後十年くらいして……ほら、いい感じ。」
「幼な妻はたくさん。むしろ、姉さん女房がいい。」
「今はお若いからそう思うのでしょうけど、三十歳くらいになるとね、熟れたのより、青くて固いのがよくなるものです。」
ヤールはにこにこ頷いている。トゥーリは心底うんざりした。
「……お願いだから、もう二度と口を開かないで。気分が優れん。」
ヤールは驚愕し、トゥーリの顔をまじまじと見つめた。
「そりゃあ……! いけませんな。昨夜、何か変わったものを召し上がったとか?」
「何も食っておらん。」
「ええっ! お食事できませんのか! そんなに具合がお悪いなら、婚約式どころではない。」
トゥーリは冗談かと思ってヤールを見たが、本当に心配そうな顔をしていた。
「お前! おかしいわ! いっぺん医者にかかれ。」
「お医者にかかるのは、トゥーリさまの方……」
「うるさい! お前は、戦場に連れて行くには実に頼もしい男だが、話し相手には向かん男だな! もう何を話しかけても答えぬから、黙っていてくれ。」
トゥーリはつけつけ言って、そっぽを向いた。ヤールは、途端にしゅんとした。
「それはあまりな仰せ……」
「黙れというのがわからんのか!」
ヤールは肩を竦めて、小声で呟いた。
「自分から話し相手になれと仰ったのに……」
トゥーリは横目で睨んだ。
「何か申したか?」
ヤールは俯いて、やっと黙った。
車中の空気の重苦しいまま、神殿へ到着した。
先に着いていた老ヤールは、下車した面々を怪訝な顔で迎え、トゥーリを咎めた。
「どうなさったのです? 目つきが悪いですよ。いかにも嫌な義務を果たしに来てやったという態度はなりません。」
トゥーリはむすっとしたまま、無言で前を通り過ぎた。
「ラディーンの。何か不用意なことを申して、ご不興をかったのではあるまいの?」
「初めからご機嫌は良くなかった。話し相手をしていたら、急に怒り始めたのですよ。何やら今日は……動揺なさっているのではないかな?」
小声ではあったものの、トゥーリには聞こえた。彼は振り向き怒鳴った。
「こらあ! 勝手なこと言うな! 動揺などしておらん!」
二人のヤールは苦笑した。
「ほら……この調子ですよ。まあ、過敏なお年頃ですからなあ。」
「まあね。」
「嫁さんをもらう予約をするというので、嬉し恥ずかし……虚勢を張っていなさるのかねえ。」
ラディーンのヤールはにやにやしている。
「これこれ、お耳に入ったら、お怒りになるぞ。それに、別に嬉しくはないだろう。宮宰さまの娘なんだから。」
「そんなの関係ないでしょうに。初めて嫁さんをもらった時は……ほれ! やっと一人前って、誇らしい喜びを感じたではありませんか。……ご老体、ずいぶん昔のことゆえ、お忘れですか?」
単純で陽気なラディーンのヤールに、何と答えようか老ヤールが考え込んでいると、遥か向こうからトゥーリがまた怒鳴った。
「二人とも! 早く来んか!」
「あらら……もうあんなところまで。」
「余計な話をするから……」
「早く行かねば。今日の“小さいシーク”は、尋常ではない苛立ち様。」
「“小さいシーク”か……」
「もう大きいけど。我々には“小さいシーク”でしょう?」
ラディーンのヤールに微笑まれて、老ヤールも苦笑した。
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