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 婚約式の日取りは、春隣の祭りの日と決定した。
 いつも、トゥーリが草原に帰る日でもあった。彼が自由にできる時間はほとんどなくなった。
 アデレードに会う暇もないと思うと、様々な思い出が蘇った。
(せめて一目だけでも……)
 彼はそんなことばかり考えては、切なさを募らせた。
 アデレードも彼のことばかり考えていた。子供のころのこと、成人した後も何くれとなく優しい気遣いをくれたこと、驚いた草原の恋人の話と。それらが次々に思い浮かんだ。何より、トーナメントの日のことが思い出され、渡された牛刀をこっそり出しては眺めた。
 彼が婚約・結婚した後には、特別な関わりを持つわけにはいかない。父の臣下の一人として接しなければならないし、彼も主君の姫に相応しい距離を持たねばならない。
(この短刀は、最後の思い出になるのかもしれない。)
 彼女は牛刀を抱き締めた。その一方で、彼がもう一度だけ会いに来るかもしれないと、微かな期待を繋いだ。

 だが、トゥーリからは何の音沙汰もなかった。
 アデレードは、既に彼は自分を特別に扱ってくれないのだと思っては、寂しさを噛みしめた。

 明日はいよいよ春隣。 そんな差し迫った日の夕方、女官が
「ラザックシュタールさまが、お暇のご挨拶にいらっしゃいます。」
と先触れをした。
 喜びが溢れてくるのと同時に、彼女は彼のへそ曲がりなところを思い出した。
(まさか、帰省するとだけの挨拶か、婚約して帰ると言うのか……それを、私には関係のないことだという態度でいるのだろうか?)
 彼女は、くよくよ思い悩み始めた。
「そうですか。何時、お見えになるの?」
 女官は困った顔をした。
「それが……裏からお見えになって……庭園でお待ちなのです。幼くいらしたときのように、ふいっと来られて……」
「まあ! すぐ参りましょう。」

 庭に続く五段ばかりの階段の下、庭園の始まるあたりに、トゥーリが佇んでいた。黒い地の草原の衣装が黄昏の中、薄闇に次第に沈んでいく。アデレードは、彼がそのまま薄闇に消えてしまうように思え、早足で表に出た。
 出てしまってから、部屋着で化粧もしていないことに気づいた。戻って支度をするべきか迷っているうちに、彼が気づいて階段の上を見た。
 彼はゆっくりと近づき、階段の側面で立ち止まった。階段を上って側近くに寄るのは、不適切だと思ったのだ。
 彼女は階段上の踊り場に立ち、彼を見下ろした。
 室内の灯りが漏れ、煌々とはいかないが、お互いの姿を見るのには不都合がない。彼女は彼の顔を食い入るように見た。
 彼も彼女を黙って見ていた。
 一緒に出て来た女官に訝しく思われかねない間が過ぎた。彼から口を開いた。
「草原へ帰るゆえ、一言ご挨拶を申し上げに参りました。」
 アデレードは、やはり一言だけかとがっかりして
「そうですか。でも、突然のお越しですね。」
と言った。声が妙に冷たく響いた。
 トゥーリは表情を曇らせ、一瞬俯いたが
「いろいろと立て込んでおり、気づいたらこの日付に……。申し訳ない。」
と努めて明るい口調で言った。
「ええ。お忙しいのでしょう? お気遣いいただかなくてもよかったのに……」
 彼女の語尾が消え入った。だが、彼が何か言おうとするのを遮って
「支度なさらないといけませんね。」
と言った。
「支度など……毎回のことで、特にすることなどありません。」
「いえ。明日の……婚約式のことなどが、あるのではありませんか?」
 再び、彼の表情が辛そうに曇った。
「それは……お社に参って……署名して、指環を渡す。それだけのことです。」
 “それだけのこと”が二人にとっては、言葉に出すのすら恐ろしいことだった。
「終わったら、すぐ草原へ?」
「はい。そのまま。お社からすぐに。」
「……お祝いの宴はなさらないの? 宮宰さまは、そういうことを大事にされる方ですよ? お気を悪くなさるのでは?」
「あの方は、私が何をしようと、私をお気に召さないでしょう。」
「でも、義父君になるのですから、それなりに……」
「気に入られようなどとは思っていない。」
 女官が息を詰めた。聞いてはならぬことだと思ったのだ。すっと立ち上がり
「姫さま、私はお食事の用意などを……」
と言って、下がろうとした。アデレードは、何となく女官をここに置いておかねばならないと思ったが、そう命じることができなかった。
「あ、ええ……」
 彼女は曖昧な返事をし、女官の下がるのを見送った。

 アデレードは踊り場の腰かけに座った。トゥーリに背中を向ける格好になった。彼の表情を見るのが怖かった彼女には好都合で、少し気安く話ができると思った。
「宮宰さま……お心に適うようにふるまえば、トゥーリのことに、お心和ませてくれるんじゃないの? それに……それに、ニコールと……仲睦まじくしているとか。」
「仲睦まじく? ……女の子の人形遊びには慣れている。」
 トゥーリが苦笑した。
「人形遊び?」
「俺の結婚相手は、人形遊びが趣味なのだよ。童心に返るってもんだ。情けない……」
 彼女はどう答えていいのか戸惑い
「トゥーリは……小さいとき、よく私と遊んでくれたし……」
と濁した。
「小さいときは、それなりに楽しかったのかもしれないけれど、この歳になって、何が哀しくて人形遊びの相手だよ。」
「そのうち……子供でもできたら……変わるんじゃないかしら。トゥーリは子供が好きそうだし。」
「子供も加えて、三人で人形遊びかよ?」
 彼の口調はいかにも嫌そうだ。拗ねているようでもあった。彼女は可笑しくなり、小さく笑った。
「毒のあることを言わないで。一緒に暮らせば、情愛も湧くと言うじゃない。」
「情愛……?」
「自分の子供は、少なくとも可愛いでしょう?」
「ぎゃあぎゃあ煩いだけだろう。」
「……テュールセンのレーヴェさまのところ。赤ちゃんが生まれたのを聞いたでしょ? あの気の荒い方が、その女の赤ちゃんの話をするときは、とても優しい目をなさるの。トゥーリならもっと……」
 彼は溜息をついた。
「……そうだね。とても楽しみにしていたよ。赤ん坊が生まれるのを。」
 柔らかい言い様だった。
 彼女は、リースルのことを思い出させたのだと知った。
「……ごめんなさい。」
「いい。お前がそんなに哀しそうにすると、俺は辛い。もう済んだこと。気を遣わなくていい。」
 言葉が優しかっただけに、強い哀しみが感じられた。
「ええ……」
 彼女は思い悩み黙り込んだ。彼は彼女の背中を静かに見つめた。
「ね、顔をもう少しよく見せて。」
「どうして?」
「この前のあれ ……気になっていて。痣でも残ったかと……」
「大丈夫よ。」
「気になる。」
「でも……お化粧をしていない……」
「構わないよ。何? お前、化粧をせねば見られないほど、不細工になってしまったのか? やっぱり痣に?」
「失礼ね。痣はできていないよ。それに私は不細工ではない……と思う。」
「どれ? 俺が批評してあげるよ。」
 彼女は立ち上がり、欄干から身を乗り出した。そして、彼に叩かれた右の頬を見せた。
「ほら、大丈夫でしょう? あのくらいで痣なんか出来ないわよ。もういいでしょ? お化粧をしていないって言ったでしょう?」
 彼は右の頬をさらっと一瞥して、彼女の瞳の奥をじっと見つめた。彼女も見つめ返した。
 矢車菊のような深い青色の瞳が戸惑いに揺れ、やがて切ない光を宿した。
 彼は我慢ができなくなり、彼女の腕を掴んだ。そして、抗う暇も与えず、上体を引き寄せた。
「婚約など……結婚など……したくない。」
 ごくごく小さい声だったが、激しい口調だった。
 彼女は鼓動が速くなるのを感じた。だが、この状況はまずい。
「ちょっと……そんなことを言って……いけない、こんなところを人に見られては!」
 彼女は身動ぎした。彼は握った腕を離さなかった。
「ちょっと待って。待て。何もおかしなことは考えていない。だから!」
 彼女は振り向いて、部屋の中の様子を窺った。
 すると、掌の中に固いものを握らされるのを感じた。彼女は、掌の上に乗ったものを見て驚愕した。
 彼は小さく首を振って、彼女が何か言おうとするのを遮った。彼女の掌を握らせ、上から両手で包んだ。
「それ、やる。」
「何を言っているのよ! これはトゥーリが生まれたときに、巫女が与えたという大事な指環でしょう? この指環のない手で、どうやってラザックとラディーンの挨拶を受けるつもり?」
「いい。心配はいらない。」
「無理よ!」
「じゃあ、三日……三日だけ指にして返せ。」
「三日もしていたら人の目に留まるわ。これは有名な石。東の秘められた王国で生まれた矢車菊の蒼玉。トゥーリの指環だとわかるわ! それに、明日そのまま帰ると言ったじゃない? 三日後にどうやって返すのよ!」
「草原に帰るのは三日後にする。都を発つのが遅れるのは、大公さまも宮廷も咎めない。四月になるまででもいられる。」
 それはそうなのだが、やっていることが無茶だ。彼女は狼狽え、兎に角指環を返さねなならないと思った。
「でも……やはり、まずいわ。これは、これだけはだめよ……」
「お願いだよ、アデル! しばらくでいいんだ。何か……何かお前に関わったものを持っていたいんだ。……お前のことを……愛しているから!」
 彼女は驚いた。直後に嬉しさが湧き上がったが、今の二人の状況で、どう返答していいのかわからなかった。
「そんなこと……」
 彼は彼女から目を逸らし、苦しそうに顔を歪め
「婚約するのにって思うんだろう。今更だと思うんだろう。」
と呟いた。そして、再び彼女を見つめた。緑色の瞳がきらりと光った。
「でも……俺は自分の心が抑えられない。お前に応えてくれと言えるわけでもない。だけど、今だけ。どうか。ね。指環を返してもらったら、もうすっきりと……諦める。あの娘と夫婦になって暮らすよ。だから……だから、ひとつだけ、俺に思い出をくれ。」
(私はトゥーリの短刀を持っている。トゥーリも……)
 思い出の拠り所が欲しい気持ちは、よく理解できる。彼女は指環を握り締めた。
「……わかった。」
 アデレードが指環をどこへ隠そうかと、きょろきょろしているうちに、トゥーリは立ち去っていた。
 彼女は靴下止めに指環を通し、すばやく着衣を整えた。そして、何食わぬ顔を装って、室内に戻った。



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